富岡日記

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和田英 (1857 - 1929)


執筆は 1905-13年。本テキストは中公文庫版より山形浩生 作成。ただし富岡後記二年目の記録部分は「定本富岡日記」(創樹社, 1976) より作成。
pdf 版は http://cruel.org/books/tomioka/tomioka.pdf

要約: 富岡製糸工場の初期女工として働いた武家の娘、和田(当時は横田)英による、富岡製糸工場の記録と、彼女が故郷松代に帰ってから操業に参加した六工社の記録。当時の労働環境、女工の日々の生活、労働倫理や事業への参加意識が伺われる重要な資料。また、日本の西洋技術の習得およびその技術移転の実態も非常によくわかる。

著作権は 1981 年に期限切れとなった。


 

目次

富岡日記 (明治 6 年 2 月~ 7 年 7 月)
富岡後記 (明治 7 年 7 月~ 9 年頃)


 

富岡日記

私の身元

  私の父は信州松代(まつしろ)の旧藩士の一人でありまして、横田数馬と申しました。明治六年頃は松代の 区長を致して居りました。それで信州新聞にも出て居りました通り、信州は養蚕が最も盛んな国 であるから、一区に付き何人(たしか一区に付き十六人)十三歳より二十五歳までの女子を富岡 製糸場へ出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供(ひとみごくう)にでも上るように思いまして 一人も応じる人はありません。父も心配致しまして、段々人民にすすめますが、何の効もありま せん。やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、中には「区長の所に 丁度年頃の娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」と申すようになりました。それで父も決心致 しまして、私を出すことに致しました。

  私も兼ねて親類の娘が東京へメリヤスを製しますことを習いに行きました時、私も行きたいと 申しましたが、私より下に四人の弟妹がありまして、中々忙しゅうありましたから許しません。 残念に思って居りましたところでありましたから、大喜びで、一人でも(よろ)しいから行きたいと申 しました。母はその時末の弟を妊娠して居りました(後で承知致しました)。さぞ迷惑であった ろうと後になりましてから思いました。しかし父がそのように申しますから何とも申しません。 第一許さぬと申しはせぬかと心配致しました。祖父は大喜びで申しますには、

「たとい女子たりとも、天下の御為になることなら参るが宜しい。入場致し候上は諸事心を用い、 人後にならぬよう精々励みまするよう」

 と申されました時の私の喜びは、とても筆には尽されません。

 さてこのようになりますと可笑(おか)しいもので、よいことばかり私の耳にはいります。あちらへ行 けば学問も出来る、機場があって織物も習われると、それはそれはよいこと尽し、私は一人喜び 勇んで日々用意を致して居りますと、河原鶴子と申す方がその時十三歳になられますが、「お英 さんがおいでなら私もぜひ行きたい」と申されましたとのことで、父君もお許しになりました。 いよいよ両人で参ることになりました。(鶴子さんの父君は北越戦争の時松代藩より出陣の折、 総大将で若松城に乗込んだ方であります。)

 右様に取極めましたが、私はその前年当家(和田)へ縁組致します約束だけ致してありました から、当家へも右の次第を話しますと、幸い主人も東京へ一ニヵ月内に学問修行に参る心組のと ころでありましたから、承知してくれました。その時姉が一人ありまして、初子と申しました。 姉もまた、「お英さんが行くなら私も行きたい」と申しまして、直に行くことになりました。

 さあこのようになりますと不思議なもので、私の親類の人、または友達、それを聞伝えて、我 も我もと相成りまして、都合十六人出来ました。後から追々願書が出ましたが、満員で下げられ ました。

この時の人名

河原 (ヒトシ)(旧名左京)次女河原 鶴子十三歳
金井 好次郎金井 新子十四歳
和田 盛治和田 初子廿五歳
酒井 金太郎長女酒井 民子十七歳
米山 友次郎米山 嶋子十八歳
坂西 某次女坂西 滝子十五歳
長谷川 藤左衛門長女長谷川 淳子十四歳
宮坂 某未来之妻宮坂 しな子十四歳
小林石左衛門長女小林 高子廿一歳
次女同 秋子十六歳
小林 某長女小林 岩子十七歳
福井  友吉長女福井 亀子十八歳
塚田長作長女塚田 栄子十七歳
東井 某次女東井 留子廿一歳
春日 喜作次女春日 蝶子十七歳
横田 数馬次女横田 英子十七歳

父よりの申渡し母への誓い

  一同用意もととのいまして、いよいよ近日出立と申すことになりました時、父が私を呼びまし て、

「さてこの度国の為にその方を富岡御製糸場へ遣わすに付ては、()く身を慎み、国の名家の名を 落さぬように心を用うるよう、入場後は諸事心を尽して習い、他日この地に製糸場出来(しゅったい)の節差支 えこれ無きよう覚え候よう、仮初(かりそめ)にも業を怠るようのことなすまじく、一心にはげみまするよう 気を付くべく」

 と申渡しました。

 母はこのように申しました。

 「この度お前を遠方へ手放して遣わすからには、常々の教えを能く守らねばならぬ。また男子方 も沢山に居られるだろうから、万一身を持ちくずすようなことがあっては、第一御先祖様へ対し て申訳がない。また父上や私の名を汚してはなりませぬ」

 と申しましたから、私はこのように申しました。

 「母上様、決して御心配下さいますな。たとい男千人の中へ私一人入れられましても、手込めに 逢えばいざしらず、心さえたしかに持ち居りますれば、身を汚し御両親のお顔にさわるようなこ とは決して致しませぬ」

 と申しましたら、母が、

 「その一言でまことに安心した。必ず忘れぬように」

 と申しました。私は自分で申しましたことを一日も忘れずに守って居ります。

 一行の人々も皆このように申されたであろうと存じます。

姉と(しもべ)との餞別

  私の姉が紙切にこのようにしたためてくれました。

  

    富乱れても月に昔の影は添ふ

        など忘るなよしき島の道

  

 (しもべ)はたんざくに、

  

    曇りなき大和心のか父みには

        うつすも安きこと国の(わざ)

  

 姉は松代町広小路の真田と申します叔母の家に十七歳で縁付きまして、私よりニツ上でありま す。只今は埴科(はにしな)郡西条村と同郡東条村両学校の裁縫の教師を致して居ります。松代婦人協会と愛 国婦人会の幹事を致して居ります。

 この(しもべ)は同郡芝村の彦四郎と申す者の次男で、私の父が明治初年から二年まで松代藩の公用人 を勤めました時、東京で召使いました者で、山越小三太と申し、一生横田家に多く居りましたが、 先年故人になりました。至って正直者でありましたが、先祖が立派な士族で、帰農致しました後 はとかく変ったことを致したがりまして、一生家も持たずに終りました。

出立付添の人々

 明治六年二月二十六日、一行十六名、松代町を出立することになりまして、父兄も付添として 参りました。金井好次郎・和田盛治・長谷川藤左衛門・小林石左衛門・米山某・小林岩子母等の 人々でありました。旅費は富岡で渡りましたように覚えます。一行の内、私の父から取替えてや った人もありますが、そのままに返さぬようであります。付添の人々は皆自費であります。 一同私の宅へ寄りまして、朝の七時頃馴れし我が家を後にして、喜び勇んで出かけましたが、 後から考えますと、実に世間見ずほど世に気楽な者はないと存じます。これまで遠い所は八幡(やわた)か 善光寺位でその他は知らぬ私共が、見ず知らずの他国へ何の心配もなく出かけますとは、どこま でのん気な者やらと身の毛も弥立(よだ)つように存じます。(只今の世なら当り前でありますが、その 頃は中々開けませんのに。)

銘々の服装

 河原鶴子さんは紫メリンスの袴にやはり紫の羽織、赤のシャツ、お着物は(しま)。和田初子さんは 黒縞呉紹(ごろ)の袴に同紋呉綿羽織、赤縞ネルシャツ、着物は縞。その他別に変った風はありませんで した。

私の服装

 これが実に珍無類、只今なら丁度ポンチ絵にでも有りそうな形で、どのように真面目(まじめ)な人でも 一目御覧になれば笑わずにはおいでなされますまい。父が辰年の戦争の時、松代藩を代表して甲 州の城受取りに参りました時新調致したと申す黒ラシャの筒袖に、紺地に藤色の織出しのある糸 織どんすの義経袴、無論(ひも)と裾には紫縮緬が付けてありました。殊に父は二十貫目もある肥満な る人の着ましたのを、そのまま少しも直さずに私が着しまして、例の義経袴をはき、赤スコッチ のメリヤスを着込み、羽織は祖母から伝わりました真田公より拝領の打かけ黒縮緬五ツ所紋(わ り洲浜、只今の男子方の御紋ほどの大きさ)、それを羽織に縫直しまして、私がごくその頃裁縫 が下手(へた)でありましたから、紋が合って居りませんと人が笑いましたと後で聞きました。

 右を着しまして、意気揚々と歩いて参りました。父は至って新流行を好みましたから、メリヤ スなどもその頃あまり着る人のない時私に求めてくれました。何でも西洋人の居る所だから筒袖 の方が宜しかろうと申しましたから、私も喜んで着て参りました。只今でも母や姉と寄合います と、そのことを申出して笑います。いかにその頃世間の有様が分らなかったかはその一事でお分 りになりましょう。

道中のいろいろ

  一行は親類その他の人々に見送られ、またその風俗のおかしさに人が立止り見られて、矢代ま で参りますと見送りの人々に別れ、その日は上田まで馬にも駕籠(かご)にも乗らず参りまして、宿屋に 一泊致しました。

 翌二十七日は追々疲れる者も出来まして、駕籠に乗る人、馬に乗る人、代り代りに致しました。 その頃は人力車は一台もありませんから、多く馬に乗りました。只今の方は御存じありますまい、 馬の(くら)の両側に炬燵櫓(こたつやぐら)を結び付け、その中に入るのであります。馬一(ぴき)で二人乗せます。でくで く歩きますから中々恐ろしくなりました。年のしない人は泣出しました。このようにしてその日 は追分の油屋と申す宿屋に泊りました。宿場女郎お竹と申す女中の別品(べっぴん)がお給仕に出ました。 翌二十八日は軽井沢を通り、碓氷(うすい)峠にかかりました。旧道でありましたから中々道が()しく、 飛石や禰石(ねいし)などの難所も思いましたほど難儀ではありません。皆一生の思い出に草鮭(わらじ)をはきたい と申しまして、大かたはきました。名物の力餅のおいしかったことは只今も忘れません。その日 は坂本に泊りました。

 翌三月一日早朝、坂本を出立致しまして、たしか安中(あんなか)の手前を左に折れ、段々参りますと、高 い煙突が見えました。一同いよいよ富岡が近くなったと喜びも致しましたが、ここに初めて何と なく向うが気遣わしく案事(あんじ)られるように感じました。それより富岡町に着致しまして、佐濃屋と 申す宿屋に入りましたのは未だ早う御座いましたから、町を見ますと、城下と申すは名のみで、 村落のような有様には実に驚き入りました。

 翌二日、一同送りの人々に付添われまして、富岡御製糸場の御門前に参りました時は、実に夢 かと思いますほど驚きました。生れまして煉瓦(れんが)造りの建物など稀に錦絵位で見るばかり、それを 目前に見ますることでありますから無理もなきことと存じます。それから一同御役所へ通されま した。尾高様・佐伯木様・加藤様・井原様・中山様その他御役人皆テーブルに向っておいでにな りまして、色々申聞けられまして、父兄に合札を渡されました。女子の取締の方がおいでになり まして、工女部屋につれられて参りました。その時付添の人も応接室より一同の部屋まで参りま して、皆帰りました。私共は人ずれぬようだからと総取締青木だい子様の隣室に置くと申渡され まして、河原鶴子・金井新子・和田初子・春日蝶子と私と五人一緒に居ました。六畳敷に六尺の 押入二ヵ所、中々込合いますから四人に致すようと申されましたが、何れも放す訳に参りません、 皆いやだと申しますからそのように申しましたら、それではそのままで宜しいと申されました。 その他の人々も近き所に三人四人と部屋がきまりました。この日入場の時は、私もさすが気恥か しい心地が致しまして、筒袖・袴はやめまして只の着物に羽織を着て参りました。

 その日はそのまま部屋に居りまして、翌三日、いよいよ事業に就きますことになりまして、先 に入場して居ります人々は午前六時過ぎ頃その身の場所に参りますが、一番笛で部屋を出、二番 笛で入場致すことになって居ります。一番笛のならぬ先から工女部屋の出口に待って居る人が沢 山ありますが、その口より一足たりとも外に出ることは許しません。一番がなりますと、工女部 屋総取締鈴木様(一人、男子)か副取締相川様(男子)この御両人の内御一人と女の取締の御両 人先に御立ち、東七十五間(まゆ)置場外長廊下を通り、また七十五間の繰場の正真中の正門から入場 致しますが、それまで行列正しく参るのであります。その長廊下の真中ほどに御役所があります から、いつも役人方がその口に出て見て居られます。万一横飛びなど致す者がありますと直に叱 られます。

 このようにして一同出ました後で、私共一行は前田万寿子と申す副取締の方につれられて、ち ょっと繰場に入れ御見せ下され、直に繭えり場に御つれ下され、その日から一同繭を選分けるこ とになりました。この繭置場は西でありまして、同じく七十五間二階建て煉瓦造りであります。

場内の有様

  私共一同は、この繰場の有様を一目見ました時の驚きはとても筆にも言葉にも尽されません。 第一に目に付きましたは糸とり台でありました。台から柄杓(ひしゃく)(さじ)、朝顔二個(繭入れ、湯こぼし のこと)皆真鍮、それが一点の曇りもなく金色目を射るばかり。第二が車、ねずみ色に塗り上げ たる鉄、木と申す物は糸枠(いとわく)、大枠、その大枠と大枠の間の板。第三が西洋人男女の廻り居ること。 第四が日本人男女見廻り居ること。第五が工女が行儀正しく一人も脇目もせず業に就き居ること でありました。一同は夢の如くに思いまして、何となく恐ろしいようにも感じました。

まゆえり場

  一同同場に入りますと、場内を見廻ります、高木と申す書生に引渡されました。広く高きテーブ ルに大勢ならんで一心にえりわけて居りました内の古参の人が参りまして、私共をそれぞれ場所 に付けまして、えりわけ方を教えてくれましたが、これが中々()つかしくあります。繭の丈から 大きさ、しぼ(・・)のより工合の揃ったのでなくてはいけません。針でついたほどの汚れがあっても役 に立ちません。選分けましたのとえり出しましたのを、高木と申す人と教えた人で改めまして、 少しでも落度があると中々やかましく申します。

 隣の人と一言でも話しますと、「しゃべってはいけません」としかられます。またベランと申 す仏国人が折々見廻りに参りまして、もし話でも致すところを見付けますと、「日本娘沢山なま け者有ります」と非常に叱りますから、(よんどこ)ろ無く無言で選分けて居ますが、只さえ日本造りの風 通しの宜しい家に住居(すまい)なれた私共が、煉瓦造りの窓位の風で物足らぬように感じますに、山の如 く積上げた繭の匂いにむし立てられ、日は追々長くのどかになりますから眠気を催しまして、そ の日の長く感じますことはお話の外であります。困難は兼ねて覚悟のことながら、実に無事に苦 しむと申す有様、私もほとほと(こう)じましたが、ここが父に申付けられたところだ、()く覚えねば ならぬと出立前皆から申されたことや何か思い出しては辛抱致して居りました。

 その内段々暖かになりまして、蝿が沢山出て参りました。あまり退屈(たいくつ)でたまりませんで、誰が 致しましたか蝿を捕えまして、羽根をもぎまして、蝿の背中に、ミゴの小さいのをさして、それに まゆの綿をより付けて、繭を一粒付けて引かせました。中々面白うございますから、追々皆が致 しまして、私までやりました。私はミゴに小さい紙を付けてさしましたから、丁度旗を立てたよ うになりまして、皆下を向いて内々笑って楽しんで居ますと、つい高木さんが見付けまして、思 わず笑いましたが、また真面目(まじめ)になりまして、これは誰が致しましたと尋ねましたが、一同存じ ませんの一点張りで通しましたが、その後はこれもすることが出来ません。来る日も来る日も辛 抱はして居ますが、一日も早く繰場に出られるようにと思いまして、ある時高木さんに、いつ頃 繰場に出られましょうと尋ねますと、この二十日頃山口県から四十名ほど入場するからその時出 して上げると申されました。それで一同喜びまして、日の立つを楽しんで店ますと、段々匂いに も業にもなれまして、さほどつらいとも思わぬようになりましたが、繰場に出たいと思う心は同 じです。

諸国よりの入場者と同県人の大多数

  ここでちょっと申します。諸国より入場致されました工女と申しまするは、一県十人あるいは 二十人、少きも五六人と、ほとんど日本国中の人にて、北海道の人まで参って居ります。その内 多きは上州・武州・静岡等の人は早くより入場致して居られましたから中々勢力が大した物であ ります。この静岡県の人は旧旗本の娘さん方でありまして、上品でそして東京風と申し実に好い たらしい人ばかり揃って居りました。上州も高崎・安中等の旧藩の方々はやはり上品でありまし た。武州も川越・行田等の旧藩の方々は上品で意気な風でありました。さすが尾高様の御国だけ に、取締などは皆川越辺の人ばかりでありました。

 さて長野県はと申しますと、実に入場者の多きこと二百名近くありまして、私共が一番後から 参ったように思われます。小諸・飯山・岩村田・須坂等の方々は中々上品でありました。すべて 城下の人は宜しいように見受けました。このように申しましたら御立腹になる方もありますかも 知れませんが、山中また在方の人は只今のように開けませんから、とかく言葉遣いその他が城下 育ちの人のようには参りません。何に致しましてもこのように沢山居りましてはその内に色々の 人がありますから、ちょっと行儀悪う御座いましても、あれは信州の人だ、また信州の人があん なことをしたこんなことをしたと中々やかましく申しますから、それを私共が見聞き致しますと 何とも申されぬほど恥かしく、またつらいように思いまして、私共一同は決して信州と申さぬこ とに致しまして、長野県松代と申して居りました。只今丁度皆様が洋行遊ばして同胞の行状など 藤し穣に申されるをつらくお思い遊ばすと同じ位かと存じます。それで、上州・武州の人は行儀 や言葉遣いが正しいかと申しますと、中々悪い人が沢山居りましたが、そこは役人方が多くその 辺から出て居られますから勢いが違います。決してはたの人が何とも申しません。実に恐ろしい ものであります。

山口県工女の入場と我々の失望

  高木さんから申聞けられましてから、一同一心不乱に勉強致しまして、その日の至るのを待っ て居りますと、いよいよ三月二十日頃山口県から三十人ほど入場致されました。私共の部屋は南 下部屋で総取締青木様の隣でありまして、応接室に向ってありますからたとい一人の入場者があ りましても直に分ります。殊に三十人ほどもありまして、その頃長州からおいでのことゆえ御様 子もよほど違います。袖も短く御着物が大かた木綿の紺がすりの綿入れ、帯も木綿の紺がすりが 多くありました。中にはずいぶん上等な衣服を着た方もありました。皆士族の方だと申すことで 中々上品でありました。それを見ました私共の喜びはどのようでありましたろう。

 いよいよ翌朝は銘々繰場に参る下用意を致しまして、手拭など忘れぬように互に注意を致しま して、やはり繭えり場に出ましたが、今にも繰場につれて行かれるかとそれのみ待って居りまし たが、十二時前まで何の沙汰もありません。それからはばかりに参る風にてガラスから繰場の中 を見ますと、驚きますまいか、待ちに待ったるその人々は入場直に糸をとることになりまして、 皆々口付の教えを受けて居ります。私共は驚きが通り過ぎて気ぬけのしたようになりまして、直 にも泣出したい位でありましたが、繭えり場にも七八十人も工女が居ります、その中でさすがに 泣く訳にも参りません。その内に笛が鳴りまして昼食に帰りましたが、中々食事どころではあり ません。皆中合したように私の部屋に大勢同行の人々が参りまして、皆泣いて居りました。こん な依怙贔屓(えこひいき)をされてはこの末とてもどのようなことをされるか分らぬと申す者やら、両親がすす まぬのを無理に来たから罰が当ったとか、色々に申しまして、畳に顔を付けて泣いて居ります と、取締の部屋へおいでになりました井原様と申す役人が私の部屋をおのぞきになりまして、私 をお呼び遊ばし、皆どうしたのだとお尋ねになりました。私も目を腫らして居りましたが、黙っ て居る場合でないと存じまして、実は皆繰場に参りたいと存じまして、先日高木様に伺いました ら、山口県の方が御入場次第出してやると御申聞けでありましたから、一心不乱に精を出して 居りましたところ、山口県の方は一日も繭えりをなさらずに直に糸とりにお出しになりました。 あまり残念に存じまして一同泣いて居る所で御座いますと、恥かしいことや何かに気も付かずに 申しますと、井原様もよほどお困りの御様子で、それはどうした都合だか早速繰場の方を問合せ て遣わすから、機嫌を直して出かけますようと申されました。その内に笛もなりますから、皆泣 顔を直して参りまして、下を向いて事業をして居りました。この日は何事も申さず終日暮しまし た。

