Valid XHTML 1.1! MYSTResidents 連載第?回

マルチメディア CD-ROM――その理論と実践。

(『CUT』 1994年12月発売号)

山形浩生



 それにしても、と思うのである。それにしてもだ。なぜ音楽屋のこさえるCD-ROMのソフトは、こうもつまらないものだらけなのだろうか。

 CD-ROM とゆーのは、まあ出来損ないのテレビゲームだと思えばいい。CD-ROM は、大量のデータを詰め込めるので、音がなったり絵が動いたり字が出たりする代物(一時流行りのマルチメディアというやつ)には向いているのだ、といった解説は、最近山ほど出ている通俗啓蒙書にゆずろう。

 このCD-ROM / マルチメディア業界の殺し文句の一つが「インタラクティブ」というやつ。テレビを見たり CD を聴いたりするのは、受け身一方の「古い」情報処理。ボタンを押すと、曲が始まったりビデオが始まったりするけれど、あとは何もユーザ側ですることがない。もはや現代の高度なユーザは、そんな受け身に甘んじてはいられないのだ! もっと積極的にメディアに対して要求を出して、いろいろコンピュータとやりとり(インタラクト)しながら能動的に情報を取捨選択する、それがネットワーク時代の知的な情報ユーザなのである!
 という感じの能書がふりかざされる。

 しかし、さてそれを取り入れたはずのCD-ROM群の実態はと言うと、画面上にボタンがいっぱいあって、それを押すと画面が変わったり、ビデオが始まったり音楽が流れたりするというような代物。ボタンが押せる分だけユーザの能動性が高い、とゆー理屈なんだが……
 でもこれって、普通のテレビやラジカセと同じじゃないか! ボタンの場所が画面上に移動しただけじゃないか! しかも普通のテレビやラジカセに比べて、画面はえらくちっこくて粗いし、音は悪いし、いいとこなし。

 三年前もそうだった。そして、残念ながら、今なおこの世界はまるで進歩していない。

 実は近所の CD 屋が在庫一掃叩き売りセールをやっていたので、いろいろ買いこんできたのである。ピーター・ガブリエルの「Xplora 1」とか、あの読めない芸名の「昔はプリンスっつー名で出とりました」にいちゃんの CD-ROM とか、デビッド・ボウイの「Jump」やトッド・ラングレンの「No World Order」とか。が、情けないことにどれも、三年前に初めて買った CD-ROM 群と、感触も操作もまるで同じなのだ。そしてさらに救われないことに、発想がみんな見事なまでに画一化されている。みんなまず「きみもミキシングに挑戦」とか、「きみだけのオリジナル・ビデオクリップを編集してみよう」とくる。誰がそんなことをしたいもんか。あと、レコーディング風景とか楽屋風景とかのせこいビデオ。「40 分に及ぶ未発表ビデオ」というのが宣伝文句によく使われるけれど、だいたいどのシーンも 15 秒で見る気が失せる。画面のサイズのせいもあるけど、中身の映像のテンションがホームビデオ並に低いのも大きな原因だ。

 特にピーター・ガブリエル(うるせえ、おれはジェネシス時代から知ってるんだ! いまさらゲイブリエルなんて書くか!)「Xplora 1」は、レビューなどでは高く評価されているけれど、一番むかつく代物。オープニングのピーター・ガブリエルの顔のモンタージュ(これをしないと先に進ませてくれない)など、何の脈絡もない単にもったいをつけるためだけの小細工。そしてあちこちで当人が顔を出し、偉そうに(ホントえらそうなんだ、これが)説教をたれる。くだらない。アムネスティ・インターナショナルの宣伝なんか、頼みもしないのに見せてくれるな。やるのは勝手だが、それを正義ヅラして自慢たらしくひけらかすんじゃねえ。

 だが、希望はある。レジデンツ「フリークショー」と、そして音楽屋CD-ROMではないが、ゲーム「MYST」。もしこのメディアが今後発展するなら(まあ大容量データ配付媒体としてはそこそこ発展するに決まってるけれど、新しい表現媒体としての発展という意味ね)、その萌芽がこの二作だろう。

 要は、世界のつくりかただ。現実の世界には、ボタンなんかない。この CD-ROM もそうだ。始まった瞬間から、その CD-ROM 独自の世界律があたりに満ちる。かすかに響く虫の音や波、風の音。そして奥行き感。両者に共通するのが、絶えず奥へ、奥へと狭いところを通って入り込んでゆく感覚。あるいはのぞき込む感覚。お望みならフロイト的な解釈をしてくれてもいい。

 特に MYST 。すべてに霞がかかっていて、それが少ない部品で美しくもっともらしい世界をつくりだすのに貢献しているし、霞のかかり具合で遠近感が見事に表現されて、奥行きが鮮明なのだ。何がどうなっているのか、余計な説明はいっさいない。ただ、世界だけがそこに投げ出されている。その中をうろついているだけで飽きない(もっとも最初はそれ以外にできることがないのだけれど)。やがて、すこしづつその世界の因果律が解明されてゆく。ゲームが終わってからも、あの世界が見たくてたびたび戻ってみる。 MYST の世界は、ゲームがとりあえず完了しても、ずっと終わることがないのだ。マニュアルは誇らしげにこう宣言する。「現実:MYSTの間に現われる世界のこと。たまには戻るように」。

 「フリークショー」は逆に、すべてが鮮明なCGの感触をうまく生かしている。しかしここもまた、薄暗い見せもの小屋を舞台にすることで、見せ過ぎずにうまく構成している。レジデンツは、もともとつくりものめいた変な世界を売り物にしていたので、これがツルツルの CG の質感とマッチしている。ゲテモノ・ショーというコンセプトも、いかにもレジデンツで無理がないし、この世界で何をすればいいのか迷うことがない。また、30 秒を越える長時間のビデオクリップを見せる時には画面を大きくしてやらないと関心が持続しない、といった受け手側の心理にも敏感。

 そして何より、その場面のそれぞれが、くだらないものはくだらないなりに楽しい。ミミズ女ワンダが控え室で泣いているのを見ると、ハッとさせられるし、その後で小屋の片隅にある、決して幸福ではなかった。現実のフリークスたちの写真と説明をめくってゆくと、結構ジーンとくる。一番奥の奥には、レジデンツたちの控え室があって、かれらのビデオやパフォーマンスを省略なしの完成された形で見ることができる。どうせファンなんて、おれさえ映ってりゃ何でも喜ぶだろう、という他のアーティスト連中の傲慢さは皆無。

 「MYST」と「フリークショー」。役に立つ、ちょっと面白い、といった程度の水準を越えて、感動と言えるだけのものを揺り起こせる CD-ROM がやっと登場した。いずれもマッキントッシュ用だが、MYST はウィンドウズ版も出ている。日本版も出ている。CD-ROMを使える環境にない人は……まあわざわざこのためだけに、コンピュータ一式買いこむのもなんだから、知り合いをだまして買わせてしまってはいかがだろう。この二作で遊ぶだけで、あなたにとってもその知り合いにとっても、十分にもとは取れる、はずだ。



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