Valid XHTML 1.1! 疾走のメトロポリス 連載第?回

バロックな消費とパンクな浪費

(『CUT』1993 年 6 月)

山形浩生



 「疾走のメトロポリス」は、タイトルから想像されるような、一時の表層の都市の意匠を礼賛する書物ではない。バブルっぽい消費を無批判に肯定する明るい書物でもない。むしろ都市を形成してきた盲目的な熱狂と、それがゆがみ、使い捨てられる過程を描いた、暗さとよどみに満ちた書物だ。それを救っているのは、永瀬唯の威勢のいい文体だけである。また、「近代の裏」を扱う書物にありがちなお手軽オカルティズムとも本書は無縁だ。
 そして現代日本人の多くは、この本に自分の姿を見つけて冷や汗を流すだろう。


 その昔、渋谷陽一を DJ に擁する国家 FM ラジオ放送で育ったぼく(と妹)にとって、ポップな感覚はすばらしいもので、商業ロックは唾棄すべきもので、両者は相容れないものだった。もう十年も前のことだ。

 もちろん、こんな昔のことを知る人は少ないだろう。ぼくも忘れてしまった。確か「商業ロック」ってのは、あらかじめ受け手の感性のレベルを計算して、打算的につくりあげられた音楽、みたいな意味だ。マーケットリサーチ型ロック、とでも言おうか。そしてポップな感覚というのは……なんだかよくわからないんだけど、あるスタイル(パンクでも、プログレッシブ・ロックでもいい)を生み出した、とんがった部分や気負い(それはパンク/プログレファンのコミュニティを結びつける意志でもあり、それを他の集団から明確に分離する意志でもあった)が風化し、硬直する中で、その意志をスタイルがあっさり振り捨てて一人歩きを始めた時の爽快感だ。もちろん振り捨てられた側は面白かろうはずもなく、「裏切りだ! 堕落だ!」という話になるのだけれど。でも、それによってそのスタイルは、一般性と大衆性と、そして商業性を獲得することになる。

 今にして思えば、この両者は決して相反するものではない。むしろ、「ポップな感覚」は商業ロック出現の先鞭をつけるために必須のものであり、程度の差こそあれ、両者の間に明確な境界など実は存在しないのだ。

 この図式は、ロックの世界固有のものではない。それは二十世紀のあらゆる場面に登場し、幾度も生れ、幾度も繰り返されてきた。しかも単なるあだ花としてではなく、われわれの大衆消費社会が閉塞しかかるたびにそれを突破する、原動力として。永瀬唯が「疾走のメトロポリス」で執拗に描き出すのは、二十世紀のいたるところに存在した、この「パンクな増殖→ポップ化→商品化/産業化」という流れだ。アマチュア無線しかり、自転車しかり、ボーイスカウトしかり。むろん、永瀬唯が意図的に取り上げなかったパーソナル・コンピュータの場合もそうだ。市場経済的な合理性や実用性からまったく外れた、マニアたちの共同体による熱狂とこだわりが、未成熟な技術を守り育てる。そして、何か(たとえば戦争、あるいは偶然)を期に、それが商品として一挙に浮上する。

 ある人々にとって、こうした話はしょせん他人事だろう。そういう連中を、ぼくは信用しない。そういう人々は、ビジネス書の棚に行って「ユーザのニーズを的確に捉えましょう」の連呼に終始するマーケティングの本でも読めばいい。永瀬唯はそうした物言いをあざ笑うのだけれど。「ユーザのニーズ」なんて、常に後知恵でしかない、と言って。

 しかし一方で、本書はマニア的情熱礼賛の書でもない。かれらにつきつけられるのは、さらに冷酷な未来図だ。かつてのマニア的偏愛対象が商品として浮かび上がる時、マニアたちとその共同体は、置き去りにされてしまうのだ。あるいは、かれらが依って立っていた意志や理想が、現実の前にはっきり破綻してしまう。取り残されたかれらは、自分たちが大事に育ててきたもの(たとえばロック)が、卑しい目的のために利用され、汚されていると歯噛みしつつ、だまされ、馬鹿にされたような腑に落ちなさを感じつつ、やがて消滅するか、あるいは内向性を強めてゲットー化し、セクト化し、瑣末な内部抗争に明け暮れるようになる。

 現代日本人の多くは、すでにこの興亡を我が身のこととして、見て、体験している。ぼくもそうだ。かつて(今も?)日本 SF ファン集団最高の論客の一人だった永瀬唯も。かつて、ポップだ商業だと口走っていた渋谷陽一も、おそらくはこの感覚を引きずっていたのだ。そしてたぶん、あなたも。

 だから、本書は読まれなくてはならない。


 だがそうした変なマニア集団たちは、今もなお発狂した世界を生み出しつつある。ロサンゼルス発の「Ray Gun」。この雑誌の最大の特色は、読める所が(物理的にも内容的にも)まるでないということだ。重なり、かすれ、背景の絵に埋もれて判読不能なページの連続。気まぐれに努力して読んでみても、たちまち後悔させられる。これほど平然と中身のない記事の群れは見たことがない。ほとんどが、バンドとの雑談以下の駄弁り! やがてハナから読もうなんて気は失せてくる。雑然としたアートワークの一部となった文字を、ページからページへと愛でるだけ。「疾走のメトロポリス」を装丁した戸田ツトムなんかが時々やる、文の内容にこけおどし的な箔をくっつけるための読みにくさとはまったく別の、薄ぎたないファングループ会報がそのまま進化したみたいな読みにくさ。

 これがロック雑誌であるべき必然性というのは、これまでの常識からすれば口ごもるところだが、一方でこれが他のジャンルの雑誌として登場するという光景も想像できない。この雑誌がロック業界に負っているのは、ミュージシャンの名前を冠することによって得られる商品性と、音楽が持つ雰囲気、そして MTV で音楽と映像の結びつきに慣れた、想定読者(というべきかな)たるべきロックファンたちだ。が、ここでのミュージシャンたちの浪費のされかたは、従来の音楽雑誌がどうしても逃れられなかったカリスマ化やアイドル化とはまるで異なる、野蛮な手口だ。それをパンクと呼ぶべきか、ポップと呼ぶべきかは知らない。が、ここには確実に、泡立つ新しいノリがある。どこまで成功するか、いつまで続くか、それもわからない。わかれないのだ、と永瀬唯も言っている。が、とりあえずぼくは、定期購読者プレゼントのRay Gun Tシャツを着てご機嫌である。なに、マニアってそういうもんよ。

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