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City Road: Off (1992)


山形浩生



連載 #1 1992.04

「死」をめぐる統計とルー・リード

 生も死も、極端に個人的な現象であると同時に、多分に統計的な現象である。「一五三ショック」といって日本の出生率の低下が取り沙汰されていたのをご記憶だろうか。つい昨年のことだ。ここで出生率低下そのものを云々する気はないけれど、これが日本のどこへ行っても(若干の波はあるもの)なかなか一定した数字なのだ、ということはご理解いただきたい。

 死ぬほうも同じで、ある年代の人が死ぬ確率は、全国似たようなものである。生まれるほうなら、所得や教育水準などに応じて「こさえんのよしとこうぜ」という知的な決断が効いてくるが、死ぬほうは教育水準もクソもない。「死ぬのよしとこう」という判断は、今の人間にはまだできないのだ。死は平等である。死ぬべきヤツが一向に死んでないのは事実だが、クメール・ルージュ政権下のカンボジアのような例外を除けば、そいつらとてさほど違った条件下にあるわけではない(はずだ)。

 さて、この時、ある一つの(場合によっては複数の)「死」をネタに世相を見ようと言うこの欄の意義は、若干疑問符つきの部分があると個人的には思う。つまり、似たようなしがらみの人が同時期に死んだ場合、そのしがらみを取り出して「終わった終わった」と言ってもいいのか。単なる偶然、というのが大いにあり得るのではないか。

 もちろんここで取り上げるのは、人間に限らず何らかの「終わり」にまつわる話すべてなのだから、事情の違う場合も多々あるだろう。それにこうした雑文は、精密な分析を提供するのが目的ではなく、一時的なウケを取りさえすれば充分に役目は果たせる。ダシにされた死人がいまさら何か言うわけじゃなし、生き残っているわれわれはといえば、死人をダシに使いつつ、自分にお迎えが来るまで(もっともティモシー・リアリーとかテレビドラマの純愛おじさんとか、死なないつもりの人も最近はいるようだ)の気晴らしをこさえるのが精々なのかもしれない。

 しかし、それだけではないのだ、というのがルー・リードの新作「魔法と喪失」を聴くとよくわかる。これなら、ホトケも成仏できようというものだ。ふたりの知人の死を前にして、こじつけた深読みを持ち出すのではなく、死の確率がなぜそのふたりにふりかかってきたのか、それが自分にとってどういう意味を持つのかを、あくまで個人的に真剣に考えたこのアルバムは、やたらに美しい。いくら考えても答えが出る性質のものじゃない。が、その思考によって、ふたりの死は統計に回収しきれない存在になりおおせる。真の意味での供養とはこういうことである。

 もちろん身の程を知る人間であるぼくは、たかが千字強の雑文がルー・リードの名盤に匹敵する供養効果を持ち得るとは思っちゃいない。が、究極的に目指すべきは、ぼくにとってまちがいなくこの方角だ。

近況:この夏は雨が多く、横浜みなとみらいのランドマークタワーもよく育った。おかげでベイブリッジが隠れ、深夜残業の楽しみが減ったけど。


連載 #2 1992.06

アシモフと SF の死

 アイザック・アシモフの「鋼鉄都市」や「われはロボット」を今読むのは、昔書いたラヴレターを読むような気恥ずかしい体験だ。中学生の頃はむさぼり読んだ本多が、ホントに当時の歳相応のものでしかない。技術盲進。ナイーヴな世界観。大の大人がまじめな顔をしてこれを掻いていたのか、と思うと薄気味悪い気さえする。

 その薄気味悪いアシモフが死んだので、 SF 業界には久しぶりに華やいだ気分が漂っている。なにせ SF は最近、じり貧状態が続いてきた。その例証として、数ヶ月前、日本の SF 月刊誌双璧の一つであった「SF アドベンチャー」誌がついに月刊をあきらめている。判型を変えて、季刊化に向けて建て直しが図られているようだが、本稿執筆時点ではお目見えしていない。もはや、月刊誌を 2 誌支えられるだけのマーケットすらないのが日本の SF だ。だから今回のような葬式景気でも、ないよりは随分マシなのである。

 さて、アシモフの小説は今読むと薄気味悪い。だが、この薄気味悪いおじさんは、その薄気味悪さを何ら改めることなく、今日に至るまで現役の作家であり続けた。

 これはたとえばミック・ジャガーが未だにロックをやっているのと、現象としては似ている。しかし、今のミック・ジャガーが悪い冗談なのは事実として、かつてのストーンズは、現在なお通用する完成されたロックの原点を体現していた。ロックは、ストーンズに限らず、そうした強力な原点を持ち得ていたがゆえに、わけの分からない分節を遂げつつもかろうじて「ロック」という全体像を未だに保ちおおせている。

