Valid XHTML 1.1! 裕仁裕仁 連載第?回

よくぞ昭和に生まれけり:裕仁天皇の時代。

(『CUT』1992 年 07 月)

山形浩生



 王さまとか皇帝とか、君主の存在意義というのは、平和なときは実にあいまいだ。だって、平和時の君主というのは、手を振って愛敬を振りまく以外には何も(少なくとも明示的には)することがないのだもの。イギリスのチャールズ皇太子が、ロンドンの都市景観や、テリー・ファレル設計の建築なんかについて批判的な発言をしてみたりするのも、そういう危機感のためなのだろう。なんとかして単なるお飾りでない、社会的に意味のある存在になりたい、という願望の現れなのだろう。

 これで戦争でもあれば、旗印としてそれなりの役目は果たせるのだけれど。いや、果たせるかな。イギリスなら、女王陛下のために死ねるやつはいるだろうが、やがて誕生するチャールズ国王のために死ねるやつは、どれだけいるのかな。

 日本でも、昭和時代なら裕仁天皇のために死ねる人は多かったろう。かつての独裁君主時代の威光が尾をひいていたから。第二次世界大戦の生き残りはいくらでもいる。昭和初期のあの(たぶん)暗かった時代、日本が首を突っ込んだあらゆる戦争、あらゆる紛争の陰に(直接の責任の有無はともかく)陰を落としていた不気味な存在感は、三十年ずっと続いていた。だからこそ「日本国民統合の象徴」という意味不明の位置付けが、不明ながらも成立し得ていた。「昔、大日本帝国を仕切っていたあの感じだよ」と言われれば、うん、そうかな、という気がする。だって、何のかの言いつつも、天皇の名前を出せば、みんな戦争に出かけて神風したんだから。

 でも、いまの天皇はどうだろう。われわれがあの人物について知っているのは、テニスコートで奥さんを見つけた、という程度のことだ。あるいは、奥さんのなり手が見つからなくて難儀している現皇太子が天皇になったら? 首相に関してやるような支持率調査を、天皇についてもやれば、いまの天皇の支持率は、昭和天皇に比べてかなり低いのではないか。そしてさらに下がりつづけるのではないだろうか。実績として出せるものが何もないもの。

 つまり、天皇制という類似事例のない制度が持っている感覚(それを話題にするとき、ついあたりをはばかってしまう息苦しさ)と、いまの天皇や「開かれた」皇室の持つイメージとは、だんだんずれてきているのだ。そのずれは裕仁天皇の強力な専制君主としてのイメージを、できるだけ人畜無害な方向に誘導しようというアメリカの占領政策の中で生じたものだ。政策自体は成功した。が、後がない。対外的には、支那、朝鮮、東南アジアなど、まだ天皇という肩書きが、戦後処理の一貫として意味を持つケースもある。でもあと三十年したら? 「お人柄」だえで、一億の民草は統合されるだろうか。

 エドワード・ベア『裕仁天皇:神話に包まれて』を読んで一番感じるのは、そのずれの部分だ。昭和天皇の絶対君主制というのは、戦後生まれの人間にはピンとこない。天皇は状況もわからず、軍部に脅されて仕方なく戦争したのだ、という説をよく聞かされたし、実際の裕仁天皇の姿からは、どうみても「国家元首」的な迫力が感じられなかったからだ。でもそれは、戦後の占領政策の中で、アメリカ主導で作られたイメージなのだ、というのがこの本の基本的な議論だ。それを示すために、裕仁天皇が自分の意志を持った強力な君主だったことが、昭和のあらゆる事件に即して一つ一つ検証されている。

 他にやる人間がいなければ、この本はいずれぼくが訳すつもりでいた。日本で出す版元がないなら、台湾あたりで海賊出版して輸入してもいい。それだけの手間をかけて日本語化する価値のある本だからだ。エドワード・ベアはあの『ラスト・エンペラー』の著者である。清朝最後の皇帝溥儀は、大日本帝国の傀儡となって満州国皇帝もやったし、その資料集めの過程で裕仁天皇に関するネタも集まったらしい。もちろん、様々な政治的曲面で、裕仁天皇がどこまで状況を把握し、どこまで主体的に意志決定を行ったのかは、間接的に推測するしかない。しかし、周辺資料に基づくかれの調査の成果はすごく説得力があるし、何よりも読ませる。上下巻あわせて六百ページ近い本が、わずか数日だ。

 邦訳の唯一の難点は、天皇に対する敬語の使用だ。著者はヨーロッパ人なので、日本の天皇に対しては何の義理も感じていない。だから天皇や天皇一族に対して敬語は使わないだろう。あと、見返しに引用されてるマッカーサーの発言は明らかな誤訳。それを除けば本書の翻訳は正確無比。引用はすべて原典を調べ直すという手間をかけているし、原著では省略されたイギリスの学生による裕仁テーマの戯れ歌まで収録されている。原著に対する批判へのコメントもあり、若干ながら原著より充実した内容だ。敬語の使用は、無用な摩擦を避けるのに必要なことだったのだろう。

 本書の最後の部分では、外と中で顔を使い分ける現在の日本人に対し、批判が述べられている。それが天皇についてのあいまいな態度と同じだ、と言って。もし本気で戦後をやりなおし、本気でアメリカの日本占領政策を否定したいなら、同じくアメリカの占領政策である、天皇の戦争責任不問も白紙に戻すべきじゃないのか。自主憲法と同時に自主極東軍事裁判をやるべきじゃないか(こうはっきりと書いてはいないけれど)。大きなお世話ではある。でも、そのあいまいさのツケは、すでに現皇太子の奥さん探しの困難あたりに現れている。このままさっき述べた「ずれ」が拡大すれば、天皇制は確実に変更を余儀なくされるだろう。具体的な方向はわからないけれど、すでに素案づくりも始まっているかもしれない。

 いずれ平成天皇の伝記も出る。召使いどもの日記も出る。でも、この本の迫力に比べたら、見る影もないだろう。昭和のようなすごい時代を逃した不幸と言うべきか、幸せと言うべきか。この本の内容については賛否両論あるはずだけれど、昭和という時代の一つの異様さが、凝縮された形でえぐり出されているのはまちがいない。昭和生まれは必読、それに日本がお題目でない「国際化」をする気なら、本書に対する何らかの態度表明が必要になるのじゃないかしらね。だってこの本、すでにペンギンブックス入りの古典だもの。



CUT 1991-1992 Index YAMAGATA Hirooトップ


Valid XHTML 1.1! YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>