CYZO 2001/02号。表紙は大谷みずほ。まあいいんじゃないの。 山形道場 復活第 21 段

「今月の喝(では必ずしもないが):ネットの「法」について。」

(『CYZO』2001 年 1 月)

山形浩生


 レッシグ「コードとサイバー空間の法」をいま訳しているのだけれど、うーむ、うーむ、うなりっぱなしなので、今回はちょっとその話をするのだ。

 インターネットがらみのいろんな議論というのは、とっても不毛だ。たとえばプライバシー。ブラウザのクッキーでどのサイトに行ったか情報がもれる。ショッピングサイトで何を買ったかがばれる。プライバシーの侵害だ。そういう議論はされる。でも、それがどうしていけないんだろう? なんかプライバシーというものがどーんとあって、それを漠然と守らなきゃいけないらしい、なんかあったらそれをふりかざせばいいらしい、というのをみんな覚えているだけ。

 でも、だれもプライバシーって何なのか、把握していない。なぜそれがだいじなのか。プライバシーを保護するって、何を保護することなのか。それはまったく検討されずに、あれはまずい、これもいけない、で「とにかく相手の身になって考えましょう」みたいな不毛な話がまとめに出てきておしまい。

 法学者なんかは、たぶんそういうプライバシーの根拠を考えてはいる。でも、こうした議論にそれがまともに顔を出した例は、ぼくは見たことがない。レッシグはそれをやる。いままでは単なる純粋に理論的なおはなしだった、そういう「プライバシーの根拠」みたいな議論が、いまやインターネットを中心としたテクノロジーの発達によって、現実的な意味を持ってきたのだ、とレッシグは言ってるんだ。

 プライバシーの根拠というのは、一つは、プライバシーの侵害にあたる行為は、侵害される側に時間的精神的な負担を強いるからいけないのだ、という立場。そもそも情報を集められることが尊厳の侵害だからいけないという立場。プライバシー自体に実体的な価値があるとする立場。この3つくらいがあるんだって。そして今後はもう「プライバシーの保護」というだけでは何もできない。それをこういう形で、もっともっと細かく分類しないと話にならない。プライバシーの侵害で負担がかかるのが問題なら、負担のかからないネット上の検索や情報収集はいいはずだ。自分についての情報を集められること自体がいけないのか。あるいはそこからさらに生じる、差別化がいけないのか。差別化によって派生するメリットはどう考えようか。

 いままでは、プライバシーの細かい定義なんか考えなくてよかった。技術的な限界によって、一つの基準でプライバシーの侵害がおこれば、残りも自動的に起こった。でも、いまはちがう。プライバシーの根拠に応じて、まったくちがった形で「プライバシーを侵害しない」システムをつくることができる。そのどれをぼくたちは選ぶのか。プライバシーだけじゃない。著作権、主権、言論の自由――こういった問題すべてに、技術の変化は陰をおとす。著作権の保護って、どういうことだろう。言論の自由って、どういうことだろう。いままで漠然と定義されてきた、こういういろんな考え方を、これからはさらに細かく分類して、その中で何を重視するのか、ぼくたち自身が選ばなきゃいけない。レッシグは言わないけれど、たぶんその中で、こうした概念そのものが変化するんじゃないか。

 レッシグは、将来についてとっても悲観的だ。そういう選択をしなきゃいけないけれど、アメリカにはそれができる機関がない、と。でも、アメリカですらそうなら、日本はさらに寒い。日本の各種意志決定機関で、守るべき価値とか、そういうレベルの議論がそもそもあるようにすら思えない。そのあらわれが、たとえば盗聴法なんかだ。そしてマスコミなども、著作権強化ばかりに血道をあげている現状では、まともな価値観議論をきちんと盛り上げる状況にはとてもないだろう。すると残された道は……

近況:モンゴルから無事帰還。人間は氷点下30度でも平気で適応できてしまうことを知り、われながら空恐ろしい。それと、眉のピアスが引きちぎれてしまった(涙)。



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