鏡の中の物理学 連載第?回

科学と文明と好奇心

(『CUT』1999 年 2 月)

山形浩生



 またも途上国行脚で、今月はミャンマーにいるのだ。なんでそこに朝永振一郎の『鏡の中の物理学』なんかを持ってきたのかはよく覚えていない。うすい。読みやすい(ついでに安い。たった 466 円だ)。そのくらいの理由だったかもしれない。

 朝永振一郎といっても、もうノーベル賞の権威も下がってきたから、知らない人も多いみたい。まあ正直な話、ぼくだって朝永のくりこみ理論ってのがよくわかんないので、五十歩百歩ってところか。でもこの本は高校の頃からもう何度か読んでいて、パリティ対称の破れの話と、光の粒子と波動の二重性の話だというのはおぼえていた。でも今回、もう一つだいじな話を見落としていたのに気がついたんだ。人はなぜ科学するのか、という話。そしてそれは、まさに発展途上国、いや全世界の現状と未来にかかわる話なの。

 いろんな途上国へいくと、援助でプラントをあげてもうまく動いていなかったりする。もっと目に見えるところでは、走ってる車がどれも、黒い排気ガスあげてバリバリ音たてながら走ってたりするでしょう。ミャンマーは、あんまり古い車を入れないようにしていて、交通量も少ないのでましだけれど、そろそろ症状は出てきてる。メンテナンスという考え方がすっごく薄いのだ。新しいものは大好きなんだけれど、整備もせずにひたすら酷使して、こわれたら捨てるか「不良品だ!」と文句をつけてくることだってある。

 もちろん修理屋さんはいる。でも、いろいろ部品をとりかえて動けばオッケーという発想でしかやってないのね。プラグを磨くとスパークが美しく出てうれしいな、とか、点火タイミングを調整すると黒い排気が出なくて満足、とか、そういう感覚ってない。エンジンの仕組みから考えてこうしてみよう、という考え方をしないのね。さらにある人が指摘してくれたんだけれど、こういう症状にはこうして対応、という経験的なパターンはできる。だけれど、そこに「なぜ?」という発想がないし、そのパターンも各修理屋さんが秘伝ノウハウとして抱え込んでしまって、公開しない。だから全体としての技術水準もメンテ水準も低いまま。さらに車の持ち主自身が日常的なメンテをしてくれないので、修理屋に持ち込まれる頃にはもう末期症状になってたりする。

 なぜなんだろう。

 これを言うと、すぐに「技術移転が!」という話になるけど、そうじゃないと思う。ガキの頃から「なぜ時計は動くのかな」と思ってつい時計を分解しちゃったり、そこからいろんな仮説を自分でたてたり、あるいは勉強してみたりして、じゃあここに油さすと、ああやっぱり予想通り、ギヤがスムーズに動くぜ、やった! というレベルの、「なぜ?→仮説→検証→うれしい」という一連の「科学する心」みたいなのがないと、知識だけ教えてもダメなんじゃないか。

 ただ、そういう実用的なメリットというのは、あくまでもともとの好奇心や興味の副作用でしかない。メリットがあるから好奇心を持ちましょう、といってガキを仕込んでも、育つわけないでしょ?

 朝永がこの本で言っているのも、それに近いことだ。役に立つから科学する、とか、有害なものをつくるから科学ダメ、といったのではない、科学をする第三の理由があるんだということ。かれもそれがなんだか明言はできていない。鏡の中での物理学が、こっちの世界と同じだろうか、という話から、そういうなんの役にたちそうもない興味のありかたも(いやそれこそが)科学の根っこじゃないか、とかれは論じる。それがどうした、そんなもんどうでもいいよ、といわれればその通りなんだけれど、でもそうじゃないんだ。その興味や好奇心は何かいまの文明の本質的なところを背負ってる。それがいまの途上国の状況に少しあらわれてるんじゃないか、とぼくは思うんだ。

 そこで「真理の追求」とか「キリスト教一神教の文化的影響が」とか言い出すやつは呪われて死ねばいい。そんなんじゃないんだ。というかそんなのは、たぶん後付けの口実や副作用でしかないんだというのは、その好奇心を実際にかかえている人にとっては言うまでもないのに。それを、そんなどうでもいい抽象論に仕立てて我慢できるんだろう。

 でもそれをどう移植したものかがよくわからん。たぶんどんな人も育つ過程で、なんらかの好奇心は持つんだろう。でもそれを維持させるには(テレビを見せないことと)そういう好奇心で動いているほかの人に接触させるくらいしかないのかも。直接が無理でも、本か何かで。

 朝永のこの本は、そういう興味のあり方を物理学の内部で語ってくれるけれど、ほかにもファインマンの自伝なんか、かれがそういう好奇心の化け物だったことがびしびし伝わってくるし、昔のブルーバックスはほんとうによかったんだ。

 そして最近では、森山和道の『ネットサイエンス・インタビュー』がぼくはとても好きだ。いろんな分野で活躍中の科学者インタビューで、電子メールで送ってくれるんだけれど、抜群におもしろくて、しかも無料。いままで 7 人の科学者にインタビューしてて、それがみんな、役にたつとかいうのとは無関係に自分の興味を追求してる。粉粒体だの火山だの、まったく知らなかった領域の変な問題が急におもしろく思えてくるし、科学者たちも結果を話すだけじゃなくて、ほかにこんなことを考えているとか、こんなことをしたいとか、こんなことがわからんで困る、という話をぺらぺらしてくれて、その分野がいまおかれている状況までかなり見えてくる。さらにインタビュアーの森山和道が、ちゃんとわかった質問でうまく話を誘導する一方で、その分野の門外漢でもわかるように基礎的なところもおさえてくれる。中高校生くらいにこういうのをガンガン読ませると、みんなモノにならないかな。「ああ、こんなことをこんなふうに考えちゃうのもありなんだ」と思って進路選択にも幅が少しはできてこないかな。

 最近は世界的に「役に立たない」科学へのしわよせはきつくて、企業の研究開発も収益に直結しないとどんどん切り捨てられているし、公共でも大規模な科学プロジェクトは軒並み予算カットの憂き目にあってる。好奇心なら自腹で満たせという感じなんだけど、こんなことで科学は生き残るんだろうか、研究は生き残るんだろうか。そして好奇心は生き残るだろうか。ぼくは生き残ってほしいと思うし、それがなくなった時点で世界は長い停滞期に入ると思うのだ。それはもう、ここミャンマーをはじめとする途上国だけの問題じゃない。が、それをどう説明したものか。生き残せば、いろんなメンテや現場レベルでの改善に役にたちまっせ、という弁明はできるけれど、それは「役にたつから科学するわけじゃない」という立場を裏切るものだし。うーん、わからん。でも『鏡の中の物理学』や『ネットサイエンス』がもっと広く読まれてくれれば、かなり仕事はやりやすくなるな、とは思うわけだ。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>