 しかし、SF はちがう。SF が原点として持てたのは、中学生にしか通用しないようなアシモフのジュブナイル小説だった。ストーンズなら、ヴァニラ・アイスが使ったような残存価値が現在でもある。アシモフにはない。アシモフには、現在利用できる資源が皆無なのだ。なのにそれはわずかな時期を除いて古典の座にとどまり続け、しかもアシモフ自信がその二番煎じ、三番煎じを生産し続けてきた。そしてそれが認められる。これはアシモフの気味悪さであるとともに、SF の気味悪さであり、不幸である。

 この薄気味悪さを、野阿梓という SF 作家が「中学生ホームルームの幼稚さを完熟させたもの」と評している。アシモフはその幼稚さを最後まで後生大事に抱えこんで死んだ。SF というジャンルは、その幼稚さへのノスタルジーに逃げこみ、それを再生産し続けることで延命を図ってきた。だが、その逃げ場はせばまっている。今回の死を契機に、それが一層明確になってくるだろう。遠からず、あの『2001 年宇宙の旅』原作者であるアーサー・C・クラークも他界するだろう。そのとき、今の SF の求心性は決定的に失われる。 SF ファンのぼくは、その日を楽しみにしている。

近況:今度、某誌に天皇制の悪口を書きます。正直言って、怖いです。が、とりあえずは無事に載るかが心配です。


連載 #3 1992.08

不動産と AIDS とコンピュータウィルス

 これが出る頃には相当の旧聞だが、前回の死亡欄を書いた直後に、世界最大の不動産開発業者オリンピア&ヨークが倒産した。こいつは結構ヤバイ。日本でも第一勧銀を筆頭に、銀行やメジャーな投資家はかなりの金をこいつの物件につぎこんでいる。日本でのバブル騒ぎを始めとして世界的に景気後退感が続き、そろそろみんなで「もういいかげん底だろう」と言っているときにころなので、「そうか、実はやっぱり世の中思ったよりひどかったのか」という雰囲気。「大したことない」と関係各機関は言うけれど、でも、裏では相当に青ざめているらしい。そろそろジワジワと大したことになるんじゃないかしらね。

 よくわからない話。『SPIN』の最近号に、「HIV ウィルスってのは実は AIDS の原因ではないんじゃないか」という変な記事が出ている。「AIDS 患者の精液などを調べても、HIV の抗体は検出されるけれど、ウィルスそのものはほとんど検出されない。されてもきわめて少量で、他人に感染するほどの量ではないことが多い」。この記事は結構いろいろ問題含みで、「AIDS は男から女へは感染するけれど、その逆はほとんどない」「AIDS 感染の実態は初期の高危険群(男の同性愛者と薬剤静脈注射者)の中にとどまっている」えーっ、そうなのぉ?!! もしそうなら、これまでやられている AIDS 研究はほとんど無駄で、男は(自分さえよければ)いっくらでもナマでできて、というすごい話になるではないの。(注:これは一時さわがれて、まだこの説を言っている人もいるけれど、でもすでに一応は否定されている)。

 まあこの記事が言いたいのは、「あまり過剰に AIDS の危険を言い立てるのは、かえってヒステリックな反応を招きやすくてよくないよ」という話なのだけれど、それにしてもこの話は信用できない。「日経サイエンス」7 月号「AIDS 流行の数学モデル」によると、話はかなりちがう。高危険群以外にも感染は広がりつつあるし、その速度は幾何級数的に増大している。ニューヨーク市の死因の第 1 位がかなり前から AIDS だったり、タイやアフリカの一般人の HIV 感染率が 10% を平気で超えていたり、というのを見ると、この「SPIN」の記事はアレなんだが、それにしても心穏やかではない。

 明るい話。ついにコンピュータ・ウィルス(の一種)の作者の首に懸賞がかかった。五百ドルというわずかな金額ではあるし、それにまだ個人ベースの活動ではある。でも数年前の Internet のワーム(まあ、ウィルスの一種だと思ってくれ)の作者の逮捕を数少ない例外として、これまでワクチンソフトの開発や予防措置の PR など、守勢にまわってきたユーザサイドがついて反撃に出たわけだ。過去のウィルス作者は、ここまで直接的な対抗手段は予想していなかっただろう。これでかれらが活動を少しは控えてくれるといいのだけれど。

 今回は、特に結論なし。ただ、「終わり」と「死」をめぐる、気になる話題 3 つである。

近況:ついに電子メールのアドレスをもらいました。m2449@rds1.gisen.nri.co.jp ですので、ご意見、ご感想などはこちらへもどうぞ。



City Road インデックス YAMAGATA Hiroo J-Index


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