山形道場 復活第 35 段
いま出ている渋谷陽一雑誌のSIGHTに、アフガニスタンで井戸をたくさん掘っている中村哲のインタビューが出ていて、他のNGOに対する苦言も挙がっている。曰く、たいがいのNGOはカブールに事務所だけ開くけれど、実は何の活動もしない。おかげで家賃だけ上がって困っている、と。ぼくがかつて、NGOの多くは他人の不幸にたかるだけでまともな活動は何もしない、という話を書いたら信用してくれない人が結構いたけれど、中村哲の言うことなら信じてくれるかな。
鈴木宗男の一件で、NGOが妙な脚光を浴びて、その一方でわかってない人が一知半解であれこれ言うようになったのもうんざりする。「諸君」で上坂冬子と曾野綾子が、公共から資金が出ているNGOは全部ダメ、なんていう無知をさらけ出した醜悪なおばはん井戸端会議を得意げに公開している。やめてくれよ。そんなことされたら行政のほうが迷惑するわい。一方では、NGOは純粋ですばらしくて地球社会の担い手で、みたいなアホダラ妄想をたれ流す連中も後を絶たない。たぶんその最大原因は、相変わらずNGOってのが何なのかよくわからない、ということなんだと思う。
つまり、NGOとかNPOっていうだけでは、何を目指して何のために存在しているのかわからないのだ。非営利とか、非政府とか、自分の存在を否定形でしか定義できない。企業は営利目的で、利潤を最大化する、という明確なねらいがある。そりゃ社会貢献とか地球市民なんとか口走る企業はあるけれど、そんなのはリップサービスだ。
一方それに対して出てきたNGOやNPOは、営利ではない一方で公共性とも言えない何らかの価値を担い、それを最大化しようとはしているはずなんだ。が、それって何だろう。世の中に、金でははかれない価値ってもんがある、という議論はたぶん正しいんだろう。でも……その価値ってなんなんだろう。「世の中のためになる」というのは、価値じゃない。なにかもっと具体的に、何を最大化したいのか、というのが明確にわからなきゃいけない。営利企業なら、それは金だ。政府だと、それは公共性かなんかではあるんだけれど、こう漠然としていまいち説明しにくい。これは近年の政府や公共部門の衰退と関連していると思うんだけれど、それはおいとく。で、NGO/NPOはそのいずれでもない何かを最大化したいはずなんだけど、それって何だろう。だれにもわからない。
一種のNGOやNPOとしてとらえられる、フリーソフトのコミュニティには、そこではっきりと最大化したいものがある。それはコードだ。それがあるからこそ(そしてそれを保護するGPLみたいなライセンス条項があればこそ)フリーソフトの文化は強固に残っている。
そしてナップスターやグヌーテラやWinMXみたいなファイル共有が、あれだけいじめられてもなかなか(おそらくは絶対)なくならないのも、共有することが正しいというフリーソフト的な理念をみんなが持っているからでもなく、犯罪的傾向のある連中が淀んでいるからでもないだろう。そこには、ある組織を作るための明確な理念がある。なるべくたくさんの曲なりなんなりを集めよう、という理念が。そこでは最大化したいものがすごく明確だ。
で、NGOやNPOは、今後の社会を動かす大きな力になると期待されている(行政の下請けにとどまる、という見方も厳然としてあるけれど)。でもそのためには、何か寄って立つ具体的な価値みたいなものをもっと明確に確立する必要がある。そしてそのときには、自分たちの組織態を、否定形ではない形で表現しなければならないだろう。それが何なのか? まだ見えない。そしてその見えないものを地域通貨ですくおうという各種の宗教団体じみた動きは――どうするんだろうね。
近況:マラウイ行きが延期で、めずらしく数ヶ月日本にいます。バロウズ本、こんどこそ脱稿!
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