Valid XHTML 1.1! 九百人のお祖母さん封建主義 連載第?回

反民主主義はおかしく、そして居心地悪い。

(『CUT』1995年08月)

山形浩生


 前回の続き。

 民主主義は、今の日本人、いやそれどころか世界の先進・中進国すべての人間たちの政治思考を冒している疫病のようなものだ。みんな、一人一票の学級会民主主義だけが唯一無二の理想的政治形態だと信じ込んで、何の疑問もいだいていない。民主主義こそが正しくて、民主主義からはずれているものはすべてまちがっていて、まちがっていればそれは民主主義のせいじゃなくて、正しい民主主義からはずれたためだ、とする連中はどこにでもいる。ソ連東欧の政治経済体制が崩壊したときにも「民主主義じゃなかったからだ」とかいう愚論がとびかったし、ナチが民主主義的なプロセスで政権をとったことを否定するのに血道をあげる連中もわんさかいる。「連中のやったことはまちがっていた。よってそれは、民主主義によるものではありえない」というわけだ。だがもちろん民主主義だってまちがえるし、ナチは政権をとってしまう。みんな、自分の手にした権力の大きさを自覚せず、その行使による利害をろくに考慮することもなく、適当にタレント候補に票を投じてしまうのだ。この惨状を見て、なぜ民主主義をそこまで信じられるのだろう。

 さらに。今の政治がうまく機能しているとは思えない、しかしその一方で民主主義教から足抜けできない、そういう人が次に言い出すのが「代議制民主主義がいけない!」という理屈である。インターネットにみんながつながれば、電子式の直接民主制が実現する! 万人が万事に口を出せるようになる! そうなれば(民主主義は絶対に正しいのだから)もっとよい政治が実現する! こういうバカな世迷いごとを口走るやつらが、最近わんさか登場しているのだ。そのインターネット上にあるUsenet(話題ごとに情報交換と議論を行う電子会議室兼掲示板のようなもの)の混乱を見れば、これがいかに非現実的かはすぐにわかるのに。己の利害がからまない人々、あるいはそれを明確に認識していない人々が、暇と気分に飽かせて行う「議論」のなんと空疎で無責任で不安定なことか。そんなものから何が生まれるというのだろう。

 たとえば呉智英は、こうした盲目的な民主主義礼賛に対して異論を唱え続けてきた。『封建主義――その理論と情熱』(現在は『封建主義者かく語りき』と改題)は、見事な反民主主義の書だし、ぼくは今なおその影響下にある。が、今回はそれを詳述するのが目的ではない。ぼくが知りたいのは:なぜこの『封建主義』が冗談としか思われていないのか、ということだ。呉が民主主義批判のために採用した「封建主義」が、故意に冗談っぽく設定されているせいもある。が、それだけではない気がする。

 あるいは。ぼくには現況の学級会普通選挙の代案がいくつかある。前回の市場制民主主義もそうだし、こんな案はどうだろう。

 かつて、一定額以上の税金を納めた人だけに選挙権を与える方式があった。これを中学校なんかでは「金持ちしか選挙権が与えられない、不平等な方式でした」と教えるが、そうだろうか。「金持ちしか選挙権がない」というから、貧乏人がひがんで騒ぐ。だが、「参政権を放棄すれば、税金をまけましょう」と言ってみよう。北海道に二年ほど単身赴任になったとする。たった二年だし、積極的に参政する気にもならない。だったらそれを放棄して、少し税金が安くなれば嬉しいじゃないか。すでにいろんな場面で、各種権利侵害に賠償金で片をつける方法は採られている。もちかけ方さえ気をつければ、案外あっさり受け入れられるかもしれない。

 この議論は参政権以外にも拡張できる。各市民は不要な権利をニーズに応じて放棄し、免税の適用を受けるわけだ。手元に残す権利の量に応じて、支払う税金が変わってくる。値段のつけ方は考え所だけれど(この点で本案は、市場性民主主義に劣る)、個人に与えられた自由度の大きさという点で、現行の強制的な権利押しつけシステムよりは優れている。が、市場制民主主義にしてもこれにしても、明白な欠陥を指摘できた人はいないのに、みんなこれを冗談としか受け取らない。

 だが冗談ついでに言っておくと、そもそもぼくは権利という考え方自体が変だと思っている。人は、権利があるから何かするわけじゃない。権利があったって、それができるわけじゃない。そうする物理的・財政的・その他的な能力があって、はじめて権利は意味を持つ。だったら、あるのは権利じゃない。人間が実際に持っているのは、能力と必要性だけなのだ。

 ラファティ『九百人のお祖母さん』(ハヤカワ文庫)。ここに登場する世界たちには、民主主義など存在しない。権利などという小賢しいものを盾にしたがる者たちも存在しない。存在しても、長生きはできない。即座に屠殺され、絶叫しつつ血みどろの死を死ぬ。そしてわれわれは、恐ろしいことにそれを笑ってしまうのだ。ある登場人物は平然と言い放つ。「子供は一人前の人間ではないから、人間的に扱う必要はない」。ある子どもがほんの気まぐれで他の子どもに自殺を命じる。その他、殺戮や食人、強盗に搾取の大行列。それがいちいちおかしいのだ。そしてそれが、なんとも言いがたい居心地の悪さをもたらす。

 これを何とか正当化しようとして、人々はさまざまないいわけを試みている。背表紙曰く「愛すべきホラ」。ある書評屋曰く「彼の現実はわれわれの現実ではない」。かわいそうに。ここに描かれているのは、ホラどころかある意味で本当の真実であり、われわれのこの現実だ。訳者は某所でこう述べる。「ラファティの小説の根底にあるものは(中略)人生肯定のメッセージだ」これは正しい。が、訳者の考えている意味でではない。ラファティが肯定しているのは、己の能力を極限まで発揮し、そのためには他人を一顧だにせず蹂躙し、他の存在と死闘をくり広げて潰え死ぬ、そういう生のあり方なのだ。赤玉ポートワインに満足するようなたるみきった生ではない。

 そうした拮抗する能力水準の生を前提として、はじめて真の民主主義が成立する。本書におさめられた「カミロイ人」シリーズで、ラファティはそうした「真の」民主主義のありようを描いている。「公民はだれでも、あらゆる問題について正しい情報を与えられるだけの適格性を持つ」「カミロイの公民ならだれでも、カミロイ星のどんな仕事にも適格」。そしてその半ばグロテスクな帰結も。

 「民主主義はわれわれの思考をおかしている疫病だ」と書いた。多くの人は、それを否定できるとさえ思っていない。したがって自動的にそうした議論を冗談だと判断している。だがラファティの小説がもたらす居心地の悪さは、その疫病をわずかなりとも揺るがせる可能性を示している。笑うのは結構。でも、なぜ笑ってるのかをよく考えてほしい。そんな平和なおとぎ話やホラ話じゃないんだよ。自分が何を感じているのか、もう一度見直してほしい。それはあなたに巣くう民主主義の断末魔なのかもしれないのだから。


前略

こなれていないし書き足りないし、陳腐だしおまけに締め切りには遅れると、今回は最悪ですが……
写真は「封建主義」と「九百人」の両方を出していただければ幸いです。

遅くなって本当にもうしわけありません。帰国直後の混乱で、というのはいいわけにもなりませんが、次回からこのようなことにはなりませんので。



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