 しかし私共一行はどのようなつらい悲しいことがあっても国元へは通信せぬことにして居りま した。只でさえ遠国へ手放して置く両親兄弟姉妹が中々心配して居られるだろうから、珍らしい こと、面白いこと、場内の広大なこと、規則のきびしいことなどのみを報知して、少しでも喜ば せ且つ安心致させるようにとたがいに戒め合って居りましたから、この事件も別して悲しく感じ ましたのであります。

高木氏へ質問並びに糸揚げ

 翌日になりますと、一行の内年長者なる東井とめ・小林高を初めそろそ杢目回木さんに過日の約 束の違いしことを尋ねました。私もこのように申しました。

 「先日、山口県の方が御入場になり次第繰場へ出して下さると仰せられましたが、いよいよ御入 場になりまして、一日も繭えりもなされず、皆糸とりにおなりなされましたは、何故山口県の方 ばかり直に糸をおとらせなされまする御都合か伺いとう御座ります。私共は国元を出立致します 時、父より申聞けられたことも御座いますから、その御様子次第(くわ)しく申遣わさねばなりませ ぬ」

 と申しますと、高木さんも前から心配しておいでの様子で、「お前方の申されるのは実に(もっと)もで あるが、この度のことは西洋人が間違えたのだから、この次こそは都合して出して上げるから、 そのように腹を立てずに居ておくれ」と申されました。その後は何も申さず、一心に精を出して 事業をして居りました。

 四五日立ちますと、一行の内七八人指をさされました。(ここでちょっと申しますが、何れへ 代りますにも決して口で申付けるということはありません。ちょっと手招きをして指をさして、 つれ行く人は先に立ち、さされた当人はその人の後から付いて参るのであります。)その時の皆 の顔と申しましたら、とても口も結ばれませんようでありました。それより繰場に入りまして、 皆糸揚げにされました。その頃富岡製糸場の糸揚げの人は大かた幼少な者でありましたが、また 私共のような年の人も居りました。通例は十二三歳より十四五歳であります。

糸とり釜と糸揚げ

 その頃(かま)の数が三百ありましたが、ようよう二百釜だけふさがって居りました。一切れ五十釜、 片側二十五釜であります。その後に揚枠が十三かかって居ます。西から百釜分を一等台と申しま した。その次五十釜を二等台と、その次五十釜を三等台と申して居りましたが、私はその一等台 の南側の糸揚げの大枠三個持つことになりまして、小枠は六角でありまして中々丈夫に出来て居 ります。大枠も六角であります。小枠から揚げますに、まず水でしめしまして、下の台に小枠を さす棒があります。それにさしまして、六角の上に真鍮の丸い板金を乗せるのであります。糸が 角にかからぬように致しまして、ガラスの上から下がって居るかぎにかけ、それよりあやふり(・・・・)に ガラスのわらびの形の物があります、それに通して大枠にかけるのでありますが、中々面倒なも のでありまして、つなぎ目はごく小さく切らねばなりませず、横糸が出ましてはいけません。口 の止め方その他色々のことを年下の人に教えてもらいましたが、中々やさしく叮嚀(ていねい)に教えてくれ ました。

 さて弟子ばなれを致しまして、いよいよ一人で揚げますようになりましたが、その切れること はお話になりません。何故と申しますと、糸とりが切っても一向つなぎません。殊に友より(・・・)であ りますから少しむらになりますと、直に横に参りまして切れます。それを決してつなぐことが出 来ません。前に申しました通り機械が鉄でありますから、所々へ油をさします。それが運転致し まして、丁度油墨のようになって居ますから汚れが付くといけませんところから、つなぎますと ころを見付かりますと大叱られでありますから、枠の廻る所へちょいとかけます。枠をはずしま す時は丁度短いつづみのようであります。それ故切れるの切れないのと、大枠三個持って居ます と小枠が十二かかるのでありますが、中々つなぎきれません。実に泣きました。

糸揚げと迷信

 そのように切れますところから、私は常々至って神信心を致しまして、毎朝人より一時間位早 く起きまして、両親兄弟姉妹その他の心願を一朝もかかさず祈念致して居りましたから、このよ うな時も神の御力を願うより外はないと存じまして、糸を揚げながら一心不乱に大神宮様を祈っ て居りまして、南無天照皇大神宮様この糸の切れませぬよう願いますと、このことを申続けまし て、少々切れぬことがありますと全く神の御助けと信じまして、その間は大枠と大枠の間の板に 腰をかけまして、糸を見つめて両手を合せ指と指とを組み、大声に申しつづけて居ります。しか し蒸気の音が実にひどう御座いますから、そばに居る人にもわかりませんが、毎日毎日そのよう に致して居りますから、何を申して居るかと糸をとる人があやしんで後をふり向いて見て居りま す。

 そして糸をしめしに、明釜の所へ参ってしめすのでありますから、私も明釜へ参ってしめして 居りますと、その次の釜に静岡県の人で旧旗本の今井おけいさんと申す人が居られまして、「あ なたは毎日何を言っておいでなさるのです」と申されましたが、人に申すべきことでありません から私は笑って居りましたが、しめしに参る度ごとにやさしくお聞きになります。あまり親切に お尋ね下さいますので、つい私も申さぬ訳にも参りませんから、「実は糸が切れて切れて困りま すから、大神宮様を信心して居るのであります」と申しましたら、非常に気の毒がって下さいま して、「私が切れぬように骨を折ってとって上げるから揚げて下さい」と仰せになりまして、と って下さいました。そのことを隣釜の人にもお話しになりまして、その人も気を付けてとって、 私を呼んで揚げさせて下さいました。その他にもそのようにして下さいましたから大層楽になり まして、これも(ひと)えに神の恵みと喜んで居りました。しかし一心に揚げて居りますことを糸揚場 受持の書生さんが見て居られまして、「能く精を出します、今に糸とりにして上げる」と仰せに なりました。その嬉しさは今でも忘れません。

 その内に或日指をさされまして、三等台の北側につれられまして、いよいよ糸とりのお仲間入 りが出来ました。

糸とり方指南

 その日私に糸のとり方を教えてくれた人は西洋人より直伝の人で、入沢筆と申す人でありまし たが、実にやさしく教えてくれました。退場の時などは私の手を引き妹の如くにしてくれました。 私は只さえ嬉しく思いますに、また師と敬うその人は右の次第でありますから実に喜びまして、 皆信心の徳だと存じまして、その人を私も尊敬して居りました。

 その翌日その人は何か止むを得ぬことで休業致しましたから、代りに教えて下さいました方は 安中藩の松原お若さんと申す方で、私と同年位で美しいやさしい方で、やはり入沢と申す人の如 く私を愛して下さいました。

 その日とその翌日お若さんに習いまして、弟子ばなれを致しまして、新釜と申しまして段々三 等の下の方の釜が明きまして其処へ移されました。

 その頃教えてくれた人の所へ礼に参ることでありました。私は入沢さんと松原さんと両方へ参 りました。すべて師弟の間は互に親しみまして、弟子が昇給致しますと非常に喜んで下さいます ほどでありますから、なるべく出入にも見付けて手を引合います。一日の御弟子ではありますが、 入沢さんもやはり私に出合いますと手をお引きになります。私は初の師でありますから殊に敬っ て居りました。

父の来場

 私の父が徴兵を高崎の営所へつれて参りまして、帰りに場内視察並びに一行動静見聞のため四 月初旬頃参りまして、尾高様に親しく御、面会致しまして、追って国元に製糸場創立のため諸事取 調べたき旨願いました。尾高様は快く御承知下さいまして、場内は申すまでもなく残らず御案内 下さいまして、拝見致しまして、書類等までお貸し下さいました。三日間滞在致し、写して帰り ました。(従者山岸広作と申す者にも手伝いさせて写しました。)

 繰場を尾高様が御つれ下さいます。父がつれて参りました従者山岸広作が結髪に洋服を着用致 して居りましたので、皆内々笑いまして、これには私も閉口致しました。笑われますのも実に尤 もなることと存じます。中廻りの書生などは皆洋服ばかりで居りますが、さすが仏国人と日々一 緒に勤めて居りますから、その姿勢の正しいこと、えり付のホワイトシャツなどで一点の汚れも ありません。髪は美事にわけて水の垂る如くに見えて居ます。只今開けましたこの東京へそのま ま参られましても決して見苦しくはあるまいと折々思います。

 さて父の滞在中日曜日がありまして、一行十六名父の旅宿に参りました。国元の伝言また様子 など承り居りますと、父が柏餅を山の如く出してくれました。何か日頃甘い物もろくろくいただ きませんから、一同大喜びで皆尽してしまいました。後年に至りましても折々、お前たちが柏餅 を沢山食したには驚いたと笑いました。そこで一同は国元の親たちや兄弟に何ぞ送りたいと申し まして、寒国だから珍しかろうと申しまして茄子(なす)胡瓜(きゅうり)などを一同から父に頼みましたので、父 も閉口したと、これも一つ話になって居りました。

一行残らず糸とり

 私共一行は私と同時位に皆糸とりになりました(父の来場後)。父よりも製糸場創立のことも 承り、また出精致しますよう呉々も申聞けられまして、一同実に勉強して居りました。一行一同 一心に一ノ宮大神宮様を信心致しまして、日曜日などは一ノ宮へ参詣致して、業の上達致します ように祈って居りました。夜分互に行き来致しまして、今日はどの位とれたとか糸が切れたとか、 実に余念なく従事致して居りました。

中廻りの次第

仏国人 男  ブラット、ベラン
女  クロレンド、マリー、ルイズ

 右の西洋人は上から下まで見廻ります。

日本人 男  国重 某(山口県)弘 某(山口県)
白根某(山口県)佐伯木次郎(山口県)
三好某(山口県)長野某(山口県)
村非某(山口県)高木某(静岡県)
中島某(静岡県通訳兼)某名失念(静岡県)
児玉某(石川県)深井某(高崎)
村瀬某(長野県上田)稲垣某(長野県小諸)

 右は一人にて二十五釜受持、繭えり場・糸揚場見廻りもこの内。

 日本婦人中廻り

   尾高 勇   この方は尾高様の令嬢、只今は渋沢男御子息の令夫人の筈に有之。

   青木 けい  総取締青木たい様の御孫

   森村 時 (武州)  畑銀 (七日市)

   太田たい (武州)  笠間愛 (武州)

   轟 とね (武州)  若林若(高崎)

   磯貝某 (上州小幡) その他の姓名忘れました。

  

 右は五十釜に三人、二十五釜に一人ずつ。一人は二時間ごと位に交代。一釜を三人で代る代る に糸をとって居ります。男女二人二十五釜の前を行き来して、糸のむらになりませんように見て 歩きまして、太過ぎても細過ぎても切れてしまいます。湯かげん、しけの出し方、(さなぎ)の出し方等 やかましく申されます。それで聞きませんと叱られます。その上西洋人が見廻りまして、目に止 りますと中々厳しく申します。これは直に工女中の評判になりますから、如何なる者も恥かしく 思いますように見受けます。実に規則正しいもので、あれでなければ真の良品は製されぬかと思 います。私は後年に至りましてもとかく富岡風で通しました。

皇太后陛下皇后陛下御行啓

 たしか六月頃かと存じます。

 皇太后皇后両陛下行啓になりますことに相成りまして、その前工女一同紺がすりの仕着せと小 倉赤縞の袴が渡りました。一同はこれを着て当日業を致すことに極まりました。それで工女一同 も皆思い思いに(たすき)・手拭等美しく致しましょうと思いまして用意を致し、その日の至るを指を折 って待って居ります内に、明日御行啓と申すことになりまして、その日下御見分のため女官の方 が五六人御来場になりました。

 その女官の方が越後縮(えちごちぢみ)(かすり)のお帷子(かたびら)を召して、御帯はお下げ帯でありました。これは只今の方 は御存じのない方もおありかも知れませんが、白の綸子(りんず)でありまして、両端が一尺三四寸ほどが だきしんが入って太く丸く六寸廻りほど御座います。それを結んで下げておいででありますから、 見なれない者には中々珍しく思われます。お髪は静の椎茸(しいたけ)たぼより一際(びん)が張って居ります。(まげ) は実に小さく、(こうがい)は一尺余も御座います。おしろいは真白につけておいででありましたから、場 内の者残らず内々笑いました。

 その夜部崖長が部屋ごとに廻りまして、「今日は女官の方を見て皆さんお笑いになりましたと 申すことで、お役所から大そうお小言が出ました。明日は福助さんのような方がおいでになりま すが、万一笑った人がありますと急度(きっと)罰を申付けるから、その心得で決して笑わぬよう申伝える ようとのことであります。またお通りの折お辞儀を致してはなりませぬ」と申付けられました。 私共一同は中々心配のことでありました。万一笑いましては大不敬に当りますから。

御行啓当日場内の有様

  いよいよ当日となりました。場内は実に清潔に掃除致してあります。その頃は三百人残らず揃 うて居りまして、下の台のはずれ東入口の所に繭選(まゆえ)りをその日限り致して居ます。

 いよいよ正門(これは日々入場致します入口のことであります)よりブリューナ氏尾高氏御先 導申Lげまして、三等台のはずれ繭えりを致して居る所までしずしずと御行啓になりまして、繭 を御覧になりました。この時まで蒸気も車も止めてありましたが、其所へ御行啓になりますと同 時に、蒸気を通し車も運転を致しました。それまで工女一同(たすき)をはずし、手を膝に置き下を向い て居りましたが、その時直に棒をかけ業を致しました。その日は中々笑うどころではありません。

 神々(こうごう)しき竜顔を拝し奉り、自然に頭が下りました。前日御来場になりました女官の方もおいで になりましたが、すっかり御服装が違いまして、白綾の御召物に()のお袴でありました。

 さて両陛下の御衣は、藤色に菊びしの織出しのある錦、御一方様は萌黄に同じ織出しのように 拝しました。御袖は大きく太き白のじゃばらで、御袖口に飾縫いがしてありました。丁度親王様 の御衣のようでありました。緋の御袴を召し、金の御時計のくさりをお下げになりまして、御(くつ) は昔の塗鞜(ぬりぐつ)と拝しました。御ぐしはお(びん)が非常に張って居りまして、お鬢裏(びんうら)が前から能く拝され ます。御下げ髪の先に白紙の三角にしたのが付いて居りました。女官の方も皆その通りの御髪で ありました。

 それよりまた元の正門の方へ御戻りになります時、下から二切目の北側の角から五六釜目に私 はその頃居ました。その後釜に仏国人のアルキサンと申す人が三釜の人をわきによせてその場に 入りまして、糸を繰ります所を御覧に入れました。二十分位その前に、両陛下御立ち遊ばされま して、御覧になりました。私はその頃未だ業も未熟でありましたが、一生懸命に切らさぬように 気を付けて居りました。初めは手が震えて困りましたが、心を静めましてようよう常の通りにな りましたから、私は実にもったいないことながら、この時竜顔を拝さねば生涯拝すことは出来ぬ と存じましたから、能く顔を上げぬようにして拝しました。この時の有難さ、只今まで一日も忘 れたことはありませぬ。私はこの時、もはや神様とより外思いませんでした。六百名から工女が 居ますから、ずいぶん美しいと日頃思った人が御座いますが、その人の顔を見ますと、血色が土 気色のように見えまして、実に驚きました。これより以上申しましては不敬に当りますから見合 せます。

 それより二等台より一等台に入らせられまして、西繭置場に便殿が御座いましたから其処に御 休憩になりました。ブリューナ氏夫妻拝謁(はいえつ)仰付けられました。

ブリューナ氏夫人並びにクロレント服装

 ブリューナ氏の夫人は実に美しい人でありました。ふだん一日置き位にブリューナ氏と手を引 合って繰場の中を上から下まで歩みますのが例でありました。服装はいつも美事でありましたが、 御行啓当日の服には実に目を驚かせました。あれが大礼服と申しますのか、胸と腕とは出しまし て、白のレイスのような品に桜の花のようなる模様がありまして、その下にも同じような品で二 枚重ね、一番下に桃色の服を着して居ります。その色が上まですき通りますから、その美しい 神々しいこと何とも、言いようがありません。裾は六尺ほども引いて居りました。そして白ビロウ ドのような帯を結んで居ましたが、丁度日本の男子のはさみ帯のように並べて立てたようにして 居りました。顔には網をかけ、襟飾・腕飾・首飾を致しまして、帽子は白い羽根その他の飾が付 きまして、美事なことは筆にも尽されませぬほどでありました。

 クロレントと申す女教師は仏国の貴族の娘さんだと申す話でありましたが、その日の服装は緋 ラシャに縫取りをした上衣に袴も実に美しいのを着て居りまして、やはり赤の帯をおはさみのよ うにして居まLた。その他の西洋人は皆ふだん着のままで居ました。

アルキサン

 アルキサンは女の教師の内で第一番糸は上手だと申すことでありますが、明治五年の暮の頃、 自分が教えた工女から蜜柑を貰いましたことがブリューナ氏に知れまして、直に場内に入ること を禁ぜられまして、ブリューナ氏の小児の守をして居りましたが、御行啓に付きまして許されま したと申すことで、その日から出場致しまして、その後は折々工女の釜に付きまして糸を繰りま したが、実に落着いて履りまして上手でありました。

御還啓

 しばらく御休憩の後御還啓になりました時は、工女一同場内の広庭に出まして御見送り申上げ ました。この時私共は初めて、騎兵が御供して参りましたので当時の兵士を見ました。

 両陛下竜顔うるわしく見上げ奉りました。

 御還啓後、便殿になりました所を拝しました。色々飾り付けてありましたが、只今のように美 一事ではありませぬ。木で持えました長さ六尺ほど幅三尺ほどの平箱に花菖蒲が植えてありました 位なものであります。実にその頃はすべて質素なものでありました。

御酒頂戴 御扇子下賜

 陛下より賜わりますとのことで、工男工女その他係り一同役人方まで御酒頂戴がありまして、 お肴は二三種で手軽な御料理でありましたが、諸役人方取締まで、今日は何をしても宜しい、芸 尽しをするようにと部屋部崖をお伝えになりまして、芸のある人は色々のことを致しました。そ の内に取締の方が、長野県出身の工女に、「お前さん方のお国には盆踊があるということだが、知 っておいでなら踊って下さい」と申されました。初めは皆引込んで居ましたが、余りおすすめに なりますので、四五人踊りますと、一人増し二人殖えて段々多くなりまして、二三十人踊りまし て、私も踊りましたところ、尾高様・青木様初め諸役人方大そうお喜びになりまして、工女たち も山の如く見物致して居ました。

 たいがいにしてその日は止めましたが、これが元になりまして実に困ったことが出来ました。 東京その他より製糸場にとって大切な方がおいでになりますと、盆踊をしてお目に懸けてくれと 取締の方が申されます。嫌だと申せば後が心配になりますから、その度に引出されました。こん な馬鹿馬鹿しいことはありません。

 程立ちまして、菊・桐の銀箔で御紋章の付きました御扇子を工女一同拝領致しました。只今に 実家の方に大切にして秘蔵致して置きます。

夕涼み

  段々暑気が強くなりますに従いまして病人が沢山出来て参りました。洋医の申しますには、大 勢部屋にとじ込めて置くから病気になるのだ、夕方から夜八時半頃まで広庭に出して運動させる ようにと申しましたとのことで、毎夕広庭に出まして遊ぶことになりました。役人取締が付添い まして九時頃まで遊びます。

 さあこうなりますと、また例の盆踊の御催促がしきりにありますから踊り始めますと、段々沢 山になりまして、他県の人まで加わります。一時実に盛んなことでありましたが、ここに競争者 があらわれました。山口県から参って居ります五十何人の方々でありました。信州の人が盆踊を 盛んにおどるから山口県の者も負けぬように踊るが宜しいと申されまして、毎日毎日休みの時間 に部屋部屋で下稽古をして居られましたが、その内に十分用意が調いましたと見えまして、夜分 庭に出ますと始めましたが、何を申すも人数が少う御座いますから、とても長野県の人に(かな)いま せん。しかし踊が信州の盆踊と違いまして、何か御座敷で踊るような踊と見えます。中々高尚で あります。これから、前にも申しました通り佐伯様初め勢力の有る人が出て居られますから、 段々山口県の方へ加わる人が出来ましたはまだしも、高張提灯(たかはりぢょうちん)まで山口県の踊の所へ立てまして、 長野県の方を真暗にしてしまいまして、部屋長や取締まで助力するように見えましたから、長野 県出の人々は大立腹致しまして、踊なんぞ何でも宜しいが、初めはいやだと言うのに無理にすす めて置いて、今になって山口県の人々に助力する上に高張まであちらへ二本も持って行くとは実 に依怙贔屓(えこひいき)だから、長野県の人は明晩から一人も庭に出ぬことにしようと、誰が申出しましたか、 それからそれと伝わりまして、翌晩は一人も出ません。蚊帳(かや)の中に休んで居ります。

