Valid XHTML 1.1! システムとしての日本企業 連載第?回

日本型システムからの自由と解放。

(『CUT』 1998年4月発売号)

  山形浩生



 専門的な本ではある。CUT の平均的読者が日常的に立ち寄るたぐいの本じゃなかろう。でも、経済学や経営学の知識がゴリゴリになければ読めない本じゃない。多少の忍耐さえあればだれでも読めて、理解できる。そしてそれは、必ずや報われる忍耐であるはずだ。極端な話、この 2 冊を読むのは、一種の自由と解放の体験なのだから。

 『システムとしての日本企業』(NTT 出版)、『日本経済の制度分析』(筑摩書房)。いずれも日本企業/経済に関する研究書だ。日本的な経済システムや企業システムは、欧米、特にアメリカ型のものとはきわめて異質だと言われる。日本式経営とはつまり、個別契約より系列や取引関係を重視した企業経営システムと、それを支える各種の経済的な制度(終身雇用や職場ローテーションや官僚制など)と考えてもらえばよい。

 たとえば終身雇用というのは、言い換えれば役にたたない無能な人間でも首をきらない、という無駄の多いシステムである。無駄が多ければ、競争力が低下して企業としては低迷するはずだ。しかし、そうした無駄なシステムを持つ日本企業が、いたるところで世界のトップにおどりでている。これはどういうことなのか。だからアメリカの経営学のコースでは、日本型経営を扱った講義というのが必ずあって、日本型経営は日本以外に適用できるものか、という議論が展開される。こんな具合だ。

 「日本式経営は、数百年前のエド・ジダイから醸成されてきた企業理念と経営哲学に根ざしておるのであり、したがってそうした歴史文化的な背景を度外視して、おいそれとアメリカや諸外国に移植するわけにはいかんのであーる! 」「あのさあ、おめー、江戸時代の封建社会に現代的な意味での企業や経営があったと思ってんの? そんなのみんな、今世紀に入ってからの産物! 江戸時代からの伝統云々ってのは、年寄りが箔つけようとしてるだけで、何も実体のない話。移植しようと思えば絶対移植できる!」「いや、日本型システムは経済的合理性に必ずしも基づかないものであり、したがって移植は不可能!」「バカヤロー、そんな日本型システムが不合理なら、なんで日本があんな経済大国になれたと思ってやがんでぇ!」

 中で実際に生きているぼくにとって、日本的な企業システムや経済システムは必ずしも居心地のいい代物ではない。パフォーマンスの低い人間がいつまでもうろついているのはうっとうしいことおびただしいし、専門性の点からも、あんまり自分の縄張りと関係ない仕事をまわされたりして、欧米の同業者と話をしていて情けない思いをすることが多い。こいつらはホントに自分の領域に専念できていいなあ。それに引き替え……

 そしてこの日本型システムの説明としてしばしば持ち出されるのが、国民性とか風土とか、ひどい時にはその背景としての天皇制だったりするのである。終身雇用は、日本のイエ社会の反映であり、それは天皇制にささえられてきたものであり云々。いやだなあ。もしこれが国民性や風土なら、それになじめないオレがただの非国民だってことになるじゃないか。日本にいる限り、このシステムの不合理さに耐えなくてはならないことになるじゃないか。それにオレ、天皇ってのも好きじゃないのよ。

 が、この2冊は、そうではないという。終身雇用制は、短期的には合理的でないかもしれない。業績が悪くなったら、さっさと人の首を切って人件費を下げたほうがいいもの。でも働くインセンティブや学習、改善へのインセンティブを考えると、いつクビを切られるかわからないよりは終身雇用のほうが、やる気が起きやすいこともある。たとえば同じ作業をもっと少ない人間でやる方法を思いついたとき、終身雇用でなければ、下手すると人員削減で自分のクビがとぶから黙っとこうという計算が働く。終身雇用なら、そういうコストダウン策を積極的に導入しようと考えるだろう。それに同じ人間が長くいるほうが、企業側も持ち逃げされる心配がないから、研修教育への投資をしやすい。長い目で見れば、すぐにクビを切るよりもそちらのほうが合理的な場合が十分に存在している。専門特化しないのも、不測の事態への柔軟な対応という面でメリットを持つ。日本型のシステムも、合理性に基づく選択なのだ。そしてそれを、この2冊は仮定としてではなく、哲学っぽいお題目にも、文学的レトリックにも頼らず、実証的に、一歩一歩示してくれる。

 それを一緒にたどってゆくのは、なんて爽快なこと! いろんな選択があって、日本型のシステムもたかだかその中の一つにすぎないこと、そしてそれは日本的風土とかいう得体のしれない代物に帰着するのではなく、ある種の合理的な選択として選びとられてきたもの(あるいは生き残ってきたもの)であること、そして日本的風土といわれる世間の湿り気や重苦しさは、システムの原因というよりはむしろ結果であること。それを納得させられて本から目を上げたとき、さっきまで手足につけられていた重石がフッと軽くなったような、そんな気持ちにさえなる。自分のいるところは、さっきまで思っていたような、他にどうしようもないところではないのかもしれない、という可能性が感じられてくる。

 山田詠美『アニマル・ロジック』は、涙が出るほど感動的な終わり方をしている。こんな具合だ。
「だってあの偉人の早すぎた墓碑銘を、もう一度、世界のはしっこに刻んでみたくはないか? 進化した動物のみが持ち得る真の墓碑銘のことだ。Free at last、フリー・アット・ラースト、ついに自由」

 うん、刻んでみたいよね。問題は、どうやって、ということ。まだまだ、ついに自由、と言えるほど自由じゃない。「ついに」って、日々生きている身にとって、自由なんて決して「ついに」といえるような最終態に到達する性質のもんじゃないのだ。当の山田詠美だって、同じ小説の中で言っている。「完璧な自由なんてやって来ないんですよ」と。われわれに言えるのは、今日は昨日より自由かもしれない、ということだけ。明日はもっと自由になれるかもしれない、ということだけ。
 それは好き放題なんでもできるってことじゃない。今ある自分が、そして自分の置かれた状況が、他にどうしようもなく宿命的に現在に至ったわけじゃなくて、何らかの選択の結果として到達されたものなのだという認識。そしてこの先も、別の選択の可能性は常にあるのだ、という認識。一般に自由ってどう理解されているのかは知らないけれど、ぼくにとっての自由というのは、まずそんな認識から始まる一種のプロセスのようなものだ。この2冊は、少なくともある分野について、ぼくにその最初の認識を固めさせてくれた。

 そこで生まれた可能性をどう活かすか――それが自由への次のステップだ。が、焦ることはない。何をすればいいか、この2冊は、その糸口すら示唆している。風土や歴史なんて手のつけようがないけど、合理性なら何とかできそうじゃないか。偉大で真に実用的な本である。



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