(『CUT』2003 年 8 月)
山形浩生
電車の中で学習塾の広告を見ていると、そこに中村桂子という生物学者が、世にも愚かな文章を書いていた。いま、世の中にはいろいろわけのわからない犯罪が起きている。これという理由もなく人を殺す人なんかが増えている。それはなぜかというと、想像力が欠如しているからだ、というのがその論旨だ。
要するに、そういう人たちは、殺される人の痛みとか気持ちとかが想像つかないので、気軽に人を殺しちゃうのだ、と。機械はマニュアルさえ見ればよくて想像力はいらないけれど、人や生き物には想像力がいる。だから想像力を養うようにしましょう、そうすれば犯罪も減ります、という議論。
むかつかない? この文章自体にみなぎる想像力の貧困さに。この人は、自分は想像力豊かだと思ってるのね。「その証拠にワタクシは人を傷つけたりいたしません」というわけ。そしてそう思いこんだ瞬間にこの人は、その他あらゆる想像力を放棄して平気だ。機械に想像力はいらない? バカなことをいっちゃイケナイ。マニュアルだけで車が運転できるものか。車の好きな人なら知っているだろう。車の運転がうまくなるためには、車が自分の体の延長であるかのごとく想像できなきゃいけない。コンピュータだってそうだ、という話は、ぼくがかつて『コンピュータのきもち』という本に書いたことだ。
そしてもう一つ中村の愚かさ。それはこの人が、想像力というものをなめていること。想像力が発達することで、かえって得たいのしれない犯罪が増える可能性について思い至っていないことだ。この人にとって想像力というのは、その自分自身の貧困な形態のものしか思い当たらない。でも、想像力の発揮のされ方は様々なのだ。
たとえば世の中には、小学校に侵入して包丁でガキを手当たり次第に刺してまわる人がいる。それはその人物が想像力貧困だったせいかもしれない。でも逆に、あなたはかれの気持ちが想像つくだろうか? かれがやったのは、決して手軽なことじゃない。ぼくやあなたが、お金をいくら積まれてもやらないようなこと、やらないと殺すと脅されてもできないようなことを、かれは自発的に、努力してやった。それはかれが、そこから何らかの幸せと悦びを得ていたからだ。あなたには、その幸せや悦びというものが想像つくだろうか?
ぼくにはつかない。つきたくもない。その幸せがわかってしまったら、ぼくもまたかれに近づいてしまうのだもの。そんなものは、想像できないほうがいい。多くの人の想像力が豊かになって、そんな幸せのありかたがくっきり想像つくようになったら――それを実行に移してその幸福を実際に味わおうとする人物も激増する。そんな想像力が発達されては困るのだ。だから社会は、想像力をそこそこの――中村桂子の手に負えるくらいの貧困なレベルに抑えておくほうがよかったりする。
小説も、それを後押しする。連続殺人鬼や各種の異常者を主人公にした小説はよくある。でも、それらは往々にして、かれらがその異常な行為で得ている幸福を、まちがったゆがんだ異常なものとして描く。たとえば、子供時代に何かいやな体験をして、それがもとでその人は殺人を犯すようになるんだけれど、でもそれがまちがった幸せであるが故に、その人は十分な幸せを得ることができず、それで犯人は真の幸福を求めて連続殺人をするのだ、というような構成。よくあるだろう。京極夏彦のシリーズは、ほぼそういう構成だ。
でも、もしそうじゃなかったらどうだろう。もし、ぼくたちから見て異常な人々が、異常であることによって真の幸福を得ていたら。
そういう小説が書かれることはなかなかない。が、それをしつこく書き続けた作家がいる。その名を、シオドア・スタージョンという。
かれの小説のテーマはすべて、ある意味で「幸福」だ。でもそれは、普通の平凡かつ日常的な幸福ではない。それはすべて、異常者、または逸脱者が、普通でないこと自体から幸せを得る話だ、といっていいだろう。『人間以上』で、異常者たちが個人としては異常なまま集団として得る幸せ。『コスミックレイプ』で、アル中のルンペンがアル中のルンペンであることで得る幸せ、ナンパ師がナンパで得る幸せ。そしてこんど出た『海を失った男』(晶文社)に収録された各種の小説でもそうだ。手に惹かれ、手に殺されることの悦び。異生物に操られる快楽。異常でなくなることの(死ぬほどの)悲しみ。自分でなくなることの幸福。そしてかれは、それもまた「真の」幸福なのだと語る……だけじゃなくて、その異様な幸福を、直接ぼくたちに感じさせてしまう。
あなたには、それがわかるだろうか。すでに述べたとおり、普通それはわからない。人はそれなりに賢いので、そういうことがわかってはいけないことを知っている。みんなそれがわかってしまったら、社会のためにならないということを。でも、そういう可能性については、ちょっと感じてはいる。それがスタージョンの小説の持つ「不思議な感触」だ。もちろんその「幸福」は、受け入れやすいものから社会として認めがたいものまで様々で、それがかれの作品の受け入れやすさとかなり直結している。そして、たぶんみんな、スタージョンの作品が提案している、ある種の危険性については知っている。スタージョンの評価が高いのに作品が今ひとつ流通していないのにはそんな原因もあるんだろう。
が、そんなかれの作品集『海を失った男』が出てしまった。たぶん日本でそういう幸せに反応できる感性を持った作家の数少ない一人である中原昌也は、本書に収録の手フェチの話『ビアンカの手』に霊感を得て、ある週刊誌のグラビアを早速構成してしまった。この本があまり出回ることは、ヘタをすると社会にとって、何かパンドラの箱を開けてしまうようなことになりかねないんじゃないか。ぼくはそんなことすら想像している。
CUT 2003 インデックス YAMAGATA Hirooトップに戻る