Valid XHTML 1.1! アイアンマウンテン報告 連載第?回

『鉄山報告:平和の実現可能性とその望ましさに関する調査』

――あるいは、だれも考えたことのない「平和」について。

(『CUT』 1998年4月発売号)

山形浩生



 クラウゼヴィッツは、「戦争とは政治の一種であり、その現れ方がちがうだけだ」と言っている。また一層透徹した軍事理論家である毛沢東は、これをさらにすすめて「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」と述べている。

 だが本書『鉄山報告:平和の実現可能性とその望ましさに関する調査』(Lewin, Leonard C., Report from Iron Mountain: On the Possibility & Desirability of Peace, 1996, The Free Press, NY)は、毛沢東すら及びのつかない地平に到達した、戦争/平和論の極北である。

 本報告はいかなる代物か。これは 60 年代にアメリカ政府が極秘裏に行った調査であり、その衝撃的な結論のため、闇に葬られかけていたのを、委員の一人が公表に踏み切ったものである。ジョンソン大統領は一読して仰天、永久封印を命じたものの、すでに時遅し。また刊行後 30 年を経た今日、本報告はアメリカ極右団体のバイブル的存在となっている。

 なぜ本報告は衝撃的なのか。それはその方法論の広がりのためであり、背景となる哲学のためである。毛沢東らの議論が、しょせんは軍事政治家としての立場から、政治目的達成手段としての戦争論にとどまるのに対し、本報告は戦争の持つ社会的、経済的、政治的、文化的な意義を包括的に考察し、社会装置としての戦争を分析したうえで、その不在としての平和の可能性を検討している。戦争を「必要悪」として捕らえるような、従来の弛緩した視野の狭い議論を一蹴し、善悪の常識的価値判断を完全にぬぐい去ったところで本報告の検討は行われているのだ。それが本書の恐ろしさであり、危険性である。

 本報告の結論は、以下の通り。

「永続的な平和は、理論的には可能だが、現実的には実現不可能であり、またかりに実現したとしても、それが安定社会の最大利益と一致しないのは確実である」(序文)

 「従来の平和論は、戦争は社会に従属するという誤った仮定のために非現実的なものとなっている。(中略)しかし実際は戦争こそが根元的な社会システムであり、他の社会機構はそれに従属するものでしかない。(中略)社会的対立や衝突が戦争を生むのではない。正しくは、戦争を行う社会がそうした衝突を必要とし、それを創り出すのである」(第4章)

 曰く:戦争は、軍需産業を成立させ、経済を安定化させる。戦争は、軍事費の形で無駄な消費を喚起し、生産力の余剰を吸収する。戦争は技術革新を促進し、技術の発展に寄与する。戦争は国家の内外に対する強制力を顕示して規範力の根拠となり、国家の存在基盤をつくる。戦争は明確な敵の設定により、社会に目標と秩序をもたらす。戦争は過剰な人口を刈り取って、地球生態系の安定に寄与する。軍隊は社会的落伍者の居場所を提供して社会の安定に寄与する。戦争は充足して退屈した社会の欲求不満のはけ口を提供する。そして共通の「敵」を通じて社会に共通の価値観をもたらすことで、それに基づく文化の発展をうながす。

 「これほど多くの有益な機能を果たす戦争を廃止するには、何らかの代替システムが要求される。が、現時点では、戦争の全機能を代替し得るシステムは存在しない。性急な平和体制への移行は危険である。現実的な代替システムの見通しがたつまで、責任をもって移行を勧めることはできない」(第7章要約)

 荒唐無稽、ふざけていると立腹する人は多かろう。やむを得まい。日本人に限らず世界の多くの人は、平和について真摯な思考を展開する想像力や論理性を持ち合わせていないのだから。戦後の「平和」教育を受けた多くの人々にとって、平和とは宗教であり、無条件でよいものであり、そこにたどりつけば思考停止が許される、一種のゴールである。それ故みんな、「平和って何?」といった基本的な質問にすら答えられない。そもそもそのような思考をしようという発想がないのである。

 断言するが、その程度の思考水準で本書に反論することは不可能である。今回出た再版には、初版刊行後の書評や騒動が「顛末記」として収録されているが、本書の内容に対する反論は一切ない。あのガルブレイスですらこう述べている。「本書の結論の正しさは保証しよう。唯一の心配は、これを無垢な一般大衆に読ませるのが賢明か、という点である」。一方、本書を支持する事例なら、いくらもある。

 一例だけ。ブッシュ大統領が麻薬撲滅キャンペーンで使った標語が「War against Drugs」だった(ちなみにこれを皮肉った KMFDM の Drug against War は名曲である)。同じノリで銃器所持や家庭内暴力に対し War against violence などという代物まで出た。サローが日米貿易摩擦について書いた本が、 Coming War with Japan(邦訳あり)(注:ちがいました。Head to Headです)。あらゆる社会問題を戦争になぞらえないと語れない――社会の戦争化は、この一事からも見てとれる。

 我が国は 50 年ほど前に、「軍備放棄の平和国家」を旗印に掲げた。だがその際に、平和に関する考察と検討が行われたか。それが本当に実現可能なのか、真摯に問うたか。答えはもちろん NO。その後日本は、朝鮮戦争に寄生して経済復興をとげ、ベトナム戦争にたかってさらに繁栄、自衛隊や機動隊という形で軍事力を整備した。前回紹介した『システムとしての日本企業』( NTT 出版)でも、現在の日本を支える企業系列システムが戦中の軍部の指導で成立したという調査が紹介されている。要するに日本は、戦時経済システムを温存しつつ、アメリカ戦時経済に寄生して現在に至った国なのである。

 本報告が再刊されるにあたり、一応の「著者」が名乗りを挙げ、本書はでっちあげだった、と告白している。本書は「シンクタンク文書のパロディであり、個々には正しい論の積み重ねが、いかに珍妙で非現実的な結論にたどりつくかを示すものだった」と。

 これを聞いて安心できる人は、思考能力を欠いている。個別の正論を積み重ねて到達した結論が、従来の常識と整合しない場合、それは理論展開に穴があったか、あるいは常識が間違っているかのどちらかだ。「著者」は、途中の理論展開が間違っていたとは述べていない。だとすれば、間違っているのはやはりわれわれの「平和」に関する常識かもしれない。それを認めたくない真の平和主義者なら、本書の議論の間違いを真剣に見つけなくてはならないのだ。

 メリルは名著『 SF に何ができるか』(晶文社)で本書に触れ、「ここにはあらゆる人間の神経を逆撫でするなにものかがある」と述べた。さよう。その「なにものか」を白日のもとにさらして息の根を止めない限り、戦争は終わることはなく、人が真に平和を生きること――その実現可能性はさておき――もできない。本誌が店頭に並ぶ直前には、終戦記念日だの「平和」式典だの、死人をダシにした愚劣な儀式がいくらも行われる。だが、それ以前にやることがあるだろう。本書はそう語る。第二次世界大戦から半世紀以上の時間がたってなお、人は「平和」に関する基礎の基礎の議論すら始めていないのだ。



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