 さあこのようになりますと、庭はすきずき致します。何を申しましても長野県の人が二百名近 く居ることでありますから、役人方・取締・部屋長まで驚かれまして、部屋部屋を見廻りまして、 是非是非出ろと申しますが、皆お腹が痛いの頭痛がするのと申しまして、皆出ません。引出され ましても直に戻って参ります。私の部屋は前々述べました通り青木様の隣でありますから、初め は(のが)れましたが、是非出ろ是非出ろと手を取ってつれ行かれまして、(よんどこ)ろなく出まして、後から 見て居りましたが、後で皆々に小言を申され、実に心苦しいことでありました。

 しかし私は皆に申しました。「どう見ても山口県の踊は高尚でもあり、このようなことでつま らぬ争いをしたところで何の利益も無いことだから、私はこれから見物して、決して国の盆踊は 踊らぬ」と申しました。追々同意者がありまして、これから後、信州の踊は止めました。皆さん はさぞ岬獅いと思いましょうが、このようなことで憎まれたり争ったりして、第一の業にまで障 りましては両親に対しても済まぬと心付きましたから、山口県の方々に勢力を奪われましても、 私共は決して恥かしいとも何とも思いませんでした。今から考えましてもよいところで見切りを 付けたと思います。しかし引手のあると申すものは実に恐ろしいものと存じます。

河原鶴子さんの病気

  私共一行の人々はその後も一心に勉強して居ましたが、ある日、河原鶴子さんが急に不快だと 申されまして、驚きました。その日は部屋に休んで居られましたが、急に足がひょろひょろする と申されましたから、翌朝病院に参られまして、診察を受けられますと、脚気だとのことで、そ の日頃から足は立たぬようになられましたから直に入院致されましたが、追々様子が宜しくあり ません。私は休みの時間ごとに見に参りましたが、二日目頃はよほど悪いように見受けました時、 私の驚きはとても筆にも詫葉にも尽されません。初め両人で参るとさえ申した位でありますから、 互に力になり合わねばなりません。私より年は四つ下で、大家に育ち、大勢の人にかしずかれて 居られましたことは私が能く存じて屠ります。

 殊に脚気はその頃全快せぬとさえ申しましたから、私は泣く泣く部屋長の所へ参りまして、 「これから直に私はお鶴さんをつれて帰国致したい、碓氷峠を越せば薬をのまずに全快すると国 で申しますから、何とぞ願って下さい」と申しましたから、部屋長から取締に申出し、また病院 へも問合せになりましたが、帰国致さずとも決して命に別条はないと申されまして、その日から 私が看病することになりましたが、段々様子が宜しくありません。食事も進みません。第一足が 少しも立ちませんから、はばかりにも私が肩にかけてようようつれて参りまして、子供に手水を 致しますように後から抱いて居るのでありますが、何分私も年弱の十七歳、力もありませず、 中々骨が折れましたが、一生懸命で居りましたから格別告労だとも思いませんで、一日も早く全 快致されますよう朝夕神信心をして居りました。只今のように便羅でもありますと、病む人も看 病致す私もどのように楽でありましたろう。大小用の度ごとに互に骨が折れました。

 が、それは未だ宜しゅう御座いますが、病人の食事は病室へ参りますが、私は自分の部屋へ三 度三度に参らねばなりません。病院は工女部屋の東の端の向うにあります。私の部屋は西の端に ありますから、七十五間と十間余、丁度八十五間余の所を往復致さねばなりません。私は行きも 戻りもいつも駆足で、食事致しますにも大急ぎでしまいまして、部屋の人達と話も致さぬように して戻りますが、待たるるとも待つ身になるなと申す諺の如く、病人は待遠で待遠でなりません から、お英さんはお部屋へ行って遊んでおいでなさるから手間がとれるの何のといつも申されま すが、私は実につらく思いまして、一人涙をこぼしたことが度々ありますが、思い直して、から だが自由におなりなさらず年も行かぬ人だから無理もないと、だましすかして慰めて居ります中 に、日数も段々立ちまして三ヵ月近くなりまして、少しは快くなられまして、入湯することにな りまして、湯殿までおんぶして参り、私も共々はだかになりまして抱いて入るのであります。友 だちがのぞきまして笑いましたが、私は笑うどころではありません。

 まずこのようになられましたところで、尾高様青木様なども、横田英ばかり永々看病させては 気の毒だから、同行の中で代り代りに看病致しますよう、と申されました時の私の喜びはどのよ うでありましたろう。決して看病が苦労だからと申す訳ではありませんが、毎日出て居りまして さえ未熟なところを、何ヵ月も看病致して居りましては業の上達することが出来ません。その病 院から伸び上りますと、皆々笛の鳴ります度ごとに通行致しますのが見えますから、とかく伸び 上って見ますと、病人がそれを気にかけてむずかしく申されます。私はこのような心配をしたこ とはその時までには初めてでありました。

 そこで同行の人々一週間交代と申すことに致しましたが、私は休みの時間ごとに見舞いに参り ますと、目に涙をためて喜ばれまして、私の参るごとにはばかりにつれて参ることにきめて居ら れました。馴れぬ人がおつれ申しますと、痛いとか工合が悪いとか、また人によりますと臭い臭 いと申しましたとか、それで私も、参らねばさぞ待って居られるだろうと心配になりますから、 一度もかかさず夜分まで参りました。

 その内段々快方に向われまして、つかまり立ちの出来るようになられました頃、父君がおいで になりまして、ついに帰国致されましたが、互に泣別れを致しました。そのお鶴さんは只今では お雪さんと申されまして、耶蘇(ヤソ)の伝道師になって居らるるように承りました。

一等工女

 さて私共一行は皆一心に勉強して居りました。中に病気等で折々休む人もありましたが、まず 打揃うて精を出して居ります。何を申しましても国元へ製糸工場が立ちますことになって居りま すから、その目的なしに居る人々とは違います。その内に一等工女になる人があると大評判があ りまして、西洋人が手帖を持って中廻りの書生や工女と色々話して居ますから、中々心配でなり ません。

 その内に、ある夜取締の鈴木さんへ呼出されまして段々中付けられます。私共は実に心配で、 立ったり居たり致して居りますと、その内に呼出されました。

 「横田英 一等工女申付候事」

 と申されました時は、嬉しさが込上げまして涙がこぼれました。

 一行十五人(その以前坂西たき子は病気で帰国致されました)の内、たしか十三人まで申付け られたように覚えます。呼出しの遅れました人は泣出しまして、依怙贔屓だの顔の美しい人 を一等にするのだのとさんざん申して、後から呼出しが来て申付けられました時は、先に申付け られた人々で大いじめ大笑い、しかし一同天にも昇る如く喜びました。残った人は皆年の少い人 で、中には未だ糸揚げをして居た人もありました。月給は、一等一円七十五銭、二等一円五十銭、 三等一円、中廻り、一円でありました。

 一等工女になりますと、その頃は百五十釜でありまして、正門から西は残らず一等台になりま した。私は西の二切目の北側に番が極まりまして、参って見ますと、私の左釜が前に申述べまし た静岡県の今井おけいさんでありましたから、私の喜びは一通りではありません。また今井さん も非常に喜んで下さいました。その日から出るも帰るも手を引合いまして、姉妹も及ばぬほど睦 しく致して居りました。この台の受持の書生さんは深井さんと申しまして高崎の方でありました が、私の父の心安く致しました同藩の玉川渡と申す人の夫人の甥の方だと申すことがその後分り ました。玉川の御子息がその深井さんにつれられて見物に参られた時私に目礼されましたので、 何国へ参りましても身元が分るものだと感心致しました。この台へ参りましてから業も実に楽に なりました。繭は一等でありますから大きい揃ったので、たちも宜しゅうありますから、毎朝繰 場へ参るのが楽しみで、夜の明けるのを待兼ねる位に思いました。皆同じことだと存じます。

国元より工男の入場

  父が富岡へ参りまして実地視察致しまして、製糸場を創立致しますにはとても工女ばかりでは 出来ぬことを見極めましたので、帰国後そのことを申しましてすすめました。その人々は海沼房 太郎田中政吉外二名の名を忘れましたが、七日市に宿をとりまして、日々御場所へ通勤致して居 りましたが、中々繰場に出る訳に参りません。繭置場その他の雑業に従事致して居りました。或 者は蒸気の火燃場その他枠はずし位までは致したように覚えますが、その後三四ヵ月で皆帰国致 しました。この海沼房太郎と申す人は六工社創立の際大里氏と共に蒸気機械の発明を致したので あります。(くわ)しくは六工社創立のくだりで述べます。

年の暮

  追々寒くなりまして、もはや一月も間近くなりました頃、部屋には年中土焼の火鉢がありまし て、三度三度に賄方(まかないかた)の女中が火を配ります。炭は大箱に出して梯子段の所に置いてありますか ら、銘々持って参りまして、おこしますが、遅くなるとありません。夜具は一人に付四幅ふとん が二枚渡されて居りますが、中々寒くありますから、両人ずつ一所に休みますが、とかく手水に 参りますはばかりが至って離れて居ります。私の部屋からは二十間位あります。廊下には懸行燈 がつけてありましたが、種油でありますから実に暗いことであります。恐ろしいと思いますので つれ誘いをして参りますが、私は人並はずれて度々参りますので、そうそうつれがありません、 いつも目を塞いで行き帰り致しました。行く時は静かに参りますが、帰りにはいつも駆足で参り まして、いよいよ部屋の口に入りますと俄かに恐ろしくなりますので、障子をひどく閉めまして、 冴木さんから度々お小言を申されました。なぜこのように恐いと申しますと、中々広い部屋の長 廊下でありますから、折々狸か(むじな)がいたずらを致しますと見えまして、板塀の上に生首があった の、はばかりの中から毛ものが首を出したのと大評判があります。

 ある夜、私共部屋の和田さん金井さん春日さん私とやはり南部屋の東はずれの二階部屋へ遊び に行きまして、帰りに夜が()けまして廊下の燈も消えてしまい、四人一かたまりに恐い恐いと心 中で思って帰りますと、中の梯子段の際の部屋から火が見えました。その部屋は長く(あき)部屋であ りましたから、どうして火が有るかあぶないと思いまして見ますと、実に青い火でありましたか ら驚きましたが、申したら皆恐ろしがるだろうと存じまして、無言で通過ぎまして、その次の梯 子段を降りました時春日さんが、今の火は何でしょうと震い声で申されましたので、一同きゃっ と申しまして、なぜそのようなことをここでおっしゃいます、それだからなお恐ろしくなったと、 三人で大小言を申しまして、早々駆込んで寝てしまいました。銘々見た所が違います。私は破れ 障子から見えました。後の三人は梯子段の隅または梯子段の通り。その翌朝早々参って見ますと、 障子は破れて居りません。これは只今でも不思議と思って居ります。その他色々のことを申す人 がありますので、実に夜分恐ろしくて困りました。

賄方の芝居

  たしか十二月頃かと思いますが、ある日事業済み後部屋長から、今夜お賄にお芝居があるから 参って見るようにと申されました。大喜びで皆参りました。何個もあります大釜の上に舞台が出 来まして、花道は本式にかかって、賄方の番頭共が皆役者になりまして、かつらをかむり、衣裳 なども皆本物で致します。何と申す芝居か名は忘れましたが、白玉と申すおいらんが恋人と道行 の所で、色々台詞(せりふ)を申して居りますと、花道から製糸場と印のある弓張提灯を持って副取締の相 川と申す方と中山様と申す役人がつかつかと出て参られました。私共はやはり芝居をこの方々ま で遊ばすのかと見て居ますと、いきなり白玉になって居ります者の領髪取って投げ付け、恋人も 突き飛ばし、蹴倒し、大声で(ののし)っておいでになりましたが、未だ気が付きませぬ。その内に芝居 方は申すまでもなく女の取締の方々から部屋長の人々まで総立ちになりまして逃げ出しました。 これで初めてこの芝居は、男の工女部屋取締にもお役所の方々にも御内々で致したことと気が付 きました。その後が中々面倒になりまして、総取締の青木さん、副取締の前田さんなどもよほど 尾高様その他からお叱られになりましたようでしたが、何分女の取締一同皆同意でありましたか らそのまま済みました。私共は大失望でありました。今でも折々思い出しまして一人笑い致しま す。

お年取

  事業も十二月二十八日に終いになりまして、いよいよ三十一日になりますと、今夕はお年取だ がお賄では何を出すだろうと申して居ました。いよいよ夕食に参って見ますと、虫のさした(あじ)の 干物に冷飯と漬物、一同驚きまして、ろくろく御飯も頂きませず、部屋に帰り、皆ぶつぶつ申し て居りました。しかしおかちんだけは渡りました。一升(ます)位な四角さの薄き物二枚ずつ、今から 考えますと中々大したことであります。三ガ日は羽根をつきまた(まり)をつき、市中へ散歩に参り遊 びまして、たしか四日から事業を致しました。しかし業は進みますだけ楽で面白くなりますから、 少しも退屈致しません。

食物のこと

  私共入場致しました頃は、皆自分の部屋で食事を致しました。部屋の入口の上にかけ札があり ます。その人数だけ御飯もお菜も置いて参るのであります。三度三度に半切(はぎれ)に御飯を入れて車で ()いて参りました。不足の時は呼んで貰いましたが、十一月頃から大食堂が出来まして、御飯の 茶椀と箸だけ持って行くのであります。

 その時は取締の方々総出で見張っておいでになります。実に食し方が早くあります。ぐずぐず して居りますととり残しになりますから皆急いで食してしまいます。一日と十五日と二十八日が 赤の飯に鮭の塩引、それが実に楽しみでありました。只今と違いまして上州は山の中で交通不便 でありますから、生な魚は見たくもありません。塩物と干物ばかり、折々牛肉などもありますが、 まず赤隠元の煮たのだとか切昆布と揚蒟蒻(あげこんにゃく)と八ツがしらなどです。さすが上州だけ、芋のあるこ と毎日のようでありますから閉口致しました。朝食は汁に漬物、昼が右の煮物、夕食は多く干物 などが出ました。しかし働いて居ますから何でも美味に感じましたのは実に幸福でありました。

 尾高様は折々御飯を食べて御覧になりました。或時臭いの付きました御飯を配る所をお見付け になりまして、賄の頭取が出されまして大騒ぎでありましたが、その後ようようお詫びが(かな)いま して、その後は決して悪しくなった物を出しませんでした。

祖父病気の報知

 一月も末の頃、国元よりの便りに祖父が大病でとても全快(おぼつか)ないと申して参りました。私の 驚きは一通りではありません。宅に居りました時は実に行儀作法その他きびしい人でありました から随分心配も致しましたが、つまり私共を愛してくれますからのことでありますから、私も入 場後何ぞ珍しいことを申遣わしたら喜ぶだろうと存じまして、廻らぬ筆で色々通信致しまして楽 しんで居ました。また私が業を()えて帰国致しましたらさぞ喜んでくれますだろうとそればかり 楽しんで居ました。

 その中に()つかしいと申して参りましたから、また神の御力を願うより外はないと存じまして、 一ノ宮大神宮様を一心に信心致しまして、その内二月十一日に休みでありましたから、一ノ宮へ 参詣致しました。道々の梅も真盛りで天気ものどかでありましたから、心中祖父が全快する前兆 だと喜んで帰場致しました。

 その翌日国元から書状が届きまして、同月八日養生叶わず死去致したとのことで、私の愁傷は 筆に尽されません。年は七十五歳でありました。寿命は致し方ないとようよう諦めました。その 後母からの文に承りますと、衣類など新しいのを病中着せようと致しましても、これはお英が西 条製糸場(六工社のこと)を開いた時見物に着て行くのだと申して、何程だましても着なかった とのことで、私はひとしお涙がこぼれました。その前ついでがありまして、祖父の所へ私が砂糖 を送りました。それを大事に大事に致しまして、これはお英が送ってよこしたのだから大事にせ ねばならぬと申しましたとのことで、私をどこまで愛してくれましたことかと、只今に折々思い 出しまして涙がこぼれます。

お花見

  三月末頃でありました。製糸場一同(工男は参らず)は一ノ宮へお花見に参りました。役人方、 取締一同、賄方、中々盛んなことでありました。尾高様をはじめその他(工女は申すまでもな く)おいでになりました。その前日北海道から工女が両名入場致しました。その人も参りまして、 その工女を送っておいでになりました役人もおいでになりました。ラッコの皮の外套を着て居ら れました。私共はその役人も工女も皆アイヌ人種かと思って居りました。後から考えますと決し て左様ではありませぬ。工女ばかりも五六百名、その他の人で七百名余も居りました。

 その日は三味線もありまして、工女の内でひきます人も中には本手に踊ります人もありまして、 実に面白いことであり京した。工女も皆十二三より二十五六歳位までの者が揃って、ふだん日な たに出ず毎日湯気に蒸されて居ますから、髪の(つや)顔の色実に美しいことで、とても市中の婦人と 場内の人では一つになりませぬ。入湯も一日も欠かしませず、身嗜(みだしな)みも宜しゅう御座いますから、 別品さんが沢山居られました。女の目で見ましてさえ十二分の楽しみ気晴しを致しまして、夕方 一同帰場致しました。このようなことは毎年あります。前年は小幡城跡へ参りましたが、このよ うに盛んではありませぬ。芝居にも折節一同参ることがありますが、その日は小屋残らず場内の 人ばかり他の人は一人も入れませぬ。

四月頃

  四月初旬頃、或日青木様へ私が呼ばれました。何御用かと参りますと、尾高様がおいでになり まして御申しに「お前方一同能く精を出して実に感心だ。この後も御場所の御為明年までも止っ て勤めくれるよう」と申されましたから、私は「国元へ製糸場の立ちますまではいつまでも御場 所に居り、一心に精を出しまする心得で御座ります」と申しましたら、「一同にもその由申伝え くれ」と申されましたから、直に帰りまして一行の人々に申しますと、皆同意でありまして、尾 高様も大きにお喜びになりまして、私の父へも御書状を下されまして、また表向き県庁へもお遣 わしになったとのことであります。(その御書状は只今も私が持って居ります。)

 そのように申されましてお喜び下さいましたが、国元では埴科郡西条村字六工(ろっく)にいよいよ製糸 場創立になりますことに極まりまして、六工社と名が付きまして、社長は春山喜平次、副社長大 里忠一郎、その他元方増沢利助、土屋直吉、中村金作、字敷政之進、岸田由之助の諸氏で、日々 工事を急ぎまして、五月末頃にはよほど工事も出来(しゅったい)致しましたとのことであります。

一ノ宮参詣並びに鈴木様と西洋婦人

 四月末頃、私共一行の三四人と武州行田(ぎょうた)の人お琴さんにお沢さんその他両三人、一ノ宮へ参詣 に参りました。丁度お宮の御門の所で工女取締(男子)鈴木様もおいでになって、お目に懸りま した。そこへ御雇教師仏国人クロレンド、マルイサン、ルイズ三人づれでこれも参詣か見物かに 参られまして、門内に参ろうと致しましたが、鈴木様がどうしても門内にお入れになりません。 「これから帰る宜しい。門内に入ってはいけません」と申されまして、一足も中へお入れになり ません。そう致しますと、マルイサンと申す婦人はその前から病気で居りまして、実に痩せ衰え て屑りまして、ようよう一ノ宮まで参りましてお宮へ入ることが出来ませんから目に涙をためま Lて、「私この次どんたく(休日)一の宮まろ(参る)ありまっせん。中見たいあります」と度々 申しましたが、中々御承知になりません。それで外のクロレンド、ルイズ両人で何か色々申しな だめまして、そこから帰りました。私共も教師たちと一所に帰りましたが、実に気の毒で涙がこ ぼれました。鈴木様は、彼等が肉食を致しますから神宮の境内が汚れるとお思いになりまして、 それでお止めになりましたように見受けました。

