Sock Monkeys 連載第?回

ドラッグを通じた「真の」現実とは。

(『CUT』2003 年 12 月)

山形浩生



 自分の関わった本を紹介するのはちょっとルール違反ではあるのだけれど、そこはそれ、ぼくは付加的な訳をして解説を書いただけなので、まあそんなに深い関わりじゃないってことで、ご勘弁いただこうか。このたび、ウィリアム・バロウズの処女作『ジャンキー』の改訳版が出たのだ。これはあの元ジャンキー作家として有名なウィリアム・バロウズが、自分のドラッグ体験について淡々と書きつづった本だ。

 一方でぼくがついさっき訳し終わった本(イアン・ワトスン『エンベディング』という本なのだ)の中でドラッグが出てくる。これは1970年代初期に書かれた本なんだけれど、そこではアマゾンのインディアンたちが、ドラッグを摂取することで「別の」、いや「真の」現実を知覚するのだ。そのインディアンたちは、たとえば数を表すのに、特殊な羽根をその数だけ持った鳥の名前で代替したりする。「イモが5つある」と言うかわりに「イモがオウム個ある」とか言うわけ。これはつまり抽象概念によって現実から遊離することなく、現実と直結して生きていることを実証しているんだ、とこの著者はかなりまじめに主張している。ドラッグが、そうした直接的な現実体験をさらに強化してるんだ、と。

 ぼくはこの本を訳しながら、バカだなー、六〇年代だなー、と思えて仕方なかった。いまだって、たとえば星川淳とか、ドジンをありがたがって崇拝するような愚かしい連中はたくさんいるけれど、昔よりは減っただろう。でも、当時はこんなバカな考え方が、何かある種の文化(またはサブカルチャーではあるけれど、かなり勢いを得たサブカルチャー)の主流を占めていた。そしてかなり教養あるはずの人々(このイアン・ワトスンだってそうだ)が、あっさりそうした落とし穴にはまる。一方、ウィリアム・バロウズはそうしたサブカルチャーのある種スター的な存在でありながら、一方でそうしたくだらない動きにまったく関与しなかった。

 この落差は何なんだろう、と思えてしまうのだ。

 ドラッグを飲むと別の現実が見えるとか、真の世界が見える、なんて話がウソなのは、すぐにわかるはずなのだ。たとえば酒を飲んで酔っぱらうと、世界がちがって見える。 もちろん、飲んだくれ作家はいて、酒瓶の中に新しい世界が見える、てなことを言う人はいるけれど、往々にしてそれは単なる気取りだ。本当に何か別世界があると思っているわけじゃない。酔いが覚めれば、世界は元の黙阿弥で何も変わっちゃいない。ぼくはタバコは吸わないけれど、吸うとそれなりに気分が変わるらしいね。でも、それが別の現実だ、とか思うやつはいない。ところが、60年代の人たちは、酒を飲むと真の現実が見える、というのに等しい話を平然としていた。飲んだくれの千鳥足世界が本物で、しらふの世界がウソだ、といわんばかりの話を平然としていた。

 ティモシー・リアリーという人は、アカデミズムのエリートコースを歩んできたくせに、ドラッグを摂取すると人間は(なんと)進化できる、というとんでもないことを平然と述べていた。ドラッグにより世界が違って見えたり幻覚が見えたりするのは、脳の別の部分のスイッチが入るからで、ドラッグによってそうした新しい回路を開くことで人間は新しい知覚を獲得するのである、つまりは人間は進化したのだ、真の現実が見られるようになったのだ、というわけ。アホ。六〇年代という時期は、なぜこういうことを真顔で言う人が平然と受け入れられたのか、ぼくは非常に不思議なのだ。60年代というのは、少なくともこのサブカルの人々にとっては、現実にヒッピー運動なんかで世界が、つまりはいまここにあるこの現実が変えられると本気で思えた時代のはずだった。それはハンター・トンプソン『ラスベガス☆71』にもはっきり書いてある。それなのに、なぜこの人々は、別の現実だの、真の現実だのという話を真に受けなきゃいけなかったんだろう。

 それがぼくには不思議なのだ。そこにあるのは、まちがいなくある種の現実逃避でしかない。でも、かれらは一時的には勝利をおさめているように見えたし、逃避する必要はなかったはずなんだ。それなのになぜかれらは、現実逃避を敢えて正当化するような理論をでっちあげようとしたんだろうか? そういうドラッグまつりあげ派の病理みたいなものを、きちんと考え直す必要があるんじゃないか。希望に彩られていたはずの六〇年代の対抗文化運動の中にある、ある種の絶望がそこから見えるんじゃないか。

 そして、ある意味でバロウズはそのアンチテーゼ的な存在だったりするのだ。ウィリアム・バロウズは、ジャンキー作家だと思われているし、かれの本の変な部分は、ドラッグの幻覚だと思われている。が……必ずしもそうじゃない。かれは、ひたすら話を誇張するのが好きだっただけだ。そして『ジャンキー』にも、ペヨーテの幻覚やモルヒネを注射したときの感覚変化について、かなり詳細に書かれている。でもバロウズのえらいところは、最初から最後まで、ドラッグで別世界が見えるだの新しい現実に到達できるだのというくだらないことを言わなかったことだ。酒でもタバコでもそうだけれど、人はなんとなくドラッグにはまり、そしてそれを続けるのも惰性だ。ドラッグをやった人が新しい現実に触れて、何やらえらくなるわけじゃない。『ジャンキー』をホントに真面目によめば、ドラッグに手を敢えて出したいなんてだれも思わないはずなのだ。つまんなそうなんだもの。真の現実は、なんだかんだ言って、目の前にあるこの鬱陶しい現実だったりする。『ジャンキー』のメッセージはそういうことなんだけれど、それを多くの人が見ないようにしているのはなぜなのか――なんかそんなことを考える必要があるような気が(忙しい年末だというのに)なんとなくするのだ。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>