Valid XHTML 1.1! Being Digital 連載第?回

ポンちゃん、あんたのデジタルユートピアは信用できないよ。



(『CUT』 1997年10月発売号)

山形浩生



 「信用できない、信用できない」本書を読みながら、ぼくはずっとそうつぶやき続けていたんだ。ニコラス・ネグロポンテ。MIT メディアラボの親玉であり、MIT の日本人の一部の間では、親しみと軽蔑とやっかみをこめて、ネグロのポンちゃんとして知られてる。そのポンちゃんが、あちこちの雑文や講演会で小出しにしてきた内容をまとめたのが、本書 Being Digital なんだ。

 あと味の悪い本だった。しかも、新しい後味の悪さですらない。古臭いんだ。みんなどっかで読んだことあるんだ。それも十年以上も前から、入れ換わり立ち替わり、何度も何度も繰り返し。こうしつこく繰り返されると、何だか怖くなってくるんだ。こう、この人たちは自分でモノを考えてしゃべってるんじゃなくて、何だか別のものに操られてしゃべらされてるんじゃないかって。そしてもっと怖いのが、それを読んだ人たちが、毎回それを何か新しい思考であるかのようにはやしたててること。

 たとえばポンちゃんは言う。今のいろんな家電製品は頭が悪い。冷蔵庫は、牛乳や卵がきれたら教えてくれればいいじゃないか。教えるだけじゃなくて、冷蔵庫が車に指示を出して、仕事の帰りにスーパーに寄るようにさせればいいじゃないかって(これ、個人的には間抜けな話だと思う。だってそこまでやんなら、冷蔵庫がスーパーに直接オーダーを出せばすむ話でしょ)。あるいは家そのものだって、今みたいに力任せに冷暖房しないで、中に人間がいるかどうか検出するとか、目覚まし時計や電子手帳と話をして、起きる頃とか帰宅時間とかにちょうどいい温度にすればいいじゃないって。

 これを読んで「なるほど、見事な発想の転換だ!」とみんな感心するんだけど……ねえ、これってさ、十年前にはやった TRON 住宅そのまんまじゃない。覚えてる? 協調性のない通産省が旗を降ってた TRON ってプロジェクトがあって(まだあるけど)、「コンピュータだけじゃないぞ!」ってことで、この手の電脳住宅をいっしょけんめいやってたんだよ。見事につぶれたけど。それ以前もそれ以降も、似たような話はいくらもある。ねえ、みんなホントに覚えてないの? ホントにこれが新しいと思ってるの? 思ってるらしいので、ぼくは怖くてたまらないのだ。

 ポンちゃんは言う。「これからはデジタル! なにもかもデジタルにならなくては!」と。ポンちゃんは言う。五年前、ある講演会はでポンちゃんはこうわめいていた。「いまのテレビの問題は、解像度ではなく、その番組である! 高解像度ばかりを追う今の HDTV はまったく見当外れ! テレビ番組改善のために、テレビはデジタルにならなければならない!」でも、デジタルテレビで見る大河ドラマは、やっぱりただの大河ドラマ。番組を改善するには、番組制作のシステムを変えなきゃだめでしょ? そう質問したら、ポンちゃんは頭を抱えてたけど、この本でもそこらへんは一向に進歩していない。

 そしてポンちゃんは言う。やがて新聞の切り抜きやスケジュール管理なんかを、全部ネットワーク上で代行してくれる「エージェント」が実現する、と。エージェントって、別にポンちゃんの独創じゃないけど前にあげた賢い冷蔵庫や車みたいなヤツ。これで人間はつまらない雑務から解放されるんだって。もう新聞やテレビは、こちらの好みを熟知したエージェントが全部えり分けて、切り抜いて各個人専用のダイジェスト版をつくってくれるんだって。冷蔵庫エージェントと新聞斜め読みエージェントが何か注文しようとして、クレジットカード管理エージェントが「残高がないから片っぽしかダメ!」ってなことになると、こっちの好みを知り尽くした別のエージェントがそれを調停してくれるってさ。

 でも、それがきちんと解決できるほどエージェントが優秀なら、人間の出る幕なんてないじゃない。私生活の雑務はおろか、現在のサラリーマンの仕事のほとんどは、これで代行できる。最終的には、エージェントがいろんな決済書類を持ってきて、人間はそれにハンコを押すだけ、とかね。これって、人間の天皇宣言みたいなもんかしら。

 昔ながらのハイテク・ユートピア社会礼賛議論。だが、ユートピアの昔ながらの問題は、相変わらず見過ごされたままなんだ。ユートピアが実現されたら、人は何をして暮らすんだろう。「細かい泥作業を機械に任せて、もっと創造的な仕事に専念するようになります」だって。でも、泥作業のない創造って何なの? 創造って、お気楽な思いつきを並べ立てることではないでしょうに。自分の好みも金銭的判断も知り尽くし、しかもそれに基づいた実際の行動まで取れる人間もどきの登場。さらに人間を切り離した機械だけの世界の出現。20 世紀初頭の機械化に伴なって、こうしたユートピアやロボットの SF がたくさん書かれているし、「ニューロマンサー」もまさにこれを描いた小説である。が、ポンちゃんのこの本には、オリジナリティのかけらもないうえに、そういう SF に見られる、技術が世界を変え、人をしわくちゃにすることに対する現実的な感触がまったく欠如している。この人は、本当に人間のことなんか考えてやしない。信用できない。

 そんな本が、来るデジタル時代の必読指南書のように思われているのは、こっけいなことだけれど、でもわかる。いま、この分野はすごく急速に変質しはじめているからね。それも、これまでの技術的な成長発展とは別の意味で。これについては、またいずれ書くこともあるのでここでは触れないけれど、本書の後味のわるさはこの業界全体の変化を代表するものなんだ。ここ二年ほどに急成長をとげ、先日日本版まで創刊されたインターネット・ハイテク礼賛雑誌 WIRED が、ここ数号ほどで Being Digital と同じ味わいをもちだしてる。あと一年で、たぶん何かが決定的に変わると思う。こういう本を見ておくと、その(できれば起きて欲しくない)変化の内容が、だいたい見当ついてくると思う。

 あと、ポンちゃんの話がもっともらしいのは、後ろにメディアラボがついていて、「これって実は明日にも実現のめどがたっているのかもしれない」という感じがなんとなくするからなんだ。しかしこの程度の議論であのメディアラボが成立しているとすれば、お寒い限りという気はしなくもない(まあ他人事だけど)。出し惜しみして隠しているネタがあるのかな。そうでないなら、ポンちゃんはよっぽど腕のいいセールスマンであり、伝道師なのだろう。かつてバブル華やかなりし頃は日本企業がしきりにメディアラボ詣でをしていた。いまは台湾が、湯水のように金をつぎこんでいるとか。



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