barbarians 連載第?回

もはや「問題」を描くだけじゃ小説は成り立たないのだろう。

(『CUT』2004 年 2 月)

山形浩生



 ぼくが日本にいない間に、なにやらねいちゃんが二人して芥川賞ととったとかで、2ちゃんねる方面では大騒ぎしているようだ。これで芥川賞は終わったとか、あんなのブンガクじゃない、とか、可愛いけりゃいいじゃん、とか、これは実は確信犯的な選出なのだとか。そしてそれを期に、ブンガクって何なのか、みたいな古くさい話がちょっとは蒸し返されたりしているようで、まああと一ヶ月くらいはネタになりそうかな、という気はする。

 実は、村上龍が最近になってその手の話をちょっとしているのだ。近刊の『十三歳のハローワーク』は、職業案内書としてはまあまあのできではある。記述の多くはあたりさわりないし、また村上龍のあまりおもしろくない学問のすすめや、大して意味があるとも思えないNGO翼賛はうっとうしいだけなんだけれど、いくつかそれぞれの職業紹介の中におもしろいところがある。その一箇所が「評論家」という項目のところだ。ここに村上龍の小説というものに対する認識が実に明快に出ている。つまり、小説(ブンガクと言ってもいい)は、近代化の過程でのみ意味があるものだ、という話。社会が近代化するにあたって、いろんな軋轢やトラブルが生じる。通常は顧みられないようなそうした問題を拾いあげて問題化するのが小説の役割だった、と村上龍は述べる。いま、日本ですら近代化のプロセスはほぼ完成し、小説というものは(そしてもちろんブンガクというのは)もはや存在意義を持たない。まして文芸評論家なんてのは……というわけだ。

 これはある意味で、現代における小説の難しさ、という話だ。村上は小説家でありながらその小説というものがいま抱えている難しさをよく知っている。一方、それをまったく理解していない作家もいる。たとえばクッツェーという作家。

 かれはとても達者で器用な小説家だ。それは最近出た『夷狄を待ちながら』でも明確に見て取れる。舞台はある帝国の植民地。地元民たちは帝国の支配に従っているものの、先住遊牧民である夷狄たちのゲリラ攻撃は次第に強さを増し、帝国は軍事と拷問による恐怖政治で弾圧を図る。話者たる民政官は夷狄の女を通じた対話路線を模索するが、相手にされないばかりか、内通者の嫌疑をかけられて自らも拷問を受ける側に立たされる。やがて帝国支配は混乱のうちに消え去り、話者はその体験を記録しつつ、夷狄たちの到来を待つ……

 支配者/被支配者、男/女、著者/読者、善/悪――ここには一見、こうした単純な二項対立のように見えるものが多数登場する。しかしその「対立」は決して正面切ってぶつかることがない。両者は常に、微妙にずれ、第三項を介し、やがてはその対立そのものの存立が揺らぐ。しかもそれらの対立構造は、相互にからみあい、重ね合わされ、それが小説全体に深みを与えるよう入念に計算されている。最後の雪だるまの寓意を筆頭に、その記述も上品で実に巧妙だ。

 そして……それがクッツェーの凡庸さなのだ。これらが実に教科書通りでしかない、ということが。

 この小説に描かれているのは、南アフリカ(ひいては植民地)における善意の統治者の不安だ。それはそれで、植民地支配の一側面としておもしろい視点ではある。だがなぜそれを小説に? 別に厳しい検閲下にあるわけじゃない。もっと具体的な記述はいくらもあり得るのに。それどころかここでは、その視点が小説として抽象化されることで、ただの上品な知的意匠になり下がっている。ぼくたちはすでにここに描かれた「問題」を知っているし、それに対してどういう顔をするのがファッショナブルかも知っている。そしてこの小説の記述は、逡巡した挙げ句に話を先送りにするところまで、まさにそのファッション通り。そこには何も新しいものはない。本来、各種の対立概念の解体には、その対立の構図自体がある種の枠組みの押しつけなのだ、という批判がこめられていた。でもここでは、それはむしろ日和見と優柔不断の正当化となり、もったいをつけるための道具としてのみ機能している。

 そしてこれは、最初に述べたとおり小説というジャンル自体の問題でもある。かつてサルトルが「飢えた子の前で小説が何の役にたつか」と尋ねたとき、マルローはそれに対して「飢えた子を問題化するのが小説の役目だ」と応えたとか。つまりその頃なら――これが三十年前であるなら、クッツェーの小説はブンガクとしてまったく問題はなかったはずなのだ。クッツェーの小説は、すばらしい現代文学として屹立していただろう。でもいまは、それじゃすまない。もはや、世界にそうした問題は残っていない。いや、残っているにしても、その問題を伝えるだけならテレビも、映画も、ノンフィクションもある。たとえば昨年出たルワンダ虐殺を扱った『ジェノサイドの丘』ほどの衝撃を、どんな小説が持ち得ようか? そしてそれができないとき、そうした他のジャンルに勝てないときに、小説が持つ比較優位とはなんだろう。それはできあいの「問題」を上品に優柔不断化して安心させる仕掛け、ではなかったはずなのだ。だがそんなクッツェーが二〇〇三年のノーベル文学賞を受賞したということは、ある象徴的なのかもしれない。そしてまた、クッツェー自身もうすうすはその困難を知っているのだろう。最近のかれは、南アのアパルトヘイト問題から、動物虐待を主なテーマにしているという。かれもまた、ブンガクが何やら「問題」を描きだすことにあるのだ、というのを知っている。でも、いまそれをやる、ということについてはまったく自覚的じゃない。『夷狄たちを待ちながら』は、決してつまらなくはない。適度な問題意識、高い洗練度にスノビズム少々――見事ではあるし、知性をくすぐる読書体験はお保証できる。が、それだけだ。そして、それだけじゃダメなはず、なのだ。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>