Valid XHTML 1.1! 巨匠とマルガリータ 連載第?回

『巨匠とマルガリータ』の続きを生きること。

(『CUT』2000 年 05 月)

山形浩生



 2000年3月27日10:15、日本の千葉は成田。異様に混雑したその日の空港では、出国審査前のセキュリティチェックがすさまじい行列となっていた。出発まであと30分。大丈夫、大丈夫、ファイナルコールで呼びにくるから、と徹夜明けの朦朧とした意識の中で自分をなだめつつも、すでに1時間近くその行列に並んでいるぼくは気が気ではなかった。行列がヨチヨチとイモムシ状に蠕動する間も、時間は刻々と過ぎていく。

 10:40。

 「間に合いませんね、これじゃ」急に声がした。

 顔をあげると、悪魔がいた。なんだ、あんたか。だがいまはこいつの相手をしている暇はない、かな? 考えてみればどうせこの行列に並んでるわけで、実際には何してるわけじゃなし。

 「間に合わなければ?」

 「なんとかしてあげましょう。取引です。さあこれを」

 悪魔は上下巻の本を差し出した。ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』

 「さあ」

 時計を見る。10:45。出発時刻だ。

 ぼくは首を縦にふり、本を受け取った。その瞬間に悪魔が手を挙げた。いきなり空港一面に千円札が降り注ぎ、あたりは大混乱に陥った。するとどこからともなく迷い込んだ黒猫が立ち上がって、腕章をつけて人員整理を始め、気がつくとぼくは 2 時間分の行列をすっとばし、イミグレーションをかけぬけ、E70 ゲートを突破して B777 のタラップのてっぺんで呆然としているのだった。

 結局その日、全日空 NH905 便は 30 分ほど遅れただけで北京に出発することになる。乗務員たちは、連続定刻出発記録がとぎれてしまってカンカンだったけれど。いま頃は、あの降り注いだ千円札が忽然と消え失せている頃だろう。新聞ではなんと報道されるだろうか。ぼくは機上で、悪魔のくれた本を読み始めた。

 というわけで、我に従え、読者よ! 『巨匠とマルガリータ』を読むのはもう何度目だろうか。こいつは新訳版だけれど、集英社の文学全集版でもまるでかまわない。さっきの悪魔が1920~30年代のモスクワに出現した一週間ほどの物語だ。神様なんかいない、イエスなんか存在しなかったという公式の政治的立場をいかに詩に反映させるべきかを議論する文壇雑誌編集長とヘボ詩人の前にあらわれたあいつは、イエスの存在証明と称してイエスを処刑させてしまったのはまちがいだったのでは、という思いに悩むピラトの物語を語って聞かせ、それを一笑にふした編集長の首をちょん切り、連れの詩人は発狂。そしてそれを皮切りに、あいつは体制べったりのタコツボ文壇や利権まみれの官僚制を大混乱に陥れていくのだ。

 劇場にふりしきる偽札の山。悪魔にだまされて、はだかで町中を駆け回る大量の人々。立ち上がる黒猫に操られ、自分がその一部だったはずの官僚主義に翻弄される人々。

 そして精神病院送りになったヘボ詩人は、そこで隣室118号室の住人と出会う。かれこそが実は主人公たる巨匠で、あいつの語ったイエスの存在証明と称するピラトの物語は、この巨匠が書いた小説だったのである。そしてその小説のためにかれは逮捕されたあげくにこの精神病院に送られたらしい……

 上巻を読み終える頃に北京についた。空港では、白いキャップをかぶったウイグル系の人たちが大挙して到着口に群がり、なにやらすさまじい怒号をあげている。その中の一人がこっちに手をふる。あいつだ。その目が告げる。約束ですよ……

