Valid HTML 4.0! Why Cats Paint 連載第?回

ネコ芸術の夜明け。

(『CUT』1999 年 09 月)

山形浩生



 人と獣とを分かつ条件について、近年になって世界的に見直しを余儀なくされている状況についてはここで今さら語るまでもないだろう。たとえばかつて売春は、人類最古の商売と言われ、人間にしかない商取引行為の基礎としてヒトをヒトたらしめる条件とされていた。しかしながら、サラ・フルディらの類人猿研究により、すでにサルにも売春行為が存在していることが明らかとなり、ヒトの独自性は揺らいでいる。笑いという、高度な記号操作を要求される行動も、馬に見られることはエラスムスの時代より知られている。言語でも、前回採りあげた『ブレイン・ヴァレー』がネタにしていた、手話を操るゴリラなどの出現に伴って人間中心主義はくずれつつある。チョムスキー式の、言語に生物学的根拠を見出そうという動きは、人間中心主義の維持というヒトの無意識的な「政治」的意図が隠されていることも、近年のカルチュラル・スタディーズの成果が指摘する通り。そういった器官を持たないのに、一部のバクテリアやハーモニウムなどが言語をあやつることは、近年のヴォネガットやレムによる研究からも明らかである。

 さて、人間の特権と考えられていたものとして、遊びや芸術がある。これらはホイジンガや大室幹雄らの研究などからも明らかなとおり、人間ですらよくなしえない、むしろ神の領域に属する行為である(近年の日本の中流小市民どもの遊びと称するものは、実は遊びとはほど遠い横並びのグルーミングでしかない)。

 しかしながら、犬猫を居をともにしたことがある(飼う、などという人間の思い上がりに満ちた差別用語は許し難いものである)人物であれば、犬やネコも遊ぶことはよく知っているだろう。さらに、単なる遊びにとどまらない、より高い文化的な芸術性についても、最近になってようやく光があてられるようになってきた。今回紹介する Why Cats Paint: An Anatomy of Feline Aesthetics (ネコ芸術論:ネコ科美学分析)は、まさにその先駆的な研究の一つである。

 動物の芸術衝動については、すでに労作 Why Dogs Don't Paint があるが、あまりに動物行動学理論に偏りすぎており、実際の動物アートに虚心に接しようと言う謙虚さに欠ける。図版も少なく、実際に動物アートに接したことのない多くの読者には不親切であるという批判があがっていた。こうした先人の成果を貶めるものではない。しかし、いまや芸術を動物にまで広げようというのに、多くの人間にすら理解しがたいというエリート主義は批判されねばならない。Why Cat's Paint はこれに対し、具体的なネコたちの作品を多数掲載し、ネコアートへの最良の入門書となっている。

 本書のページをめくるだけで、原初的な純粋美の世界に心洗われぬ者があるだろうか。ネコアートは、金銭的な欲望や卑しき名声欲などにまったく左右されない、ひたすらアーティスト個猫の芸術表現衝動の発現となっている。自由闊達なる前足の動き、あるいはツメ研ぎアクションを使ったキャンバスの破壊。ネコたちの枠にとらわれない自由な画風は、まさに天衣無縫、人々の心をとらえてやまないであろう。

 さらに本書のすばらしい点は、単にネコアートの羅列にとどまらず、それを美学的に分析して美術として分類し、ネコ芸術研究という新分野の基礎を築き上げたことである。古代エジプトの壁画に残されたネコアートの分析など、歴史的な視点も欠いてはいないし、(ネコの)ルネサンス期のミケ・ランジェロによる(ネコの)イコン画運動から現代の抽象表現主義、アクションペインティングなど、掲載分野は実に多彩である。絵画にとどまらず、各種のインスタレーション作品などにも触れて、この一冊で現代の主要ネコアーティストは網羅されている好著だ。

 こうして集められた作品を見ると、かれらの芸術性に対する認識が遅れた理由も自ずと理解できよう。生物学的な認知構造の差もあって、ネコと人間の写実性は、どうしても異なってくる。このため、ネコアーティストたちによるかつての写実画は、人間には理解されようもなかったのである。人間の審美眼の洗練により、抽象画が理解できるようになったときに、はじめてネコ・アートも認知されるに至った。ソフト工学的にいえば、人アートとネコアートはアブストラクション・レイヤーを介することで互換性を獲得できた、とでも表現するであろう。

 さらにもちろん、未だに根強い偏狭きわまる人間中心的芸術観のため、そもそもネコなどに絵が描けるわけはないという意識が人々を縛っていたことは、「ネコに小判」などの差別表現からも明らかである。ネコたちの芸術作品を、人々は単なるいたずらと見なしてあっさり消し去っていった。これまでどれほどのネコアートが無理解な人間たちに破壊されていったかを想うとき、われわれは一人残らず、人間という獣の傲慢きわまる罪深さにおののかずにはいられまい。

 本書も完璧ではない。たとえばとりあげられているアーティストすべてが、裕福な欧米中流階級に所属している飼い猫だという点は、編著者の社会的偏向として批判の対象となっている。ニューヨークのストリート系ノラネコアーティストたちによる各種の作品については一顧だにされていない。また、アジアの大島弓子らによる各種のネコ芸術の記録、および同じく日本の伝承に伝わる、マイケルなるネコ・アーティストの活動についてもいっさい触れられていない。

 さらに本書の刊行により、全米のネコ愛好家たちから「自分のネコは絵を一向に描かないのだが、精薄ではないか」などという質問が殺到したというのも、残念な事態と言わざるを得ない。人がすべて画才に恵まれてはいないように、ネコの才能もさまざまである。その中で画才のみに着目し、それがなければ無能扱いというのは、自称ネコ愛好家たちに潜む差別意識が露骨にあらわれたものとして、一時は大問題となり、「長靴をはいたネコ」や「帽子をかぶったネコ」の発売停止運動にまで拡大したことは記憶に新しい。

 ネコの芸術文化の認知にともない、世界各地で盛り上がりつつある動物権利運動も大きな前進を見せており、アリゾナ州ではネコ公民権運動が拡大しつつあるという。ネコにも選挙権を! もちろん、当の獣たちは一向に選挙権など求めていなさそうだという揚げ足取りを意に介してはならない。ルワンダやカンボジア人たちだって選挙権など求めてはいなかった。それでも(軍事力を行使してまで)かれらに選挙をさせて、民主主義的な手続きに従わせるのが、20 世紀末における地球文明の感性であった。21 世紀にそれがケダモノにまで拡張されないわけがあるだろうか。世界のネコ諸君、団結せよ! 勝利の日は近い。そしてその勝利のためにも、一人でも多くの人間がこのすばらしい本を読み、ネコの能力についての認識を改めることは、もはや全地球的な使命であるとすらいえよう。わが国では、某社より翻訳の予定だと聞いていたがどうなっていたのか。この名著が、一日もはやくわが国の読書人、読書猫らのもとにも届けられんことを! 書評子はそう願ってやまない。ニャーオ。


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