(『CUT』2000 年 06 月)
ぼくはこうして文書をつくるのが仕事だ。でも一つの文書の中にもさまざまな表現がある。文で表現すること、数字、表やグラフにすべきこと、ドローイングや模式図や写真で表現したいこと。そのすべてを同じ方向に向かせるのは、実はとてもむずかしい。住宅開発の事業計画にしても、住戸の物理的な設計や配置が物語るものと、予定分譲価格の示すコンセプト、収益性と投資計画が決める方向性、そしてそれを売り込むことば。あっちをたてればこっちがたたず。グレードをあげれば収支がまわらず、収支をあわせると価格がむちゃくちゃ。かといって全体をほどほどにおさめれば、こんどは何の特徴もないプレハブ分譲住宅まがいになっちゃう。
中村好文『住宅巡礼』(新潮社)は、その方向性が変にずれているのがおもしろい。これは欧米有名建築家の設計した住宅を見物してきた本で、文章と、スケッチや図面、そして写真という三種類の表現が混在している。それがちぐはぐなんだ。たぶん本屋で手に取る人は、ドローイングを見てよさげだと思って買うだろう。そして、あとでそれ以外の部分でがっかりすることになる。
スケッチや図面なんかはかなりいい。著者がどこに注目し、何をおもしろいと思ったかがとってもよくわかる。スーパー上手とは言わないけれど、味はあるし、動線とか、周辺の地形との関わりとかも明快だ。ちょっとした家具やディテールのスケッチ(寸法つき)も著者の関心の方向がきれいに出ているし、いいたいことがはっきり表現されている。これがこの本の最大の魅力だ。
それが写真になると、つまらなくなる。室内の写真は、ちょっと奥行きがあるとピンぼけ気味で、説明文の内容を読みとれないものも多い。建物の外観写真は広角の歪みが入って、しかも縁がぼける。12ページ右上「野良猫のテラス」のスケッチと、21ページの写真を見ると、スケッチの作為(よい意味で)と、写真の作為のなさ(あまり考えていないという悪い意味で)の差がはっきりわかる。
そして文章は……かなり落ちる。ぬるくて、押しつけがましくて、独善的。たとえばフィリップ・ジョンソン設計の家について述べたこんな下り。
「内部を巡り歩く間、私の胸のうちには『洗練』『優雅』『粋』それに『贅沢』という言葉などが去来しました。(中略)どうかこのキーワードを心に留めて写真と図版をご覧ください」
ちがうの。「粋」だの「優雅」だの、評価を読者に強制してどうするの。それは読者が自分で感じるべきことでしょう。そこに導くのがあなたの腕で、「これは洗練されてるんだから、おまえたちもそう思って見ろ!」と押しつけるのは、ただの権威主義。「天井寸法の決断が居心地のよさの決め手となっていると直覚した」そうな。直覚は結構だけれど、その天井高だとなぜ居心地いいの? 説明皆無。自分も建築家だからわかる、と言うだけ。
あとがきで著者は、住宅建築家が「市井の人々の喜怒哀楽に共感できる柔軟な心を持った『人間観察家』でなければならないことを教えられました」と書く。でも、本書収録の名建築落水邸を設計したライトは、自分が設計した建物に住民の迷惑も顧みずドカドカ勝手に見学者をつれこみ、「おまえの建築は雨漏りして家具がびしょぬれ」という苦情に「じゃあ家具を動かしなさい」と開き直る、「市井の人の喜怒哀楽」なんか完全ダンゴムシの唯我独尊建築家でしょ。ジョンソンだって、美的な創意を住宅の使い勝手に優先させると自分で断言してる。なんか凡庸な耳障りのいいオチを思いつきで書いただけね。
だけど、著者は肉体的にはなにかをとらえていて、それを手では表現できているのね。文だけが遊離している。いや文も、建物自体の説明では具体性があって、興味深く読める。だからリートフェルトの回はかなりいい。でもそれを離れたとたん、上の引用みたいな高圧的(語り口だけだと慇懃で謙虚に見えるけど)な文や、先入観に基づくヨイショが続く。ボッタの住宅(紅白シマシマの四角い箱)が、風景に馴染むとか違和感がないとか。まわりの田舎風景から完全に浮いてて、違和感の固まりなんですけど。だからこの回では、サイトプランとか周辺まで含めたスケッチを著者自身は描いていない。かれの手は知っているんだね。
それが不思議なのだ。スケッチを見る限り、この人はもっと言うべきことを持っているはずなのに。かれの手はずっとよくわかっているのに。手は、ちゃんと建築に向いているんだけれど、文は気取ったおブンガクをしたがっている。
異国の住宅めぐりに、エドワード・モースの『日本のすまい:内と外』(鹿島出版会)がある。あの大森貝塚を発見したモースだといえば、小学校時代のかすかな記憶がよみがえるかな。かれが日本全国の明治初期の住宅について、スケッチと文で詳細に記録したのがこの本だ。
かれのスケッチは、建築家式のデフォルメのきつい、エッセンスを取り出すスケッチじゃない。モースは生物学者なので、生物学者流のくっきりした絵になっている。いまでも生物学者とかは絵をたくさん使う。写真では表現できないものがあるからだ。人間の目(そしてその先の処理系)は、入力信号にすさまじい補正を加える。だから単に光学的にやきつけただけでは、目で見たものにならない。正確に記録するために絵が必要になる。モースが使っているのも、その描き方だ。具体的に記録するための絵。
そしてモースは、それを詳しい記述で補う。家の並びや部屋の配置、ディテールの処理、装飾、工法、それらに伴う生活習慣まで克明に記録されている。そして全体を貫く、厳格な具体性。モースが美しいと言うとき、なぜそれが美しいか必ず説明される。驚けば、なにに驚いたかが必ず記述される。その具体性は、スケッチの持つ具体性とぴったり同じ方向を向いている。そしてかれが「優れている」と書くとき、かれは欧米の都市や建築の状況をあわせて記述し、日本式の合理性(あらゆる評価は合理性がベースになっている)を述べる。それですら軽薄な文化論や東洋趣味の余談なんかではない。「清潔」とか「優れている」と言うには、その評価の基準が必要だ、という必然性があってのことだ。
その具体性が、百年以上たったいまもこのモースの本に迫力を与えている。いまのぼくたちも、百年前にこれを読んだイギリス人たちと同じものを、何の追加説明もなしに目の前に現出させられるんだ。文とイラストの方向性の一致が、さらにそれを強化しているのね。そしてそれだから、随所に見られる欧米の野蛮で危険でがさつな都市のありかたに対する批判が、懐古趣味ではなくそのまま現在の日本への批判としても一言残らず機能してしまう。そしてモースの、いささかの自嘲とあきらめのこもった結びのことばも、その具体性に基づく表現の力があってこそ、いまなおぼくたちの胸をうつのだ。
なお、この『日本のすまい』(そしてこの版元の他の本も)は近いうちに入手が困難になるかもしれない。いまのうちに入手するようお奨めしておく。
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CUT編集部 稲田さま
うーん、なんか前半意地悪でうまく後半につながりませんねー。が、時間切れです。すみません。
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