郵便局と蛇 連載第?回

それはあなたの日常を照らし、幾らか明澄にしてくれることだろう。

(『CUT』 1998年 8 月発売号)

山形浩生



 小説の話をするのは、楽しいけれどむずかしい。小説のよさやおもしろさを人に説明するのはむずかしい。それはクラブや飯屋や映画でも同じことで、『ムトゥ踊るマハラジャ』ってどうだった? ときかれて「よかった」とか「おもしろかった」「すごい」「むちゃくちゃ楽しい」とか以上のことが言える人ってのはほとんどいない。「ムトゥ」みたいな映画なら、「そこでそのオヤジがさ、スカーフこーんなふって踊りまくっちゃうの!」と実演入りで説明はできる。それでももちろん、ホントにそのおもしろさがつたわってるわけじゃない。そのとき相手が見ているのは、映画そのものじゃなくて、あなたの表情であり、ふるまいであり、ああ、こいつにこんなことをさせちゃうくらい楽しい映画だったんだな、ということだ。

 それができない小説も映画もある。本当に些末なことをじっと見つめて淡々と描くだけの小説や映画。どう説明していいのかわからない、単に気持ちがいいとか、不思議だとかしか言いようのないもの。「どうだった?」と言われて、いろいろことばを探して、なんと言っていいかわからず、結局「……うん、よかった」で終わってしまう小説とか。でもそのときだって、その「……」のところでぼくがどんな顔をして、どんな口調でそれを言うか、たぶんそのほうがずっと雄弁なんだと思う。

 『郵便局と蛇』について、なにをいうべきかためらって、ぼくはこんな話で時間を稼ごうとしている。

 さてイーノが「A Year」(パルコ出版)で書いているけれど、かつて「文学」や「美学」は、正しい一つの流れがあって、いろんな作品がそれとどういう距離関係を持っているか、という測定作業だった。ときにはその「正しさ」の決めなおし作業もあった。

 それが崩れてきて、いまや「文学研究」なるもののほとんどは、ただの下司なゴシップ探しか、無益なおたく的分類作業になり果てている。でも、そんなものでいいはずはないんだ。ある作品なり作家なりに人が惹かれ、それにこだわる根拠となる感覚は、フィクションなんかではなくて具体的にあるんだ。文章そのものから受けるその感覚、印象、手応えなんかに、どうしてもっと手がかりを与えられないんだろう。

 ちなみに蓮実重彦がいろんな映画評論なんかでやろうとしていたのはそういうことで、読んだ字面やらスクリーンやらから受ける感覚だけを大事にして、それを評論の中で再現して伝えようとしていた。そしてまさにそのために、それはいつもある種の矛盾に悩んでいる文だったと思う。ある作品の感覚を伝えるために、その感覚を評論で再現するくらいなら、結局それは作品そのものをそのまま書き写せばすむ話じゃないか。結局この評論は、ここで何をしているんだろう。かれの文がいつも抱えていたもどかしさというのは、そういう逡巡からもきていたんだ。

 それはさておき、だからこれから、いま学問のふりをしている「文学」だの「美学」だのはいずれ消えるだろう。この数世紀、それは何一つ価値ある成果を生み出してこなかったんだから。読み手にとっても書き手にとっても。それは社会学と言語学と心理学か生理学の一部門、いや一部門ですらない、ただの事例集になり下がるだろう。

 そしてそれよりかなりはやい時期に、小説や映画を語るという行為も変わるかもしれない。もう「書く」とか「言う」とかいう世界ではない、みんなが「いいね」とか「よかった」とか「ダメだよ」とかいいつつ、お互いにその中身より微妙ないい方や表情を愛であう、お茶会みたいな行為になるかもしれない。そしてそれを、たとえばバーチャル・リアリティで実現するような、そんなこともできるようになるかもしれない。

 いままさに、ぼくはそういうものがほしいと思っている。何度も何度も窓の外を見て、何度も何度もこの文を書き始めては消し、また書いては消ししているぼくの顔つきや仕草、この本を手にとっては見返して、遠くを見てはキーボードを叩き――そういう動作を見せた方が、この本の感触をうまく伝えられるんじゃないか。そんな気がする。

 この本とは、A・E・コッパード『郵便局と蛇』(国書刊行会)だ。

 コッパードは変な作家だ。かれの小説には、派手なアクションもないし、奇抜なアイデアも風刺もない。プロットは単純だし登場人物も平凡。事件らしい事件はほとんど起きない。

 たとえばこの本には、電信柱とヤナギの木の恋の物語がある。電柱は、コールタールを塗られて黒く無骨で、ずっと電線をかついでいる。その隣のヤナギは、枝をそよがせて鳥なんかもきて、しだいに装いを変えて、だんだん成長してくる。電信柱はヤナギのざわめきやおしゃべりを、うとましく思いつつもそれに聞き惚れるようになる。

 ヤナギはその間にも育つ。そしてある時、電線の邪魔になるからと切り倒されてしまう。そして電柱の根本で薪になり、燃やされて、灰になって消えてしまう。

 その後も電柱は、ずっと立ち続ける。

 話はそれだけだ。

 それだけなのだけれど、最後にコッパードは一行だけ付け加える。それは通常のドラマ作家や小説家なら思いつきもしないような、残酷で悲しくて、そして同時にあり得るなかでいちばん日常的で平凡な結末だ。それをここで書いたって、この小説の価値はまったく変わらないのだけれど、でもぼくは意地が悪いので教えてあげない。いや、書いてしまおうか。そんな大げさなものじゃない。ただ、ぼくたちが日常ごく普通にやる、忘れるというのが、実は残酷で悲しいことでもあるんだというのをふと思い出させてくれる。それだけなのだ。

 訳者はコッパードのよさを熟知していて、それを見事に翻訳に反映させている。かれはあとがきで書いている。「この本のなかには深く静かな耀きがある。それは書架からあなたの日常を照らし、幾らか明澄にしてくれることだろう」。ぼくも誇張や気取りなしにそう思う。ベストセラー型の、非日常を一時的につくりだしてカタルシスを与え、それが終われば捨てられてしまうような小説に対して、これは読み終わってもずっとあなたの傍らに残るだろう。いつかふと、なにげなく日常のなかであなたはこの小説を思い出すだろう。これはそういう小説なのだ。

 もちろん、多くの人はこれを何も起きない退屈な小説だと思うだろう。教訓のない、無意味な小説だと思うだろう(家にきた友だちにブラザース・クエイのビデオを見せたら「でもこの映画の教訓ってなんなの? 友情は尊いとか、愛は勝つとか」ときかれたっけ)。ほんとは書評も、文芸批評も、そういう人たちに、少しでもこのコッパードの小説の持つ力を説得するものであるべきなんだ。ぼくにはそれができる力量が(まだ)ない。だから、その方法も見当がつかないんだけれど、でももしあなたがちょっと日常に疲れたとき、非日常に逃避する一方で、たまにはこんな本を読んでみてほしいな、と思うのだ。ぼくがいま言えるのはそれだけだ。



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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@mailhost.net)