Valid XHTML 1.1! 子のつく名前の女の子は頭がいい 連載第?回

メディアは気遣いを殺し、世界をほろぼす。

(『CUT』 1997 年 2 月発売号)

山形浩生



 いやまったくもって、ぼくは戦慄したね。手法にも、仮説にも、そしてその含意にも。このどうしようもなください上に、内容をまるで誤解しているとしか思えない、しかもキャッチーなところがない上に長くて覚えにくいサイテーのタイトルと、赤いだけで芸が皆無の表紙のこの本(それも裏表紙が、いっそう輪をかけてひっでー代物で、編集者がタイトルのまずさをごまかそうとして、さらに事態を悪化させた感じ)に、ここまですさまじい代物が収まっていようとは。

 本書『"子"のつく名前の女の子は頭がいい』(洋泉社)を一言で言えば、メッセージとしてのメディアが日本人(そして全人類)に与えた影響を証明 (!!)した本である。

 メディアはメッセージである、と言ったのはマーシャル・マクルーハンで、これはつまり、テレビで何が伝えられるかは実はどうでもよくて、「テレビを見ている」という情報の受け方こそが大きな変化をもたらすのだ、ということだ。メディアを云々する人は、みんなこれを一応知ってはいる。が、具体的に本やラジオやテレビがどんな変化をもたらしたか(もたらすか)については、多くの人はわかってもいないし、考えてもいない。マクルーハン自身、この点は具体性に欠ける。「ホットなメディア」だの「クールなメディア」だの、非常に文学的であいまいかつ乱暴なメディア分類を持ち出すばかりだった。メディアの影響についてまともな考察は一向に進展せず、せいぜいが「インターネットのポルノ情報がどうした」とか「テレビが暴力的なので子供が暴力的」「スプラッタービデオが宮崎勤を産んだ」といった、くだらない中身論議しかされてこなかった。

 本書は、まずそのメディアの及ぼす変化をはっきりと具体的な形で理論化したという点で、世界的に類をみない画期的な本である。その結論を思いっきり単純化すると:メディアは、人の気遣い能力を破壊してしまう!

 メディアからの情報は、いつも明瞭に言語化されている。したがってそればかりに接していると、言語化されていないメッセージに対する感度がゼロとなる。すでに基本的なことは知っており、自分に必要なものをはっきり理解し、それをこちらに要求できる大人が相手なら、これは(あまり)問題とはならない。しかし、自分に何が必要かわかっていない子供が相手の場合、これは大問題となる。必要性が言語化されないために、相手に何が必要かを気遣って察しえない人間は、頃合を見計らって情報を提供できないからである。そういう親に育てられた子供は、成長に必要な情報を必要な時に与えられず、その結果コミュニケーションに絶望し、好きで関心のある情報にだけに反応するようになる。必要情報(「関心ある」「好きな」情報とはまったく別物)を得るための手段もわからないまま、まともな成長ができなくなる!

 見事である。確かにここ数年で兆候はすべて出ていた。言われるまで何もしない(できない)連中の増加。情報交換の手段でない、のべつまくなしの「おしゃべり」の増加。基本的なしつけのできていない傍若無人なガキの蔓延。60 年頃のテレビ普及を上の仮説にあてはめると、きれいに説明がつく。これをここまでの理論に組み上げただけでも、本書は賞賛に値する。

 が、おそるべきことに、本書はこんなもんでは終わらないのだ。金原克範は、なんとそれを定量的に実証してしまう。もちろん、上にあげたような話を直接証明することはできない。しかし、メディアの影響と、結果として予想される現象とのきわめて強い関係を定量化することで、議論の一つ一つが異様な説得力を持ってくる。データの処理方法には何の独創もない、単純なカイ 2 乗検定。すごいのは、そのデータの選び方だ。

 たとえば、「子」のつく名前の女の子の減少がメディアの影響であることを証明するため、かれが持ち出すのは(なんと)紅白歌合戦の出場歌手の名前である。は、全国の「子」出現率は、出場歌手の「子」出現率の動きと 5 年遅れで驚異的に一致しているのだ。メディアの影響で子供の命名が変わったとしか考えられない、というわけ。紅白の出場歌手! 言われて見れば、だれにでも思いつきそうなアイデアだ。
 金原はいたるところでこのコロンブスの卵をやってくれる。テレビ普及率。名前の最後に「子」がつく女の子の割合。投稿雑誌やファッション雑誌や『なかよし』の読者の名前。登校拒否の推移。虫歯や肥満と名前の相関。高校別名前の分布。こうしたデータが次々に繰り出され、メディアの影響はほとんど議論の余地なく証明される。(付記:この部分あたりは書きすぎ。議論の余地なく証明はされていない。文末のコメントを参照。(2001/11/22))世界的に見ても、こんなことをまともに成し遂げた人はいないよ。そして本書の結論は日本だけでなく、アメリカでも韓国でもフランスでもケニヤでも、世界中どこでも適用できる代物だ。アメリカでのさまざまな「社会」問題の多くは、まちがいなく金原仮説の射程内にある。

 とはいえ、本書から導かれる世界の将来像はきわめて暗い。気遣いを取り戻すため、われわれはまず子供たちを、自分自身を、テレビや雑誌や新聞や本から引き離さなくてはならないのだ。そしてその成果があがるのは 10 年先。ユナボマーのような絶望的な試みや、いくつかの専制国家(北朝鮮や中国やシンガポール)を除いては、そうした試みは皆無であり、しかもいずれも失敗している。

 インターネットやマルチメディアは、従来のマスメディアではない新しい情報メディアとしてもてはやされている。だがこれらも金原仮説からは逃れられないだろう。WWW や CD-ROM のリンクは、受信者の関心あるところにしか飛べない。好きな、関心ある情報だけ追っていけるし、それを止めるものは何もない。岩谷宏は、すべてを言語化してオープンにする(せざるを得ない)点でインターネットに大きな期待をしている。
 だが、もし金原仮説が事実であるなら、これからの日本/世界はそもそもオープンにすべき(あるいは隠すべき)情報をまともに持たない人々の寄せ集めとなる。その時インターネットのようなメディアは、欠如を媒介にした人々がキズをなめあって無限下降を繰り返す場としてしか機能しない。現にパソコン通信の一部は露骨にそうなりつつある。自分にとって何が必要か、いかなる情報を探すべきかわかっていない人に、メディアを安易に与えてはならない、というのが本書の提言だ。インターネットで、そうした人々を救うことはできない。その判断尺度、お望みなら「主体」は、メディアの外の現実の体験においてしか獲得できないのだから。

 それにしても、本書を含め、そろそろいくつか世界的に紹介する価値のある文化研究が日本に出現してきた。浅羽通明や岡田斗司男などのおたく研究、金塚貞文のオナニー研究、四方田犬彦のマンガ研究、つまらないブルセラ評論家に成り下がる前の宮台真司の「自由」研究。だれもやらないならぼくがいずれ紹介するけれど、こうした成果がすべてメディアに関わるものであるという点が、これまた日本における金原仮説の傍証であると思えなくもない。

コメント:その後、この本が金原仮説を統計的に証明したものにはなっていないことについて方々で指摘が挙がっている。浜田氏掲示板でのやりとりなどを参照。この中で、この書評でのぼくの書き方も軽率であったことが指摘されている。はい、ご指摘の通り。「仮説を論証した/実証した」という書き方は不用意。「データをもとに非常におもしろい仮説を引き出した」と書くべきでありました。ここを参照してたもれ。ただそこにも書いた通り、メディア論としてはやはり非常におもしろいし、多少なりともデータをつけようとするのは立派。



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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@mailhost.net)