Valid XHTML 1.1! ディフェンス 連載第?回

記憶のハッシュ関数に作用する小説。

(『CUT』2001 年 2 月)

山形浩生



 記憶っていうのは変なものだ。たった一言、ほんのちょっとしたきっかけが、もっと大きな思い出の全体像をよびさましたりする。わずかなきっかけが、自分がなにかを記憶していたという記憶を回復させる。メロディー。一言。名前。そんなものが、思い出せかかっているのに形にならなくて、頭の中がかゆいような、そんなもどかしい思いをしたことがあるだろう。そこまですら到達せず、なにか漠然とした雰囲気だけが後頭部にじんわりよみがえってくるような、そんな記憶の断片もある。コンピュータでは、データに対して演算(たとえばハッシュ関数)をして、その結果を別に保存しておく。そしてあとから送られてきたデータに同じ計算をしてみて、同じ結果が出るかどうか照合することで、データが正しいか調べる。ある脳学者は記憶にもハッシュ関数があるはずだという。だってなにかを思い出せなくても、それを提示されると「ああそれだ!」とわかるもの。

 ウラジーミル・ナボーコフ『ディフェンス』は(いや、これに限らずナボーコフの小説の多くは)そういう記憶のハッシュ関数に働きかける小説だ。

 ナボーコフの小説を説明するのは、だからむずかしい。この『ディフェンス』も、たとえばあらすじを説明しようと思えばできる。児童小説作家の息子が、完全なヒッキーだったのがあるときチェスの天才だってことがわかって、名人になるんだけれど、大人になってもチェスしかできないでぶで不潔で無教養なでくのぼうで、チェスのしすぎで精神に異常をきたして、世界のすべてがチェスのゲームに思えてきて、そこから逃れようとして自殺するんだ。おしまい。でも、これじゃなんにも説明したことにならない。

 なぜかというと、さっきも言ったとおり、ナボーコフの小説は記憶の痕跡に作用するものからだ。この『ディフェンス』も。回想がすぐに物語の本流となり、それがまた突然記憶へと退く。そしてその中にちりばめられた、ガラス、ハンドバッグ、格子模様、噴水、エレベータ、三ボタン――そんなものが繰り返し現れては消える。それはすべて、読者の記憶に依存したしかけだ。それははっきりとは意識されないかもしれない。でも、意識のどこかに、その記憶のかけらは残っている。そのかけらが、前の物語自体を呼び覚まさなくても、そのハッシュ関数に作用して、漠然とした形がそこにたちのぼる。ナボーコフの小説を読むのは、そのもわっとした形を抱きしめつつ、それをだんだん明瞭にしていく、そんなプロセスなんだもの。

 翻訳はとっても上手だ。ナボーコフのくどい感じをうまく残しているし、かれの残した布石やその記憶の痕跡たちも繊細に息づいている。解説は、詰めチェスについての説明をのぞいてはつまらないけれど。訳者の若島正は柴田元幸と同じで、ことばの触感には敏感で翻訳者としては一流だけれど、分析家としてはあまりシャープじゃないんだろう。女とでてくると「当然ながらそこに発生するのは『愛』または『エロス』というテーマだ」という紋切り型な発想。ルージンと夫人の人生に、ちょっと共通点があるだけで「出会う以前から運命によって結ばれている」などと言ってしまうおセンチぶり。

 さらに訳者は人生をチェスとして見るルージンの認識と、人生はチェスのようには割り切れないという事実とのせめぎあいが『ディフェンス』の最大のテーマ、なんて書いちゃう。ちがうって。チェスの駒が悩まないなんて誰が言った。それにナボーコフは昔から、(少なくとも小説では)人生なんていう抽象的なものには関心がないもの。ナボーコフの作品に割り切れないものはない。すべてが必然だ。作者がそう創るんだもの。ルージンは正しい。ナボーコフはまさにチェスとしてこの小説を構築しているんだもの。訳者は自分でもそう書いているのに。

 でもたぶん『アーダ』を除けばこの小説でだけ、たかが一登場人物が、作者の布石に気づいて、それを逃れようともがくことが許されている。もちろん逃げ切れるわけがない。でも、その布石に気がつかせてあげること自体が、ナボーコフの小説では破格の扱いだ。

 そしてそれがかれの「温かさ」だ。ナボーコフは本書を、「ロシア語で書いた全作品のうちで、最も『温かさ』に満ちあふれた作品」と述べている。でもその「温かさ」の意味は、ふつうとはちがう。ナボーコフは通俗的な意味では、とっても残酷な作家だからだ。ナボーコフの登場人物たちはいつも、とってもかわいそうだ。かれらには一切の自由はなく、徹底的にこき使われ、解放というのは、死ぬことであり発狂することだ。『ベンドシニスター』の主人公は、独裁者に拉致され、息子を殺されて発狂して最後を迎える。でもナボーコフ自身はそれを「優しい狂気の中に解き放ってやった」と表現する。本書でのルージンの死も、ナボーコフの「温かさ」の一部だ。もっともその最後の瞬間にすら、ナボーコフは徹底して意地悪なんだけれど。

 ただその意地悪さも、ちょっとした布石が記憶にないとわからないだろう。忘れっぽい人は、ナボーコフの小説を読めない。記憶の細かいひだをさぐれて、「これは覚えがある」というハッシュ関数の信号に敏感な人だけがこの小説を楽しめる。それが発達していない人は、ナボーコフが奨める通り、同じ話を何度か読んでみよう。いろんな断片が、あちこちで浮かび上がってくる。その相互のつながりが見えてくる。やがて小説は、はじまりもない、終わりもない、無数の記憶と、記憶の記憶の断片の集まりになって、そしてそれもだんだんと薄れ、遠ざかり、いつか消える。

 もちろん、たかが小説にそこまでするどうかは、あなたの勝手だ。実はこれは、ウィリアム・バロウズの小説(のましな部分)ととっても似た代物だ。カットアップされる記憶、そして断片のそれぞれが、ホログラフィのように呼び覚ます全体とハッシュ関数――でも、この話は別のところでしよう。もう紙幅がない。


from山形@ Hotel Lake Castle, room 212 fax: 880-2-9884675

一応、指定通りに行数はしました。ずれてるようなら、適当に塩梅してください。よろしく。行数ばかり心配して、中身が薄いです。本は、ウラジーミル・ナボーコフ『ディフェンス』(河出書房新社)です。なお、メールが使えないので入稿はファックスだけです。

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