 鈴木様も一緒にお帰りになりましたが、教師方が私共を異人館に同道したいと申しましたら御 承知になりました。私共六七人皆一緒に参りまして、ビスケット・葡萄酒の御馳走になりました。 この時生れて初めてビスケット・葡萄酒など食しました。残って居りました教師が裁縫をして居 りました。只今考えますと、あまり広からぬ室に一同居りましたように思われます。此の後半月 ほど立ちまして、ブリューナ氏初め一同帰国致しまして、仏国人その他外国人は一人も居らぬよ うになりました。

桝数

  一等工女の日々繰ります(ます)数は四升五升位がその頃通例でありました。私もその位ずつとりま した。今井おけいさんは中々桝数が上りまして六升位おとりになりましたから、私も一生懸命に なりまして、追々六升位とれますようになりました。

 その頃同じ切の南台東の角に武州押切と申す所から出て居りましたたしか小田切せんとか申す 十九か二十歳位な人が居りましたが、中々元気な人で、桝数も六七升とって居りましたが、或日 その人が八升上げました。これが富岡創業以来初めてと申す桝数でありましたから、受持書生 (佐伯木次郎)中廻りの工女も大喜びでありました。そのことが場内中の大評判になりまして、書 生たちが皆見に参ります。私共も驚いて居りました。私共台の受持書生深井さんが、今井さんと 私の間の前に立って見て居られましたが、やがてこのように申されました。「今井おけいさんも 横田お英さんも、向う台の小田切せんは八升とりました。お前さん方も八升とったらどうです」 と申されましたが、両人口を揃えまして、「中々私共が八升なんてとれません」と申しましたら、 深井さんは何とも申さず行っておしまいになりました。そこで私が今井さんにこのように申しま した。「おけいさん、おせんさんが八升おとりになりましたとて皆大騒ぎをしておいでになりま すが、私共とて同じ繭で同じ蒸気、一生懸命になったらとれぬこともありますまい。明日からや って見ましょうではありませぬか」と申しますと、今井さんも至極そうだと申されまして、いよ いよ明朝からと申す約束を致しました。

 その頃一等台に居りますと、繭が宜しゅう御座います、手は馴れて参ります、実に楽でありま すから怠る訳ではありませんが、中廻りや書生が向うを向いて居りますと折々話も致します。殊 に心の合った両人並んで居りますことでありますから、はばかりに参りますにも二人づれで参り まして、ゆるゆる歩いて参りました。物を申されぬ時は両人横目の遣い合いを致しまして、中廻り りや書生に笑われたこともありましたが、その翌朝場に付きましてからは再人とも無言、決して 目遣いも致しません。はばかりにもなるべく参らぬように致しまして、是非参らねばならぬ時は 往復とも駆出して参る位に致しまして、一生懸命にとって居ましたから、かつがつ七升余とれま した。そのように致しまして、たしか三日目頃両人とも八升上りました。両人の喜びはどの位か わかりません。受持中廻り深井さんなどは実に喜ばしそうに両人の顔をにこにこして御覧になり まして、「能くとれました。これから毎日このようにおとりなさい」と申されました。

 このことがまた場内中の評判になりまして、書生たちがどのようなことをしてとって居るかと 思われまして見に参ります。しかし別にとり方が違う訳ではありませぬ。ただ油断が無いのと糸 を切らさぬように用心を致しまして、湯を替えるにもとりながら追々さして、わざわざ手間を潰 して替えると申すようなことを致さぬように気を付けて居りますばかり、すべて無益な時間のか からぬ用心のみ致しました位、その頃富岡では落繭並びに(さなぎ)を釜の中に置きますこと、湯を濁ら すことを(かた)く禁じてありましたから、その辺も、桝は上るが釜の中が(きたな)いなど申されぬよう致し て置きました。

 夕方部屋へ帰ります時も嬉しくて嬉しくてにこにこして部屋に入りますと、皆帰って居られま して、第一番に和田さんが「お英さん、今日は八升おとりになりましたってネー」と申されまし たから、「はあ、どうやらこうやら八升とれました」と申しますと、「そんなにとれる筈がない。 七粒八粒付けてとったのに違いない。桝数を上げさせたがって深井さんも黙って見ていらっした のだ」と申されますから、私が「なんぼ深井さんだって七粒八粒付けさせて黙って見ていらっし ゃるものですか。西洋人だって目があります」と申しましたが、まだ色々申されますから、「そ んならそうにしてお置きなさい」と申しまして、私は相手になりません。色々争いまして青木さ んへでも聞えますと、どちらが勝ちましても松代工女の名に障りますから。その頃富岡では細糸 でありまして、厚繭揃いなれば四粒、薄繭が二つ或は三つ交りで、五粒付けてありました。六粒 になりましても三粒に致しましても切られました。その夜はそれで休みましたが、和田さんはご く負けることの嫌いな人でありましたから、その翌朝から一心に桝を上げることを思い立って居 られました様子で、その夜七升ほどとれたとか申して居られましたが、私は何とも申さず、自分 が八升つづけることばかり心にかけて居ましたから日々上げて居りました。

 すると三日目か四日目頃、深井さんが私共の前に立って、時計台の角から二番目の和田初とい う人が今日八升上げたと申されました。私は心中おかしくておかしくてたまりません。夕方部屋 へ帰りましたが、私は何とも申しません。すると和田さんが、「ようよう今日こそは八升とれた」 と申されましたから、私は笑いながら、「それは結構でした。やはり七粒も八粒もお付けになり ましたか」と申しますと、ははと笑われまして、「あんなこと言って御免ネ」と申されました。 私がまた、「それだからあまりためさぬことを色々おっしゃらぬが宜しゅう御座います。私だか らよいけれど」と申しましたら、「これからもうあんなことは言わぬ」と申されましたので、私 も大笑い、両人でとり方に付き色々話合い、大笑いを致しました。

 この日頃は追々一行の人々も皆負けることは嫌いでありますから、酒井、春日、小林高、福井、 東井、その他の人々にも八升とる人が沢山出来ました。その他の人々にも追々出来まして、余り 珍しくないようになりました。折節切れたりとり悪かったりして七升位になりましても、深井さ んが「怠けてはいけません」と申されます位でありましたが、しかし何業でも同じことでありま すが、負けぬ気が第一かと存じます。

 業が上達致しますと、同じ枠をはずしますにも上達した人のを先に致します。書生はもとより 中廻りでもいつもにこにこして、何を頼みましても直に聞入れて下さいます。やれいこひいきだ の何のと申します人は、まず業の出来ぬ人の申すことかと存じます。我が業を専一に致しまして 人後にならぬよう続けて居ますと皆愛して下さるよう思われます。私共一行は野中の一本杉の如 く役人も書生も中廻りも一人も松代の人などありませんが、皆一心に精を出しましたから、上は 尾高様より下は書生中廻りに至るまで、皆台は違った所に居りましたが愛されて居りましたから、 帰国の折も皆さんから名残を惜しまれました。ちと申過ぎますかも知れませんが、少しも飾りの ないところであります。

糸結び

  五月末頃には六工社の工事もよほど出来致しましたとのことで、私の父から尾高様へその旨申 上げまして、製糸業一通りのこと覚えさせて頂きたく願いましたとのことで、私は六月一日頃か ら糸結びを致しますことを命ぜられました。同時に和田初子さんも申付けられました。

 糸結びは多く年長の人または目の悪しき人等が致します。私などの年の人はありませぬから、 場内の人残らず目を付けて見て居ります。馴れました人の後から才槌(さいづち)を持って大枠のはずしてあ る所へ参りまして、結びまして、繭を入れます蒸籠(せいろう)に並べます。それが一杯になりますと、役所 の糸仕上げ場へ持って参りまして、何本と申す受取を帳面に付けて貰って来るのであります。

  この糸結びも中々()つかしくあります。上手な人が結び方、なれぬ人が(ねじ)り方を致すのであり ますが、とかく丸くなります。所々潰れます。中々一月や二月で結び方には致しませぬが、尾高 様から私共のこと御話しになってありましたと見え、一週間余で教えて下さる人が結んで見ろと 申されますから、結びましたが、とかく(はまぐり)の所が振れます。実に心配でなりません。毎夜部屋 で和田さんと両人で手拭を継合せて糸の幅位にして、結び方になったり振り方になったりして稽 古を致しました。それでもようよう結ばれる位でありましたから、教えて下さる方が折々「あな たでもお国へお帰りになれば先生だ」と申されますと、恥かしくて顔が赤くなりました。しかし 親切に教えて下さいまして、四百廻までとらせて下さいました。

 ちょっと大枠のことをお話し申しますが、富岡は一等二等繭は六角枠で三升がけであります。 六工社のよりよほど大きく寸が長くあります。三等繭は四角な大枠にかけます。やはり三升がけ でありますが寸は六工社のより少し短いようでありました。このようになって居りますから、少 しも間違いなどはありません。

 糸をとりますより心配は少く中々面白う御座いました。和田さんと私は別々の人に習いました から、受持場所が違って居ます。遠くからちらちら見ゆる位で、一日一緒になることは部屋に帰 った時ばかりでありました。糸を結び、役所に納めて参ります、その間に四百廻もとります。骨 は折れますが中々楽しみのように思われました。それに教えて下さる人がまたやさしい人で、私 を実に愛して下さいました。

国元より迎いの人来る

 七月の初めに、いよいよ六工社創立に付き宇敷政之進、海沼房太郎両氏、松代工女一同御暇賜 わり()くとの願書を持って富岡御製糸場へ出頭致されました。

 尾高様も非常に御喜びになりまして、早速御聞届けになりまして、申されますよう、「このよ うな愛度(めでた)きことはこれ無く、御場所創立以来この度が初めて、実に悦ばしい。しかし今この出精 なる工女一同を帰国致させるのは、当御場所において本年一ヵ年に九百円以上御損に相成るが、 何も国の為なれば致し方がない。皆一同感心に精を出したから、帰りには東京見物にてもさせて やるように」と申されましたが、中々その頃そのようなことは思いもよらぬことでありました。 宇敷氏が入費として六工社から一百円受取って参られたと申すことでありました。

 それより私共一同役所に呼ばれまして、尾高様から御賞詞を賜わりました。

  

 繰糸業格別勉励に付為褒賞金五拾銭下賜候事

                     製糸場印

  

 右に姓名を書付けまして、大かた頂きました。一行の内病気勝ちの人は頂かぬ人も三四人あり ました。

 その頃は日本国中に製糸場と申すは富岡の外ありませんから、ただ製糸場と申す印が押して あります。只今にその書付は持って居ります。

 尾高様が、首尾()く帰国致すのだから御場所残らず拝見させてやると申され、繭蒸場、蒸気機 関のある所、繭置場、二階、その他残らず拝見致しまして、繰場へも改めて暇乞いに参りました。 書生たち、中廻りの人も町瞭、に暇を述べられまして、皆名残を惜しんで下さいました。この月初 めに紺がすりの仕着せが渡りました。ただ退場致しますのなれば返納致さねばなりませぬが、格 別の思召を以てそのまま賜わりました。

一同帰り用意

  一行は待ちに待ったる製糸場が国元へ立ちまして、喜び勇んで種々用意を致します。中には何 分なれぬ少女が国元に居ります時は金銭は皆親の手より外自分に使用致しましたことない中に、 月給の一円七十五銭もとれば、何を買ってもあるように思いまして、銘々呉服屋から帯だの帯揚 だのと買いまして、また小間物屋などから色々(もと)めました。皆賄方(まかないかた)の家内が店を出して売りま すから、月々払いでありました。俄かに帰国のことになりましたから、中には十円から払わねば ならぬ人もありました。五円または六円と大かたはあります。それを払わねば帰ることが出来ま せぬ。宇敷氏もこれには驚かれまして、とてもそのような用意までしては来ぬと申されました。 私は父から用意金を宇敷氏に託して送ってくれました。殊に私は中々心配性でありますから、買 いがかりは致しませぬ。送ってくれました金で帯揚だのその他需めまして、土産物なども相当に 需めました。しかし他の人の困るのを見て居る訳にも参りませんから、宇敷氏に段々頼みまして、 皆帰る中に残る人があっては気の毒だから是非是非貸して上げて下さいと申しまして、ようよう 皆形が付きました。それで皆大喜びで一同退場致しまして、この度は青木屋と申す宿に一泊致し ました。その時父兄で迎いに参られましたは金井氏小林氏等の諸氏でありました。

白桃の枝と暇乞い

 一同退場致します時に、銘々これまで心安く致しました人々の部屋へ暇乞いに参りました。皆 別れを惜しみまして、互に涙でろくろく言葉も出ぬほどでありましたが、残る人々は別して故郷 へ帰ります私共を見まして実に羨ましく思って居られました。わけて静岡県の今井おけいさんは、 私が帰ると申しました時から涙ばかりこぼして居られましたが、いよいよ退場の時、出口の所へ 後から駆出しておいでになりまして、桃の小枝を持っておいでになりまして、私の髪へ()して下 さいまして、「これは白桃の枝だから、これを挿して居れば暑気に当らぬ呪禁(まじない)だから、道中挿し て行って下さい」と涙ながらに申されまして、後をも見ずにお顔にお袖を当てて御自分のお部屋 の方へ駆けて行かれました。私もその時の悲しさは今でも忘れません。そのやさしき親切なる御 心立てを折々思い出して懐かしく思います。春ごとに白桃の花を見ますと、何となくその人にお 目に懸かるよう思われまして、白桃を愛して居ます。

 私共の退場を、御取締の方々から部屋長方まで皆御祝し下さいまして、上々の首尾で退場致し ましたは、実に一同幸福なることでありました。私共もこれが御場所の見納めかと存じますと、 実に名残惜しく存じました。

その頃富岡製糸場は政府から立てて居りますので、上は尾高様より下は市中の人まで御場所 と敬って申して居ました。いかに開けませんかはこの言葉でもお分りになりましょう。その 他私が書きます言葉はその頃のままにわざわざ致して置きますから、その御つもりで御覧を 願います。

富岡町出発並びに高崎見物より道中

  その日は青木屋に一泊致しまして、市中の見納めに銘々遊歩致しまして、翌朝同地を出立致し ました。尾高様もあのように仰せられをとだから、せめては高崎でも見物さして上げると宇敷 象申されました。実は東京見物でもさせて上げるつもりなりしが、思いよらぬ皆様のお買いが かりのためとても今急に金子(きんす)を取寄せる訳にも行かず、お貸し申さぬ方には実にお気の毒だが 許してくれと申されました。そのお言葉が私共にはなおお気の毒に存じました。

 さて僅か一ヵ年余りの間に開けまして、もはや人力車が富岡町に沢山ありまして、それに一同 乗りました。折悪しく途中から大雨になりまして、桐油(とうゆ)をかけました。只今と違い上から袋をか けたようになりまして、その匂いに酔った人がありまして、病気に罹った人もありました。一同 大閉口致しました。

 しかし高崎に着致しました頃は晴れまして、同地の知人(富岡に出て居た工女にて帰宅した人々) も幾人か宿屋へ尋ねくれまして、同地にて糸を繰り居る所も見に参りましたが、皆七輪で炭火で ありました。兵営なども見物致しまして、その日は同地に一泊致しまして、その翌目は坂本に泊 り、翌日たしか碓氷峠を越しましたが、段々旅費が不足になったと申すことで、皆草鮭(わらじ)をはきま して越しました。能く覚えませんが軽井沢に泊ったようにも思います。

 その翌日は終生忘れぬ宿泊であります。宿は信州田中宿の家号は忘れましたが見るもいぶせき 宿屋に泊りました。家は(すす)けてかたがり、何とも譬えようのない一室に皆居りますと、隣室には 御嶽行者らしい若者が大勢居りましたが、宿の人に頼まれてお給仕に代る代る出て参りました。 これも上等の宿に泊れば宿泊料がかかるから致し方ないとのことでありました。

 宇敷氏は高崎から先に帰られまLた。金子を持って来ると申されたとのことであります。その 宿に泊りました時は、もはや宿料に不足を生じましたとのことで、一行の内何ほどでも持って居 る人は貸してくれと申されまして、銘々持合せを出してやりました。私なども一銭も残さず出し ました。そのようにして翌日は上田で昼食の時は、裏通りのちょっとした茶屋に入りまして、外 に一同休んで居りまして、迎いに参られた人が途中まで金子持参の人の迎いに出ましたら、よう よう道で行逢いましたとのことで、それで払いをして、その日は板城宿に一泊致しまして、翌早 朝矢代本陣柿崎へ着致しました。

(したため)めましてはそのようにもありませんが、道中旅費不足のため、宇敷、海沼氏は申すまで もなく、一同の心配はとても筆に尽くされませぬ。只今なら電信為替で直に間に合いますが、 実に開けぬ時代のことは、只今の方は御存じありません。

仕度

  それより本陣で風呂を沸かさせ、銘々湯に入り、皆髪を結い、上手に結う人は幾人も結ってや り、湯に入り、富岡仕込みの厚化粧致します。一行十四人の仕度、中々手間がとれます。

富岡では化粧は女子の身嗜(みだしな)みの一つとして許されて居ました。毎夜湯に入り、皆おしろいを つけます。つけぬ人は却って嗜みが悪いと申されます位でありました。

宇敷氏、岸田氏等、馬で迎いに参られまして、早く早くと申されました。また銘々の家からは 皆力に応じた新しい衣類帯等皆本陣まで持たせてよこされましたが、中々一様に参りません。そ こで私が申しますには、「お宅から折角お遣わしだけれど、品に不同があっては面白からず、誰 もよき物着たいは同じことだから、一そうお仕着を揃って着て、富岡で拵えた唐縮緬友禅の帯 を締めて行けば、良きも悪しきも無くて宜しかろう」と申しますと、中には不服の人もありまし たが、大勢その方がよいとのことで、皆一同紺がすりに唐縮緬の帯を締めました。

 ようよう仕度も出来ましたので、いよいよ出発致すことになりました。

行列順

  一行一同柿崎の玄関より広庭に出、門前に早朝から待たせて置きました人力車に乗りました。 一行十四人に付添人三名都合十七名車に乗りました。その頃至って人力車が少くありましたので、 坂城矢代松代とこの三ヵ所の人力を早朝から午後二時過ぎまで止めて置きましたのであります。

 さて挽出(ひきだ)すことになりますと、順番を宇敷氏と海沼氏両名で指図致されまして、第一番に私の 車を真先に参るようにと車夫に申付けられましたので、私は驚きまして「それはいけません。御 年順でもあり、和田さんの車を先にして下さい。それから皆々様、私は後から参りとう御座いま すから」と申しましたが、中々聞かれませんから、「私はどうしても和田さんより先に行くこと は確くお断り致します。御存じの通りの事情もありますから姑へ対しても心苦しく存じます。こ の一事は是非お聞入れを願います」と申しましたが、宇敷氏の申されますには、「これは決して 私共の致す訳ではありません。尾高様よりの御指図だから、決して番を狂わせる訳には行かぬ」 と申されます。私共は尾高様の仰せは決して(そむ)きません。私もここに至って致し方ないと決心 致しましたが、その心の内の苦しさは譬えようがありませぬ。姑の思わく、姉の心中、後来のこ となど思い巡らし、泣出したい位でありましたが、致し方なく第一番に私、第二番に和田初子、 第三番に小林高子、第四番に酒井民子、それより段々に列を正しく挽出しましたが、何が田舎の ことではあり、十七台も車が続くようなことはこれまでないこととて、家に居る人は駆出す、道 を行く人は止る、畑に居る者は鍬を棄てて駆付け見て居ると申す有様、十四名揃いの衣服で同じ 年頃の者が揃って居ます、風俗もよほど違って居りましたから、皆珍しがって見物致すのであり ましょう。

  私は真先で実に間が悪う御座いますから洋傘で顔を隠して居りましたが、雨宮(あめのみや)、岩野、土口(どぐち)と 段々人出が多くなりまして、両側に人垣を築きましたようになりましたから、私はその時に至り まして、心配がすっかり変りました。中々姑や姉の思わく位な小さい心配ではありませぬ。この ように沢山な人が見て居りますことでありますから、この度業を卒えて帰国致し、創業の製糸場 へ参りましても、機械その他が富岡のように毘来て居りますれば何も差支えもなけれども、何を 申すも政府の御力で立てて居りまする所と、その頃の人民の力で致すこと、万一成功致さぬ時は、 私共は世間の人から何と申されましょう。自分のみかは親兄弟姉妹まで人に対して顔向けも出来 ぬように相成るべく、また損を致しますれば、元方の方々にも気の毒、殊に私が真先に立ちます ことでありますから、責任は自分が第一重いように感じまして、今まで喜び勇んで居りました松 代が近くなるほど心配が増して参りまして、夢現(ゆめうつつ)の心地で土口へ参りますと清野(きよの)村の側に元方 一同の方々が皆羽織袴の礼服で出迎いに出て居られました。大里氏、中村氏その他の方々のお顔 が只今に目に付いて居ります。その盛んなことは丁度昔殿様のお通りの時のような有様でありま した。只今考えますと、やはり松代の製糸場の今目の如く盛んになります前兆かとも存じます。

