Sock Monkeys 連載第?回

狂気の自作プラネタリウムの教訓と可能性など。

(『CUT』2003 年 8 月)

山形浩生



 近年、五島プラネタリウムやサンシャインのプラネタリウムが相次いで閉館して、かつての科学少年少女たちの多くは、うろたえるとともに寂しい思いを味わったのだった。もちろんぼくも含め、多くの人たちは長いことプラネタリウムに足を運んだりしてなかったし、運んだ場合でも不純な目的に利用したりしていた。それでも、ガキの頃にプラネタリウムの中にすわって空を見上げていた時の、心のときめきは覚えている。そして、それが終わっても、新しい世代の新しいガキどもが、当時の自分たちと同じように、あのドームとその中心のメカメカしい機械をあんぐり見上げているんだろう、と思っていた。閉館反対の署名運動なんかがちょっと盛り上がったけれど、それもむなしく、プラネタリウムは消えていった。もうそういう時代じゃないのかも……

 が、ちょうどこれを書いているとき、メガスターIIという自作プラネタリウムが、五島プラネタリウムの跡地で公開されている。連日大入り満員の、すさまじい人気だとかで、入るのは無理くさいとあきらめて、無念に思いつつぼくはこの本を読んでいる。そして、読めば読むほど、やっぱ実物を見たかった、という思いは強くなってくる。そしてそれは、単にプラネタリウムへの郷愁とかいうレベルをこえた、とにかくすさまじいキチガイじみた努力の結晶のようなものを是非見てみたいという、むしろ技術チックな感動だといおうか。そしてたぶん、満員になるほどメガスターにやってきた人々も、たぶん純粋なプラネタリウムへの期待と同じくらい、そのメガスターという装置とその履歴にふれたくてきているんじゃないか、という気がする。

 だって、自作プラネタリウムとはいえ、これは半端な代物ではないのだもの。本書を読むまで、この著者がプラネタリウムを一人で作ったというのは聴いていたけれど、こんなまったくの個人で作ったとはまさか思っていなかった。作った、といっても、なんかある程度出来合のものを利用しながら作ったんだと思っていた。そして、もちろん「本物」のプラネタリウムに比べたらチャチなできて、それでも「ああ個人がよくがんばりましたねえ」という感じの出来なんだろう、と思っていた。だってプラネタリウムなんて、カール・ツアイスの光学的にも制御系的にも超精密メカのかたまりで、とうてい個人なんぞに手の出るものじゃない、というのが常識だったからだ。ところが実際には、ホントに個人がアパートの一室で、何の支援もなしに土日の片手間作業で作ったぁ?! 星の原盤からレンズのマウントから、ありとあらゆるものをすべて自作したぁ? しかも、ふつうのプラネタリウムが6等星までしか投影しないのに、11等星まで投影するぅ? すごい。ひたすらすごい。

 しかも本書、というかそこに書かれた著者のおそろしいところは、少なくとも記述に関する限り、変な気負いみたいなのがまったくないことだ。いや、ぼくはクラウス・キンスキーみたいなパワーだけの化け物が、頭の血管がいつ破裂してもおかしくないような異様なパワーをみなぎらせつつ、狂信的な使命感にかられて作ったにちがいない、とも思っていたのだけれど、本書の記述の実に淡々としていること。それでいながら、やっていることはキチガイだ。星をフィルムにプロットするときに、精密にフィルムを動かすための台が、買うには高すぎたので自作しました。フィルムが汚れないようにするクリーンルームがないから、自分で作りました。上映用のドームがないから、作りました。電力まわりがわからなかったので、バイトして教えてもらいました。本書を読んでいると、普通人なら一個でもとうてい乗り越えられまいと思うようなでかい障害を、この人はあっさりいくつもクリアしてくれる。さらさらと読みながら、何度「おいちょっと待った!」とページを戻したことか。「いま、あんたとんでもないハードルを一言でクリアしなかったか?!!」その実行力というか、物怖じのなさのすごさ。それも、小学生時代からこの人は「レンズ式のプラネタリウムを作ろう」と思って電話帳でレンズメーカーにかたっぱしから電話しまくっただって? そんなことをする小学生が、ほかにどこにいる?  そしてその淡々とした情熱というか執念というかを支えてくれた多くのエンジニアたちの太っ腹さ加減にも、驚くばかり。いきなり電話してきた小学生に、はんぱもののレンズをどかっとくれた工場のエンジニア。星をフィルムにプロットするための、制御装置の作り方を指南してくれた大学院生。バイト先で、下心あるバイトに融通をきかせてくれた電源メーカーの人々。本書を読んでいると、何かほとんど運命的なものを感じてしまうほど、都合のいいときに都合のいいサポーターが出てくる。なせばなる、ということだろうか。それとも世の中には、サポーターに恵まれずに涙をのむ無数の大平たちがいて、この人は本当に幸福な例外的存在だということだろうか。そしてその結果としてできたのが、人が一人で抱えて運べる、市販の商業プラネタリウムをはるかに越えた代物だ。

 本書はいろんなことを考えさせてくれる。日本の技術とは、理科教育とは、モノづくりとは? そしてぼくは、本書の最後のほうで、実際のいろんな場面での上映にあれこれ腐心するあたりの描写が好きだ。自分一人の技術的完成だけの自己満足に陥らず、最終的に人に見てもらうことにこそ意義がある、アートとしてのプラネタリウムというものを考える余地がある、という主張は確かにはっとさせられるし、またそれはある意味で従来のプラネタリウムが必ずしも注目せず、そしてそのためにプラネタリウムの衰退につながった重要なポイントでもあると思うのだ。なぜいま、渋谷のメガスター上映に人が集まるか? その鍵がこの本には詰まっている。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>