Valid XHTML 1.1! あしたのロボット 連載第?回

あしたのロボット、今日のロボット。

(『CUT』2002 年 11 月)

山形浩生



 瀬名秀明の新作が出るたびに、ぼくはがっかりする。こうじゃない。そうじゃない。なぜこの人は、ここまで来てそこで立ち止まってしまえるんだろう。毎回、ぼくはそのもどかしさに引っ張られるようにして瀬名の小説を読む。それはかれの新作『あしたのロボット』でもそうだった。

 『あしたのロボット』は、いま日本を中心にすさまじい勢いで開発され続けているロボットについて、真面目に考察した SF だ。もちろん、ロボットという発想は SF の発端からあるものだし、ロボットと人間の関わりについて考えた SF は、それこそ人によっては初の SF と言われる『フランケンシュタイン』からアイザック・アシモフの『われはロボット』シリーズ、そして瀬名がこだわりを見せている『鉄腕アトム』まで無数にある。だけれどそれだけに、それまで考えられてきた SF がまさに実現するにあたって、改めてロボットを正面きって考え直そうという試みはあまり見られなかった。それは、SF というジャンル自体の堕落もある。SF と称されるものの多くはすでに、SF 的な意匠で古くさい物語を飾りたてただけの、ただの読み物になってしまっている。そういう読み物へのニーズがある以上、それを生産すること自体は別に非難されるべきことじゃないだろう。でもそれだけでいいんだと思いこむことにジャンルとしての堕落がある。SF が本来持っていた、新しい技術(あるいはその可能性)に対する憧れ、恐れ、期待と不安を描き出す機能(それが最大の機能だったかどうかはおいておこう。でもこれが重要な機能の一つだったことはだれにも否定できない)―― SF は次第にそれをきちんと考えることを怠ってきた。現実が SF に追いついた、と称して、技術進歩が早すぎるとか高度化しすぎたとか称して、SF が本来持っていたこの重要な機能はないがしろにされつつある。

 瀬名は小説的な技巧の面では決して優れた作家じゃない。でもかれのやる気と努力は世界一だし、その真正面からの取り組みはいつも好感が持てるのだ。かれはこの『あしたのロボット』で、まさにこの SF の重要な機能を最前面にうちだしてきた。いまぼくたちは、これまで SF の中にしかなかったロボットたちと本当に共生する世界の入り口に立っている。それがもたらす、各種の産業動向調査なんかには現れない喜びや、悲しみはどんなものだろう。そしてそれに対する不安、期待はどんな形で現れるんだろう。いままでいろんなSFが扱ってきたロボットの足下を見直したとき、どんな可能性がそこにはあるだろう。瀬名はまがりなりにも、本書でそれを考えてみようとする。そういう意図を瀬名が持っていたことは、実にはっきりしている。「いまの子たちは、ロボットとともに生きる時代を暮らしているんです。(中略)この子たちの世代が、ロボットという新しいパートナーとの付き合い方を確立してゆくんです。まだ誰も経験したことのない試みだが……」(p.275)

 では、その付き合い方とはどんなものなんだろうか? それを考えきれていないのが本書の大きな欠点だ。

 最初の数編で、かれはいまの延長線上にあるいくつかのロボット像を描く。ロボットを人は愛せるか? ロボットに感情移入は? そして出てくるのが上の引用だ。でも、瀬名はその先に一歩も踏み出さないのだ。

 取材しすぎ、なのかもしれない。本書はかれが『ロボット21世紀』のために行った、ロボット研究者への取材がベースなので、その現状の認識についてはまったく危なげがない。でも、その先は? 本書の中でもいくつか触れられている、ロボット研究の壁みたいなのはよくわかる。でも、そこで止まるのが小説ではないはずだ。いま必要なのはそうじゃない。『ニューロマンサー』が(まあ当人はそんなつもりはなかったにせよ)来るインターネットの世界についての夢と希望を開花させたように、いま必要なのは、無理にでもその先に進むものだ。そういうビジョン(おとぎ話でも)があって初めて、次ができる。鉄腕アトムが日本のロボット開発の原動力だ、と瀬名は主張する。だったらいま要るのは、次代の鉄腕アトムなんだ。ところが本書は、現在のロボット研究者のグチみたいなところで止まってしまう。「ロボットは、未来に繋がる希望を、より明敏に我々に伝える。村の人たちにも、地雷を除去する我々にも、未来への希望を与えてくれる」(p.250)とある登場人物は語る。でも、その希望は小説の中には出てこない。さらに連作集のトリでは研究者たちが鉄腕アトム再現プロジェクトを実行し、ロボットにおける正義とは何かを論じあう。でもその肝心な答えは、先送りにされてしまう。

 惜しい。「あした」につながるかもしれないおもしろいアイデアの萌芽は、いくつかあるのに。ロボットといっしょに育った子供が、ロボットとの共通言語を発達させる話とか。そこからチョムスキー理論につなげたりするといろんな可能性が出るだろう。また鉄腕アトムにおける「正義の味方」という概念から、ジョン・ロールズの正義論とロボットの正義とをつなげようとする議論とかも、興味深い(ただしロボット的に必要な正義というのは、ロールズ的な正義とつながるのかな)。ただ、それは一向に発展することがない。ロボットは、いったい何を正義と感じるんだろうか? 人の正義や善悪は、人の持つ制約から生まれる。ロボットにとっての制約は何だ? たぶん本書をまともに書くためには、瀬名はロボットの気持ちを本気で考える必要があったんじゃないか。ロボットの存在論理をでっちあげる必要があったんじゃないか。ラストで研究者がロボットに向かって「今度こそはぼくたち人間がきみにたくさんのものを与える」という。でも何を? ロボットは一体何を求めるんだろうか。それを考えるための糸口はあるのに。惜しい。それが欠けているがために、『あしたのロボット』であるはずの本書は、『今日のロボット』で終わってしまっている。

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