Valid XHTML 1.1! 宇宙創世記ロボットの旅情報環境学 連載第?回

情報バカにつけるクスリ。

(『CUT』1996 年 2 月)

山形浩生



 たとえばそれなりに面白くなくもない『ダンスする文学』という本の後書で、ある海外文芸評論家が「情報量の多い本を書きたかった。ビット数の多い文を書きたかった」というようなことを述べていたり、情報世紀のナントカを自称するあるシンクタンクの人が、「これからはドルや円にかわってビットが通貨単位になる」とゆーよーなことを口走っているのを見るのは、微笑ましいような情けないような気分だ。この人たち、ビット数の多い本を書きたいなら、単に分厚い長い本を書けばいいのを認識しているだろうか。「ビットが通貨単位になる」なら、ぼくもあなたも一夜にして億万ビット長者(ギガバイト長者とでも言うのかね)になれるのがわかっているだろうか。風間賢二は文学屋さんだから、この種のかんちがいもご愛敬だし、ナントカ研究所の場合は単にみっともないだけだから、何も害はないのだけれど、ふーん、あなたの「情報」ってのはビットではかれるようなものなの。ふーん。まあ、これは要するに一種の「情報」バカである。

 ここで知っておくべきなのは、「情報」ということばには二つの異った意味があるということだ。つまり、日常会話的な広い意味と、情報理論で定義された狭い意味と。いいかえると、この人たちの言っている「情報」ってのは、われわれが一般的に使う「情報」とか「ネタ」とかいうのに近い、一種の価値の話で、一方ビットってのはそういう意味とか価値とかをまったく考慮しない、言わばただの文字の数のことなのだ。アルビン・トフラーなんかの「これからは軍事力でも資本力でもなく情報力だ」とか言う話を聞いて、一方でコンピュータ入門書かなんかで「情報の単位はビットです」というのを読んで、そうか、情報というのは、このビットとやらをたくさん持ってればいいんだと勘違いしてしまうのだけれど、それを浅はかというのだ、と父に怒られたのは、確か今を四半世紀も遡る幼い日のことだったように記憶している。ちなみにトフラーなんかは、この浅はかさにつけこんで「情報」を含めいろんなことばをあいまいに使って議論を進めることがあるので、注意したほうがいい。

 じゃあ通常の意味での「情報」は何ではかればいいのか、ということになるが、これは難しい。『失われた時を求めて』には、マドレーヌの匂いをかいで一挙に記憶がよみがる青年の有名なエピソードがあるそうで、これに啓発されてロサンゼルスの冗談博物館ジュラシック・テクノロジー博物館で「マドレーヌ式記憶回復装置」というのをこさえて展示しているけれど、それで実際に記憶が回復した人はいないそうで、つまりは同じマドレーヌの匂いという情報でも、受け手のアレによって当然意味や価値が全然ちがってくるから。

 つまるところ世の中には役に立たない情報がいっぱいあって、それは必ずしもウソの情報というわけではなくて、役に立たない真実はいくらもあるし、役に立つウソもいくらもあるし、でもビットという単位ではかる限り、そのどれも区別がつかないのだ。傑作『宇宙創世記ロボットの旅』でスタニスワフ・レムは、真実の情報を求め続ける学位も教養もある盗賊というのを登場させて茶化しているが、ヨーロッパの辺境ポーランドの地で、60年代半ばにはやくも情報バカの出現を予見し、それをコケにしつくした先見の明にはひたすら平伏だ。ちなみにこれに対し、主人公たちは果てしなく真実の情報をつくりだす二流悪魔を与えて、盗賊を役に立たない(でも真実の)情報で埋もれさせてやっつけるのだけれど、ここで駆り出されるのが「二流」悪魔だというあたり、レムの嫌味と悪意が満載されていてニンマリである。蒼白族の王フリードリヒ二世は渓谷族に宣戦布告をくだすまえ二度目の朝食になにを食べたか。ブワントの左利きの肉屋と言われるファルキウスの宝石商とは誰であったか。山形は今日鼻クソを何回ほじったか。教養ある盗賊はこうした情報にしだいに蝕まれ、こんな情報はいくらあっても役にたたない!と悟ったときにはすでに時遅く、次々に量産されるクズ情報に溺れるしかなくなる。

 この本は、他にもサイバネティクス恋愛詩だの龍の存在確率論だの、一見なんのこっちゃと思えるような爆笑バカ話の連続で、しかしそれがただの思いつきではなく、その気になればもっと深い思索と嫌味が見えてくるというぼくのオールタイム・ベストの一冊で、レムをかの『惑星ソラリス』の原作者の眉根しわ寄り作家だと思っている人は、こいつを読んで腹の皮を少しよじりおとして認識を改めていただきたい。解析学と線形代数の予備知識は、あらまほしだが不可欠ではない。しかし世の情報バカたちにこれを読ませても、バカにされているのがわかるだろうか。

 『情報環境学』で大橋力が懸念している「記号の一人歩き」という事態も、この情報バカを案じたもので、しかし一方で専門バカも困るなあ、というのが本書のもう一方の主張で、最終的には「情報」を媒介に一種の総合学を構築するのが著者の目的。挙げ句に「"いのち"と"こころ"を結ぶ制御理論」「"もの"と"こころ"の架橋」とか気持ち悪いこと(どうしてこの手の人々は、「いのち」とか「こころ」とかひらがなで書きたがるんだろう)を言いだすのは鼻白むけれど、著者の大橋力はかの芸能山城組の関係者だから、仕方ないか。

 夢のあるいい本だし、問題意識は買うけれど、グリグリ問題の核心をえぐり、こっちを捕らえて一瞬も放さない本ではない。玉石混淆。あっち跳びこっち跳び、面白いアイデアが変なお説教と入り交じりる。そして情報バカを避ける手段として、著者は「意味」に実体的な根拠を与えようとする!「生命にとっての価値を情報にとっての価値とむすびつけて検討する」だって。うー、エコロジストだなあ。できりゃすごいが、無理だろう。でも、できりゃすごい。が、本書もまだそれに手をつけたわけではなく、いろんな考え方の羅列にとどまる。読みたいのはそっから先の話なのに。

 これについては続編『コミュニケーションの分子生物学』がカバーするはずだが、半年前にはまだ出ていなかった。「ぜひとも併読していただきたい」なら、読者としてははやいとこ書いて欲しいものだが、あまり期待しないほうがいいかもしれない。この種の「情報」モノは、たいがいまず情報理論のおさらいをして、「さて次は意味論を検討しなくては」と心構えを述べ、しかし何年経っても「その次」が出ず、やがてうやむやになるのが定石だから、これも絶対に出ないというのがぼくの見立てである。だって前に述べたように、意味って難しいもの。とかなんとか言いつつ、今ごろあっさり出ていたりすると面白くていいのだが。朝倉書店の本だから、あるとすれば理工学書の棚だが、その中のどこにあるかはわからない。得体の知れない本の宿命である。この正続編が完成すれば、情報バカは理論的にはいなくなるはずだが、どうだろう。だって、よく言うではないか。浜の真砂は尽きるとも、って。

 

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