あいどる 連載第?回

現実の違和感とネットの自然――ギブスンの今。

(『CUT』1999 年 1 月)

山形浩生

 あの新しくも古ぼけた未来社会のイメージ、ハイテクが日常化して肉体化してしまった世界像の衝撃。それはこの『あいどる』(角川書店)への(あきらめまじりの)期待でもあった。凡百の SF の中で、ネットが単なる電話ごっこ以上の、一つの環境として説得力を持って描かれた作品はギブスンの処女長編『ニューロマンサー』が初めてだった。異様な管理社会、人工知能とコングロマリット企業群が人間など一切意に介さずに蠢く世界。もはや世界の主役が人間ではなくなってしまった世界。そういう新しい世界像よ再び、という期待。これは技術屋の期待でもあって、だから前作『バーチャルライト』の最初の書評をのせたのはコンピュータ雑誌 BYTE だった。インターネットがすでに先が見えてしまい、新しい可能性が見えてこない現在、だれしも次のビジョンを求めているのだ、という話はここでも昔書いたっけ。まあそんなに期待はしていなかった。前作でもそうだったけれど、いかにギブスンとはいえ、そうそう次々に新しいビジョンは出せまい。それはわかっていたし、この新作のタイトルを聞いた瞬間に(そしてその意味を理解した瞬間に)ただようあきらめ、というのはどうしてもある。

 が、この新作『IDORU』でギブスンはふたたび妙な形で期待を裏切ってくれたのだった。

 当初の期待は、かなえられなかった。期待通り。もちろんガジェットは相変わらずいくらも登場する。仮想空間内に構築される、ネット版九龍城砦 Hak Nam。ナノテクによる建築技術。日本趣味も相変わらず健在。登校拒否のおたく。官僚的ファンクラブ。タイトルが日本語の「アイドル」だというのは言うまでもない。が、そうしたテクノロジーやガジェットが、目新しいものとしては提出されない。薄汚れた日常の中の風景としてのみ存在しているのだ。

 本書で読むべきはそれだけである。ストーリーなどないも同然。ロックバンド Lo/Rez のメンバーRezが、実体のない電脳 idoru レイと結婚を発表。 Rez のボディガードは、rez がそんなバカなことを言い出すわけがない、これは何かの陰謀だと考え、ネットをブラウズして何となく意味のある情報を拾い出せすという特殊技能を持ったレイニーを雇い、東京に招く。一方、Lo/Rez ファンクラブも黙ってはいない。ことの真相を確認すべく、ファンクラブのシアトル支部からチアが東京に送り込まれる。そして偶然に空港で会った怪しげな助成から、非合法ナノテクユニットを託され、知らず知らずのうちに追われる身となると同時に、おたく少年をの助けを借りて彼女は Hak Nam に入り込む。Rez、あいどる、チア、レイニー、ナノテクユニット、それを追い求めるロシア人コンビナート(マフィア)、その全員が最後に東京湾岸のラブホテルに集結する。それだけ。集まってどうなるわけでもない。結婚の意思が確認され、ナノテクユニットで東京湾の人工島に何かを築くことが決まって終わり。

 ストーリーを追って理解しようとしても、わからない部分はあまりに多い。結局 Rez は、あいどるはなにを考えているのか。二人の「結婚」って何をどうすることで、要するに何なのか。ロシア人コンビナートはどうなっているのか。偶然要素も多すぎる。チアが東京にきたのも偶然、ナノテクを手にしたのも偶然、 Hak Nam に入れたのも偶然。クライマックスでは、主要登場人物が全員顔をあわせるけれど、なぜ? 全体を結びあわせる必然性はあまりに少ない。

 終わり方も物足りない。とりあえず何かが始まるお膳立てが整ったところで、この小説は終わってしまう。Rez とあいどるが東京湾につくるという島とそこでの「生活」とはいかなるものなのか?  Hak Nam の未来は? それにともなって人間世界はどうなるのか? 本当に読みたいのは、この先なのだ。

 だが、それは(まだ)問題にすべきではない。

 本書は、世界観の面でも、『ニューロマンサー』三部作からは交代している。あそこの世界は、すでに人間の世界ではなくなっていた。世界を支配しているのは巨大人工知能であり、人間は(いつの間にか)それに仕え、メンテナンスをするだけの副次的な存在になりさがっていた。ちょうど、人間にとっての大腸菌のように。『あいどる』は、そこまで先鋭的な世界観は持っていない。このでのネットは、いまのインターネット(の延長)にすぎない。だがそれも問題にすべきではない。

 ギブスンは、時空間の雰囲気を体で感じさせる異様な才能を持っている。『ニューロマンサー』の電脳空間なども、テクノロジー云々よりはその空間的な感覚のために存在していた。重く、苦しく、肉体にとらわれていずれ死すべき日々を送るしかない(そして一部のさらりまんたちは、それすら自覚できていない)過去の想い出に薄汚れたこのうつし身の世界と、それに対して自由で変幻自在で、データ構造体となって死すら超越できる、無限の美しい秩序たるべき電脳空間の対比。これを口で言うのは簡単だ。でもそれを肉体的な感覚として小説にできたのは、ウィリアム・ギブスンだけだった。

 今回描かれるのは、大震災を経てナノテクで急造された東京である。時差ボケの、奇妙な感覚。体の外側一枚から中に、麻痺した眠っているような、変な熱のこもった体が宿っていて、自分がその界面を漂っているような感じ。眠気と同時に、半日前には自分が地球の裏側を歩いていたことが実感として納得できず、まわりの光景や環境が変な非現実間をもって迫ってくる感じ。夜中に銀行の ATM が閉まっているとか、まわりの人間が全部黒い髪をしているとか、妙なディテールが意識にひっかかかる感じ。それがすべて動員されて、この場所の違和感をもり立てる。

 そしてそれと対比される、懐かしく落ちつけるネットワーク内の世界。かつての電脳空間は、選民だけの世界だった。それがここでは、社会一般に浸透した風景となっている。仮想領域を「現実」として生きる人々、その世界の行動律と風景、そこでの機械と情報と人間のありかたについて、ギブスンは奇をてらうことなく、日常の風景として描き切っている。インターネット中毒とか「おたく」とかいうゴシップマスコミ式おもしろ半分の見下した書き方ではなく、自然であたりまえの世界として。

 現実が違和感を持ち、バーチャル空間が自然となる世界。しかもそれが万人にとってそうであるような世界。ギブスンはこの『あいどる』でそのような世界を見事に描ききった。本書では、まだ何も始まっていない。すべてはこれから。そしてこれを読むわれわれにとっても、すべてはこれからだ。うまくいけば、この本はネットとあなたの関係を変える。それがいつか、この現実をも浸食せんことを。『あいどる』は(そしてギブスンは)そう語る。



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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@mailhost.net)