山形道場 復活第 ?? 段
昔ぼくが訳した『アイアンマウンテン報告』という本では、世界には戦争や各種の暴力装置が欠かせないものであり、経済的にも社会構造的にも文化的にも世界はすべて戦争に依存しきっているのだ、という議論が展開される。だから、完全な軍備の排除は不可能であり、危険である、と。もちろんこれは、ブラックユーモアとして戦争を批判するための本ではあったのだけれど、それが不思議なほどに説得力を持っていたのは、実はこれが結構本質を突いた議論だからなのかもしれない。芸術や文学と称するものも、戦争に奉仕するものだ。芸術は戦いを描くことが本来の狙いであり(それに反対する場合であれ!)、文学も戦争を大きな題材として栄えてきた。戦争をなくし、戦いをなくせば、こうした文化の持つ力の源泉は奪い去られてしまう!
今回の戦争を見て、なんだかみんな妙に浮かれていて嬉しそうだ、というコメントをする人は多い(先月の江川達也をはじめ)。ある意味でこれは、この『アイアンマウンテン報告』の皮肉が現実化したものだ。戦争は、コミュニケーションを活発にし、文化的な創作を活性化する。それが反戦活動である場合も含め。以前の湾岸戦争のときは「文学者は戦争に反対すべきだ」と盛り上がった人たちがいた(今回はそういう見苦しいバカはいないようで何より)。それはとりもなおさず、戦争の一部だったりする。そして、戦争が終わってしまえば、そうした活動も(安心して)忘れ去られる。民主化と復興を実現させるはずだったのに忘れ去られたアフガニスタンのように。ニューヨーク・タイムズ紙の、いまや反ブッシュの急先鋒となったクルーグマンのコラムによれば、二〇〇四年のアメリカ政府予算案の中に、アフガン支援予算はなんとゼロだったとか。やれやれ。それと同じように、アーティストや文学屋は、反戦をお題目にしたがる。でも、文学者が戦災復興支援で集結したとかいう話はついぞ聞かない。戦争に反対して喜んでいた人さえ、そんなことはしない。
でもそれは、そこで批判されている戦争と大して変わらないことだ。だが、もしアートだの文学だのが本当に戦争との関わりにおいて意義を持つなら、それはその後で意味を持たなきゃいけない。小説もアートも音楽も、戦闘で弾よけにはならないし、ミサイルも迎撃できない。でも、それが人の日常をちょっと豊かにしてくれるのは確かだ。それがあることで、ちょっと気分が楽になる――そういうものであるはずだ。そしてそういうのが意味を持つのは、たぶん戦争が終わった後でのことなんだもの。アートや文学と戦争との関わりを本気で考えるのであれば――そして冒頭で挙げた『アイアンマウンテン報告』の皮肉を逃れたいと思うのであれば、焼け跡をネタにするのではなく(してもいいけど)焼け跡にいて、そこから復興を果たすべき人々にとってアートや文学や音楽やその他はどんな価値を持ち得るのかを考えなきゃいけないのだ。戦後の日本の焼け跡に流れた、美空ひばりの「りんごの歌」はその意味でほんとにすごいものだったのかもしれない、と思う。そして、それを考えることは、実はアートや文学や音楽やその他いろんなものが、戦争とは何の関係もないところでどんな価値を持ち、どんな力を持つのかと考えることと同義じゃないか、というのも読者のみなさんは当然理解できるはずだ。
もちろんそれは、ぼくが『たかがバロウズ本。』で分析したようなアートや文学のコスト制約が効いてくるまでの話かもしれないけれど、でもそれはまた別の話だ。ただ、戦災の焼け跡の中で人々の時給は低いはずだから、実はアートやら文学やら音楽やらがもたらせる効用というのも、こういう環境では実は高いのかもしれないよ。
近況:本業のほうでプロジェクト一つ大ポカ。すさまじい状況になりつつあります。これが出る頃には収拾がついているといいが……
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