 そこで初めは松代学校へ着と申すのでありました。その頃役場がありましたから。しかしあま り時間が遅くなりましたので、やはり私の宅(代官丁横田)へ着致すことになりまして、一同無 事に着致しました。一行の父兄親族皆道まで迎いに出て居られまして、ひとまず横田に落着きま した。待受けの用意も出来て居りましたから、ちょっと休足致されまして、銘々自宅へ引きとら れました。私などは両親姉妹兄弟その他親族知己に久々で面会致しまして、実に嬉しく存じまし たが、この先が心配でたまりませんでした。

 これより六工社創立に付きましてお話を致しますが、まず一段落を付けまする。

穴かしこ

この書は当夏初めより思い立ち、書始めましたが、日々家事向の用多く、殊に人出入の劇しき こととて隙がありません。折々深夜人静まり後一枚二枚としたためましたから、書落としが沢 山にあります。どうぞ御判じ下さいますよう願います。

ようよう十二月十七目夜、したため終り。

書添

  お笑草にちょっとしたためて置きます。

 私共富岡へ参りました頃は未だ郵便がありませんから、毎月東京へ参ります飛脚に頼んで、手 紙や品物を銘々の家から送られました。私共も手紙を出します時はその人に頼み、または国元の 人が見物に来た時など一同出すのでありましたが、能くは覚えません、或時私の父から郵便で手 紙が参りまして、五厘の切手が四つ貼ってありました。私はこのような結構なことが始まったの かと大喜びで、賄方の女中に尋ねますと、当町にも出来たと申しましたから、私一人で出すのは 惜しいものだと思いまして、一行の部屋部屋を知らせて歩きまして、「私は今日郵便とやら申す 物で手紙を出すから、一人で出すのも惜しいから皆さんもお出しなさらぬか」と申しますと、皆 皆大喜びで、我も我もと十六人大方お出しになりましたのを私が一包にして、女中のお大さんと 申すに頼みまして、私が十銭札を持たして八銭お釣が来るだろうと思って居ますと、やがて女中 が帰って来て、「切手のおあしはあれで丁度よかった」と申します。私は父から二銭で来たのに 十銭とはちと不思議だと思いまして、「この頃国元から来た手紙に五厘の切手が四つ貼ってあっ たが、どういうせいだろう」と申しますと、その女中が大腹立てて「使を仕てやったり疑られた りしちゃあ、あったせんぎでない」と申しますから、ようようなだめましたが、私は心中不思議 で不思議でたまりません。その次の日曜日に外出致しました時、その郵便を出す店へ参りまして 尋ねますと、目方次第で段々高くなると申されまして、ようよう分りましたが、郵便銭は私が出 し損を致しまして、この後はなるべく紙の薄いのへしたためました。折々一人で笑いますが、実 に開けぬ時には色々可笑(おか)しいことがあります。その頃は手紙を持って参りますと、その店の人が 目方をかけて切手料を取るので、別に郵便箱も出来てはありませんでした。その後間もなく箱が 出来ました。

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富岡後記

六工社初見物

私共一同は明治七年七月七日故郷松代へ着致しまして、その翌日は宅に居りましたが、その翌 日九日埴科(はにしな)郡西条村字六工(ろっく)に建築致されましたる六工(ろっこう)社製糸場へ一同打揃うて参りました。その 道にありました大里忠一郎氏の御宅へ立寄りまして、同氏並びに夫人里子御老母等に御面会致し まして、同氏の御案内で六工社へ参りました。

 機械その他を見ました。兼ねて覚悟のことなれば別に驚きも致しませぬ。却って()くこの位に 出来たと思いました。しかし富岡と違いますことは天と地ほどであります。銅・鉄・真鍮は木と なり、ガラスは針金と変り、煉瓦(れんが)は土間、それはそれは夢に夢を見るように感じましたが、まず まず蒸気で糸がとられると申すだけでも日本人の手で出来たとは感心だ位にて、その日は引取り ました。

六工社初製糸並びに私の病気

 翌十日は宅に居りまして、その翌七月十一日いよいよ初製糸にかかりますので、私共仲間六七 名参りまして、釜場(かまば)のありました通りの真向き南側(大ぜんまいのありました西二釜目)でとり 始めまして、代る代るにとりましたが、何を申すも天日で干上げた小粒な(まゆ)でありますから、繭 に重みがなくて、その糸の口の細きこと、指にべたべた付きまして実にとり(にく)きことは富岡で一 度も手がけたことがないように覚えました。富岡は蒸気の通りました大管で蒸してありますから、 どのようにたたぬ繭でも重みがあります。しかしとることが出来ますので一同喜んで居りました。 とり釜は半月形で、中にパイプが出て居ります。形も小さくありますから(ほうき)も十分につかわれ ませぬ。その日は代り代りとりまして、翌十二日にもまたまた参ってとりましたが、私は昼頃か ら俄かに寒気が致しまして、段々寒くなりまして、末には顔色が真青になりましたと申すことで、 皆一同心配致されました。それで大里夫人も大そうお案事(あんじ)下さいまして、御召縮緬(おめしちりめん)霜ふりのお羽 織をお貸し下さいまして、宅に帰って養生を致すようにとくれぐれおすすめになりますから、私 も帰宅致しますことに定めました。するとじいやを御付け下さいますから再三御辞退致しました が、是非是非と申されますので、その人と帰りましたが、途中私が考えますには、私が六工社か ら病気で帰ったことが世間の人に知れると、また何だのかだのと申して、新入工女の気受けに障 り不都合ならんと思いましたから、馬場丁の金井氏方へ寄り休ませて頂き、夜に入って帰宅致す 方が(よろ)しからんと、直に金井氏へ参りまして、右の次第をお話致しまして、お座敷に休ませて頂 きましたが、その時ははや心の緩みと病の重りと同時になりまして、身動きも出来ぬようになり まして、身体は火の付いたかと思いますほど熱く、口は渇き、その後のことは更に覚えはありま せん。その日六工社へ参ります時、父の実家の伯父に途中で逢いましたが、未だ帰国後その家へ 参りませぬのでそのことばかり心にかかりまして、折ふしそのことを申して居りましたとのこと であります。

 金井氏では夕方になりまして、私が右の有様でありますから大そう驚かれまして、早速実家へ 知らせて下さいまして、母と姉が参ります。医者が参りまして診察致しまして、これは「傷寒」 だと申されましたとのことであります。金井氏方では御家族総がかりで御看病下さいまして、そ の上夫人の姉君までおいでになりまして、実に実に十二分の御看病下さいました。お蔭にて四五 日立ちますと少々快方に向いましたとのことで、夜分駕籠(かご)に乗せられて実家へ帰り、養生致しま した。その頃からようよう正気になりましたが、未だ一人立つことも(かな)わぬ同月たしか二十二日 かと存じます、六工社はいよいよ開業式が盛大にありました。私はこの盛大なる古今未曽有(みぞう)なる 日本帝国民間蒸気機械の元祖六工社製糸場の開業に出席致すことが出来ぬことかと病床に泣いて 居ました。

  私の病気も幸い人に伝染も致しませんで私一人ですみましたのは実に仕合せでありました。只 今と違いその頃は予防と申すことは存じません。皆一緒の所に居りましてその場で飲食致して居 りました。只今思いますと実に恐ろしい位であります。

六工社開業式と同行者の等級

  さて六工社開業式当日、私共一行が富岡退場致します時尾高様より宇敷氏へお渡しになりまし た松代工女等級が発表されたとのことで、同行者の両三人私の所へ見舞いかたがた知らせに来 て下さいました。その等級左の通り。

  

     二等工女

    横田 英  和田 初  小林 高  酒井 民

     三等工女

    福井 亀  春日 蝶  その他

  

 殊に驚きましたのは、富岡でおおかた三等で居りました人が四等になって、私などが二等殊に筆 頭でありましたから、嬉しいようなまた気の毒のような気が致しました。

 その人々から承りますと、下った人は皆泣いて居られたと申すことでありました。私は病気の ため開業式に出席出来ぬとて泣いて居りましたが、その時初めて何が幸いになるか分らぬと思い ました。私も出席致して居りましたらさぞさぞ下った人たちが気の毒であっただろうと存じます。 殊に私が筆頭に居ますから慰める言葉がありませぬ。また下った人たちも私を憎らしく思われる だろうと存じます。まずまず病気が却って仕合せであったと心中喜びました。

 私が思いますには、四等に下った人などは決して業で下った訳ではありませぬ。たとい怠けた と申す訳でなくても病気その他で休業の多くあった人のように思われます。私などの筆頭に居り ますのもこれと同じことで、人様より業が上達致して居ったと申す訳ではありませねが、一心不 乱に勉強致して居ただけは決して人様より後には居らなかったと自分で信じて居りました。しか し一番になって居ろうなどと申す自信もまたありませんでした。元より同行者は皆座繰(ざぐり)は馴れて 居る人ばかりでありました。私は宅で蚕を少しずつ飼いましても、人に糸にしてもらいました。 私は生れつき糸など繰りますことが好きでありましたから、毎年くず繭位手どりに致して居りま したが、たとい座繰と蒸気機械と繰り方は違いますとも、馴れた人と馴れぬ人では一つにはなり ませぬ。殊に私は根が無器用でありますから、入場後もその苦心は一通りではありませぬ。出立 前祖父に申付けられました、人後にならぬよう、また父に申付けられました、諸事心を用いて覚 えるよう、殊に一人でも参ると申した自分の口上、このようなことを思いますと、万一あまり下 に居りましたなら両親に合す顔もありません。また私が下に居りましたら、父が人様に面目を失 うことであろうと、入場以来実に心の安まることはありませぬ。とても自分一人の力では及ばぬ ことと思いまして、毎朝神仏に祈りまして、命も捧げる位の意気組で居りました。その様子がさ すが数多の人の上に立っておいでになりますところの尾高様のこと、また書生中廻りの人たちま で見ておいでになりまして、ただただ私の心を筆頭に遊ばして下すったのだろうと存じます。

 しかし糸目と(ます)数では決して人様の後には居ませぬ。糸は如何(いかが)か存じませんが、一度も小言を 申されたことがありませぬから、まず悪い糸はとらなかったのだろうと存じます。何事も一心は 岩をも(とお)すと申しますが、実にその通りであります。

 その後海沼氏が参られまして、実はお渡しになります時は、「この等付は開業式まで決して開 くことはならぬ。その前に開くと女子のことだからどのような騒ぎをするか知れぬ、富岡へ帰る の引くのと申すと面倒だから」と仰せられたから、当日までその儘にして置いたと申されました が、尾高様と申す方はどこまでお届きになった方やらと実に感佩(かんぱい)致しました。

六工社工女の選み方並びに工女取締

六工社もいよいよ開業になりました。新入工女は皆身元正しきれっきとした良家の娘さん方ば かりであります。殊に明治七年未だ世の中が開けませぬ時でありますから、製糸場に寄宿致させ ますにはよほど大丈夫と父兄が思われませんでは出し手はあるまいという、大里氏初め元方一同 のお考えから、元松代公の御刀番をお勤めになりました樋口旗之助様と申す方を工女部屋取締に お頼みになりますと、同氏も快く御承知になりまして、同氏の息女元子、睦子、上原しと子さん などを初めと致しまして士族の娘さんが多くありました。たとい平民の人でも前申しました通り 一人としてあやしい人はありませぬ。

 何故このようにお選みになりますかと申しますと、とかく婦人の多く寄合います所は不行状と 不品行で世間から彼是申されます。創業の際一歩踏み誤ります時はもはや後で取返しが付きませ ぬ。製糸場へ出た人だからと申して良家の妻女になられぬようなことがありましては、第一国の ために立ちましたるところの製糸場も却って不為になるようなことになるというところにお気の 付かれましたからであります。それで樋口様は御年六十歳位の方で至ってお心だてのやさしい、 折目正しい、実に取締としては得難きお人柄の方でありました。

 このように注意を払われましたことでありますから、工女方のお宅でも決して心配する人はあ りません。皆寄宿致されました。同村の近き所の人は通われました。

 さて物には一利一害と申しますが、実にその通りであります。家が貧しくて出て居る人は使い 安う御座いますが、何不足ない家の人がただ国のためと申すところから富岡へ行かなかったから、 せめては六工社へでも出て国益になる糸をとろうというのでありますから、中々新入工女方でも 気位が高う御座います。ちょっとしたことにも色々苦情が出ますとのことでありました。

私の病気見舞並びに入場

  さて私の病気も中々はかどりません。毎日床の中に心配をして休んで、母の介抱を受けて居り ます。日々六工社からは大里氏初め中村氏、宇敷氏、海沼氏が代り代りに見舞においで下さいま す。その内に四十日近くなりましてようよう家の内から庭前まで歩くようになりますと、六工社 からは早く出てくれ、一日も早く、とても苦情が出てやりきれぬと申されます。

 その内に、六工社へ来て休んで居ても宜しいから是非是非参るようにと申されます。私もつく づく考えまして、私が参ったとて何ほどのお役にも立つまいけれど、あれまで申されますのに参 らぬも悪いようだと存じまして、まだ実に疲れて居りましたが、勇気を出して髪を結い、発病以 来四十二日目、八月二十二日午前八時過ぎ家を立出で、よろめく足を踏みしめ踏みしめ人通りの ない所の石に腰を掛けては休み、また歩みては休み、ようよう六工社まで参りました。元方の方 方は申すまでもなく、皆様も待って居たと申されまして、喜んで下さいました。

 私が参りますまでは和田さんが糸結びをしておいでになりましたが、私もまさかその場に参り まして休んで居る訳にも参りません。また一つには気の立つと申すは不思議なもので、入場致し ますと俄かに元気が出まして、その日から糸結び糸揚場四百廻等受持つことになりました。何が 十八歳位な私が参りましたとて何ほどのことがある訳はありませぬが、互に感情を害しました時 変った人が参りますと、その人に対し折合いが付きますと同じことで、まず双方から色々のお話 がありますが、私はどのような人にても腹蔵なく自分の思い通りを申します。それで人に憎まれ ても決してかまわぬと覚悟して居ます。いよいよ中に立ちますと、双方無理のないことばかりで あります。私共の仲間は、繭が悪い、機械の工合が悪い、蒸気が立たぬと小言を申します。また 元方の人は、皆が我儘(わがまま)を言うと申されます。私は大里氏初めに「皆あのように申されますのは実 に(もっと)至極(しごく)で、あなた方は御存じないから我儘のようにお思いになりましょうが、あちらでは実 に良い繭をとって居りましたから」と申して置きまして、また仲間には「あなた方がそのように おっしゃるのも無理はないが、何を申すも天朝で遊ばすことと下々ですることだから一うにはな らぬ。悪い繭で良い糸をとるのが私たちの腕前ではありませんか。まず貧乏世帯を持ったと思っ て諦めるより外ありませんねい」と申しますと、「お英さんちゃ、糸をおとりなさらぬからそん なことを言っておいでなさるのだ」などと申されますから、私は「糸をとって居る方がどんなに 楽だか知れやしない。自分一人一生懸命にとってさえ居ればそれで済むけれど、朝から晩まで立 通しで、おまけに糸揚げの手伝いまでして、彼方からも此方からも色々のことを聞いて、こんな 辛いことはありません」と申しますと、それで皆何も申されません。

 新入工女の人々は、誰が何と言ったとか、やれ見下げたことを申したとか、直にここには居ら れぬ、引いてしまうと申されます。その時は私が「皆様も折角国のためと思召して御入場になり まして、その位なことでお引きになりましては、第一世間の人がそれ見たことかと申します。御 両親まで人にお笑われになりましょう。誰が何と申しましても皆人が存じて居りますから」と申 してはなだめて居ます。しかしここが六工社でお見立通り名誉を重んずる人々でありますから、 右様申しますと、それでも引くとは申されませぬ。

 まずそのようなことでいつも納まりますが、中々面倒は絶えませぬ。実際私は双方の間に入り まして、双方から色々申されますのを、双方へ自分の考え通りを申してなだめて居ますので、糸 扱いは付けたり、仲裁役になって居るも同じこと、何れを見ても心痛は絶えませぬ。元方の方々 の日々不安と心痛に充たされたるお顔、さては工女方の不平の声、いつ安心の地位に立たれるこ とであろうと日夜苦心で明かしました。

富岡帰り一同の不平並びに母よりの申聞け

 私の宅は代官丁の下でありますから、仲間の人々が六工社への往き(かえ)りに代る代る寄られまし て、柄杓(ひしゃく)が木だの、(さじ)が灰ふるいだの、手水(ちょうず)(かめ)だのと小言を申されますと、母が「人の家でさ えその家その家で台所の都合も違う、ましてお上で遊ばすことと下々で致すことだから、丁度御 殿と我々の家ほど違って居るも同じこと、何も辛抱だから小さな家の世帯を持ったと思って諦め ておいで」といつもいつも申して居りました。こんなことで慰められて、皆思い直して帰場致さ れました。只今にそのことを折々申出しては母と笑います。

 また私もその頃、皆様には前に申しましたように申して居りますが、内々母にこのように申し ました。「おっかさん。皆あのようにおっしゃるのも尤もであります。私だって皆様のお申し通 り、蒸気はたたず、機械の工合は悪く、泣出したいようだけれど、私から先に立ってそのような ことを申せば、それこそ皆さんがどんなに申されるか分らぬから、口には立派に申して居ります が、心の内ではいつも泣いて居ります」と申しましたら、母が「お前までが大里さんや海沼の苦 心したことを知らぬからそのような我儘を申すが、あれまでになるまでの御困難はまあどの位だ と思う。海沼などは夜もろくろく眠られぬと申して居た。繭を二つに切って釜の代りにし、針金 を曲げて蒸気の通る管のようにしたり、大里さんと二人で実に実に何とも申されぬ苦心をして、 ようよう蒸気も通るよう管も持え、機械も曲りなりにもとられるようになったのは、実に御両人 の御苦心からだ。有難いと思わねばならぬ。お前たちが何ほど勉強して覚えたところで、もし六 工社が立たねば宝の持腐れ、どのように工合が悪くとも、あればこそそのようなことを申せ、な かったらどうする。実はお据膳をしてお箸をとって食べるばかりにして下すったその恩も忘れて、 うまいもまずいも申された義理ではない。ちと御両人の御苦心なされたことを思って見ろ。お前 たちが何ほど苦労だと申したところが知れたものだ。元より楽をしようとて始めたことではない。 国益を計るなどは決して楽で出来るものではない。この後とてもお前から初めてそのような量見 違いな考えを持ってはならぬ」と申聞けられました時は、私も実に済まぬことを申したと後悔致 しまして、その後はこの大恩人の苦心致されたことを無に致しましてはすまぬと思いまして、一 身を捧げて製糸場の隆盛になりますよう心がけて居りました。

六工社創立に付き苦心致されし人々

 さて六工社創立に付き蒸気機械発明に付き苦心致されました人は、大里忠一郎氏を第一と申さ ねばなりませぬ。しかしこの蒸気機械の発明に多く力を尽しましたる人、只今は世人から忘られ て居ります海沼房太郎と申す人が第二、以上五分五分位に記さねばなりませぬ。

 大里氏のことは世人も能く存じて居られますから、私が別段記すには及ばぬように存じます。 海沼氏は富岡の巻に記して置きましたる如く、私の父が奨めにより富岡御製糸場へ三四ヵ月間同 志四名と共に工男として入場して居りましたが、帰国後蒸気機械発明に苦心致して居りましたが、 中々創立致すほどの元金がありませぬ。貧しいと申す訳でもありませぬが富んで居ると申すほど でもなく、まず通例の生計を立てて居ったのでありますから、種々苦心致して居りますと、幸い 大里氏が国益を計るため製糸場を立てたいと申して居られますので、両馬が一致して創立するこ とになりました。

 大里氏は以前汽船に居られましたところから、力を多く蒸気元釜から大管を通して小管(パイ プ)に渡ります方を受持って居られましたように承ります。海沼氏は小管(パイプ)即ち煮釜繰釜 に蒸気の通います所のネジの付け方、また機械全部皆指図されたのであります。

