山形道場 復活第 10 段
小渕総理大臣が「21世紀日本の構想」懇談会とかいうものを作ってて、そこの報告がこないだ出たんだけど……
ひどいね、これ。構想と言いつつ構想しているところがまったくなくて、現状の安易な手直しに終始していて支離滅裂で、肝心なところでは議論をはぐらかして、ダサダサの陳腐なレトリックに頼りきって。たとえば、第一章「総論」の最後。「主役は個人であり、個人が社会を変える」とか言って、結びがこうだ。
「自分一代で何かを手早く、手っ取り早く成し遂げようとすることはしない。(中略)後の世代の人々と、三代かけて何かを成し遂げる、そういう志をみんながそれぞれに持つ。
三代、八十年。何か一つ胸に秘め、志を実現する。実現しなくてもいい。大きな志を追ってみる。未完成でもいい。そういう日本の、ひとりひとりの志。」
……なに、これ。総論がホントにこれで終わってるんだ。まったく、どんな志持とうが個人の勝手だろうに。この構想は、何かというと、国民は志をとか、国民は考え方を変えろ、とかご託をたれる。でも、国民に説教してどーする。志を持てと言うなら、どうやって志を持たせるか考えろ。国民に考え方を変えてほしけりゃ、国としてそのために何をしろ、と言わなきゃ。総論の最後には、だから国としての決意や方向性がいる。それがこんな、バカ口開いたアホ作文だもんなぁ。
そもそも構想といいつつ、ここには国という視点でのビジョンが何もない。この「構想」は、グローバル化だ、個を確立だ、と言う。ならばその中間の国とか地域とかいうのの役割はかなり減る。それでいいの? そもそも国って何で必要なの? この報告書はウダウダ言いつつも、結局うやむやにして、国や自治体は「公共性の実現のための一装置」だ、という。でました。この「公共性」って実は意味不明で、翻訳で頭抱える無内容なことばなんだ。これが出てきたら、眉に唾をつけなきゃならない。その公共性の一環として、国は効率性をめざす市場を補完して公平・平等を目指すべきなんだって。なーんだ、いまと同じか。そしてまっ先に挙がる例が噴き飯物。叙勲制度は人々にランクをつけるものだから見直すべきだ……運動会のかけっこの順位は不平等というに等しいおバカな話。勲章なんてお遊びなんだからくれてやれよ。年寄りは大喜びしてるんだし。そんなの、わざわざあげつらうほど重要? それとも天皇制まで暗に問題にしたいのかな。
具体的な方策も嘆かわしい代物。まずは教育の放棄。義務としての教育とサービスとしての教育にわけて、学校は週3日で義務だけやって、残りはクーポンにして勝手に専門学校でも行かせろ、だと。つまり国民としての共通の教育水準は、いまの義務教育よりずっと低くていいってことだ。そうかぁ? それにそうしたら科学技術は重視とか、主体的な社会参加とか、この構想の他の部分から当然発生する新しい教育ニーズってどうすんの? グローバル時代の競争とやらでどうやって張り合うの? そしてその一方で、グローバルコミュニケーション重視と称して、英語だけはえらくご執心。英語だけは能力別クラス編成をしろ、だって。これは個人の自主性にはまかせてもらえないの? 英語以外のことばじゃダメなの? さらに英語以外は何も教わってない子供たちは、英語で何を話すの?
さらに政治的無関心が広まっているから、選挙権を18歳からあげて、政治的な参加意識が高めようって言うんだ。20代の連中すら投票しないのに、18歳から投票させてどうして事態が変わるの? こういう本質的なところは考えずに、小手先だけでウケを狙うさもしさが、この構想はいたるところで全開なんだ。ねえ、そうじゃないんだよ、構想ってのは。志の中身を示さなきゃ。でもこんなものでも、教育「改革」だの選挙「改革」だのの口実に使われちゃうんだろうなぁ。
近況:ナイン・インチ・ネールズ! すごかった。舞浜と横浜パシフィコと両方行ったけれど、すごかった。
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