Valid XHTML 1.1! パウラ 連載第?回

あなたの娘は、本当にこんな作り話のネタにされたかったのでしょうか。

(『CUT』2002 年 9 月)

山形浩生



 この書評は、朝日新聞掲載の同じ本の書評と併読して欲しい。

 『精霊たちの家』がイザベル・アジェンデの処女作だというのをぼくはこの本を読むまで知らなかった。そうだったのか。あの人はいきなりあんなすさまじい本を書いたのか。「バラバースは海を渡ってわたしたちのもとにやってきた」。あの物語はそのように始まり、そして終わる。もう細部は忘れてしまった。覚えているのはふわふわと椅子にすわったままあたりを浮遊するおばあさんの姿だけだ。あの世界では、死はなんということのない現象で、しきいをまたぐより簡単なこと。死んでからも人は平気で生者とともにある。人の記憶がある限り、死者たちは生き続ける。忘れられることによってのみ、死者たちは消え失せる。

 そんな物語を書いたイザベル・アジェンデの娘が、突然病に倒れる。イザベルは、いつまでたっても意識の戻らない娘パウラの横で、彼女宛の長い長い手紙を書き始める。それは十九世紀のはじめ、一人のバスク人の船乗りから始まる、イザベル、そしてパウラへと続く長い長い一家の物語。自分の覚えている祖父母たちの物語から、父の登場と失踪、外交官一家としての様々なエピソード、そしてチリの軍事クーデターとピノチェト独裁時代の暗い思い出、そして亡命生活。結婚。恋愛。出産。出会い。別れ。仕事と、ふってわいたような作家としての地位。だが書き進む合間にも、パウラの病状は一進一退を繰り返すばかり。

それが本書『パウラ』(国書刊行会)だ。

 さて、本書はすばらしい。本書の最初の三分の二で、ぼくは何度涙を流しかけたことか。それはエピソードのすごさだけじゃない。それを描く筆致のなんとすばらしいことか。にもかかわらず……本書にぼくはある種の卑しさを感じてしまうのだ。物語がどんどん今に近づくにつれて――特に物語がどんどんアジェンデ自身の話になるにつれて、その感触は増す。自分の不倫や情事を、正当化しないふりをすることでかえってそれを正当化している部分。「わたしはこんなにつつみ隠さず話しています(だから非難されるべきでない)」とでも言いたげな、舞台の役者が観客を見ていないふりをしつつ、めいっぱい観客を意識しているような、そういううそくささが妙に気にさわる。

 なんかのまちがいだろうと思って、ぼくはこの本を二回読んだ。でも二回ともそうだ。ラストでもちろんパウラは死ぬ。著者はその臨終を看取りながら、こう思う。「私は空虚、私は存在するすべて、私は森の木の葉の一枚一枚にあり、朝露の一滴一滴にあり、水が流してゆく灰の一つ一つの分子にあり、私がパウラで私はまた自分自身で、この生にあっても、別のいくつの生にあっても、私は無でありすべてであり、けっして消え去ることがない」。ぼくはここんとろがたまらなくいやだった。これに先立つ二ページほどが。いよいよ死のうとする娘を前に、みなさん実にすっきりと心の準備もできて、聖霊たちも総出でお出迎え。娘が息をひきとって、魂が天にのぼるのにつきあいながら、イザベル・アジェンデはいま書いたような、どっかの禅の通俗解説書にでもありそうな陳腐なお題目を並べ立てて、そしてお話は平気でめでたしめでたしになってしまう。

 アジェンデは本当に、娘の死と同時にこんな悟りめいたことを考えたんだろうか。ホントに? 人によっては、これを感動的な心洗われる文章だと思うんだろう。この文を読んで、あざとい作為を感じてしまうぼくが異常なのかもしれない。仕事がたまりすぎて疲れているのかもしれない。でもいまこの文を書くために本書のラストを開いてみると、またあの嫌悪が蘇ってくる。そして、その理由が少しわかったような気がする。

 この物語は、もともとはいつか目覚めるかもしれない娘への手紙として書かれていた。でもある時点でアジェンデは、娘が二度と目覚めないことを知る。娘が決してこの手紙を読むことはないと悟る。彼女の書く中身は変わり始めたのは、たぶんその頃からだ。そのときから、妙に外向きの目配せがあらわれはじめる。娘が目をさましていたら、決して話すまいと思えるようなことを、彼女は妙にうれしげに書き付けはじめる。それは彼女がいろんなインチキ療法に手を出し始める時期でもある。死ぬということの意味が微妙に変わり、同時に本書の意味も変わってくる。

 そしてこのラストだ。一見娘の死を受け入れ、それを昇華(というべきか)しているかのように見えるラストは、実はそうでないことがわかる。ここんところはあざとくステージングされた、フィクションなのね。本書のドイツ語やオランダ語訳は、本書を「小説」に分類したという。訳者はそれを、アジェンデの人生が波瀾万丈だからだと解釈しているけれど、そうじゃないと思う。本書は最後に、ノンフィクションであることを放棄しているからだ。悪い意味で。現実から目を背けてよしとしてしまう。その現実っていうのは、別にありのままのルポルタージュという話じゃない。フィクションが、フィクションであるが故に現実である場合だってある。『精霊たちの家』がまさにそうだった。でもこのノンフィクションは、現実をおとぎ話にすりかえることで何かをごまかしている。娘の死を、ちんまりとした自分自身のエセ悟り体験に矮小化してしまうことで、何かから目を背けるためにフィクションを使っている。その一部は、死ぬという行為を死という抽象概念にすり替えることだ。『精霊たちの家』なんかでは、重い意味を持つと同時に何の意味ももたなかった、死ぬという行為が、ここでいつの間にか過剰な意味で飾り立てられる。このラストは、死を解き放つような書き方をしつつ、実はそれを抱え込んでしまっている。『精霊たちの家』のアジェンデが知っていたことを、彼女は忘れている。

 あなたの娘パウラは、本当にこんな手紙、特にこの最後の部分を読みたいと思っただろうか。フェアでない問いなのは知っている。でもぼくはどうしてもこれが疑問でならない。

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