Valid XHTML 1.1! ロリヰタ 連載第?回

営業的な配慮というのはもちろんわかるのだけれど。

(『CUT』2004 年 5 月)

山形浩生



嶽本野ばら。この人は、ある意味で賢い立場にいる作家さんだけれど、それがかれの限界にもなっているの。今回の話は要するにそういうこと。

 かれはちょっと特殊なジャンル作家だと思われているので、それ故にだれも(というのは、ちゃんとものを読む能力のある人、という意味だ)かれの本を真面目に論じようとしない。たとえば舞城王太朗について考えるような形で嶽本野ばらを考える人はだれもいない。岩井志麻子や、もっと下がって渡辺淳一のような形ですら読まれることはない。かれの読者のほとんどは、特殊なニッチにいる人々で、かなり一般性のない閉鎖的なコミュニティを形成している。というか、一般性がないことこそ、そのコミュニティの存在理由であり存在根拠なのだもの。

 それは嶽本にとっては、たぶんありがたいことなんだろう。少なくとも営業的には。まじめに考えてもらったって、実利はまるでない。それにその閉鎖的なコミュニティにアピールするのは、とっかかりさえできればそんなに難しいことじゃない。嶽本はまず、自分がそのコミュニティの一員であることをビジュアル的にアピールし、さらに小説の中ではブランド名をはじめとするディテールをちりばめることで、コミュニティ内の符帳をに訴えかけ、そのコミュニティに属する人(主人公)が、その美意識へのこだわり故に(そうでない場合も多いけれど、でもそこらへんはうまくすりかえられる)世間的には受け入れられず、迫害されるというストーリーを作り、でも最終的には、主人公がそういう迫害に毅然と立ち向かう(またはそれを無視する)決意を示す、というところでおしまい。

 それともちろん「そんなに難しいことじゃない」と書いたけれど、だからと言って明日からぼくにそれができるかといえば、それはないだろう。「とっかかりさえできれば」とぼくは書いた。そのとっかかりを作るまでには、かなり長い信頼形成プロセスみたいなのがあるんだろうから。ただ、かれのほとんどの本は、いま述べたような図式に明確に収まる。

 本書『ロリヰタ。』も、いまぼくが説明した手法のなかにすっぽりおさまる本ではある。この本におさめられた二編のどっちも。表題作では、ロリータファッションを身につける男性作家の主人公(コミュニティに属する人)が、正しいロリータファッションを指導(ここらへんにファッションディテール)したのをきっかけにモデルの女の子と仲良くなり、でもそれがスキャンダルに発展するけれど(世間的な迫害)、携帯メールのやりとりを通じて、世間の批判にめげず作家活動を続けようと決意する。もう一変の「羽」では、何の取り柄もなかったロリ系ファッションの女の子が、好きな男の子に天使風の羽を作ってもらったのをきっかけに、原宿の路上で羽を売るようになるが、それが社会現象になるにつれてあれこれ軋轢を生じ、やがて流行が風化しても、彼女はある理由から羽をいつまでも売り続ける……

 さて、こういうある種のパターンに収まることは、別に悪いことじゃない。かれが訴求しようとしているコミュニティは、それ自体がこういうパターンによって成立している。それにあわせることで、かれはそのコミュニティ内での人気を確保しているんだから。ただし、それは一方で嶽本の作品の幅をせばめることにもなっている。パターン通りに話を進めても小説としてはまとまらない。最終的に、主人公がなぜこだわりを見せるのか――嶽本は往々にしてそれをとってもつまらない形で愛やセックスや死と結びつけて、安易におさめる。「ロリヰタ。」もそうだし、「羽」で死を導入したお手軽さは本当に目を覆いたいほどのものだった。かれの小説の中で『鱗姫』なんてのはかなりできがよかったと思うのだけれど、でも最後のセックスの即物性というかあられもなさが、それまでの作品のまとまりを殺していたと思う。

 そしてそれは惜しいことなのね。なぜって、たぶんかれにはもっと力があるからだ。かれは美とか、ある種のはかない永遠性としか言いようのないものに対する感性を持っている。ああ、ぼくはもう乙女とはほど遠い 40 歳のおっさんだけれど、でもそれはわかるんだよ。そして嶽本はそれを描けるだけの筆力もある。いまのかれは、それをファッションのディテールみたいなものや、それが持っている意味合いや感性を描き出すところで無駄遣いしているんだけれど、本来それはそんな範囲にとどまるものではなくて、もうちょっと推し進めると、かれが奉仕しているコミュニティそのものを何らかの形で否定、とまではいかなくても相対化せざるを得ないものなんだもの。

 嶽本が単にそれをやる能力がないだけ、という可能性はある。でも、ぼくはそうじゃないと思う。かれの安住している読者層がそれを要求しないというのを計算してのことだと思う。かれら(というか彼女たち)のコミュニティは、それを要求しないこと、それから目を背けることで成立しているんだから。そしてそれをつきつめた、嶽本の本当の可能性を発揮したものを書くことを、たぶんいまのかれのファン層は裏切りだと感じるだろう。そしてそれ故に、そこから何か出づらい状況になってるんじゃないか。

 かわいそうだな、と思う。この『ロリヰタ。』を読みながらも、ぼくはそう感じた。嶽本の小説には、いつも何か生まれかけながら流産させられているものがある。そして嶽本自身、それを少し感じてるんじゃないか。表題作は、作家を主人公に据えて、ある意味で理想のファンとの関係を描くことで、なにやら自分のポジションについてかなり弁明くさくなってるんだ。いつか……嶽本がそこから出てきてくれることをぼくは願っているのだけれど、どうだろう。一方でそれをやるには、かれは頭がよすぎるような気もするのだ。

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