山形道場 復活第 12 段
まだきちんとまとめきれていないのだけれど、そしてちゃんと関係文献を調べ切れていないんだけれど、自分へのメモもかねて書いておこう。
いったいプライバシーというのは、どういう根拠で存在しているんだろうか?
権利がなぜ存在するかを問うのは愚かだ、とまだ『ワイアード』時代のこの連載に書いたことがある。権利というのは、とりあえずそういうことにしておくとよさげだ、という社会的なお約束でしかないはずで、権利というのが実体的に存在するかのような議論は愚かしいだけだ、と。だからいまの質問も、こう言い換えるべきだろう。
いったい、プライバシーというものがあることにしておくと、何がいいというふうに世間は(あるいは人々は)判断しているんだろうか。
さてもちろん、たいがいの人は別にきちんと考えてプライバシーなんてことを言っているわけじゃない。世の中、きいたふうな口をきくために、なんでもいいからとりあえず社会的に口走られている「問題」にくっつけておくといい、くらいの気分はあって、プライバシーも、そういう便利なお題目の一つだ。なんか書かれたら、顔写真が出たら、プライバシーの侵害と言えばいい。それに対して書いた側は言論の自由とか言っておけばいい。でもなぜプライバシーというのがあることになっているんだろうか。
もちろん気分的に人にかぎまわられるのがいやだから、というのはある。たぶんいちばん大きいのは、「なんかいやだ」という気分なんだろう。でも気分なんか環境で変えられる。そして一方でたとえば、企業や政府には、いつもアカウンタビリティとかディスクロージャーが求められる。それが個人には適用されないのはなぜだろう? そしてたとえば個人だって、「この情報を公開されたらこんなデメリットをわたしは被る」というような議論展開はできるだろう。プライバシーなんていうものを考えなくてもそこそこ不都合はないはずだ。公開されて実害がない情報は、公開されても本来はかまわないはずだ。
こういうことを書くと、山形はプライバシーがなくていいと思ってるのか、と思う人もいるかもしれないけれど、そうじゃない。単にぼくはその根拠に興味があるんだ。
ぼくは最近それは、やっぱ情報収集能力とか情報発信能力と関係しているんじゃないかという気がしている。すべてが、とはいわない。でもある程度の部分が。結局、一個人は情報能力が低いとされている。なんか言われたときにきちんとそれを否定するだけの情報発信力がないとか、他人に自分の情報を集められてもそれに対抗できるだけの収集能力がない。同じことだけれど、それだけのコストを負担する能力もない。だからたぶんプライバシーという名前の下駄をその劣った部分にはかせて、スタート地点をかさあげしてやることで、まあ公平でしょうという考え方があるんだろう、とぼくはとりあえず思っている。実際に法的な議論がどうなっているのはこれから調べなくては。でも、そういう部分はあるはずだ。
でももしこの推定が正しければ、これはいずれ変わらざるを得ないだろう。インターネットの普及により、個人が企業と対等の情報発信力をもてるというような議論がある。クレームサイト一つつくれば企業と対等に張り合えるとか、情報収集力だって、ネットで検索かければ個人でもそこそこのものは得られる、という議論がある。
そのとき、情報力の劣った個人だからプライバシーをあげようという議論はなりたたなくなってくるはずだ。そうなったとき、なにが起きるのかぼくはまだきちんと考えてはいないけれど、でもたぶんいまとはずいぶんちがうことを考えなくてはならない、ということだけはわかるのだ。
近況:予定が遅れて、いまからモンゴルへ出発。ところで、スマッシングパンプキンズの新譜はかなり期待はずれでしたが。
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