CYZO 2004/1号。表紙はなんかイラスト 山形道場 復活第 ?? 段

今月の喝! 乞食にお金をあげるべきか。

(『CYZO』2004 年 1 月)

山形浩生



 途上国にいれば(いや先進国でも)必ずどこかで乞食にお金をせびられる。そのときどうするかは、人それぞれだ。ある人は、別の方向を見て相手が存在しないふりをしようとしてみたり。ある人はお金をあげるし、ある人はにらみつけたり、ひたすら「ノーノー」と言い続けて追い払う。その横で、ぼくたちよりずっと貧しい地元の人が、結構ほいほいお金をあげたりしていて、そのコントラストに笑ってしまうことも結構あるんだけれど。ぼくは中学生の頃には、本多勝一がえらいと思っていたのだったのだけれど(その後見捨てたが)、かれがどこかで乞食に金をやった話を書いていた。後で後悔したんだって。「あのまま心を鬼にして金をやらなければ、かれは飢えと苦しみからアメリカ資本主義を打倒する優れたゲリラになったかもしれないのに、自分が金をやって堕落させてしまったかもしれない」といったような話だった。さすがに、中学生時代でもこれを読んで、ずいぶん極端なことを言うやつだと思ったのは覚えている。

 まあここまで極端でないにしても、乞食に金をあげるのはよくない、堕落させると言う人は多い。すると、そのお金をやらなかった人は、いや、私はかれらのためを思えばこそやらないのだ、と言い訳をしたりする。ぼくは結構、お金をやるのだ。それを見て怒る人まで結構いる。やる気さえあれば、人は貧しい境遇を抜け出して社会の階段をのぼれる。それを実現した人は多い。そもそも金をせびること自体が、その人物に自己改善意欲が欠けている証拠だ、という主張だ。そして金をやることで、おまえはその人物のやる気を阻害し、かえって成長への芽をつんでしまったのである、と。そういう甘い考えこそかれらにとって有害なのだ、と。

 確かにそういう面はないわけじゃないのを知っている。でもその一方で……自分の置かれた境遇を抜け出すのは、そんな簡単なことじゃないのだって知っている。ぼくはこうやってえらそうなことを書いてはいるけれど、サラリーマンの小せがれでしかないし、そして結局ぼくもまたふつうのサラリーマンとして、自分の階級の中にとどまっている。そして、乞食にお金をあげると怒る人たちだって、別にそんなすさまじい社会的上昇を実現したりはしていない。たまたまそういう階級に生まれついて、その階級の常識通りに学校にいったり就職したりしているうちに、親と似たような境遇に落ち着く。世の多くの人はそんなものだろう。もちろん社会の変動期に、田舎から都市に出てくる途上国の人々や、昔ハワイやブラジルや北朝鮮に、希望に燃えて移住していった人々は話が別ではあるだろうけれど。でもそれだって、成功する人が限られているのも言うまでもない。「やる気さえあれば」というのは簡単なんだけれど、でも実際にはそれは「信念があればなんでもできる」とか「夢は必ずかなう」というのに等しい、非現実的なお題目でしかない。自分ができていないことを、なかなか他人に要求する気にはなれない。

 ……と、怒る人に言ってみたところ、「われわれが中流なのはそれで満足しているからであって、そこからさらに所得や社会的地位面で上昇する必要性を感じていないからだ。それに比べ、かれらが貧しくて、そこから抜け出したいと思っているのはまちがいないことなんだし、だからわれわれが親と大して変わらない境遇だからといって、この人々も自分の置かれた環境から抜け出せないだろうというのは、比較対象がおかしい」と反論されたこともある。うーん。それはどうなんだろう。ぼくたちだって、もっと暇が欲しいとか、住宅ローンの支払いがもっと楽にならんかとか、改善したいところはたくさんあるけど、でもまあいいか、といって現状に甘んじているわけだ。

 じゃあ乞食に金をやればそれで解決になるのか、と言われると、もちろんそんなことはないんだけれど。ただ最近、援助のことをいろいろ考えているうちに、施しというものをちと見直したほうがいいかも、という気がしているのだ。が、字数が尽きた。この話はまたいずれ。



近況:ほとんど日本にいなくて、家賃を払うのがあほくさい今日この頃ではあります。



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