Valid XHTML 1.1! SMLXLEnd of Print 連載第?回

End of Print と本の未来。

(『CUT』 1998年4月発売号)

山形浩生



 レム・コールハースは、建築(デザイン)業界ではなかなか有名な現代建築家で、現代建築家の多くと同様、実作よりはアイデアやスケッチや現代思想っぽい文章で知られる。かれが『ZONE』のデザイナーのブルース・マウとこしらえた S,M,L,XL (The Monacelli Press)は、作品集のような雑文集のような、1,300 ページ強にわたるサイコロのような本だ。

 まともに「読む」本ではない。まず厚さがそもそも「読む」気を起こさせない。それに文はあまり目新しくも示唆的でもない。プロジェクトが思い通りに実現しないとかいう建築屋の愚痴は聴き飽きたし、世界各地の通りすがり印象記も浅く軽すぎて、本の仰々しさとマッチしない。ドローイングや図面がいっぱい入ってはいるけれど、手あたりしだいにぶちこまれた、それ以外の小コラムや絵やマンガや写真やコラージュの大群がそれを半ば埋没させている。「今日における建築の状況を照射する本」というのが惹き句で、コールハースとしては、こういう何でもありの混乱が現在の建築の置かれた状況だと言いたいらしいけれど、印象として「建築」なんかどうでもよくて、この物理的に巨大な「本」のほうに意識が向く、そんな代物。これは九割方デザイナーのブルース・マウの本であり、読むより「見る」本なのだ。

 でも「見る」本とは言っても、写真集とはまたちがう。クリストファー・ドイル&緒川たまき『1997』(ロッキング・オン、だったのか!)は、緒川たまきの顔のでかさと言うか迫力が感動的だし、ドイルの流れまくった写真も魅力的なんだけれど、写真にはいつもある種の透明性がある。写真とともに、そこに写ったモノに関心が惹かれるような感覚。S,M,L,XL のページの感触はもっとノイジーで、それを担っているのは文字のつくる、意味の奥行きのようなものだ。文字が並んでいると、それだけでページに感覚的な奥行きというか深みが出る。実際にそれを読むかどうかはさておき、そこに何らかの意味があるはずだという期待。その一方で、文字は視覚的には紙の一番表面に存在している。写真が持つ視覚的な奥行きがない。S,M,L,XL は、フォントを変え、ページや文字ブロックを断続的に配置し、文字の深みや期待だけを利用しつつ実際の文の意味を遠ざける。図や写真、文字、そのそれぞれの視覚的な感覚と意識的な感触のずれが、この本の独特の味わいをつくりだしている。

 End of Print。これと似た(だがずっと徹底した)やり口をするデヴィッド・カーソンのデザインはそう言われる。カーソンは、前にここで紹介した革命的ロック雑誌Ray Gunの(元)デザイナー。ぐちゃぐちゃに折り重なって歪んだテキストが、写真や図と完全に融合し、ほとんど読めなくなったかれのデザインを、もう四ー五年も前、Ray Gun 創刊号で見た時の衝撃は忘れられない。 End of Print。ここで言う print は、印刷というより「印字」に近い意味だ。文字が読まれるべく印刷される時代がすでに終わったのではないか。「読む」という行為が、そしてそれに伴い本や雑誌というものも同じではいられないのではないか。コンピュータだのインターネットだので本や雑誌がなくなると思っているのは本を読まないバカな連中だけだが、カーソンのデザインはまったく別の方向から、われわれの感覚がすでに変わりだしていることを(それともまだ知らなかった感性がわれわれの中にあることを)証明している。

 たまたまこの夏、S,M,L,XLと同時に買ったのが、かれの作品集と言うのだろうか、End of Print (Chronicle Books) だった。こうして数年たって見ても、かれのデザインはまったく力を失っていない。この秋に出た『スタジオボイス』別冊で、ファッション雑誌の編集者の多くが「カーソン流のデザインはもう終わりだ」と流行すたりでしか物を見ない硬直ぶりを露呈していた(というのは言い過ぎかな。確かに安易な真似が出回りすぎているのは確かだから)けれど、これは「終わる」とかいうもんじゃない。すでに発見されてしまった何かだ。でも一方で、これは end of print でもない。かれのデザインは文字とその意味の力に大きく依存しているのだから。文字が出鱈目に等しい状態で紙面に踊っていても、人はそれを一瞬遅れで知覚して頭のなかでつなぎあわせ、意味を読みとってしまう。その一瞬の遅れと、断片的にやってくる意味の断片具合が、このデザインの大きな要素となっている。

 こういうデザインが出現する背景には、もちろん本づくりのプロセスの変化がある。カーソンもブルース・マウも、当然ながら DTP を多用している。DTP で、何もかもがデザイナーの仕事になってしまいつつあると NY のブックデザイナーが言っていた。「昔は校正や文章変更は編集者の役割で、それを実際に紙面に反映させるのは印刷所の役目だった。でも、今はデザイナーが版下までつくるから、文章の変更要求もあたしのところにくるし、それをレイアウト上で変更するのもあたし。色校も文字校も、何もかもあたしで頭ブチ切れそうよ!」しかし、従来の本づくりの分業体制が崩れるなかで、デザイナーがなんでもできる自由度が生まれている。

 これがこの先も続くのか、それとも DTP 環境でも新しい分業体制が出来ていくのか。後者だろう。DTP でカーソンやマウのような自由を追求する人はまれで、通常はむしろDTPの影響とは、ソフトの能力内でしかデザインできない不自由さを、何の疑問も抱かずに受け容れることのようだから。行からはみだす自由、行がずれる自由、行が重なる自由など、コンピュータはさまざまな自由を追求できるツールなんだけれど、実際にはかえって気楽に枠内にとどまらせる道具となってしまっている。

 それは DTP だけでなく、CG でも音楽でもそうだ。あるいは本でもいい。コンピュータ屋は、本の未来はハイパーテキストだとか言う。それは、文章を単一の文脈から解放して、好きなところで好きなところに寄り道できることで、本に自由度を与えるはずのものだった。が、実際にできているものは、どれ一つとして「好きな」ところでなんか分岐できやしない。むしろすべて他人のつくった文脈をたどるツールにしかなっていない。

 藤幡正樹監修『未来の本の未来』(ジャストシステム)では、いろいろなアーティストが未来の本をテーマに作品をこしらえているのだけれど、みんな実体としての本か、情報伝達の媒体としての本のどちらかにとらわれすぎていて、その間にあるものにちっとも関心が向かない。そんなのは「本の未来」ではない。本の本質は、情報云々よりも実はもっとインターフェースである紙面なり字面なりに依存しているのではないか。それをうまく捕まえたとき、初めて本の未来が見えてくるのではないか。S,M,L,XLEnd of Print を見る/読むと、そう思う。



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