Sock Monkeys 連載第?回

記憶と忘却の物語。

(『CUT』2003 年 12 月)

山形浩生



 ゼーバルト『アウステルリッツ』は不思議な小説だ。たぶんその不思議さは、最初のページを読み終えてページをめくった瞬間にこちらを見つめている、動物や人間たちの目の写真のところで強烈に感じられるだろう。もしかすると、それは単にそれが目の写真だから、一瞬本に見返されているようなそんな印象が生じるせいかもしれない。でもゼーバルトの他の小説でもそうだけれど、『アウステルリッツ』の写真と文章は、妙な連動ぶりを示している。なくてもいいような単なる添え物としてではなく、写真が文の一部として読まれている、そんな感じだ。この小説と似たようなものを挙げるとすれば、クリス・マルケルが撮った『ラ・ジュテ』かもしれない。『12モンキーズ』のもとになった短編映画だ。映画といっても、それは多くのスチル写真を並べ、それにナレーションをつけることで成立していた。確かどこかで蓮実重彦はクリス・マルケルについて、文学的すぎる、と評していたけれど、その文学的な部分を強めて小説側にもってくると、それはこの『アウステルリッツ』みたいなものになるだろう。

 『ラ・ジュテ』がそうだったように、この小説もある記憶にとらわれた男の話だ。語り手は、建築史家のアウステルリッツと出会い、かれの語る様々な話に耳を傾け、そしてその後数十年にわたりヨーロッパ各地でそれが繰り返される。かれはあちこちの駅にたたずみ、駅や要塞などの記憶をひたすら集め続けている。駅の記憶はもちろん鉄道網がヨーロッパを覆った十九世紀から二十世紀にかけての歴史と密接にからみあっており、また要塞の歴史は戦争の歴史にも重なる。そしてそれがその駅や周辺の要塞都市の歴史を追い求めるアウステルリッツ自身の個人史とからみあう中で、徐々にアウステルリッツ自身の記憶が開示されてゆく。まったく別名で育てられていたかれは、十五歳になって突然、自分の本名がアウステルリッツであると報される。そしてそのルーツを探ろうとするうちに、己がかつてチェコにいたユダヤ系の人間であり、ナチスの迫害を恐れる親によってイギリスに送り出されていたことを知るに至る。プラハ、テレジン、マリエンバード、ニュルンベルグ、パリと、両親のゆかりの地をめぐってかれらの残した記録/記憶の痕跡をひたすらたんねんに探り続ける……

 本書は、それを実に単調な文章で描き出している。この本には段落の切れ目がほとんどない。語り手は(そして語り手が記録しているアウステルリッツは)段落や抑揚なしにひたすらしゃべりまくっている。それなのに、作品自体は妙に物静かな印象を持って迫ってくる。かつてぼくは、ウラジーミル・ナボーコフの小説について、記憶をテーマにしつつもそれが極度に構造化されていて(それがいいか悪いかは別として)実際の記憶のあり方とはなんとなくちがう、と指摘したことがある。ゼーバルトの記憶は、単線的なんだけれど、それが実際のぼくたちの記憶のあり方と親和性を持っていて、かえって変な陰影と深みを与えている。ヒルベルト曲線が、一次元なのに果てしなく二次元に近づくような感じ、といおうか。ぼくたちもその糸につかまって深みに引き込まれてゆく。

 おそらくテーマ的には、ホロコーストものと言ってもいいし、またその記憶を風化させてはならないというメッセージだという見方もできるだろう。最後近くの、新フランス国立図書館批判なんかも、そういうニュアンスはこめられている。でも一方で、この本はある意味で忘却の上に成立している。こうしたアウステルリッツの回想が、真摯でありながらある種の甘美さをもってわれわれに迫ってくるのも(本書においては、強制収容所も、ニュルンベルグのナチス党大会の風景も懐かしく美しいものとなっている)、それは人々が忘れるからだ。記憶、そして記録は決してすべてを残すことはできない。データはだんだんに失われる。そしてそれを再構築すること自体に、ある種の幸福感があるのだ。アウステルリッツは、一種のフェティッシュ的な情熱を持って、母親の痕跡を追い、父親の後を追いかけてそこにかつてあったものをよみがえらせようとする。そして部分的にせよよみがえったものの持つ輝きは、実はそれが忘れられていること、そしてそれがどこまで事実か実はわからないところから来ている。ごらん、この本の表紙についている男の子の写真を。この写真がある種の感慨を持って迫ってくるのは、ぼくたちがこの子、そしてこの写真について何も知らないからだ。文中にはその説明があるけれど、それが事実かどうかもわからない。いやもちろん、この写真はゼーバルトがあちこちから集めてきたものだし、このお話しだってかれの創作だ。ぼくたちがこの写真の本当の物語を知ることはないだろう。そのわからなさ、写真がもともと持っていた意味が忘れられていることが、その味わいを出している。ちょうどゼーバルトの書いた物語のように。

 すでにぼくたちは、あれほどに読みふけったアウステルリッツの物語を忘れはじめている。いくつかの写真。いくつかのフレーズ。そんなものが記憶に残り、そしてそれも徐々に消え失せる。ぼくは『アウステルリッツ』を三回くらい読んだろうか。切れ目なくページを埋め尽くしていた文字の印象が、少しずつ、虫に食われるように薄れていくのを、ぼくは感じている。写真の印象がアンカーとして残りつつ、それもまた消えゆく。記憶にとらわれ、記憶を追い続けたたどりなおすことに一生を費やしたアウステルリッツは、本書の後でどこへ行っただろうか。最後近く、アウステルリッツはふいっと消え、そして語り手はそれをどうするわけでもない。自分が死ぬとき、残るのはモノクロの写真だけだ、とアウステルリッツは語る。その写真もやがて、忘れられ、消え、まるでちがう新しい物語に流用されるのかもしれない。本書がそうであるように。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>