CYZO 2001/08号。表紙は宮崎あおい。うーん…… 山形道場 復活第 27 段

今月の喝!「科学者の役割みたいなもの」

(『CYZO』2001 年 08 月)

山形浩生



 進化や遺伝学っていうのは、なかなかに面倒な分野だ。特にそれが、性差とか人種の差についてのものである時には。人種間に差はない、男女の間に差はない、ヒトはすべて遺伝的に平等である、とするのが今の「正しい」立場ではある。でも、それがホントじゃないのはそもそも進化っていうのは生物が遺伝的に平等でない、ということを前提にして成立しているんだから。ただその個体レベルでのちがいを、人種とか男女というくくりでどこまでまとめていいのか、というのが問題ではあるわけだ。

 で。マット・リドレー『赤の女王』(翔泳社)は性について進化遺伝学の立場からいろいろまとめた本。男と女(雄と雌)には遺伝上のちがいがあるし、それが行動にももちろん影響する、という本。そしてかれは、ちがいはあるんし、性差はすべては後天的なすり込み、というドグマは有害無益、と述べる。

 ぼくはこれに賛成なんだけれど、ここはまあ議論の分かれるところだ。が、この本でぼくは本文よりも、ぼくは訳者のあとがきに強い衝撃をおぼえた。訳者の長谷川真理子は、きちんとした学者だし、リドレーが書いている内容自体については否定しない。だが、一方で彼女はそれが差別的な主張の根拠に濫用されかねないことも知っている。この板挟みになった彼女はこう主張するのだ。

「科学的事実というものには、それなりの重みがあるし、それが我々の持っている価値観と異なっている場合には、そのギャップを埋める方策を考えなければならない。そして、そうするため納得のいく方策が出せないのならば、むしろ科学的事実を明らかにしないほうがよい、という意見もあながち否定できるモノではないと私は思う」
「科学的説明を提出するときには、処方箋をも考えなければならない、と私は思うのである」

 ゾッとしない? 自分の価値観にそぐわない事実は隠してもいい、と彼女は言っているわけだ。処方箋が思いつかなければ、都合の悪い事実は隠蔽すべきだ、と。長谷川真理子は、特に性に関する遺伝と進化の話では優れた仕事をしているし、彼女の言いたいこともわかる。その問題意識もわかる。わかるけれど、ぼくはこれから、長谷川真理子の書いたものをもはや今までほどは信用しないだろう。彼女が何かを隠し、事実をゆがめている可能性を排除できないだろう。

 それに、ぼくは彼女のこの発想そのものがまちがっていると思う。そもそも事実がきちんと提示されないで、どやって解決策だの処方箋だのを考えるの? 「納得のいく方策」って、だれが納得するの? 科学者が一人で納得してもしょうがない。納得するかどうかは社会が考えるしかない。それに処方箋(というのは、社会的な制度だよ)の考案まで、ファクトファインディングを行う科学者が負担できるのか? ぼくはできないと思うし、当の科学者自身にそんな覚悟があるんだろうか。さらになにがいい事実で、なにが悪い事実かをどうやって判断する? 価値は変わるんだし。それがまさにリドレーの主張でもある。そしてなによりも、事実は隠しきれないでしょう。

この本、つい最近翻訳されたばっかだと思っていたら、よく見ると実はもう6年前に訳出されていたんだね。その後、長谷川真理子の考え方は変わっただろうか。良心的な人ほど、たぶんこういうことを考えるようにはなるんだと思う。でも、それじゃ科学者は良心的な人ほどどんどんつらい方向に追いやられて抜け出せなくなる。それは酷じゃないかとぼくは思うし、それにそこまで世間の人が信用できないのであれば……いったい何が信用できるんだろう。生命科学の発達で「科学者は神を演じようとしている」なんている言いぐさは、ぼくは大っきらいだけれど、科学者側でそれを真に受ける必要もないと思うのだ。



近況:あと訳はちょっと専門分野を離れると、急に粗が目立つのは、仕方がないとはいえがっかり。何より、ボブ・マーレーのあの名曲「No Woman No Cry」を「女がいなければ泣かなくてすむ」と訳すのは、あまりにあんまりじゃないでしょうか。



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