Valid XHTML 1.1! 前日島 連載第?回

「昨日」を変えられたなら。

(『CUT』2002 年 1 月 p.117)

山形浩生



 日付変更線というのを初めて知って、ちょっと頭のまわる人なら不思議に思ったはずだ。じゃあたとえば、あの向かい合った顔みたいなアラスカとシベリアで、海峡をはさんで二人の人が手をふったらどうなるんだろうか。あるいは、その線を何度も何度も越えたらどうなるんだろうか。北極点のまわりをぐるぐるまわったら、どうなるんだろう。どんどん時間をさかのぼって、過去に行っちゃうような――確かルイス・キャロルだったかも同じようなことを考えて、北極点と南極点には、あらゆる時間が濃縮されてたまっているのだ、というエッセイを書いている。

 このウンベルト・エーコ『前日島』も、その日付変更線をめぐる物語だ……というべきか、そうでないというべきか。

 というのも、これはエーコの小説の常(といってもまだ三作目だが)として、そんな一言でまとめられるような小説じゃないからだ。要点を手っ取り早く求める人や、短期間のカタルシスを求める人は、ウンベルト・エーコの小説は向いていないのである。『薔薇の名前』)での異端談義のあれこれもそうだったし、また『フーコーの振り子』)でも中世秘密結社についての得体の知れない話の山と、そしてそれをなにやら現代に結びつけたがるトンデモな方々の珍説奇説のオンパレード。

 この「前日島」も、やはりいたるところひたすら脱線の洪水だ。天動説のまちがいについての議論、「共感の粉」をめぐる云々、鳩をめぐるシンボリズム解説、キリストを救いに戻りたいユダが直面する板挟み、対子午線(日付変更線)決定についての諸談義――そしてそれを曲解し、我田引水する主人公ロベルト・ド・ラ・グリーヴ、さらにはその記録を翻訳紹介しつつ、自分で勝手に話をおもしろくするためにと称して条件をつけ、長々と合いの手を入れてまわる話者――が、短い本書(とはいえ、あくまで前二著に比べればの話で、二段組500ページを越えるかなり長い小説にはちがいないのだけれど)には、あふれんばかりに詰め込まれている。

 時は十七世紀。島の入り江に浮かぶ、無人(と思われる)不思議な船に流れ着いた遭難者、ロベルト・ド・ラ・グリーヴ。物語は、ロベルトがその船中で書いた「貴女(あなた)」への恋文を軸に、前半ではかれのそれまでの生涯と妄想が語られ、そして後半にはその島にたどりつこうとするロベルトの苦闘とその挫折、そしてロベルトの描く小説の中での、妄想と現実との融合が語られる。その島は日付変更線の上にあり、それを越えれば「昨日」に到達できる。その島はすなわち、昨日と今日を一望できる位置にあり、経線決定において不動の線上にある特権的な島であり、そこにはキリストの化身たるオレンジの鳩もいる――

 動かない不動の点としての子午線は、ある意味で『フーコーの振り子』の振り子面と同じ役割を果たしているし、最後の場面で『薔薇の名前』を連想する人もいるだろう。ただ、各種の脱線の詰め込み具合はあまりよくできているとは言い難い(ぼくが読み切れていないだけかもしれないけれど――エーコの小説はいつも、自分が何か見落としているんじゃないかという不安を読者に与える)。小説としては『薔薇の名前』や『フーコーの振り子』に遙かに及ばない。各種の脇道や余談の本線とのからまり方が希薄だとか、ロベルト(あるいはその世界)を支える思考があまりに薄くて、その薄さを饒舌でごまかそうとしているとか。最後の、小説と現実の融合も結局はロベルトの熱にうかされた妄想だったにも関わらず、話者の理屈になっていない理屈だけを根拠にロベルトがそのまま自作の小説を生きようとしてしまうところとか。この最後の部分の処理に、ぼくはエーコの小説にこれまで感じたことのない作為を感じてしまう。そしてエーコ自身、それに不安を覚えたのか、作為的であっても作者はそれを言っちゃおしまいだ、みたいな言い訳をそのまた最後にくっつけているのにはがっかり。

 でも、それでもぼくはこの小説がなんとなく気に入っている。それはその終わり方のせいかもしれない。そしてエーコの作為も、このラストが欲しいが故の苦肉の策なのかもしれない。主人公は――そしてそれを読むぼくたちは、永遠に続く「今日」と、過去の記録や記憶の中にとらわれている。それはロベルトを閉じこめるダフネ号でもある。ロベルトは、いつも「今日」にいて、日付変更線の向こうの「昨日」の島――前日島――にたどりつくことを夢見ている。そしてそれは決して果たされることがない。ローリー・アンダーソン(お懐かしや)がベンヤミンを引っ張りつつ歌った、歴史の天使みたいに。

 歴史ってなんだろう
 歴史というのは天使で
 後ろ向きに未来へと吹き飛ばされている
 歴史とは瓦礫の山
 そしてその天使は戻ってあれこれなおし
 壊れたものを修理したいのに
 でも楽園から吹く嵐が
 天使をさらに未来へと吹き飛ばし続ける
 そしてその嵐の名は「進歩」と言う

 物語が終わるのは、作為的ではあっても、ロベルトがそこからようやく出ようと決意した時だ。ロベルトは船を焼き、過去へのつながり――鳥たちや時計や、各種記録――をすべて消し去り、そして船そのものに火を放つ。そして前日島へ泳ぎつこうとする。新しい「昨日」へ、まだ見ぬ「昨日」へと泳ぎ出す。そしてそのとき、ぼくたちは知る。前日島にいたのはぼくたちであったことを。そして昨日を変えるため――ひいては今日と、そして明日を変えるためにぼくたちもまた泳ぎ出さなきゃいけないことを。

 これまでのエーコの小説では、その物語を終えた人は死を迎える。『フーコーの振り子』ではその物語にとらわれたまま(そのために)死ぬ。でも、本書はちがう。ロベルトの最後の行動は、ほとんど絶望的な試みではあるのだけれど、そしてほぼ確実な死への一歩ではあるのだけれど――でもそれはわからない。もしかすると、かれは成功したかもしれない。ロベルトは昨日を――そして今日を――変えられたのかもしれない。そして読者たるぼくたちはどうだろうか。

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