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ジュスティーヌ

連載最終回

アレクサンドリアに別れを告げよう。

(『CUT』2007 年 5 月)

山形浩生

要約:アレクサンドリア四重奏は、客観的には有閑欲求不満マダムの不倫につきあわされる凡庸な作家の自己憐憫小説だが、それを救っているのはこの過剰に華麗な風景とそれを描く文体だ。ダレルはそれが都市に動かされたというのだけれど、実際にその「都市」というのは通常の都市小説的な意味での都市ではなく、むしろ記憶と言いかえるべきものだ。アレクサンドリア四重奏はそこから逃れようとする小説だ。語り手がそれを(いささかとってつけたような形で)果たすのは最終刊だが、本書「ジュスティーヌ」の読者はまだそれを見ずにアレクサンドリアを離れることができるのだ。



 それは毎回、あらゆる都市に降り立つたびに起こる。飛行機、バス、鉄道、なんでもいい。その都市にたどりつき、乗り物からはじめて地面に足をつけ、ほのかな(あるいはほのかならざる)臭気を吸い込んだその瞬間、ぼくはその都市の場とでも言うべきものに捕らわれはじめる。

 もう世の中の多くの都市のほとんどに行き尽くしてしまった。大都市で行き残しているのはモスクワとブラジリア、ローマ、カイロくらいか。繰り返し訪れたあの都市。目をつぶっても歩けそうなあの町。ぼくの場数だけじゃない。世界の大都市はいろんな意味で急速に似通い始め、どこでもおおむね何を期待すべきか見当がつくようになってしまっている。数十年前に初めてニューヨークを訪れ、初めてバンコクや香港に降り立ったときの、あの右も左もわからないめまいのような感覚にとらわれることは、すれっからしの旅人となってしまったぼくにはもはやありえない。だがそんなぼくでもある都市にやってきて「ああ、自分はまちがいなく他のどこでもない、ここに来ているんだ」と感じられる場の力があるのだ。

 この都市、アレクサンドリアでは、それは最初のページをめくったとたんにやってくる。

 それはもちろん、現実のアレクサンドリアではない。本書を読み、現実のアレクサンドリアを訪れ、本書の愛と陰謀と嫉妬の網の目に人々をからめとる魔法のような場所を期待する人はいまも後をたたず、そしてすべてがガイドブック通りであることに安心できる幸せな人々以外は、その場所の凡庸なつまらなさに失望するという。ここに描かれたアレクサンドリアは、同じ風景、同じ空気を持ちつつもまったくちがう場所なのだ。もう何度ぼくはここに戻ってきたことだろう。最初にやってきたのは1985年頃だったろうか。そして最後に訪れたのは――最後にこの本のページを開いたのすら――もう10年も前になる。

 この20年の間に、ぼくの感性はかなり変わってしまった。かつて夢中になったタルコフスキーやアントニオーニの映画が、いまではインテリの自己憐憫とナルシズム的な弁明にしか思えない。だからこの『ジュスティーヌ』新訳を読むのは、少々恐ろしいことではあった。本書は客観的に見れば、有閑マダムの火遊び相手にされて捨てられた貧乏文士の、大仰でナルシスティックな回想だ。「ぼくたちをおのれの植物群と見ていたあの都会、ぼくたちのなかに争いを巻き起こしたあの都会――その争いは彼女のものにほかならなかったのに、ぼくらは自分たちのものだと思い違えたのだ」と語り手は書く。でもそれが、都会を口実にして自分のだらしなさを正当化しているだけの代物にしか読めなくなっていたら――その間に読んだダレルの処女作がまさにそんな代物だったし、『ジュスティーヌ』には確実にそんな部分があるのだもの。

 でもそれは杞憂だった。記憶していた通りのアレクサンドリア。いや、それは言い過ぎか。語り手のナルシズムは確かに以前より鼻につく部分はあるのだけれど、ただ本書の場合、あらゆる登場人物が同じくらい自己分析狂のナルシストばかりで、それが目立たずにすんでいる。そしてそれを飾り立てる、ほとんど無駄に華麗な都市の描写が背景として、そうした人々の不自然さをきれいに覆い隠す。

 そして、都市小説と呼ばれるものは多いのだけれど本書は少々ちがう。通常の都市小説は、地図を横において読むことで御利益が増すのだけれど、『ジュスティーヌ』はそれがない。いくつかランドマークは登場する。もちろん地中海も、砂漠も。それらは背景としては重要だけれど、それらの空間的な位置関係はまったく重要ではない。むしろそれがはっきりしないほうがいいのだ。アレキサンドリアは、あまり知られていないが故に舞台として選ばれている。それがタンジールでもベイルートでもかまわなかったはずだ。訳者高松雄一は解説で、本書の構想が先にあってアレクサンドリアは後付だと指摘している。「ただ都市だけが現実のものである」と言うダレルを、たぶんぼくたちはあまり信用すべきではないのかもしれない。

 アレクサンドリアは、語り手が脱出したい(でも捕らわれている)存在だ。「今日も浪が高い。刺すような風がほとばしる。冬のさなかにも春のたくらみは感じられる――」本書はそう始まる。主人公は、アレクサンドリアから――そしてそこでの記憶から――逃れようとしつつ、止めどなく引き戻されてしまう。それがこの本だ。そしてその最後はアレクサンドリア――または記憶――からの脱出を呼びかける詩だ。「この神秘の群れから最後の暗い陶酔を飲み干すがいい。そして別れを、去り行くアレクサンドリアに別れを告げるがいい。」

 だが語り手は、いまだそれができない。かれがそれを果たすのは最終巻『クレア』でのことなんだけれど、そのいささか性急でとってつけたようなやり口はいささか鼻白むものだし、それにもうぼくには時間がない。だから一足先にここで失礼しよう。すべての旅で、いずれぼくたちはその都市をあとにする。去るときにはたいがい、やり残したことの一覧が未練がましく心の中に残っている。シリーズの残り三冊、『バルタザール』『マウントオリーブ』『クレア』の話もしそこねた。今度ここにきたらそれを片付けよう――みんなその時はそう思う。でもその一方でぼくたちは知っている。たぶんもうここに戻ってくることはないことを。いま感じている未練、後ろ髪を引かれる思いは、おそらくこの乗り物が動き出すと同時に急激に色あせるのだ、と。さようなら、アレクサンドリアよ。さようなら。そしてみなさんも、別れを言えるくらいこの都市に耽溺してほしいな、と思うのだ。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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