カリスマ 連載第?回

おもしろいだけじゃだめなんだ。

(『CUT』1998年8月)

山形浩生



 こんなにおもしろいのに、なぜぼくは不満なんだろう。だって最近読んだ本の中ではまれにみるおもしろさなのだ、この『カリスマ:中内功とダイエーの「戦後」』(日経 BP 社)という本は。600 ページ以上に及ぶこの本を、ぼくはほとんど一息に読んでしまった。中内功がフィリピンの戦場で死地をくぐりぬけ、戦後の闇市からダイエーをたちあげてからの半世紀。いくたびかのピンチをくぐりぬけつつも急成長を続けながら、1990 年代の後半にどうしようもない危機に直面したまま出口が見えない――この本は、各種関係者へのたんねんなインタビューと取材を通じて、60 年以上にわたるその激動の歴史をつづる。手に汗握るし、人間ドラマもある。兄弟の確執、会社分裂の危機、資金繰りの行き詰まり、もちろんライバルはイトーヨーカドーで、スリルとサスペンスも盛りだくさん。読み物として不満を持つべきいわれはまったくない、はずなのに、このはぐらかされた感じはなんだろう。

 二度目に読み返してみて、その理由がわかったような気がする。この本はおもしろい。でも、それだけなんだ。そしてそのおもしろさというのは、実はおもしろさよりもっと大事なものを切り捨てることで成り立っているおもしろさなんだ。

 世の中には少なくとも二種類の本があって、それは暇つぶしと教科書だ。暇つぶしはもちろん、暇をつぶす以外には功利的な意味で役にたたない本。読んでも世間話のネタにするくらいしか役にたたない本だ。小説とか写真集とかマンガとか「エッセイ」とか。そして教科書というのは、もちろん人々が何か具体的な見返りを求めて読む本だ。そこから得た何かを、意識的にほかに応用できるという意味での見返りね。

 もちろんこの二つはきれいにわかれるものじゃないし、ぼくも厳密な分類がしたいわけじゃない。でもなんとなくそういうちがいは察していただけると思う。さてその場合、世にあるビジネス書というのはどっちに入るだろうか。趣旨からいえば、教科書に入るべきものだろう。もちろん、現実にはその大半以上が愚にもつかない有害無益な紙の無駄なのはさておこう。少なくとも人は、大前某のクズ本を読むときですら、そこから何かを学ぼうとしているにちがいない(と思う)。

 この本は、日経 BP 社が出しているし、もともとは日経ビジネスかなんかの連載だから、バリバリのビジネス書と言っていいだろう。人はみんな、なにかしらダイエーから学ぶべくこの本を手に取るだろう。さて、その人たちはいったい、なにか役にたつことを学べるだろうか。いや、ほとんど何も。

 そしてそれは、著者が手抜きをしたせいでそうなったわけじゃない。むしろ著者がものすごくがんばって、それぞれの時代と中内功の個人史と企業としてのダイエーを密接にからめ、あらゆる面で具体性と実証性を貫徹したせいでそうなってしまっているのだ。ぼくたちが何かから学ぶとき、それはいつも何らかの抽象化を必要とする。そうでないと、別の時代の別の環境にいきる別人たるぼくたちには、中内功が昭和 37 年の 8 月 19 日にどこそこの店のオープニングにきた、なんて情報は使いようがない。

 でも、著者はひたすら、その 8 月 19 日の話をしたがる。本書のねらいは、「ダイエーの歴史を戦後の中に位置づける」ことなんだって。それはばっちり。でも、位置づけてどうする。位置づけることに何の意味がある。戦後は二度とこないんだもの。住友銀行をダイエーに紹介したのがだれであろうと、そんなことは大事じゃない。ゴシップとしてはおもしろいだろう。でも、それが何の役にたつんだろう。

 そもそも、ダイエーほどの大企業のすべてが、たった一人の人間の行いに還元できるわけがないじゃないか。いやもちろん、ダイエーという企業が、異様なワンマン企業なのは承知している。中内功という個人の力が異様に大きく、現場レベルにまでそれが及んでいる――それはわかる。かれがつらい戦争体験を経て、人一倍人間不信で、人一倍がめつく、人一倍負けず嫌いで、人一倍独占欲が強く、だからこそいまのダイエーがある――そういう面は確かにあるんだろう。でも、がめついやつも、人間不信のやつも、いくらでもいる。戦争でひどい目にあった人も、それこそ腐るほどいるだろう。中内功がその中で特にぬきんでていたわけでもあるまい。だからそういうところに中内の、そしてダイエーの成長といまの危機の原因をみるのは、無理なんだ。でもこの本はそれをやろうとする。その過程で、いろんなものが切り捨てられている。ぼくはそれが読みたいのだ。本当にこの本が教科書として役にたつためには、その部分が是非とも必要なんだ。不動産担保の借り入れ依存体質の詳しい分析。出店戦略の綿密な調査。それが本書では、すべて中内功個人のコネと直感に還元されてしまう。

 それがないものねだりなのは百も承知。著者は企業分析がしたいわけじゃない、中内個人に興味があったんだ、戦後史を描きたかったんだ、そういう視点では書いていないんだから、ぶつくさ言うなと言われればそれまで。でもこれほどの題材と取材から、できたのがありきたりなメロドラマでは、あまりに惜しいじゃないか。「中内功は戦争でつらい目にあったのでがんばりました」と、帯に仰々しく書かれた「驕れる者は久しからず」――これだけの代物から、そんなできあいのお題目しか引き出せないなんて、もったいなすぎるとは思わないだろうか。

 もちろん、ぼくは知っている。世の中には、ヒロイズムとメロドラマにしか反応できない人たちも山ほどいることを。世の中のビジネス書だのビジネス雑誌だのをみれば、役に立つ分析なんてほとんどない。みんな、安手のヒロイズムとメロドラマを歴史上の人物だの経営者だのにあてはめて、そこから「顧客重視」だの「信頼関係の醸成」だの「情報武装」だの「国際化」だのと、どっかできいたようなお題目に落とす代物ばかり。世のビジネス書の読者の多くは、何かを学ぶつもりが、いつの間にかそのメロドラマにのせられて、戦国武将だのかつて成功した経営者だのに感情移入することで、自分が何かえらくなったような錯覚に陥って、何かわかったような気分にひたるだけ。そしてそういう人たちはこの本を読んで、「驕れる者は……」ときいたふうな遠い目をして悦に入ることだろう。なにかわかったような気になるだろう。それはそれで、楽しくおもしろい読書体験だろう。ぼくもそのおもしろさはじゅうぶん堪能させてもらった。ありがとう。

 でもぼくは、それだけじゃいやなんだ。もうそれだけじゃ足りないんだ。



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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@mailhost.net)