Valid XHTML 1.1! 0-24 連載第?回

『0-24』には世界のすべてが平等に「今」としてある感覚が満ちている。



(『CUT』1996年4月)

山形浩生



 支那は雲南省の昆明では、もうみんな朝の人民広場で太極拳なんかやんないのである。サントリーの CM じゃあるまいし、やっぱ今(少なくともちょうど一年ほど前)、一番ナウっちいのはディスコダンスですよ、主席。というわけで、太極拳は隅に追いやられ、今や人民広場の中心部は、毎朝一大ディスコ練習場と化すのだ。

 観光客は増えてるし、衛星放送のスター TV も入るから、そういう文物への接触はあるんだろう。やっぱ開放政策だしぃ。が、だからってこう、朝からみんな一斉に練習しちゃうかね。老若男女無慮数百人が、朝の八時から群れて整然と(整然とだよ!)ディスコダンスを踊りまくっている光景は、すさまじいというか吐き気を催すというか、まあちょっと余所では見られない。圧倒的に中年以上のおじさんおばさんばっかり。
 よく見ると、先生が何人かいて、それぞれ写真入りのパネルで自分の技能やかっこよさをアピールしている(らしい)。人気のある先生ない先生が歴然といて、見ている限り違いはさっぱりわからなかったが、そこはやはり教え方がどうとか、あの人は上海仕込みだから、とかいろいろあるのだろう。曲はサタデーナイトフィーバー系の懐かしい「ディスコ!」という感じの曲で、みんな「ノリ」とかいう概念はまったくなく、「イエーイ」とも「フンハオ!」ともわめくことなく、嬉しそうにひたすらお稽古ごととして踊っている。壮絶。
 それにしてもこの人たちは、ディスコダンスを覚えて何をしようというのだろうか。支那のディスコって、こういう中年男女の群に占拠されたりしているのだろうか。その日の夕方に昆明を出て、大理と、先日地震で壊滅した麗江に向かったので、確かめられなかったのが心残りである。

 同じ昆明でもとんがった子たちはやっぱそーゆーのをダサいと思っていて、「ベリー・オールド、ノーグッド」と顔をしかめる。かれらは「今はやっぱ 2 Unlimited じゃなきゃねー!」だそうで、No Limits かけまくりで「のーのののッ!」とわめきつつぴょんぴょん飛び跳ねて、いやあ、可愛いなあ。そう思ってニヤニヤしていると、おまえは何を聞くんだってんで、香港で買ったナイン・インチ・ネールズの海賊版を聞かせてあげたが、共産主義中国ではあそこまでの黄色性(資本主義的退廃性)は理解できないようで、耳をふさいで「うるさい」と笑っていた。けっ、イナカモノめ。

 つまりぼくが興味あるのはそういう話なのである。同じ目の高さで見た話が聞きたいのである。たとえばアジアという場合、たいがいの話は変に見下すか、妙に称揚してみせるかどっちか。「新興国の息吹が」とか「アジア発展の活力が」とか、「昔ながらの暮らしが」とか「急速な近代化による歪みが」とか「中国四千年の歴史が」とか、いずれにしてもうっとうしい。既存のイメージにのっかって枕詞に安住した、「あなたは何も知らないでしょうから」とでも言わんばかりの「紹介」には飽きた。俯瞰的な話や、歴史的位置づけはいらない。今、旅行するとき、香港に行くかニューヨークに行くかは完全に等価な選択としてある。それに応じた情報の等価さがほしい。すべてが平等に「今」としてある感覚。「アジアだから」とか「アフリカだから」といった特別扱いのない、ハンデのないところで、個別の事象に対して個別に感心したりひれ伏したりバカにしたりしたい。

 『0-24』(朝日新聞社)は、それを実現している希有な雑誌だ。アフリカも南米も、ヨーロッパもアメリカもまったく同じ扱い。他のどの雑誌が、南米情報のページをつくろうなどと思いつくもんか。今回は東アジアのファッションとスター特集だけれど、オリエンタリズムに堕すことなく、東京の服屋や飯屋、あるいはロンドンのクラブやビースティーボーイズとまったく同じ形でソウルや台北の店やソテジが出てくる。アジア的伝統云々というお題目は皆無。敢えて白人を大きく出さないという方針が貫かれていて、アメリカやヨーロッパは、黒人という視点でしか顔を出さない。エスニック・レストラン紹介ページも、ぼくの好きないい店をしっかり押さえている。えらい。きゃー、キザイヤ・ジョーンズ! きゃー、金城武くーん! ついでにビビアン・スーもかわいいぞ!

 わおぅ。これだけ最初から最後まで読みでのある雑誌には、先日の『電脳情報』を別にすれば、久しくお目にかかっていない。唯一心配なのは、この密度の濃さ、このテンションの高さが毎号ホントに続いてくれるのかしら、ということだけ。ネタが続くかしら。でも、できる。この切り方でアメリカ合衆国を切ったらすごかろう。このノリでヨーロッパを料理したら、いったい何ができあがるだろう。メキシコ特集とか組むと、最高のはず。すべてが平等に「今」としてある感覚。ついに、ついに日本にもこの感覚がわかった雑誌ができたか!

 これって他の東アジアでは当たり前なのだ。MTV アジアをごらん。日本のじゃないよ。香港のやつ。アメリカのオルタナティヴ・ロックも、東京ファッション情報も、インドのミュージカル映画情報(これは衝撃よ、ホント)も同じ扱いでつっこまれる。それがまったく当然の、何の解説も要らないことなのだ。この感覚を空気のように吸収している子たちと、実質的に鎖国状態の日本の子たちとで、この先勝負になるのかしら。

 『マルコポーロ』には、結構そういう匂いがあった。エキゾチズムをあおり立てたがるきらいはあったけれど。『03』にも、志は感じられた。中途半端だったけど。『ウォンバット』は部分的にいい線いってたが、いかんせん文芸誌感覚でまとめるセンスのなさが致命的だった。

 『0-24』は、そういうこれまでの雑誌の物足りなさを完全にクリアしている。コラム執筆者としても、テイ・トーワやナーキはまあ、さもありなんという感じだが、カズコ・ホーキ(フランク・チキンズの、といえばピンとくる?)の八百屋話は意表をつく感じだし、それにあの鉄人衣笠ぁ? それが何と、ジャズとソウルの話を書いている。「最近はエニグマ2とシェリル・クロウがいい」!! ゴーストかと思ったけど、絶対に衣笠が書くとは予想できない内容だからこそ、本人でしかありえない。こんな人選にも、既成のイメージに頼らず勝負する気合いが感じられるし、それがおもしろいんだからいうことはない。ついでながら、今出ているのはパイロット版なのだけれど、それが『アサヒグラフ』増刊だというのも笑えていいじゃん。

 世界のすべてが平等に「今」としてある感覚。ワールド・エンターテイメント・マガジンの名に恥じないすばらしい代物だ。こういう雑誌なら、昆明の早朝集団ディスコの妙もわかるだろう。もっと異様で不思議な「世界」を見せてくれるだろう。すでにもう十三冊買って、わかりそうな人には片っ端から送りつけている。みんなのけぞってくれる。立ち上がってくれよー。続いてくれよー。悲観的な話も聞いているけど、まちがいであってくれよー。ぼくは心からそう祈っている。



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