 只今に思いますと不思議な位でありますのは、交通不便とは申しながら日本帝国民間蒸気機械 製糸場の元祖六工社の創立に、元方の人が富岡御製糸場へ一人も拝観に参られません。私共の迎 いに宇敷氏が初めておいでになりました。その時にはもはや機械その他出来上って居りました。 私の父がブリューナ氏条約書明細書を写して参りました、その書物を元として、その他は海沼氏 に一任して、同氏の考え通りに立てたのであります。いかに信用して居られたかはこの一事でも 分ります。海沼氏とても学校に出た人でもありませぬ。図を引くことも十分には出来なかったろ うと思いますのに、まずあれだけに仕上げました、その苦心はいかばかりだろうと存じます。僅 か三四ヵ月の間、殊に掛りが違いますから、休日の外繰場に入ることは(かな)いませぬ。父が尾高様 へ願い置きまして、休日ごとに繰場の内を拝見致したとのことであります。只今の世なら有名な 技師にでも図を引いて貰いますれば訳はありませんが、中々のことでは無かったろうと察します。

  同氏の身元は松代町字清須町のはずれ堀切と申す所の農家の長男でありますから、幼年の頃市 中を野菜など売って歩きましたとのことでありますが、とかく農業を嫌いまして、その頃のこと でありますから両刀をさしますことを好みましたが、そのような訳に参りませぬから、広小路真 田(私の姉の家)の家来分になりまして、たしか二人扶持貰いまして、一日置き、毎日のように同 家へ出勤して居りましたから、自然私の家へも使いなどに参りまして、私共へも出入致すように なりました。同氏の先祖は琉球から難船致して来た者だと申して、系図なども立派になって居る と常々申して居りましたが、口では何とでも申されますが行いにおいてそのようではないかと思 いますことが沢山あります。同人の父は活花と尺八の名人でありまして、裏町の長谷川三郎兵衛 と申された活花と尺八の名人の方の後を()いで居ましたから、海沼氏も活花は皆伝とまでは至ら ぬようでありましたが、実に美事に活けました。また尺八も上手に吹きます。発句も致しますの で、私の家に参りましては始終活花を致してくれます。尺八も「鶴のすごもり」など吹いて聞か せました。私の祖父は至って鳴物が好きで、また発句・歌なども少しは致しましたから、母など も至って好みますところから、折々参りましては色々話します。真田は叔父初め武人気質で一向 そのようなことを好みませぬから、とかく私の宅の方へ出入致しがちに末にはなりました。その ような関係から父が勧めましたのだろうと存じます。

 第三に苦心致されましたは横田丈太郎と申す人と金児某、これは元松代藩御鉄砲鍛冶を勤めた 人で、横田氏はたしか字離山に住居致されたように存じます。この人が見たことも図も十分にな い蒸気の管(パイプ)をネジで止めたり返したりすることを誂えられ、拵えても拵えても、これ ではいけぬ彼れでは違うと海沼氏が申しますので、折々立腹致されたこともありましたとのこと でありますが、何も国のためと申すところから、打返し打直し致されまして、まずまず蒸気の漏 れぬように致されましたとのことであります。ちょっとしたことのようでありますが、図もなく 形もなくただ手真似と口ばかりですることを仕上げますその苦心は、どの位でありましたろう。

 第四は湯本宇吉と申す人であります。この人は元松代藩の御(やり)の柄をこきます御鎗師を勤めた 人であります。実に指物は名人であります。この人が大車・小車・ゼンマイ等全部致しましたの であります。これも前同様図もなく一度も見たこともなき機械を仕上げますことでありますから、 いかに苦心致しましたでありましょう。

 第五が与作と申す大工の棟梁で、これは別に苦心致したと申すほどでもありませぬが、何分こ れまで立てたこともない形の建築でありますから、当人の身に取りましてはいかに苦心致したこ とでありましょう。

 以上記しましたるところの人々に手真似口ばかりで申聞かせます海沼氏の苦心も実に察したも のであります。それを近くに居りまして見聞き致しましたるところの母の目から見ましたことで ありますから、私を我儘と申して申聞かせましたは実に尤も至極、母が申さねば私も若年のこと でありますから、知らず識らずに手前勝手な理屈を付けて我儘を考えましたかも知れませぬと、 (実に心中恥かしく思いました。右の次第でありますから、海沼氏の祖先が立派なる所の人だと申 しますのに符合致して居りますように思われます。ただの農家の人にその頃そのような思い立ち を致す人は日本国中にまず皆無と申しても宜しき位でありました。何分三十六年の昔は只今と世 の中が違いましたから。

繭の粗悪と不足

 繭の仕入れが出来ませんから、元方のお宅でお飼いになりました蚕の繭の外、賃糸を繰ります のであります。そのような時は少々良き繭もありますが、六工社の糸を繰ります時には市中で座 繰にかけました後の選り出し、その頃の縮緬糸に繰ります繭を買って来て繰りますのであります。 これが()くとられたものだと思います位であります。私は新入工女を折々教える時とります位で、 多くとりませんが、実に見て居る方が辛いことで、折々大里さんに「このように休んで居りまし ては手も下りますから、和田さんに代って頂いて糸をとらせて下さい」と申しますと、「あなた がそのようなことを言って下すっては困ります。和田さんには糸の方を願い、あなたにはこの方 を願わねばなりません」と、幾度お願い申しましてもお聞入れになりません。私もこのように心 配なことはないと思いますが、仕方がありませんからその儘に打過ぎて居ました。

 この繭買入れ並びに集め方は多く中村氏土屋氏が受持って居られました。岸田氏も折々その方 をして居られたようでありますが、その苦心は中々筆にも尽されぬように見受けられました。

糸結び

  開業以来糸結びの(ねじ)り方は中村氏の母御でありました。年は五十歳以上の人でありましたが、 実に女子の(かがみ)と申して宜しい位の人でありました。行儀作法の正しい、言葉遣いのやさしく叮嚀 なる、若き時はいかならんと思われますほど美しく、いつも笑顔がはなれません。にこにことし て、決して人の悪口など申されたことはありません。それで少しも油断なく業をして居られま す。日々一緒に居ますが、一度も欠点を見たことがありませぬ。元よりこの方は欠点と申すこと がないのであります。私などは自分のことが折節恥かしく思われました。しかしその筈でありま す。この方は二十三歳で後家になられまして、手一つで金作氏を養育致されまして、婦道を能く 守り候とて松代藩から度々御賞を受けられた人だと申すことであります。私の母が、その人と 日々一緒に居るは喜ばしいことだと常々申して居りました。

 この糸結びでも実に私は困難致しました。富岡の巻で申しました通り、教えて下さる方が「あ なたでもお国へお帰りになれば先生だ」と申されたような私が先立って結びますことであります 蹄から、美事に結べる訳はありませんが、せめて大枠に綾でも十分かかって居れば、習うより馴れ ろと申す諺の如く、一心不乱に致して居りますから段々上手にもなりますが、何を申すも綾が少 しもかかって居りませぬ。あやふり(・・・・)はありますが、大枠何廻に何度と申すきまりなしに動いて居 るばかりでありますから、糸をはずしますと皆真直になってしまいます。丁度座繰の大枠のと少 しも違いませぬ。中村氏の御老母とてもはや御老年のことでありますからお手に脂がありませぬ。 ()の先が皆つぶれてしまいます。また若き人に申すように(やかま)しくも申されませぬ。実に仕上げが 悪しくなりますのにほとほと降参致しました。この御老母がお宅に御用でもあって御不在の時は、 大里様初め中村宇敷等の両名代り代りに捩り方を遊ばしました。

 また糸に等付けを致さねばなりませぬ。届かぬながら私が等を付けまして、札を隠して置きま して、大里様中村様がまたお付けになります。まずこのようにして段々お馴れになりましたが、 只今に恐入って居りますことは、若年の私の申すことを決してお疑いになりませぬ。何でも私が これは一等で宜しいと申せばその通り、二等と申せばその通り信じておいでになりますから、私 も一生懸命違わぬよう用心致して居りました。糸揚場で名札の字が見えぬように付けます。それ は私とても心の迷いが出てはならぬと存じます。この糸ばかりはどのような上手な人でも時によ り三等四等の糸をとらぬとも限りません。名を見ますと、彼の人がこのような糸をとる筈がない と見直して等を上げるようなことがあっては済みませぬ。また習い早々の人でも時により良品を 繰らぬとも限りませぬ。名を見ぬが一番大丈夫であります。

蒸気元釜の注連縄

 その頃火燃(ひた)きをして居られました人は、艸川某並びに藤田五三郎という人でありました。この 両氏は至って善良な人で、艸川氏は六工社近くの艸川某の弟君でありました。藤田という人は松 代公の御近稠を勤められた為太郎という方の弟君であります。両氏とも身元正しき良家に成長致 されましたから、品行方正勤務勉強でありました。

 しかし両氏とも年若のことでありますから、工女が釜場へ入るようなことがありましては、末 に間違いが出来てはならぬと申す元方御一同のお考えから、釜場の四方へ注連縄(しめなわ)をお張りになり まして、婦人が立入っては釜場が汚れると一同へ申渡しまして、囲い内へ一歩も入ることはなら ぬと禁じてありました。十一か二三歳の糸揚げの少工女だけ折々火を取りに参りましたが、その 他の工女は決して入れません。このようなことにまで注意致されましたは実に感佩の外はありま せぬ。たとい不品行はありませんでも双方若き者のことでありますから、話に身が入り、どのよ うな過ちが出来、人命にまでかかわらぬとも限りません。既に石川県金沢市小立野と申す所の小鋸(おが)屋と申す製糸場では、午前六時頃工女の大勢が釜場に入り、火燃きと雑談致し、火燃き工男が 話に身が入り、蒸気元釜が破裂して、工女七名工男(ひたき)両名即死致し、その他負傷者の多くがありま した。実に恐るべきは釜場へ工女の入ることであります。

蒸気の不足 元方一同の困難

蒸気がとり釜に合せて小そう御座いますから中々行渡りませぬ。一口とっては手を休め、二口 た とっては休むと申す有様、松薪を燃きますと能く立ちますが、そうそう松薪も続きませぬ。その 上九日間とりますと油煙が溜りますので、なおなお立ちませぬ。繰場から工女が待遠になります と、「艸川さん、松薪を燃いて頂戴」とか「藤田さん、気付いて燃いて頂戴」とか騒ぎます。私 は実に苦々しく聞兼ねますが、実に無理もないと思いますので、このことばかりは知らぬ風を致 して居りました。

 そのような有様でありますから、休の前日とり終いますと、直に釜掃除があります。只今と違 い元釜が半月形で、半分は土で塗上げてありますので、その土を崩して塗替えるのであります。 この塗替えの時は、大里氏初め中村宇敷土屋の方々も皆はだしになって、土をこねるやら(もっこ)を運 ぶやら手も足も泥だらけになって働いておいでになります。これを見ますと、実に実にお気の毒 でたまりません。皆これまで土いじりなどなすったことのない方々ばかりであります。この一事 でも創業当時の方々の困難なされましたことは分ります。第一元釜が何馬力と申すこともその頃 分らぬのであります。いかにいかに苦心をされたでありましょう。

六工社のはやり歌

  私共仲間が道を通りますと、人々が口をききます。肥って居ますので「ぶた、ぶた」と申した り、また「やめておくれよ西条のきかい、末は雲助丸はだか」。大声でうたい続けます。豚と申 されますのは別に心にもかかりません、腹も立ちませんが、歌を聞きますと、身の毛も弥立つよ うに感じます。もしこの歌のようになったらその時は世間の人が何と申すであろう、私共はどう したらよかろうと、実に心配で心配で夜の寝覚めにもそのことが心にかかります。もしそのよう なことがありますれば、私などは地下に入りましても目を眠ることは出来ぬであろうと思いまし て、何事も神仏の御力を願うより外はないと存じまして、毎朝祈念をして層りました。

起死回生薬とも言うべき二つの楽

 以上認めましたる如き苦痛に日を送りますところの私が、いかにして病気にもならず勤めて居 られるであろうと、人様は不思議にお思いになりましょうが、この苦痛に打勝って勤めて居られ ます二つの原因があります。一は場内、一は自宅にあるのであります。

 まず場内から申しますと、外ではありませぬ、糸揚場にありました。糸揚工女も富岡の如く十 一十二十三歳止り位の少工女でありました。この少女たちもやはり良家に育ちました人ばかり でありますから、至って人ずれて居りませぬ、皆無邪気なおとなしい、実に可愛らしい人ばかり であります。静かなる土地、おだやかなる家庭、慈愛深き両親の手に成長致されましたるこの少 工女が、私が糸揚場へ参りますと、皆一同かけ出して参りまして、「横田さんお早う、横田さん お早う」と花の如き愛らしき笑顔を以て申されます。その顔を一目見ますと、いかなる苦心も一 時に忘れますように覚えます。殊にこの少工女たちは一心不乱に業を致して、決して私が申すこ とを(そむ)きませぬ。皆睦しく、糸の切れぬ時は互に無邪気に語り合ったり、また私の傍に寄って参 ります。私も繰場へ参りますが、多く糸揚場に居りまして、四百廻をとりましたり、糸結びの間 にはこの少女たちにつなぎ方、切方、口の止め方等教え、また手伝いましたり致します。何を申 しましても皆幼年のことでありますから、断えず注意してやらねばなりませぬ。まれに仲間で言 合い等致しまして目に涙をためて居ましても、私が双方へ申聞かせますと、直に仲も流りまして、 常の如く精を出して居ります。私も苦心致して居りますことなど決して人に知らさぬよう平気を 装って居ますが、あまり心配の時は、思い内に有って色外にあらわると申す諺の如く顔にあらわ れますと見えまして、少工女たちが「横田さんおかげんがお悪う御座いますか」と気遣わしそう に皆私の顔をのぞき込んで申されます。私も驚きまして「いいえ、何ともないんです。どんな顔 になって居ます」と笑顔を致しますと、「そんならよう御座いますが」と皆安心したようにとも ども笑顔を致されます。その愛らしさは只今も目の前に見ゆるように覚えます。それでこの小さ きお友達に心配をかけては済まぬと存じまして、いつも悟られぬ用心を致して居りました。来る 日も来る日もこの愛らしきお友達に慰められて、心も晴れ晴れと致します。

 いま一つは私の宅にあります。明日は休みと申す前日、業も終り後始末も十分に済ましますと、 私ははや足も地に付かぬ位になりますので、製糸場の食事が出て居りますがまず食したことがな いと申しても宜しゅう御座います。帰心矢の如くとか申す諺はこのような時のことだろうと存じ ます。私の目には宅の有様がありありと見ゆるように思われます。母の笑顔、弟等の待って居り ましたと言わぬばかりの顔、さては妹等の喜びます顔。それで私も着汚しの衣類等を一包にして 引っかかえ、飛鳥の如くかけ出します。幸い帰りは下り坂でありますから思うままに急がれま す。はや家近くなりますと、妹両人が道まで迎いに出て居りまして、左右より袖や(たもと)につかまり、 「お帰り、お帰り」と喜びまして、門に入るや早々玄関までかけ付け、大声に「おっかさん。富 岡の姉さんがお帰りになりました」と大喜びで申します。中に入りますと、母が末の弟の看病に 青白くやつれた顔に笑をたたえまして、私に心配を致させまいと思いましてか、疲れたる様も見 せず、元気よく「おお帰ったか。お前の好きな物を推えて置いたよ」と申します。母は製糸場の ことに付きましては私以上心配致して居りますから、私も決して自分の苦心致して居ることを申 しませぬが、子を見ること親に()かずと申す諺の如く、私の苦心致して居ることを見抜いて居り ますから、さてこそ九日間の苦労を慰めてやろうと思いまして、私の好みますところのおひっかき(・・・・・)その他を招えて待って居ります。母の熱き慈愛に仕上げられましたる御馳走は山海の珍味を(つら) ねたる百味の御食にもまさる賜物(たまもの)と心に感謝致しまして、身の幸福を喜びますと共に、世に慈母 無き人はこの温き恵みの有難さを知らぬであろうと、人の身の上まで気の毒に思いながら食して 居ます。

 も一つには弟共や妹共が、私の留守中の学校の成績より、魚取りとんぼ釣りの手柄話まで、銘 銘の口から語られます、その嬉しさ楽しさは中々筆にも尽されませぬ。やがて食事も済みますれ ば、母より留守中の出来事または親類その他の事まで落ちなく話されます。私も種々物語り致し ます内には夜も更けますから、床に入りましても母は色々話してくれますのを承りながら、安心 と日頃の疲れに知らず識らず眠ってしまいます。朝になりまして、夕ベもまた枕に付くと直に返 專がなくなった、お前ほど早く眠る人はめったにないと笑われます。

 朝は早く起き出まして、家の掃除、衣服の始末、留守中皆が着汚しました衣類の洗濯にかかり ます。何故このように致しますかと申しますに、末の弟が植疱瘡(うえぼうそう)がこじれまして(わずら)って居ます。 夜分は少しも下に休みませぬ。母は夜通し抱いて立通しで居りますから、私が代ってやりたいと 思いましても、留守中生れましたから馴染みませぬから、私の手に参りませぬ。女中が一人居り ましたが、日の内守りを致したり御飯持えを致しますのがようようでありますから、何もかもそ の儘に致してあります。それ故十日目十日目の休日に私が致すのであります。しかし同じ業を休 みなしに致しましたら倦きる事もありましょうが、全く違ったことを致しますので中々面白いと 思って居りました。終日家の品自分の品双方洗濯致します間に、母は元気能く話しつづけてくれ ます。故叔父さんが何と仰せられたとか、お祖父さんが何とお申しになったとか、または製糸場 がやがて盛んになったら土地が繁昌するだろうとか、すべて私の気の引立ちますような勇ましい ことのみ申しまして、決して気の沈みますようなことは申しませぬ。それで私も命と共に衣類の 洗濯を済ましますと、早夕食を致します内に皆ぞろぞろと誘いに参られますから、九日間入用の 品を一包にして、気も晴れ晴れと勢いよく出かけて参ります。

 このような楽園が私にはありますので、同じことを繰返し繰返し苦心は致しましても、病も出 ず勤められたのであります。後で考えますと、私一人で決して働いたのではありませぬ。この二 つが働かせてくれたのであります。

 私は休日から休日まで帰宅は致しませぬ。私が先立って帰りましたら、皆宅は恋しゅう御座い ますから納まりが付きませぬ。自分も帰らず他の人の帰りたいと申しますことをも止めました。

部屋長と規則

 私が入場致します前に部屋長(へやちょう)総部屋長が出来て居りました。部屋は南部屋二()北部屋二間あり ました。南部屋の総部屋長が和田初子、他は福井亀子。北は総部屋長が私で、他は酒井民子。酒 井さん福井さんは平の部屋長でありましたから、実にお気の潅に存じましたが致し方がありませ ん。工女の病気引事故引とも部屋長より総部屋長へ申出で、総部屋長より取締樋口様へ申出で、 同氏より帳場へ申出で、その上にて許可致すことになって居ります。休日の外の帰宅はその通り であります。決して本人より直に帳場または取締へ申出すことを禁じてあります。中々手続が面 倒でありますが、このようにして置きませぬと皆帰宅ばかり致すようになりますから、わざとそ のようにしてありました。

 私の部屋には沢山仲間の人が居られました。小林高・米山島・東井とめ・長谷川浜・春日蝶・ 金井新・宮坂品、新入では樋口元・上原しと・井上みつ等の方々で、他にも幾人か居られました。 隣室が酒井さんでありますが、ここにも沢山居られました。

 さて部屋には夜分より外居りませんが、誠に世話がありませぬ。皆お宅でお行儀正しくお育ち の人々でありますから、寝ころんだり足を出したりする人はありませぬ。いよいよ休みます時か 入湯致します時の外細帯一つで居る人もありませぬ。休みます時も銘々「お休み、お先に失礼」 と正しく挨拶せぬ内に床に入るような人もありませぬ。私は長起きが癖でありますから、毎夜毎 夜仕事を致しますので、仕事を好む人はやはり夜なべを致します。朝も互に正しく挨拶を致しま す。朝は夜具だけ銘々に片付けまして、掃除番両人ずつ順番に致しますから、当番両人だけ残り まして掃除を致させます。私も皆様と同様致しました。皆やめてくれと申されますが、自分が先 立って致しませんと、とかくやりばなしになりますから、始終致して居りました。中々きれいに 致して置きました。大勢居りますからよほどきつく致しませぬと、末には豚小屋のようになるで あろうと思いましたから、どの部屋も同じことでありました。しかし仲間の人たちが決して私の 申すことを背くようなことを致されませんには感心して居りました。これも(ひと)えに元方の方々が 和田さんと私に権力をお持たせ下さいました賜物と存じます。私共とても決して仲間の人を見下 げるようなことは致しませぬ。皆様の御心中を察しますとお気の毒でたまりませんから、まず一 度も勤め兼ねるようなことのありませんのは、一つは大里様の御引立てと仲間の方々のおとなし いお蔭と只今に感謝致して居ります。

