Valid XHTML 1.1! たんぽぽのお酒 連載第?回

さよならレイ・ブラッドベリ――悲しいけれど、ぼくはあなたを卒業していたようです。

(『CUT』 1998年4月発売号)

山形浩生



 そろそろ夏も終わりかけた週末に、ふと気がつくとぼくはこんな本を手にしていた。なぜだかは覚えていない。しばらく前に本屋で見かけて、買いなおしたまま会社の机の上に転がしておいたのが、今頃出てきたのだ。

 中学生の頃、家の本棚にあったこの『たんぽぽのお酒』(晶文社)を読んで、ぼくはそりゃあ幸せだった。レイ・ブラッドベリ。この人の小説は、ある年代以上の SF 読者にとって、甘酸っぱくなつかしいノスタルジーに満ちている。多くの人にとって、ブラッドベリは初めてレトリックの力を教えてくれた作家だ。つまらない、ちょっとした、でも個人的にとても大事なできごとや物やオブセッションを、普遍的な世界に拡張してしまう、あるいはもっと一般的な恐怖に接合してしまう文の力。そして数多いかれの作品のなかでも、この『たんぽぽのお酒』は突出した位置を占めている。

「静かな朝だ。町はまだ闇におおわれて、やすらかにベッドに眠っている。夏の気配が天気にみなぎり、風の感触もふさわしく、世界は、深く、ゆっくりと、暖かな呼吸をしていた。起きあがって、窓からからだをのりだしてごらんよ。いま、ほんとうに自由で、生きている時間がはじまるのだから。夏の最初の朝だ。」

 この書き出し。何も変わっていない。覚えている通りのあのブラッドベリ。男の子たちの夏休み。真新しいテニス・シューズと、最後の路面電車と、あのたんぽぽのお酒の季節。クズ売りが病気を癒す空気入りのびんを持ってくる世界。すべてが一瞬でよみがえってくる。

 それだけに、20 ページ読み進んだあたりでこみあげてきた嫌悪感には、われながら驚いてしまったのだった。これがあのブラッドベリの世界か?!?!

 17 年ぶりにやってきたこの本の世界は一変していた。明るく自由だったはずのあの世界が、何とも重苦しく抑圧的な世界になっていた。かつては広々としていた通りは狭く、まばゆかった家々はペンキがはげ、かつてあんなに魅力的に輝いていた小さな町が、いまはただの貧相な田舎町になり果てている。

 でも、まぎれもなくこれは、あのブラッドベリの世界以外の何物でもないのだった。テニス・シューズもたんぽぽのお酒も空気のびんも、みんなそこにある。よく見れば、みんな記憶通り。でも、何もかもがちがう。

 かつてこの本は、登場人物の男の子たち(そして読者のぼくたち)に、未知の世界のさまざまな断片をやさしく教えてくれる、感じさせてくれる、そんな本だった。まだまだきみたちがこれから何年もかけて学ぶことがあるんだ、と老人たちや大人たちが告げてくれて、子供はそれを理解しないまでもなんとなく感じ取る、そんな小説だったはずだ。

 それがいま、あんなに親しかったはずのこの本のページの一枚一枚が、ぼくに向かって言う。「いまが一番いいのよ。ここが一番いいのよ。高望みをやめて、ふつうの人並みの生活で満足さえすれば、あなたもこの田舎町で平凡で小さな幸せを手に入れられる。外に出るのなんかやめなさい。ここでもどこでも、人は泣き、笑い、生き、死ぬ。それだけが大事なのよ。自分の小さな日常と家庭と生活だけを守っていればいいの」。未知の世界どころか、レトリックすべてが駆使されて、人を今日の平凡な日常に閉じこめようとし、他の可能性をあきらめさせるべくツタのようにうっとうしくからみついてくる。

 登場人物の一人は、愛すべきマッド・サイエンティストだ。この人は願うものすべてを見せてくれるすばらしいヴァーチャル・リアリティ装置<幸福マシン>をつくる。でもそれを体験したかれの妻は泣く。「この機械は、パリにいるわたしを見せてくれた。わたしは決してパリなんかに行くことはないのに。この機械はわたしにダンスをさせてくれた。でもそれは大事なことじゃない。大事なことであってはならない! それなのにあなたの機械は、それが大事だって言うのよ!」

 昔は、そういうもんかと思った。でも……正しいのは機械じゃないか。踊りにいくのは大事なのだ。そうしたければがまんしないで行けばいい。行っても世界は揺るがないし、生活だってほとんど変わるまい。なぜあきらめるんだろう。

 パリに、北京に行くのも大事。そしてそれは、今のぼくたちにとって、今すぐにでもできることなのだ。ブラッドベリの描いた 1928 年の世界の人々にとって、パリは見果てぬ夢だったかもしれない。それをあきらめるのも見識だったかもしれない。だがぼくたちは、行こうと思えば、いとも簡単にパリにもローマにもバマコにも行けてしまうのだ。それを「大事じゃない」というのは、実はそうするだけの才覚がないか、ねたましいか、踊ったり旅行したりするのが怖いのを認める勇気がない人たちの逃げ口上なのを、ぼくたちはよく知っている。この奥さんだってそうだ。パリを見て、そこに行けないと悟って泣くほど憧れているくせに。なぜそれを大事じゃないと言ってごまかすんだろう。

 おおおばあちゃんの死に際のことば。「わたしがずっとやってきた仕事を引き継ぎなさい」。ずっと変わらぬおおおばあちゃんのカオスの料理。ずっと老人だった老人たち。本書のエピソードすべてが、平凡な日常の変化に顔をしかめ、現状を肯定し続ける。そして今のぼくには、その半分以上がごまかしに見える。ブラッドベリって、こんなあざとい世界だっただろうか。

 若き日の川又千秋は、評論集『夢意識の時間』(中央公論社)でブラッドベリについて述べている。「大人へのおびえ、大人の世界への恐れ。ブラッドベリの作品を貫くものは、ただこれ一つなのだ、と言える」。だが、これを書いた頃の川又は、まだ本当に若かったにちがいない。『たんぽぽのお酒』を読み返すと(そして他の作品の記憶を探ってみると)、ブラッドベリが恐れているのは変化一般なのだということがわかる。大人へのおびえは、その一部にすぎない。

 だがむろん、ぼくは、あなたは変わる(変わった)。昔、幸せにこの本を読んでいた中学生時代、ぼくのまわりに死んだ人なんていなかった。当時は、自分がこんな世界のあちこちを飛び回るとは思っていなかった。老いも、死も、恋愛も、仕事も、別れも、遠い遠いかすかな可能性でしかなかった。今はそのすべてが現実であり、切実な問題として自分を取り巻いている。この本が教えてくれるはずのことを、ぼくはすでに何らかの形ですべて知ってしまったのだ。この本の世界を卒業してしまったのだと思う。

「彼は目を閉じた。
 六月の夜明け、七月の正午、八月の宵は過ぎ、終わり、おしまいになって、永久に去ってしまい、ただそのすべての感覚だけを、ここの、頭の中に残してくれた。(中略)そして眠っていると、1928 年の夏が終わった」

 本書はこうして幕を閉じる。ブラッドベリもたぶん、このように頭の中に感覚だけを残したまま、永久に去らせてしまうべきものだったのだろう。今でもぼくはブラッドベリが大好きだし、『たんぽぽのお酒』のことも決して忘れない。でも、もう二度とこれを読むことはあるまい。



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