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山椒魚戦争
連載第?回

バングラデシュの山椒魚たち。

(『CUT』1999 年 1 月)

山形浩生



 1998 年 12 月 10 日。ぼくはバングラデシュのダッカのホテルでこれを書いている。ちょうど昼過ぎのイスラームのお祈りの時間。近くのモスクから、クルアーンの朗唱が聞こえてくる。窓から見下ろすと、そこにはリキシャにオートリキシャ、そして車と人の大洪水。車はのべつまくなしにクラクションを鳴らして、整備の悪いエンジンがすさまじい音をたてている。

 ちょっと外に出てみよう。そこでは2ストエンジンの排気が視界をさえぎるほどの濃さで、ちょっと空き地があれば、そこには竹編みの壁と板でつくったバラックが建ち並び、排泄物のにおいがたちこめ、牛とヤギとニワトリと、皮膚病の犬と、栄養状態の悪そうな男たちに女たち、そしてそこらじゅう子供、子供、子供だらけ。その子供がさらに赤ん坊をかついでいたりする。線路づたいにうろついてみると、並んだバラックからそういうガキが出てきてたかってくるので、2、3 発けとばして追い払わなきゃなんない。

 チャペックが『山椒魚戦争』(ハヤカワ文庫)で見ていたのは、たぶんこういう光景だ。チャペックといえば、ロボットということばの発明者としていちばん有名かな。これはかれが 1930 年代に書いた小説だ。南国の島で智恵のある山椒魚たちが見つかる。かれらはことばと文明を教え込まれ、単純労働に使役されて、やがてそのものすごい繁殖力で人間を圧倒し、自立にめざめ、人間を滅亡のふちに追いやる、という小説。これはどう考えても、当時の植民地主義と、そこで半ば奴隷化されている現地住民を念頭において書かれた小説なんだ。そして同じことだけれど、その山椒魚たちをまとめ、成長させて動かす資本主義・共産主義(1930 年代の知識人にとって、これは同じものの別の段階だったはず)について書いた小説なんだ。

 訳者の栗栖継は露骨に白人中心主義な人で、かれの解説はヨーロッパのことしか目にない(ついでに、訳注も含めてどうでもいい自慢と蛇足ばかり。エスペラント自慢をしている暇があったら、296 ページの図版がヒンズー語だってくらい調べりゃいいのに)。「作者が山椒魚の中にナチスドイツを見ていたことは誰の目にも明らかだった」というんだけれど、そうかぁ? ぼくにはちっとも明らかだとは思えない。だってぜんぜん似てないもん。荒俣宏は、L と R が発音できないという性質から山椒魚日本人説を出しているけど、鋭くておもしろいな。

 それにチャペックという人は、いつもナチスなんていう一時的な現象よりはもっと大きなものを見ていた人だった。ロボットとか原子力とか不老不死とかね。人間が、人間のためだと思って創り出したものが、やがて人間の手に負えなくなって、人間を滅ぼしたり不幸に追いやったりする、というのがかれの作品の多くで基本構造になっている。一方のナチスドイツは、世界的に見れば植民地帝国主義の後発として日本やイタリアとともに無理をして、やがて先発の連中とアメリカにつぶされたという存在で、それは植民地帝国主義の一つの形にすぎない。

 さらにこの本で、山椒魚というのは決して悪者じゃないんだ。そりゃ人間側からしてみれば、そう見えるかもしれない。でも、かれらだって生きて繁殖しようとし、精一杯幸せになろうとしているだけなんだ。

 ちょうどこの、バングラデシュのスラムの人たちみたいに。

 汚い乞食のガキを蹴散らしながら、ぼくは思う。こいつらにもいつか、もうちょっとましな生活をさせてやりたい。でも一方で、それがいかにむずかしいかも知っている。この人たちがいまの欧米、いやASEAN並の生活水準を達成しただけで、世界はすさまじい資源不足におちいる。かれらが自分たちのための資源を求めるようになったとき、世界はどうなるだろう。これはほとんど考えたくもない状況だ。でも、ぼくたちはまちがいなくそっちに向かいつつあるのだ。いまそうなっていないのは、たまたまこの数十年、発展途上国がこの小説の山椒魚ほどは元気がなくて、いまいちもたついて停滞したままだからだ。

 でも、どうすればいいんだろう。裏表紙の解説では、この小説が「人類の本質的な愚かさを鋭く描」いたことになっているけれど、そうじゃないんだ。だって、ここには愚かな人はぜんぜんいないんだもの。人類が愚かだというなら教えてほしい。いったいこの小説の、どの段階で、だれが何をすれば、人間は滅亡せずにすんだんだろう。資本家は、安い労働力と新しい市場を求めただけだった。山椒魚たちは、自分の生活向上を求め、その過程で人間からものを買い、さらに親分気取りででたらめな要求を押しつける人間に対して自衛しただけだ。そして知性を持ち、意志表明を行える存在にそれなりの権利を認めるのは、愚かなことか? 実験用ラットにすら権利があるとわめくバカな連中がうろついているこのご時世に? そしてそれを認めたが最後、チャペックのストーリーから逃れる道は一切ない。この小説のこわいところは、これが荒唐無稽でありながら、資本の論理が最初から最後まで貫徹されているところにある。山椒魚が発見されて以降のことは、すべて必然でしかない。その徹底ゆえに、この小説は古典として来世紀も残る。

 その重いテーマとは裏腹に、こいつはとても可笑しい小説なんだ。人間はいつも「山椒魚ごときにまさかこんなことはできまい」とたかをくくっている。まさかしゃべれまい、まさか手はつかえまい、まさか権利主張はしまい、給与は要求するまい、まさか団結はしまい、まさか領土主張はするまい……でも山椒魚は、必ずそのハードルを突破してくる。そのたびに人間は右往左往して醜態をさらす。次々に登場する人たちは、自分の選択に必ずしっぺがえしをくらうことになる。こいつは痛快で爆笑もの。だがそのたびに、人類は滅亡への道を一歩進んでいる。絶望的な笑い。

 そしてチャペック自身もその絶望を知っている。この小説は、智恵のある山椒魚を見つけた船長を資本家にとりついだ門番が、すべての責任は自分にあるんだと苦悩しているところで終わる。わたしがあのときあの船長をとりつがなければよかったんだ。そして人間があの知性のある山椒魚をそのままそっとしておけば……

 知性ある山椒魚を、そのままそっとしておけば。そうなのかもしれない。途上国がらみの仕事をしていると、よく仲間うちで出る話だ。ここは農業と漁業だけしていれば、それなりに幸せに生きていけただろう。無理に都市化して工業化しようとするから、無理も出るしお互い面倒ばかり。しかもそれが本当に幸せなことなのかも、ぼくたちにはよくわからなくなってきている。でもその一方で、この山椒魚たちがぼくたちのような生活を目指すのを、やめろということはだれにもできない。しかしそれが実現したとき、世界がどうなるのか、その先に何がまっているかも、ぼくたちは知っている。何をしているんだろう。どうすればいいんだろう。ぼくたちはチャペックの時代から一歩も進んでいない。

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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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