白鳥神社祭礼総工女の休業 ――部崖長三人居残り社長春山氏の御招待――

 さて追々日も立ちまして、白鳥神社の祭礼の前日になりますと、誰が申出しましたか、皆休み たい休みたいと申します。和田さん酒井さん私の三人が色々申しますが、中々聞きません。私が 「村の方は村のお祭だからお休みになりますのも御尤もでありますが、町には何もありませんか らそのようなことを言わないでお置きなさい」と申しましても、是非休みたいと申されます。私 共仲間の人々も先立って申しますから、私共三人帳場へ参りまして「とてもこの様子では、無理 にとらせても(ろく)な糸も出来ますまいから、休みにして頂きたい」と申しましたので、総休業にな りました。

 私は心中おかしくてたまりません。皆やられたところで別に面白いことも御馳走もないのに、 後で悔むものだと思いましたが、口外は致しませぬ。するとその時どこでしたか覚えはありませ んが、博覧会に糸を出品致すのでありました。大里様が「あなた方お三人明日お残りになりまし て、出品の糸をおとり下さるように」と申されましたから、私共三人「お安い御用です」と申し まして、翌日三人で終日その糸を繰りまして、夕方終りました。すると社長春山喜平治様からお 使が参りまして、「お三人様に、風呂も立って居りますからお夕飯を召上らずにおいで下さるよ う」と申すことでありました。広い部屋に三人居り、寂しく思って居りました折からでもありま したので、三人打揃うて伺いました。代り代りお風呂を頂き、村の祭礼のことをて種々御馳走に なりまして、御飯後製糸場のお話が出ました。春山様が「あなた方富岡の何もかも揃った所から あのような所へおいでになりまして、さぞ御苦労だろうと実にお察し申して居りますが、何分元 金が不足だから何と思っても致し方がない。実にお気の毒だが御辛抱を願いたい。その代り利益 がありますれば、(かま)柄杓(ひしゃく)(さじ)も皆かねで持えて差上げます。それまで何分お繰り悪くもこらえ て下さるように」と申されました時は、思わず涙がこぼれました。私共三人口を揃えて「あなた のようにおっしゃって下されば、釜や柄杓が只今の儘でも何ほども辛抱致しますが、ただ皆様が 私共のことを我儘だ我儘だと仰せになりますから、つい申さで宜しいことまで私共も申すように なります」と申しましたら、「いや、皆も私と同じ考えだから、それを楽しみにお願い申します。 外の皆々様へもお話を願いたい」と申されました。私共三人「仰せは皆に伝えます。さぞ皆喜ば れますことでありましょう」と申しましたが、さすが社長と申されます方ほどあって、人を使う ことがお上手だと後々になりまして感佩致しました。

 この情あるお言葉を帰場後一同へ伝えました。皆非常に喜ばれました。無理に休業にして帰ら れた方々の内には、お宅でお叱られになりました方が大勢ありまして、帰らねばよかったとこぼ しておいでになりまして、私は心中ひとしおおかしく覚え、笑いを忍んで居りました。その頃は 皆無欲な人ばかりでありましたから。

元方一同の苦心 大里夫人の繰糸 ――富岡帰り一同の決心並びに元方への申込み――

 さて糸も追々繰り進んで参りますが、とかく座繰のように目が出ぬというところから、大里氏 初め一同心痛して居られます。大里氏が折々私に「いもっと()く煮て繰るように言ってくれ」と 申されますが、この一事はいかに大里さんのお頼みでも従う訳には参らぬと思いまして、「その ように煮て繰りますと糸が悪くなります」と申して居ますので、御自分に繰場へおいでになりま して、「いもっと能く煮てとって下さい」と申されますが、私共仲間一同決して聞きませぬ。蔭 で「生糸(きいと)こそ習って来たが練糸(ねりいと)なんか習って来やしない。いくら煮ろと言われたって煮るもの か」と一同で申して居ます。

 そこで思召通りになりませぬところから、元方一同御相談の上と見えまして、ある日大里夫人 (里子様)が繰場の南側丁度釜場(かまば)の通りの釜にお付きになりました。やがて繭を五合とも思いま すほど煮釜の中へお入れになりまして、ぐつぐつぐつぐつ煮ておいでになります。繭が水色を通 り過ぎて鼠色になりますと、そろそろ口をすくってお繰り始めになります。ふしこき(・・・・)の代りに髪 の毛を付け、友より(・・・)は五分ほどかけて(友よりは親指と中指一ばいに広げた丈、曲尺六寸が規則)座繰 の通りに付けておいでになります。また口をお立てになります時もやはり座繰の通りに(ほうき)をまる で湯の中へ入れておしまいになりまして、すべて何事も座繰に違いませぬ。私共仲間の人たちも 元方を折々見て居ますが、一向平気で居ります。

 やがてどうやらこうやら二升お上げになりますと、その糸が糸揚場へ参りました。大枠にその 糸を外の糸とならべてかけました時は、丁度ただの糸と玉糸ほど違います。しかし私共は何とも 申しません。その内にそれを結びますと、目方が二升で二匁位違ったように思います。すると元 方のどなたか「富岡帰りの奴等が頑張ってばかり居って目方を切らす。こんなに目が出るから、 これから何と言っても皆にあの通り煮てとらせる」と申されましたことが、私共仲間の耳に入り ました。さてこのようなことを聞きましたるところの私共仲間の腹立ちはどのようでありました ろう。これまでに一度もない腹立ちで、皆一同「もはやこのような所には居らぬ。あんな煮くさ れ糸の(ふし)だらけな物と私たちのとった糸と一つにされてたまるものか。皆一緒に帰りましょう」 と申します。私が「まず帰ることはいつでも帰れるから、しばらく待って、元方の人たちも分ら ぬからこのようなことも出来るのだから、私共がとった糸とお里さんのおとりになった糸を横浜 へやって西洋人に価を付けてもらってくれ、もしあまり値が違わなくて、煮てとった方が製糸場 …の利益になるようなら、その時は煮てとります、是非見て貰ってくれと申す方がよい。西洋人に 見せれば大丈夫、決して煮てとるようにはならぬ。皆が今帰ってしまえば、富岡で苦労したのも ここで苦労したのも水の泡になるから」と申しますと、「成程これは面白い」と一同同意であり まして、それでは元方の人たちを呼んで来る方がよいと相談が一決致しました。所は私の部屋な のでありました。

 そこで帳場へ参りまして、「誠に恐入りますが、少々申上げたいことがありますから、北部屋 まで皆様においで下さるように」と申させました。その前から富岡帰り一同昼食後場に付きませ ぬので、また何ぞ苦情が始まったと心配して居られましたことでありますから、直に大里様中村 様土屋様宇敷様打揃うて、中々御決心の様はお顔にあらわれて居ります。その時の皆々様のお顔 は未だ目前に見ゆるように存じます。またいつも仲裁ばかり致して居ります私までこの度は一緒 になって居りますことでありますから、実に何とも申されぬ御心配の御様子も見えて居りました。 さてこのようになりますと、皆後へ後へと引下がります。中には後の方でくっくっと笑います 者までありまして、誰一人前に出て申す者がありませぬ。私は年が少う御座いますから、皆様如 何と控えて、和田さんあなたからと申しましたり、酒井さんあなたからと申しますが、皆後へお 引きになります。和田さん是非あなたと申しますと、「お英さん申して下さい」と申されまして、 中々出そうにもなさいません。そこでいつまでそのようにして居りましても果てしが付きませぬ から、私が申すことに決心致しました。

 「私は若年でありますから、皆様からお話を願いたいと存じましたが、皆お申しになりませぬ。 私はこの頃糸も繰って居りませぬから、皆様のお取次を致します」

 と、このように前置きを致しまして、

 「さて今日皆様方においでを願いましたは別のことでもありませぬ。この度お里さんが糸をおと りになりまして、目方が多く出ましたに付き、私共一同にもあのように煮てとらせると仰せられ たと申すことを私共承りました。一応御尤ものようでありますが、私共とて煮てとる位なら富岡 までわざわざ修行には参りませぬ。生糸こそ習って参りましたが、練糸は覚えて参りません。つ まり価が分らぬから皆様も御心配になりますことでありますから、お里様のおとりになりました 糸と私共が繰りました糸、双方横浜へお遣わし、西洋人に価を付けさせて下さいますよう、万一 あまり双方価が違いませんで、煮てとります方が製糸場の御利益になると申すことになりますれ ば、何も国のためでありますから、一同改正致します。何を申すも西洋人を相手のことでありま すから、その方を聞かぬ先には決して改正することは出来ませぬ。尾高様へ対しても済みませぬ。 これは私の考えで御座いますが、板に(たと)えて見ましても、(かんな)をかけぬ板とかけた板では、申すま でもなくかけぬ板が厚くて(かさ)が多くあります。それで価はどうかと申しますと、薄くて量の少な いかけた板の方が価が高う御座います。この道理から見ましても、目は少々切れましても価が高 舶くありますれば、良品を製します方が国のためと存じます」

 と一つづきに申しました。すると元方の方々もどなたも何とも申されませぬ。ややあって、大里 さんがそろそろお口をお開きになりまして、「皆様の仰せも御尤もでありますが、実は人の糸を とってやるのでありますから、その方から目が切れる目が切れると小言を申されますので、ああ もしたらこうもしたらと心配を致しまして、家内が嫌だと申すのを無理に繰らせたようなことで、 決して皆様にまであのようにして下さいと申す訳ではない。せめて皆様方の内でも日の出る方と 切れる方がありますから、出る方のようにお繰り下されば宜しいから、これまで通りにお繰り下 さるように」と申されました。一同「幾重にも気を付けて繰ります」と申しました。私は再三糸 を横浜へお出し下さるようと申しまして、それで落着致しまして、皆一同場に帰りました。

 しかし雨降って地かたまると申す諺の如く、いつも仲裁ばかり致します私が、当るべからざる 勢いに申しましたから、とても申してもだめだとお諦めになりましたか、その後は製糸のことに 付きましては一言も小言を申されません。しかし横浜へ問合せもなさらずその儘に打過ぎて居ら れました。

 この出来事は何月でありましたか月も日も忘れましたが、九月末か十月初め頃ではないかと存 じます。私が洗濯をして置きました品を持たせて遣わしますことが折々ありまして、その日長屋 の茂吉と申す男に持たせて遣わします次手(ついで)に、尾敷に出来ました葡萄(ぶどう)を皆様に上げるようにと申 して沢山よこしました。丁度談判最中でありました。その後私が休みに帰宅致しますと、母が 「この頃茂吉を遣わした時、何ぞあったのか。茂吉が帰って、『今日はきかや(・・・)がさわがしい様子で、 お嬢さん初め富岡からお帰りの皆様と元方の人たちが皆二階に集まっておいでの様子で、皆お顔 付が違って居りました』と申して居た」と尋ねました。(この男は無筆でありましたから、何でも似た 音でさえあれば宜しいと思って、機械をきかや(・・・)と申します。只今に折々このことを申出しては笑います。)右 様に母に問われましたから、残らず話しましたら、「それはよい所へ気が付いた」と申して居り ました。

 後で考えますと、里子さんもこの時はさぞお嫌であったろうとお気の毒に存じます。お年は三 十一位におなりのように覚えますが、誰でも修行した人の前で知らぬことを致しますほど気の引 けるものはありませぬ。座繰こそお上手にお繰りになりましたろうが、その頃の檜舞台とも申す べき富岡で修行した大勢が並んで居ます中で、御存じのない蒸気機械の糸をお繰りになりますこ とでありますから、大里さんの仰せの通りおいやだともお申しになりましたろうが、何を申すも 六工社の立潰れにかかわることとお思いになりまして、おとりになったことに相違ありますまい。 それをお気の誰とも思わず、皆一同「能く私たちの中であんな節だらけな糸を恥かしいとも思わ ずとれたものだ。押しのよいにも程がある」などと申して居りました。私は何とも申しませんで したが、心中は皆と同感で居りました。その後本式にお習いになりまして、一心不乱にとってお いでになりました。中々能くお出来になりました。私共に世話をおやかせになりますようなこと はありませんでした。その内、御幼名忠弥氏只今の忠一郎氏を御妊娠になりましたのでお引きに なりました。

 しかしこの一条に付きましては、後日に至り大里さんが私に折々お申出しになりまして、「実 に知らぬ時というものは、あんなことを申して、今になって見ると実に面目次第もない」と申さ れます。私も申しようもありませぬから、「あの時分には私共の強情を張りますのにずいぶんお 困りでありましたろう」と申しますと、「能くあれまでにおっしゃって下さいました。もしあの 時私共の申すことを素直に聞いて下すったら、今日の名誉は得られなかったのでありました」と、 いつもいつもお笑いになりました。そして私共仲間の人が少しでも煮過ぎますと、「いつぞやあ んなことを申して置いて、こんなに煮ると練糸になってしまいますぞ」とお笑いになりながら申 されますので、皆一同笑いました。実に私共も一生懸命で強情を張りましたことが、後の名誉の 種になりましたのでありますから、こんな喜ばしい嬉しいことはありませぬ。私は別して、思い 切って大里さんの奥様のおとりになりました糸を悪いと申さぬばかりに大里さんの前で申しまし たことでありまナから、実に名誉にでもなりませぬ時は申し訳がありませぬ。

折紙付の工女

 私共が何故そのように立腹致しましたり、元方一同の前をも恐れず立派に申しましたかと申し ますに、これには深き原因がありました。私共が退場致しました時、どの位尾高様がお喜びにな りましたことやら、額に致して製糸場内にかけますようと仰せられまして、御書物を一枚宇敷氏 へ賜わりました。これは横長の紙に、

  「繰 婦 勝 兵 隊」

 と申す御丈で、御名前に御印章が据えてありました。私は一度拝見致しました。その特心中、こ れを場内にかけ置きましたら人が何とか申しはせぬかと思いましたが、大里さんもその故か御表 具も遊ばしません様子で、その後一向見受けませんでした。

 このような立派なる、私共身に取りましては折紙とも申すべき御書物を頂きました私共は、全 世界に自分等が繰りました糸を非難する西洋人は無いとまで信じて居りました。繭が悪いから見 かけの()しきことは致し方いが、繰り方において。しかしこの御文を人が御覧になりましたら (殊に軍人)さぞ立腹されることでありましょうが、日本全国の模範に政府から立てられました る大工場の長たる人は、この意気組でなければ勤まりますまいと、只今に折々考えて居ります。 この文のことを母が承りまして、尾高様も軍学を御存じなのであろう、「富国強兵」と申すから と申しました。

 この富国強兵と申すことに付き、一条の悲惨極まる物語が私共一族の身の上にあります。こと 長く縁慈善の御心のおありになります方は、下に(したため)めます一くだりの物語を御覧下さいますよ うに(ひと)えにお願い致します。

富国強兵と横田家の悲惨

 祖父は甲州流の軍学の師範を致しました人であります。常々富国強兵と申して、何ほど兵が沢 山あっても国が富まねば強い兵を仕立てることが出来ぬと申しましたとのことでありました。

 私の母に一人の兄がありました。幼名熊人、壮年になりまして九郎左衛門と改名致しました。 この叔父が幼少の頃から丈武両道を心がけましたが、殊に祖父の教育を受けまして軍学には達し て居りましたとのことで、富国強兵と申すことも心得て居りますところから、何卒して国を富ま せたいと心痛致しましたが、何分松代藩の旧領分は山間のことでありますから、徳分と申す物が 少しもありませぬ。上下ようよう生計を立てて居る位のことでありますので、どのようにしたら 国を富ますことが出来るかと、日本全国を廻り見極めたいと申しますと、祖父も快く許しまして、 幸い同志の人もありまして三四名同行致されたとのことであります。西は日向大隅より北は奥州 の果てまでと申すように、全国残る方なく遊歴致しましたとのことであります。只今の世なら僅 かの日数で巡られますが、交通不便の六十余年以前のことでありますから、永き年月かかりまし て、帰国致しまして申しますには、「何地へ参って見ても、(みなと)のある所船の出入のある所でなけ れば国が富んでは居らぬ」と申しまして、幸い松代には千曲川があるから、これを利用して、越 後の大滝を切割り、物産を交換致したなら、土地も繁昌致すであろう。その頃至って越後は大豆 小豆の出来ぬ国だから、松代領分の農家で肥料に挽潰す大豆を彼の地へ遣わし、彼の地でとれる (にしん)(いわし)その他の魚類の肥料を持帰り、農作物の肥料に致したなら、一挙両得と申すものだから、 このようにして何卒松代の盛んになるようと思い立ちまして、祖父に申しますと、至極同意であ りますところから、早速願書を認め、松代公へ願い出しますと、これも許可になりましたが、そ の頃のことであります、徳川へ願わねばなりませぬ。願書を出しますまでに越後国大滝へ出張致 しまして、絵図を引きましたり地理を調べましたり、これが中々書尽されぬほど面倒を致しまし て、いよいよ出来上りましたところで、祖父が江戸表へ出府致しまして、願書を差出すようにな りましたが、中々その頃願書を出しますには、松代藩の留守居役の手を経て徳川の役人の所へ差 出すのでありますが、この費用が大したものだとのことであります。何故と申せば、松代の留守 居役へも徳川の役人へも進物を沢山遣わねば、その頃決して許可になりませぬ。徳川の役人の手 元まで参りますまでに留守居役へ何ほど反物その他持って参ったか分らぬほどだと申します。秩 父や八丈位持って参りましても、細君などが、「おや、お気の毒な、お止しなさればよいのに」 と申して、碌々礼も申さず、わきの方へ突遣って居ったと申すことであります。この人の名字は 存じて居りますが認めませぬ。そのような有様でありますから、徳川の役人のことは推して知る べしと申す位だと申すことであります。この間が中々長くかかりました様子で、物に物をかけて ようよう許可になりますと、追々同志の人も出来ました。竹内八十五郎(象山先生の初学の師)金 児忠兵衛等の人と飯山町安次郎川田村又右衛門などの人々と、下廻り芝村彦四郎などもありまし た。徳川から船八十艘の許可が出まして、その時日の丸の旗が船の数だけ下ったと申すことであ ります。

 それより大滝へ出張致しまして、いよいよ工事にかかりますと、堅き岩のことでありますから 鶴嘴(つるはし)一打にお煎餅(せんべい)位岩が欠けます位(只今ならダイナマイトでも用いますれば訳はありませぬ が)、人夫を沢山使役致しましても中々はかどりません。その他川底に岩石がありますのを(さら)い ます、道を造るとか筆に尽し難き困難も致し、費用もかけ、この間が幾年ほどかかりましたかは 覚えませぬが、中々長くかかりましたとのこと、この間に徳川の役人が見聞に参りましたり、祖 父が出府致したり致しまして、その費用も中々ではなかったとのことでありますが、何分国を繁 昌致させたい一心で続けて居ります。その間に船も製造致させたり、大滝へは無論出張所を置き まして、家具その他横田家から持って参りましたのであります。土地が非常に開けぬ所で、男女 の見分けも付かぬ位な所だと申します。どうやらこうやら不完全ながら船の通るようになりまし たところから、初通船に彼の地(越後)の産物を満載して、芝浦と申す松代より二里の(千曲川の 内の名)所へ帆掛船が着致します日は、松代公も殊の外お喜びになりまして、菱のお茶屋(信玄公 のお茶屋、武田菱の御紋が付いて居りますので。一名昭植のお茶屋)へお出ましになりまして、遠目鏡 で御覧になりましたとのことで、横田家一族の喜びは申すまでもなく、同志の人々もこの位喜ん だことはないとのことであります。それで持参りましたところの産物は、松代公に献上致しまし たり、また親族知己へも遣わしたり致しまして、これより追々通船の数を増すごとに土地も繁昌 致すであろうと喜び勇んで居りますと、徳川から「大滝通船差止メ」と申渡されました。一同の 驚きはいかばかり、とても筆にも口にも尽されませぬ。その頃のことでありますから、このよう になりましては力に及びませぬ。それでも手に手を尽しました様子でありますが、徳川は松代の 繁昌をごく嫌いますところ、謀叛(むほん)でも企てはせぬかとの疑いからでありましょう。

 それで叔父も決心致しまして、もはや力ずくでは及ばぬ、この上は学問の力で自分一代に是非 成功致さねばならぬと申しまして、中々断念致しませぬ。同じ学問をしても、国で致してはとて も志を立つることが出来ぬからと申しまして、江戸表へ出府致しまして、徳川の御儒者林大学頭 様の塾へ入り、政治学を修行致すことになりました。修行年間三ヵ年、入塾致しまして身命をな げうって勉学致しましたことでありますから、上達も早く、大学頭様のお目にも止りまして、叔 父が軍学を致しますことをお聞及びになりまして、折々御前にお招きになりまして、叔父の軍学 の講釈をお聞きになりましては、「横田の軍学はうまいものだ」と御賞詞を賜わりましたとのこ とであります。叔父も師と敬いますところの大学頭様のお見出しに預りましたことでありますか ら、喜び勇んでいよいよ勉学致して居りましたとのことであります。

