CYZO 2003/1号。表紙は新聞コラージュに「バカの壁を越える新聞の正しい読み方」と赤字に白ゴチで入っている 山形道場 復活第 ?? 段

今月の喝のような考察;自由の無限後退など。

(『CYZO』2003 年 1 月)

山形浩生



 いま、あの名著CODEを書いたローレンス・レッシグが、東大ビジネスローセンターの招きで日本にきている。といっても、本書が出る頃にはもうほとんど日本にはいない状態だろうけれど。そしてその来日中に折良く(というか、そうなるようにがんばって間に合わせたのだけれど)、かれの新著『コモンズ』邦訳が拙訳で出た。これまた、実におもしろすごい本だ。たぶんみなさんがこれを読む頃には、あちこちで取りあげられていることだろう。自由というものの価値を真っ正面からとりあげ、それがインターネット上のどこに効いていて、それが各種イノベーションを生み出すのにどう貢献したかについて、細かくていねいに説明した本だ。そして、その自由が、メディアの垂直統合ややみくもな市場化、そして知的財産権の野放図な拡張によって、どんなふうに破壊されようとしているか。

 そしてこの本に書かれた考え方に基づいて、レッシグはいま、アメリカの著作権延長に対する違憲訴訟の弁論をやっていて、数ヶ月前にもアメリカ最高裁で弁論をしている。アメリカでは、憲法で著作権が「有限期間」と決まっている。でも現在それが、10年、さらに20年、と次々に延長されている。これは実質的に、無限期間と同じだから違憲だし、そもそも延長していいことは何もない、というがその主張だ。

 もちろんこれに対して国は「無限にしたわけじゃないからいいんだ」と反論している。

 これは、自由をめぐり至る所に出てくる議論ではある。自由はいい、という議論にはだれも反対しない。自由をすべてなくせ、という議論には、みんな反対する。でも実際には完全な自由なんかない。だから、そこから一歩後退しろという主張に対抗するのはとてもむずかしい。みんな「いや自由はすばらしい。でも、全部なくせなんて言ってない。この一歩だけ」と主張する。そしてそれが積み重なるうちに、人はとても不自由なところに入り込む。 自由でもなんでも、それをつぶそうとする人たちは、別に 「すべて否定する訳じゃない、でももう一歩」という。そしてそれが積み重なるうちに、人はずいぶん息苦しいところに入り込んでしまう。それに対抗するにはどうしたらいいのか? ここまではよくて、ここから先はダメ、という一線はどこでひくのか?

 それをきいてみたところ、レッシグもそれはわからん、という。最終的には社会全体へのコストと便益を比べるしかない、と。ただし今回に限っては、最新の延長が何ら国民経済への便益をもたらさないことを多くの大物経済学者たちの証言で示せたので、その点はクリアできているそうだけれど。さらに現在の著作権論争は、それ以前の明らかにおかしい段階で戦われているので、そういうむずかしいところに入り込む必要がないんだ、と。うーむ。

 さてこれに関連することで一つ。この『コモンズ』訳者あとがきで、池田信夫にふれた。かれは「プライバシーという幻想」と題する文を書いたりして、特に住基ネットに対してプライバシーをたてに反対する議論を批判している。だからぼくは、池田信夫はプライバシーを否定していると批判した。

 すると池田信夫から、そんなことは言っていない、プライバシーの過度の主張と、自己情報コントロール権を批判したにすぎない、という抗議がきた

 ふむ。ぼくはかれの文は、プライバシー否定と十分読めるものだと思う。でも池田信夫は、そうじゃない、自分はこの一歩について行き過ぎだと言っているのであり、全部なくせなんて言っていない、と主張しているわけだ。それがいま述べた無限後退の一歩の主張でしかない、とぼくは感じる。が、厳密に池田信夫がプライバシーを全否定したか、といえば、確かにそうはっきり書いた部分はない。その意味で、あのあとがきでの記述は確かに誇張が過ぎて誤解を招く部分はあった。失礼しました。その点は、今後訂正するので。



近況:レッシグはいま、コミケ系同人誌にえらく関心をもっていて、その手の人をいろいろ紹介したり。でもWhat is otaku? から入ったのに、学習がはやいはやい。いまや奥さんまでデジコTシャツなんぞ着てます。



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