Valid XHTML 1.0!

City Road : At Random Book Review 1992-93


山形浩生


 本業は地域開発関連調査だが、不況で貧乏暇なし。下落するボーナスの補填に、休みの旅行も副業のネタに、小銭稼ぎに精を出す。おかげでこの冬は訳書が 4 冊。これで年が越せる。さてこの欄はしばらく旧刊や日陰の本を扱う。いまでこそ意義を持つ本ってのがある。そいつらにいい目をみせてやりたいからね。



連載 #1 1992.12

「完璧な旅の覚醒剤小説 ――『イビサ』村上龍」

 「旅人だけが場所への視点を持つ。住民には視点はなく、かれらにとっての場所とはむしろ生活感にまみれた鈍重な体験の集積である」というのは、現象地理学者イ・フ・トゥアン「トポフィリア」の正確な引用とは言いがたい。が、旅行の唯一の効用は、その鈍重な生活者の体験から身をもぎ離して、一時的にでも旅人の視点を手に入れることだ。それは旅先のみならず、戻ってきてからもしばらく続く。

 この「体験」から「視点」への移行は、本当は一種の恐怖だ。それを避けるために、人はツアーを組んだりして、なるべく日常の体験を旅の中に持ち込み温存しようとする。しかし、逆にわれわれを日本的日常から一瞬にして解き放ってくれるのが村上龍『イビサ』だ。

 いま、ソウルからの帰りの途中。もちろんソウルも韓国の田舎町ソクチョもイビサではないし、たかが三泊四日ほどの無邪気なお手軽旅行で黒沢真知子級の生命の意志が凝縮された世界が見られるはずもない。でも、現実の旅と『イビサ』を並行させるのは、イビサの読み方としても旅としても最高なのだ。行きの空港への車内で読み始めた『イビサ』の最初の 100 ページは、日本の日常への憎悪をかきたてる完璧な覚醒剤だし、続く 100 ページでたたきつけられる、黒沢真知子の研ぎ澄まされた六感への入力と記憶との融合は、そのまま旅するわれわれの感触と混じり合って麻薬的。そして後半の無茶苦茶な(実は変に理屈っぽい)部分に突入するのは、もう帰りの飛行機の中だった。そこはもう通常の旅行なんかでは及びもつかない、スピードボール後のようなハイな恍惚的覚醒の渦だ。世界に満ちる神が、霊が、生命の、進化の意志が黒沢真知子と交感する。だがわれわれはすでにあの日本の日常に向かって帰りつつあるのだ。悔しい、でもすごい。そのすべてを背負って、彼女はイビサに到達する。

 ため息とともに本を閉じると、眼下に犬吠崎が見えている。また日本だ。しばらくは続く旅人の視点も、週末を待たずに薄れてしまうだろう。だが、消えることはない。視点そのものは薄れても、それに至る契機なら、この日本の日常にだって存在しているのだ。黒沢真知子はガイドとして常にそこにいる。意志さえとぎれなければ、われわれも旅を続けられる。そしていつか、彼女に続いてわれわれもイビサに到達するのだ。イビサとは何か? 答えはこの小説の中にある。


連載 #2 1993.01

たぶん、若さと自由と敗北と ――『夢の言葉・言葉の夢』川又千秋

 この本は基本的に SF 論集なんだけれど、取り上げられている筒井康隆や J・G・バラードなんかが、本書刊行当時の 1981 年とは比べ物にならないポピュラリティを獲得しているこのご時勢だし何も SF 関係者だけに独占させておくことはなかろう。だってこの本は単なる SF についてこ小賢しい訳知りじゃないんだから。SF を媒介にした若さと自由と敗北の本なんだから。たぶん。

 「たぶん」と言ったのは、実はぼくにはこの本はよくわからないのだ。いくつかの本についての覚え書き。伝説の日本 SF ファン組織黎明期の至福。青臭い学生めいた愚痴。この本は、そんなものを固めて出来上がっている。SF でなくとも似た本は書けるだろう。マンガでも、ロックでも。渋谷陽一の『メディアとしてのロックンロール』や橋本治の『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』は、一部似たような感触を持つ。前者は、川又がここで名残を惜しみつつあるものを無情に切り捨てると宣言した本で、後者はそれに断固として別れを告げないと宣言した本で、でもだからといって『夢の言葉』が優柔不断なわけじゃなくて、これもまた強い決意に満ちた本で、しかしぼくにはその決意がわからないのだ。

 もちろんそれは、少年の純粋な心とかいう代物じゃない。それだけは避けつつ、川又は飛躍を重ねつつ論理を紡ぐ。決してわかりにくくはないその理屈が、だが毎回必ずウナギみたいに、どこかで必ずこの手からすりぬける。昔は何も知らなくて、だからこそ出来上がってしまった変てこりんな何かがあった。そろそろ若くはない。そして――とここで、ぼくは一生懸命手を振り回す。それは何か、こう、こういうものなんだ。でも、それを何と言えばいいのか、ぼくにはわからない。考えなきゃ。で、もう 10 年になる。

 たぶん往年のシティロード読者も、この本を読んで考えてみるべきだと思う。もちろんあなたは、SF マニアなんかじゃないだろう。それでもひょっとして、あなたならそれがわかってしまうから。そしてこの本がいとおしいと思ってしまうから。そう思えるあなたがぼくはうらやましい。本当に。妹は「ケッ」と言った。「気持ち悪い」と。そう言い切れる妹も、心底うらやましい。

 だって、ぼくはやっぱりよくわからないのだ。いまだに。まったく、何だってこんな本を後生大事にとってあるんだろう。まして、読み返したりするんだろう。首を傾げつつも、そのわからなさは毎年増えている。今年もよい一年でありますように。