 わかってる、わかってる。というわけで話はその翌日、3月28日。我に従え、読者よ! ウランバートルへ向かう飛行機の中で、物語はやっと下巻に突入する。タイトルにもなっているマルガリータは、下巻になるまで登場してこないのだ。話はやっとこれから。マルガリータは悪魔の頼みで悪魔の舞踏会の女王役をつとめあげ、その代償として巨匠を救いだし、巨匠を滅ぼした(そして巨匠が燃やした)小説を復活させる。「暖炉にくべた? まさか。原稿は燃えたりしません」無数の原稿が本当に燃やされ、それを書いた人々が粛正にあっていたこの世界で、ブルガーコフは敢えてこう断言するのだ。

 実はこの物語が描いているのは、決して明るい時期ではない。それはこの物語にも実はしょっちゅう出てくる。スターリンの粛正の嵐はふきあれ、人々は次々に矯正収容所送りになっている(ソ連の収容所は、建前的には矯正が目的なのだ)。冒頭の編集長とヘボ詩人の場面でも、編集長が叫ぶ。「カントなんか、収容所送りにしてしまえ!」巨匠もマルガリータも、自分たちの自由を得るためには死ぬしかなかった。それなのに、いやそれだからこそ、この小説は最初から最後まで、めちゃくちゃなスピード感あふれる爆笑もののコミックノベルだ。粛正も、収容所も、死も、黒魔術も、すべてが冗談のタネにされてしまう。爆笑問題がスターリン時代のソ連に転生して小説を書いたとしたら、たぶん収容所送りになる前に、これに多少は近いものが書けるかもしれない。これはそんな小説だ。

 だがそうやって死んで解放される前に、イエスの頼みで巨匠はピラトの物語を完成させる。その物語は、こう終わる。「自由だ! 自由だ! 彼がおまえを待っている!」

 この一言とともに、2000年もの長きにわたって、満月の夜の不眠に悩まされてきたピラトは解放される。あのとき、ナザレのイエスを処刑したのはまちがいだったのではないか。もうちょっと話をすればよかった。その後悔から、かれはようやく逃れることができる。そして同時にそれを書いた巨匠と、その愛人のマルガリータも、この世のしがらみをすべて捨て去って新しい世界へと向かう。体制派文壇エスタブリッシュメントの巣窟も炎上して、残ったのは村上龍の3割くらいと佐藤亜紀と京極夏彦と、その他ほんの20名ほど。あいつがモスクワに引き起こした数々の騒動も、やがて適当に合理化され、落ち着くものは落ち着くところに落ち着き、すべては忘れ去られ、何事もなかったような日常が続く。

 だがもちろん、物語はそんなふうには終わらない。そして残された人々は、相変わらず春の満月の夜にちょっと苦しみ続けるのだ。ぼくたちとともに。自由だ。自由だ。彼はいつかぼくたちも待っていてくれるだろうか。

 読み終える頃に、飛行機がウランバートルに到着した。ぼくたちの調査団の出迎えが、ぼくにウィンクをよこす。

 「できましたか。約束ですからね」とあいつが言う。

 もうちょっと待ってくれ。ウランバートル空港からの道から見える光景は、まばらに並ぶボロボロの建物と、社会主義アイコンもろだしの装飾物の数々。ほこりっぽい、スカスカした街。悪魔はここにもやってくる。

 そういうわけで、その日の午後のいま、ぼくはこいつを書き終えようとしている。悪魔との約束だもの。我に従え、読者よ! この『巨匠とマルガリータ』を買え! 読め! 笑い転げろ! そしてあなたも『巨匠とマルガリータ』の続きを生き続けるのだ。

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CUT編集部稲田さま
2000年3月28日

 なんかこんなもので。いまいちペダンチックになってて、切れが悪いですが。なお、『巨匠とマルガリータ』出版元は、群像社でしたね。すみません。

 ちょっとメールの具合が悪くて、たぶんファイルでお送りするのは難しいと思います。お手数ですが、この紙の入稿だけでかんべんしてください。一応、メールのほうも努力はしてみますが。あと、問題がありましたら以下にご連絡ください:

Ulaan Baatar Hotel, Room408
Tel +976-1-320237 Fax: +976-1-324485

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