CYZO 2001/05号。表紙は小田エリカ 山形道場 復活第 24 段

「今月の喝……になってないが:ネットワークコミュニティをめぐる迷い」

(『CYZO』2001 年 05 月)

山形浩生



 まだ結論も何もないけれど、整理の意味で書いておこう。ぼくは最近いろいろ迷っている。この連載を『ワイアード』ではじめたとき、ぼくはほとんど迷っていなかった。ネットワークがどんなものか、そこでどんな問題があるか、それがどういう展開をたどるのか、かなりはっきり見えていたし、それ以外のことを言うバカがいかにバカかは、もう疑問の余地はなかった。

 いま、ぼくはいろんな点で、前ほどの確信は持てなくなっている。

 その迷いの一つが、ネットワーク・コミュニティというやつだ。

 だからといってバカな人たちの大好きだったオンラインコミュニティとか「ネチズン」なんてのが成立したわけじゃない。かれらの議論はたいがい、オンラインの街を作ってそこに人が住んで投票して、というような形で、この現実がそのネットワーク上に再現され、そこではみんな平等で既得権益もないから理想の民主社会が形成される、といったものだった。そんなことが起きていないのは事実。コミュニティってのはまさに既得権益とか利害の調整のために存在しているものだったりするからだ。

 でもその一方で、そういう現実世界のコミュニティとは別種の、それでも「コミュニティ」としか呼べないようなシロモノが登場してきてしまっているのも否定できない。たとえばぼくは、Linuxなどのフリーソフトと、それを作っているオンライン上の組織をほめている。あれは確かにコミュニティではあるし、ぼくもすでにそういう言葉を何度か使っている。

 それはその「コミュニティ」に属することによるメリット、評価の仕組み、選別の仕組み、排除の仕組み——そういうのがちゃんと機能している、ということではある。あるところでは、そこでの話題そのもの、関心事項そのものが、選別や排除の仕組みとして機能する。あるいは何らかの技能や知的水準や論理性(あるいはその不在)がそうした仕組みとして機能することもある。それは、いやでもいるだけでその一部にならざるを得ないような「コミュニティ」とはちがうけれど、何らかの利害を通じた人の集まりではある。

 これに対して、ネットは単なるツールで、その上でのコミュニティを考えるのは無意味だ、という議論もある。これはつまり、ネット上の人間関係というのは現実世界のカスやセコイ代用品や一変種にすぎない、という議論で、確かにそういう面はある。でも、それは(一部の年寄りが思いこみだがるような)まったくの虚像でもないし、インチキでもない。ネットワーク上では、ネットワーク独特の人間関係が存在するようになっているし、それは「現実」の世界とは関係ない。関係を持たせてもいいけれど、でも関係を持つ必要はない。

 それをコミュニティと呼ぶかどうかは、一部は「コミュニティってなんだ」という定義の問題だ。その関係は、「実際」のコミュニティに比べて限られたものかもしれない。さらに移動に対する制約が少ないという意味で、「実際」のコミュニティよりは弱いものかもしれない(必ずしもそうとは言えない、という議論はだんだん出てきてはいるけれど。でもそれはここではおいとく)。ただ、定義をいろいろいじくって、目の前にあるものを閉め出したところで、それは単に目をそらしただけで何の意味もない。

 いまのところ、それをコミュニティと呼ぶことで何か現実的なちがいが生じるか、といえば、まああまりない。だからこんなことを考えるのは、知的なお遊び以上のものではないのかもしれない。でも……どうだろう。レッシグ『コード』を訳し終えた後遺症かもしれないけれど、それがいずれ、お遊びでなく真面目な問題になってくる状況が出てくるんじゃないか、と思うのだ。それがどういうものか、まったく見当もつかないのだかれど。



近況:レッシグ「コード」出ました。拙著「山形道場」も出ました。年度末は死にそうです。オフスプリングも行けませんでした。「ユリイカ」も見られませんでした。これからモロッコです。



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