近況:ああっ、ナンシー関が余計なことを! ダメです、あんなの真に受けちゃ! 今の不況にはもうチト続いてもらわないと困るんです! だから皆さん、さあご一緒に大声でどうぞ:「ああっ、ひっでえ不景気だ!」


連載 #3 1993.02

神話を抜け出せ ――『ふくろう模様の皿』アラン・ガーナー

 神話の意義は、現代人にはなかなか理解しがたい。SF には「神話もの」というサブジャンルがあって、古代神話と同じコトをハイテクにより未来の人間どもがやってみせる、というたぐいの代物なんだが、その多くは単なるパズルみたいなものだ。エディプス神話を題材にとった作品なら、どれだけ意外なかたちで最後の父親殺しなどにストーリーを持ち込むかが唯一の仮題だ。そうでなければ、単にストーリーの骨格を借りてきて、意匠だけを近代的にして目新しさをねらう、など、つまんなそうでしょう。こういうのは、決してもとの神話の骨太な生命力に太刀打ちできない。単に神話がだらしなく反復されているにすぎない。

 アラン・ガーナー『ふくろう模様の皿』が、こうした凡百の小説と一線を画するのが、神話がいまのわれわれに対してどんな意味を持つか、自覚的に取り組んでいるからだ。

 発端は、ふつうの日常生活、だが、屋根裏で見つけたふくろう模様の皿を機に、主人公の少年少女たちが最後に陥るもつれた人間関係は、その同じウェールズの血につたわる神話と全く同じものになっている。このままでは、神話と同じ悲劇的な結末を迎えるのはみんなわかっているのだけれど、でもプライドがそれ以外の選択を許さない。かつて同じ選択を強いられ、神話と同じ選択を行ってきた(それ故に苦しんできた)親たちが見守る中で、少年少女たちもまた選択を強いられる。

 この本は児童書に分類されていて、図書館に行っても児童書の高学年用の棚に置かれている。それ故に、この本は 20 年にもわたって絶版をまぬがれてきた。児童書は、「ナルニア国物語」シリーズを筆頭に、世界想像の神話や伝説がらみの名作を多く持つジャンルだ。でも『ふくろう模様の皿』はちがう。ここでの世界はすでに完成されている。その中で、神話は世代から世代へと反復され続けてきた、人を不幸へと追いやる枠組みでしかない。

 つまりガーナーにとって、神話とは人を縛る人間関係の構図であり、抜け出すべき何かなのだ。ちょうど天皇制や、あるいはユートピア/アルカディア神話と裏腹の社会主義や、資本主義がそうであるように。

 われわれはこの神話から抜け出せるだろうか。『ふくろう模様の皿』はそう問う。トマス・ピンチョンなら即座に否定するだろう。が、降り注ぐ一面の花に覆われた『ふくろう模様の皿』のラストは、何はなにとも希望にだけは満ちている。

近況:なんだこの新生 CR は! 前となーんも変わってねーじゃねえか! やはりあの時、手持ち資金で買収しちまえばよかった。なんせ最近、貯金が増えて仕方ないし、いいい浪費の機会だったのに。


連載 #4 1993.03

進化の果ての自由の敗北 ――『身ぶりと言葉』アンドレ・ルロワ=グーラン

 最近のマルチメディアやヴァーチャルリアリティをめぐる多くの議論は、この 30 年前の書物でほぼカヴァーされている。それは凡百のメディア論がほとんどマクルーハンを超えることがないのと同じだ。

 一言ですけーつのちがいであって、近年たれ流されているメディア論はおおむね、ここ数十年たらずしか考えていない。それにひきかえマクルーハンは、少なくとも文字の誕生以来数千年を考えつつものを言っているのだ。この『身ぶりと言葉』に至っては、シーラカンスよりさらに昔、脊椎動物誕生前夜以来の数十万年を見据えて書かれている。ボルボックスやヒトデやクラゲみたいな放射状の形態から分化して左右対称の道を進み、全面領域への機能集中と分化を模索した生物の進化への意志が、ことばを、都市を、コンピュータを産み出し、この資本主義社会の構築にまで連綿と貫かれているのだ、と。人間は決して異常な存在ではなく、その流れの中に、必然性をもって存在しているのだ。

 しかし、この爽快な認識は、一方で人間の将来への不安を投げかける。それは、今、人間が手にしているわずかな自由に関わるものだ。これは、個人が完全な社会の歯車と化すまでの、わずかな期間に咲いたあだ花ではないのか。

 その兆候はある。かつて、自由を体現していたマイクロコンピュータは、パソコンになるにつれて、決まった仕事をこなすための事務機器に堕していった。それは、自主映画やバンド・ブームが、一時的にはある種の自由を実現させつつ、やがてその輝きを失ったのと同じこと。「ぴあ」やこの「シティロード」が切り開いた情報誌文化だってそうだ。

 われわれは、人類は、こうして一時的な勝利を稼ぎつつ、全体としては敗北を重ね続ける。やがて出現するのは、個人性を欠いたアリやハチのような集団社会だ。飢えからも、セックスからも、記憶からも、想像力からも解放されて、すでに人間と呼べるかどうかもわからない生物の社会。そう、いまの日本のような。マルチメディアもまた、一時的な勝利の後に、そうした社会に奉仕するツールとして機能するだろう。ルロワ=グーランは、それ以外の可能性を否定してはいないのだが。

 この名著が、20 年ぶりに復刊された。

City Road インデックス YAMAGATA Hiroo J-Index


Valid XHTML 1.0! YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>