Valid XHTML 1.1! 廃棄の文化史 連載第?回

街と地域の失われた総合性を求めて。



(『CUT』 1995年4月発売号)

山形浩生



 ぼくにも神様というものがいて、その一人がケヴィン・リンチである。そのかれの未完の遺作が『廃棄の文化誌』だ。

 建築や都市計画方面でケヴィン・リンチを知らない人はモグリ以下なのだが、この方面に興味のない方にどう説明すればいいのかは、よくわからない。建築家、都市計画家といっても「これ!」という派手な作品があるわけでもない。比較的有名なのが名著『都市のイメージ』かな。街のわかりやすさ、思い描きやすさを重視し、デザイナーや計画屋の勝手な思い込みではなく、実際に利用する人々が実際に何に反応しているのかをきいて、そこから抽出した要素をもとに街づくりを考えようという本。

 こう書くと、いかにもあたりまえに聞こえてしまうのが悔しいのだが、それがケヴィン・リンチの特徴でもある。極端な、やもすると気を衒った議論を展開して常識をバッサリ切り捨ててくれる本も爽快だが、リンチの著書はすべて、そういうところのまるでない本当に常識的な論点の積み重ねだ。しかも、その論点に漏れがない。手っとり早い解決策は提供してくれないけれど、そんなものはないのだ、地道に小さな問題を潰してゆくしかないんだ、ということをため息とともに納得させてくれるのがリンチの本である。製図板に向かって行き詰まったときにかれの本を読むと、必ずと言っていいほど自分の見落していたポイントやアプローチに気がつかされたものだ(おかげで作業量は増えるのが常だったけど)。散漫にならずに、細かい論点まですべておさえ、そしてそれらが枝葉でなく、真剣に考慮するに足る重要なポイントなのだと納得させてくれるのがケヴィン・リンチだった。

 こう書いていて、なんだか絶望的な気分になってしまう。こう、楽な出口を探していいろ無駄な時間を費やしている時に、「ええい、しゃあねえ、正面から取っ組むっきゃねえか!」と腕まくりさせるに到る、あのふっきれた最後の一押しのような感覚をどう伝えたもんか。だが、続けよう。

 本書『廃棄の文化誌』も、そういう本だ。ゴミ、廃棄物、廃屋、インナーシティ問題(高所得層が郊外に移転し、都心部に低所得層だけが残された結果、都心部が荒廃する現象)など、都市における広い意味での「捨てる」行為や「無駄」に関わるほとんどすべてを網羅している。エコロジスト的警世とリサイクルのすすめでもなければ、こうすればゴミ問題はすべて解決といった清潔礼賛の書でもない。市場がすべてを解決するからそんなものは考えなくていい、といった現状追認の書でもない。強いていうなら、これらの間でどうバランスをとるべきか、という本である。さらに、時にはゴミや無駄が人間にとって快いものであることまできちんと認識され、評価されている。リンチの面目躍如である。

 が、他のリンチの著書にくらべて物足りない部分があるのは否定できない。リンチは基本的に建築家であり、都市計画家だった。『居住環境の計画』『知覚環境の計画』なんかでは、断定は避けつつ、無数の図面を引いてきた(そしてその結果を見てきた)手の記憶に基づく「こうだ!」という確信に満ちた方法論があった。本書にはない。「建物でも、消費財でも、ライフサイクル・コスト(初期の購入費用だけでなく、維持管理および処分まで含めたコスト)をもっと重視すべきではないか」というくらいの考察が、非常に慎重に述べられるだけだ。そして、「これまではひたすら遠ざけるべきものとして考えられてきた廃棄だが、今後は廃棄とともに生きるという考え方が必要ではないか」というもっと重要な提案のほうは、まだ具体性の域には達していない。むろん、エコ・シティだのエコロジカル・デザインだのといった安易な話は期待していなかったけれど『敷地計画の技法』なんかの「ああしてこうしてみたら?」と言うような、もっと明瞭な指針はあるかと思っていたのだが。

 一つには、本書が未完だったことがあるだろう。かれの寿命があと数年長ければ……だが、それにも増して、ここで取り上げられている課題の多くが、いつの間にか建築や都市計画・都市デザインの通常の射程から(個別プロジェクトの水準を除けば)こぼれ落ちてしまったせいではないか、という気がする。そしてこの本の困難は、そうしたものをすべて拾い集めて総合的な何かに編み上げようとする困難なのだ。

 フィジカルプランの限界という話はよく聞く。建築や都市計画や都市デザインで、世の問題のすべてとは言わないまでも、ある部分は解決できるのではないか、という(かなり本気の)理想が今世紀の前半くらいにはあった。今はない。かつてニュータウン流行りの頃にあった、すべてを総合的に計画できる、という考え方はほぼ壊滅した。本書でも指摘されているインナーシティ問題やホームレスなんかは、その幻滅の体現でもある。

 そして、総合的な問題解決を諦めるとともに、建築家や計画家たちはますますタコ壷化してしまっている。たとえば建築デザインの理論の凋落ぶりは著しくて「だって、かっこいいでしょ」と一言言えばすむところを、いっしょうけんめい現代的な必然性をこじつけようとしているだけ。その他の領域も、できなかったことの多さに悲観した結果、とりあえずできることを必死で囲いこんで、その内側で閉じているような気がしてならない。

 リンチはおそらく、もう一度街づくりにおける総合性を再び確立しようとしていた。それは昔のような形での総合計画ではないけれど、たぶんこうした活動に関わっている人たちがだれしも求めている、一種の考え方である。根拠レスな直感でしかないけれど、『廃棄の文化誌』は、うまく行けばそのとっかかりになったはずの本だった。それだけに、本書が未完に終わったのは本当に悔やまれる。

 むろんかれが成功し得たかどうかは、今となっては知るすべもない。『廃棄とともに生きる』という話をかれがどう具体化しようとしていたのかも、今となってはわからない。それはもう、われわれが現実のプロジェクトや地域の成長の中で見出だし、作りだすしかないものであり、われわれが体系化してゆくしかない。

 そのためのヒントくらいは、未完とはいえ本書の中にもある。前にも書いた通り、リンチの最大の長所は、とりあえずすべてをカバーすることなのだから。いまから10年たっても、だれかがこの本を手に取り、そして何かを学ぶだろう。

追記:これを書いている途中に、神戸の地震のニュースが入ってきた。現時点では何を言うのも時期尚早だが、こうした災害によって生じる大量の犠牲や無駄も、本書の射程に入っていることは指摘しておく。今、被災地にある人々には役にたたないけれど、今後、街の再建を考えるにあたっての指針が、この本にもある。



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