山形道場 復活第 28 段
こないだ、ブルース・マウというデザイナーが来日した。かれはぼくがかなりの部分を書いたNew Tokyo Life Style Think Zone という本のデザインをやっている。世間的には、建築家レム・コールハースのさいころ本 S,M,L,XL のデザイナーとして有名だけれど、その他建築や都市のサイン計画なんかでもかなり活躍している。
で、超売れっ子のかれと、わずかばかり言葉を交わしたときにしてたのが、ジェノバのサミットの話と、そして自由と公共性の話だった。
最初はまあ、反グローバリズムとか言ってる連中が飛行機に乗ってジェノバまで来て石投げてるというのは滑稽だねー、という笑い話のようなところから話は始まったのだった。自分たちがそうやって反対できるのは、まさにその反対しているグローバリズムの恩恵あればこそなのにねー、という話。そして、なにも発展途上国の人だって強制されてマクドナルドを喰ったりコカコーラを飲んだりしているわけじゃないんだし、それほど受け手がバカなら、反グローバリズムでそれがどうにかなるわけじゃないだろう。
そうだよねー。本来ブランドとかイメージというのは、受け手の側の中にあるもので、無理強いできるもんじゃないから。人が育ててそれを製品なり企業なりに戻してくれる、そういう回路があって初めて成り立つし成長するものなんだ。だからそこで、あんまり規制をきつくしちゃうと、人々から戻ってくるものがまるっきりなくなって、ブランド自体が死ぬ。規制をきつくすればするほど、人はその裏をかこうとして、かえって押さえがきかなくなることだってある。
でもいま、いろんなキャラクターやブランドは、ひたすら「コントロール」ばかりを口にして、なんでも押さえつけて切り売りしてお金を取ることだけを考えてるのは、自殺行為だろうね。それは公共空間みたいなところにもあてはまる話で、いろんな開発は、公共空間と称する部分は作るけれど、実はそこはむちゃくちゃに管理された不自由きわまりないところになっているでしょう。
ただ……それは反グローバリズムの誤りとも関連してくるけれど、コントロールの強化とか管理の強化を要求するのは、実は一般市民のほうだ、というか、何か自由にさせて事故が起こると、結局管理責任が、とか言ってそこの所有者が賠償金を払わせられたりする。結局、強い管理と不自由さを要求するのは、企業や地主がコントロールフリークだからじゃなくて、市民自身がそれを要求しちゃうからだというのがむずかしいところだよね。
結局それは、デザインでもイメージでも公共空間でもそうだけれど、これ以上はコントロールしない、という部分を作ることなんだろうねー。デザインでは、ぼくはいま遺伝的なデザインってのを考えてて、こう一つの核になるデザイン子があって、それが無限に変形できて、その変形は一切利用者に任されるという……
うーん。たとえば保険でも、いくら以下は自己負担っていうのがあるじゃない。デザインはさておき、公共空間なんかの場合にもそういうのはあっていいんじゃないか。ここでは活動の自由を認めるんだから、一人あたり一定額(たとえば100万円とか)以下の事故については免責にする、という規定をつくるとか。どう結びつければいいかわからないけれど、なんかそのデザイン子の遺伝情報の比率次第で免責額が決まるとか、そんなのをうまくやると規則と自由の間のバランスの考え方にもつながるんじゃないかなー、とか。
てな具合で、だれがどの部分を言ったかは、もうあまりよく覚えていない。たぶんここで言ってることは、レッシグが「コード」や、近刊のはずの自著で言っていることと関係していることでもあるんだけれど、うーん、具体的な方策まではわからないけれど、なんかこの時話したことに、ヒントが入っているような気はするんだ。
近況:10年がかりの「たかがバロウズ本」、完成間近です。世界でいちばんむちゃくちゃなウィリアム・バロウズ研究書になってます。
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