 ニヵ年半を過しまして、いよいよ今秋卒業と申す七月中旬、神はこの国益を計りましたるとこ ろの横田の家へどこまで不幸をお与えになりますことでありましたろう。叔父は風邪の心地と申 して休みましたが、追々容体が悪くなりまして、医師が傷寒(しょうかん)だと申されましたとのことに、一同 驚かれまして、早速飛脚を国元へ差立てて下さいました。

 この便りを聞きまして、祖父初め一家の驚きは一通りではありませぬ。祖父は直に出立致しま して、夜を日についで板橋まで参りますと、此方より差立てましたるところの飛脚と行逢いまし た。

 ここまで認めますと、筆が動かぬように覚えます。行年二十八歳。

 叔父は終生忘られぬ無念の涙をのんで同月二十五日死去致しましたことを知らせの飛脚であり ました。祖父はこの報を得まして、狂気の如く急がせまして、着致しますや早々、看病に手を尽 された人々に礼は申さず、飛脚を遅く差立てられましたことを責めましたとのことであります。 幸い従弟の禰津繁人と申す人と真庭と申す全国遊歴に同行した人々が一緒に居られましたから、 十分看病して下さいましたのに、そのようなることを申したと折々母が申し訳ないと申して居り ました。

 叔父は常々、火葬は罪人を致すもので、決して我々の身体を火葬には致さぬと申して居りまし たとのことで、江戸表において葬式を致しました。真田家の御菩提所(ぼだいしょ)赤坂の盛徳寺へ葬りました。 墓には「横田九郎左衛門之墓」と書付けてあります。横に林大学頭様御長男某様の御文が切付け てあります。国元へは遺髪だけ祖父が持帰りましたとのことであります。

 さてこの叔父には七年前から言名付(いいなづけ)の未来の妻がありました。この人は松山丁前島源蔵(種ヶ 島の師範にて、象山先生の元の師)と申す人の長女(私の父の従妹に当ります人)名は忘れましたが美 人で賢い、女子一通り以上何も出来ぬということのない才色兼ね備えたるところの人でありまし たとのこと、松代の風として約束当時より横田家へ出入して居られまして、忙しき時は手伝った り(ひま)な時は遊んだりして、母には姉妹の如くむつましく、祖母は母以上愛して居りましたとのこ とでありました。

 叔父もこの人も年頃になりましたところから、是非結婚して安心させてくれとしばしばすすめ ましても、この一事ばかりは両親の命に従いませぬ。三十歳までは妻帯致さぬ決心だと申しまし て動きませぬところから、この心中を見抜きましたる祖父は、その意に任せ林の塾へ入ることを 許したとのことであります。月花も及ばぬ未来の妻の姿も大事件をかかえましたるところの叔父 の目には、見えましてもそれ以上の望みには代え難かったのだろうと存じます。それを母が私共 にまで申聞かせまして、「叔父さんは自分の慾を捨てて国のためを思っておいでになった」とい つも目に涙をためて申します。

 叔父は至って孝心深き人で、父母の命に一度も背いたことはないのみならず、外出致して帰り ました時は申すまでもなく、朝夕機嫌聞きに参りましても、四方山(よもやま)の物語または見聞致しました ことを両親に申聞かせ、その心を楽しませんと勤めて居りましたが、ことが人様のことに渉り祖 父が思い違い等を致しました時には、祖父に意見を致しまして、何ほど祖父が立腹致しましても、 言葉を正しく致し顔を和らげ幾度も幾度も(いさ)めまして、得心致しました様子が見えますとその場 を引下りましたと申します。

 私の母は、八歳の時実母が死去致しまして、九歳の時後の母が参りましたが、とかく慈母のよ うに参りませぬから、叔父がいたわりも致し申聞かせも致しまして、旅並びに出府致しました時 も母へ手紙を遺わしまして、父母へ孝道は申すまでもなく手習縫針琴などの稽古を励みますよう 申越しました。私共も残る手紙を見ましては、このような兄が欲しいと存じました。

 祖父が遺髪を持帰りました時の一家の愁傷はどのようでありましたろう。皆その歎きは違って 居ったと思います。祖父はこの子をして年来の望みを果し、老後も楽しく送られるであろうと思 いましたこと、祖母は自分が見立てましたるところの嫁と一代楽しき月日を送られるであろうと 楽しんで居りまして、この嫁と別れねばならぬようになりましたこと、母は慈母なく冷たく情な き悲しみも叔父によって慰められ、一生慈母の代り師の代りと楽しんで居りましたことも皆悲し みの種となりましたこと、一家は思い思いの悲しみに闇の如くになりました。世間の人々からは、 この悲惨極まる横田の一族を気の毒だと申した人もありますが、多くは「山をするからだ」と申 されましたとのことであります。叔父の死去は寿命でありましょうが、皆決してそのようには思 いませぬ。幕府の非道がなかりせば出府は致さぬ、宅に居ればこのようにはならぬ、成功を見な がら差止めにならねば「山師」だとは言われぬと、一家(ことごと)く徳川の非道を恨んで居りました。 祖父はこの事件に付き、悲しみは通り過ぎて物事に打腹立ち、生来の短気な人がますます募るば かり、それを見ます母の心中はただ、叔父が居りましたらこのような時と、何事も叔父のみ思い つづけて日を送りましたとのことであります。

 さてこのようになりますと、昔の武家のことでありますから養子を貰わねばなりませぬ。母は 記この翌年さる門閥に縁組致しますことに約束がととのって居りました。殊に祖母の心に(かな)いまし たる兄嫁に養子を致します方納まりも(よろ)しからんと思いまして、再三そのことを申しましたが、 祖父が血筋が絶ゆるとて「そのような我儘はさせぬ」と申して聞入れません。いよいよ養子をと ることになりますと、所々方々から申込みがありまして、武具馬具衣服調度十二分にしてやると 申す門閥、または持参金のある人等沢山ありましたが、皆断ってしまいます。末に祖父から申込 まれましたのが私の父であります。父の実家は松山丁で、斎藤亀作と申す人の弟で謙吉と申しま した。(祖父は雲平、その次男が私の父)この家は至って小身でありまして横田家の三分の一ほ どの知行であります。殊に父は兄がかりの身の上であります。文武両道に励んでは居ましたが、 五節句の付届けまた盆暮の先生への礼なども祖母の内職と父の魚とり山行き等の品を売りまして、 ようように間に合せて居りました位の父に、どこか見所があったと見えまして申込みましたとこ ろ、先方では「高も違い、衣類その他の用意が届かぬから断る」と申す返事がありました。また 押返して「本人さえくれて貰えば衣服その他は決していらぬ、九郎左衛門の脱殻(ぬけがら)へ入るから」と 申す祖父の望みに、先方も承知致しまして、叔父の死去の翌年母の十八歳の時十二月二十四日に 横田家へ引越しまして結婚致しましたとのことであります。初めて仏壇へ礼拝致しますところを 祖父が見まして、まずまず礼式も十分習った人だと喜びましたと申すことであります。衣服その 他も斎藤の祖母の丹精で一通り持って参ります。殊に祖父が驚きましたのは、その頃武士の魂と も申すべき刀は、作りは粗末でありましたが中身が実に立派な物二腰まで持参りましたので、そ の心がけに感心致しましたとのことでありました。父の実父は刀道楽とも申す位の人であったと のことであります。

 さていよいよ養子となりました父は、四歳の時大病を患い、ようよう八歳の時隣まで一人で参 りましたと両親で喜びました位でありますから、全快致しましたのが十一二歳の頃で、とても育 つまいと申す両親の考えから、手習にも上げず申さば捨育てと申す有様で過しまして、十三歳位 から武芸の稽古に参りましても無筆であります。皆外の人は読んだり書いたり致しますので父も 恥かしく思いまして、十五歳の時初めて望月と申します先生の所へ弟子入り致しまして、その頃 六七歳の人の習います大学から教えを受けましたとのことでありますが、習字は入門の期が遅れ まして一人で習って居りまして、一生懸命に勉学致しましたので、二十二歳で横田家へ参りまし た時は、その頃の人並みより少々立優って居りましたとのことであります。

 叔父の後へ参りましたことでありますから、祖父が中々やかましく申します。この頃の方なら とても御辛抱は出来ますまいと存じます。その頃もし実家へ帰りますれば一生日陰者で終らねば なりませぬ。その頃の父の苦痛はどのようでありましたろうと実に察します。しかし叔父の教育 を受けました母は決して世間通例の内娘婿取(むこと)りのような行いはありませぬ。父を敬い慰め励まし て、実に睦しく暮しました。これで父も辛抱することが出来たであろうと存じます。父も叔父に 及ばぬことをよく承知致して居りますので、祖父から何を申されても決して腹も立てず、一心に 勉強して居りました。母は、日々祖父母から()つかしく申されますのを中に入りまして、双方へ 気を兼ねました苦心はどの位でありましたろう。私共が覚えましてもたえず喧しく申して居ます ので、母が折々「叔父さんさえおいでならこのようなことはない、私は外へ行けばどの位仕合せ だか知れぬ」と申しました。この家内一同苦心に日を送りましたことを親類の人でも知りませぬ 祖父も宅でこそ六つかしく申しますが、親類の人にでも父が叔父に及ばぬなどと申しませぬ。祖 父が鳴物を好みますので、大勢の小児のある中から母が折々琴三味線など弾きまして祖父を慰め また叔父が生前心添えを致しましたることを忘れぬようにと申して居りました。

 かかる中にも国益を計るは叔父の無念をはらすためのように一家残らず思って居りますところ から、父も先代の志を受けて、さてこそ人様もお出しになりませぬ所へ私を遣わすと申しました のであります。祖父も半丁ほど先の手習場へさえお転婆になると申して許しませんにも拘らず、 国のためと申すところから喜び勇んで私を遣わしますことを許しましたのであります。また母も 大勢子供のあります中、殊に妊娠中にも拘らず一言の不同意も申さず承知致しましたのでありま す。私も一家の有様を幼少より見聞致しまして、この度自分を一家共同喜び勇んで遣わします心 中を言わず話らずの内に承知致して居りますから、同行皆様のように無念と申すことにお出合い になりませぬ方々とどうしてまあ一つ心で居られましょう。一身を捧げてこの大任を果さねばな らぬ、しかし私は実に無器用で、そして不甲斐なき生れつきなれば、この大任を果すようなこと が出来ぬようなことがありはせぬかと不安心でたまりませんところから、神仏の御力を願わねば ならぬと、毎朝一時間位ずつ人様より早く起き祈念をこめましたのであります。とても私一人た だ人様の上に居って名誉を得たいなどと申す一身のため位のことなれば、筆頭になって帰られる ような私ではありませぬ。ただただ身に叶うことで祖父や両親の心を少しでも安められることが 出来るならと修行中は思って居りました。

 また六工社へ参りましては、父が先立ってお(すす)め申しましたこの製糸場が不成功に終りますれ ば、世間の人に忘られて居ますところの大滝一条もまた人々の口の端にかかり、先代もああだか らまたこの度も人を奨めてこのようなことになったと申されるであろうと存じますところから、 人様の思召しも自分の年をも打忘れ、大里様初め元方御一同や仲間の人々の前をも恐れず自分の 考え通りを申すのであります。以上記しましたような事情がありませねば、私とて僅か十八歳位 の年でこの勇気は出ませぬ。親を思う一心ほど世に恐ろしいものは無いと只今でも十八歳位の娘 さんを見ます度ごとに思い出します。その時はそのようにも思いませんでしたが、さぞ皆様が年 に似合わぬ出過ぎ者だとお思いになりましたことであろうと存じます。ふだんは人様にお話もろ くろく出来ぬ私も、この業に付きましてのお話になりますと心にありたけのことを申して居りま した。その勇気の原因は皆叔父が地下に眠り兼ねて居ますところの「富国強兵」が元で、この私 にまでこの勇気を与えましたのであります。

 以上記しました物語を御覧下さいまして、万一私の叔父を気の毒な人だ、そのような人があっ たかと思召して下さる方がありますれば、私はこの上の喜びはありませぬ。叔父が常々、

 「子孫の繁昌を思わば宜しく善事を積め」

 と母に申聞けましたとのことであります。もし叔父が私欲のために致しましたことなれば、財産 を使い尽し負債まで沢山ありましたところの横田の一族、只今頃居どこ立ちどこにも迷って居ま すことでありましょうが、まずそのようなこともなく居ますのは、全く叔父が積みましたる善事 が(かえ)って参るのかと存じます。私などの苦心致しましたのは目に見ゆる業のことでありますから 物の数にもなりませぬが、弟共妹共は父なき後の苦心私以上苦心に苦心を重ねましたることと察 して居りますが、互に親兄弟に心配をかけまいかけまいと(つと)めて居ますから、その身の外知った 人はありませぬ。弟等が只今の地位までこぎ付けましたのも一朝一夕のことではありませぬ。六 十年の昔祖父と叔父とが種を()き、両親によって培養され、只今ようよう実を結び始めたところ であります。この弟どもを見るに付けましても、叔父の賜物と気の毒のことを一日片時も私は忘 れません。折ふし墓参りを致しまして自分の心を慰めて居ます。

 私が何故人様より一時間も早く起きて神仏を拝しましたかと申しますと、これにも訳がありま す。母は叔父の死去と同時に神を祈ると申すことを止めましたとのことで、「もし神が利益(りやく)を与 えて下さるものならば叔父さんなど死去は遊ばさぬ。お前たちも決して神信心は致さぬよう」と 申付けられました。しかし私は実に不甲斐ない生れつきでありますから、この一事だけは母の申 付けを守ることが出来ませぬ。身に応じない大任を自分の力ばかりで果すことが不安心と思いま す心の弱みから、親の申付けを背いて信心致しましたが、このことを母が知りましたらさぞ不快 に感じますであろうと思いまして、人の起き出ぬ先に心ゆくまで十分に祈念をこらしましたので あります。只今考えましても、私共のような学問の教えを受けぬ時代の若き娘などには神信心は 誠によいことと存じます。とかく気の変り安き頃、毎朝神を祈ります時は、決して嘘偽りは申し ませぬ。神に向っては必ず我が本心を打明けます。その本心を神の前で曲げたことは申されませ ぬ。朝誠を神に祈り、その日曲ったことを心にも思う訳には参りません。一日のことは(あした)に有り と申すは実に金言であります。業の上達せぬ時は未だ未だ自分の一心が足らぬと思い、幸いあれ ば神の御力と思い、決して一時半時たりとも心に油断がありませぬo私など若き時、万一寝忘れ て皆人様が起きられて、心ゆくまで念じることの出来ぬ日は何となく気分が(すぐ)れませぬような感 じが致しました。神を祈る位な者が決して自分で怠けて居ることは、神に対して出来ませぬ。こ れが私の心でありました。

大里氏と四百廻

 その頃目が切れますことを心痛致されますところの大里氏が、私が創業以来一日も欠かさず一 人に付き二つずつ四百廻をとって居ますので、折々おいでになりましては、「横田さん、そんな にとらないで置いて下さい、目が切れて困るから」と申されますが、この一事は決してお言葉に 従いませぬ。いつも笑いながら、「このことばかりはいくら大里様の仰せでもお聞き申すことは 出来ません。(まゆ)が悪いから糸の見(にく)いのは仕方がありませんが、六工社の糸にむらがあったと言 われましては、六工社の(はじ)になります。小さく申せば六工社の恥、大きく申せば国の(はじ)、何を申 すも西洋人を相手の仕事だから、私がここに居ます内はこのことばかりは止めません」と申しま すと、いつも苦笑いをして、「そう言われると困るなあ」と申されました。いかに目の切れるこ とを心痛致されましたか、またいかに売込みの時西洋人から突かれることを御存じなかったかは この一事でも分ります。また私がいかにこの業に付きまして強情を張りましたかはこの言葉でも わかります。仲間の人でさえ、そのように毎日毎日とらないでくれ、少しは楽をさせてくれと申 した人もありました。

六工社の夜学

  追々日が短くなりまして夜が長くなりますところから、元方御一同のお考えか、この夜長に空 しく休んで居っては何にもならぬと申されまして、工女一同夕食後夜学を致すことになりました 読書習字珠算とありました。私は富岡の巻にて記しました如く手習に参りませぬから、常に筆法 を習いたいと思いつづけて居りましたから、大喜びで真先に出かけました。

 中村氏が丸山のお弟子で御家流を能くお書きになりましたので、同氏にお習い致しますことに 致しました。同氏が昔習われました時の御手本を沢山お持ちになりまして、工女の大勢にお貸し になりました。私も一本拝借致しましたが、実に恐入りましたのはその多くのお手本を両側から 板で締めてありまして、一点の汚れも付かず一筋の(しわ)もありませぬ、いかに大切に致されました ことでありましょう。さすが御老母の御教育とただただ感佩致しました。そこで私は、「残暑甚 敷」と申す書出しの手本でありましたが、この残暑と申す二字だけに四晩か五晩かかりましても 筆法が丁度に出来ませぬ。中村氏もほとほと私の無器用に閉口致されましたと見え、「横田さん、 あなたはお書きくずしになったお手本だからお骨ばかり折れてそれほど効はありません。それに お書きになる方はそれでお間に合って居ますから、それより算盤(そろばん)の方を遊ばしたら如何です、何 事にも入りますから」と申されまして、私もこの度こそと思いましたこと、実に残念に存じまし たが、算盤も必要でありますから翌晩よりいよいよ珠算を同氏に習いました。

 一緒に習いました人が十余人でありまして、二一天作の五から致しましたが、相変らず覚えが 己悪う御座います。外の人々は覚えも能く珠の音も宜しゅう御座います。私は覚えて一生の宝に致 したいと存じまして、一心に致して居ました。追々覚えまして、九の段まで上りましたところで 八算(はっさん)総まくりをすると達者になると申されまして、毎夜毎夜致しまして、部屋へ帰りましても十 二時過ぎまではじいて居ます。しかし折角出来ましても湯に入りますと大かた忘れてしまいます ので、二三日も入湯致さずに居ったこともありました。ようよう見一になりました時は初めの十 余人が私共に両三人になってしまいました。私は相変らず致しまして、商売割になりました時は 私一人になりましたが、やはり続けまして、とうとう一通りわかるようになりますまで御教授下 さいました。

 その後は万事算盤で致すことが出来ました。只今も日々用立って居ますのは、全く六工社の賜 物、また無器用なる私にこれまでに御教授下さいました中村氏の御厚恩、いつの世にか送ること が出来るでありましょうやと存じつづけて居ます。その時書いて頂きました帳面は記念のため大 切に持って居ります。

 夜学には元方総出にて御教授下さいました。大里様は読書習字、中村氏は習字と珠算、土屋氏 は習字と珠算、宇敷氏は読書と習字、工女方も皆喜んで大方毎夜出られまして、中々盛んであり ました。

六工社と小野組

 この頃、只今の銀行と同じような仕組みの小野組と申すが上田町(うえだまち)にありました。六工社で繭は この手から間に合せて居られるように大里様がお話しになりました。(但し金子のように私は見 受けて居ました)。大里様は小野組のことをお(たな)(たな)と申されました。

 或日私に「お店も段々むずかしくなって潰れるかも知れません。そのようになりますと六工社 た も戸を()てねばなりませぬ」と実に実に心配そうなお顔で申されまして、私も心配で心配でたま りませんでした。しかしこのことは仲間の人たちにも話しません。申しましたら皆騒ぎ立てるで あろうと存じましたから、日一日と心配で、元方の方々のお顔ばかり眺めて居ました。

 日々少しずつ土屋中村両氏岸田氏が買集めて参られまして、まずまず一日も繭なきために戸を 閉てるようなことなしに十二月までとり続けまして、同月十二日閉業になりました。

閉業祝と仕着せ

 いよいよ明治七年十二月十二日、まずまず首尾()く閉業致しました。未だ海とも山とも分らぬ ながら、明年のこともあります、また富岡でお仕着せが渡りますからと申しますところからか、 一同へ仕着せが渡りました。唐糸縞の黒地に濃き鼠の三筋立てでありました。それを十一歳位の 少工女まで同じことでありました。実に地味な柄であります。上の工女方へは裏表(浅黄(あさぎ)金巾(かなきん))、 下は表だけ、夜具持参の人へはよりこ(・・・)二把渡りまして、私まで貰いました。

 その夜は閉業祝と申されまして、中々御馳走が出まして、お酒までお出しになりました。南部 悩屋は和田さんのお部屋、北部屋は私の部屋、席定りました頃、大里さんがお先立ちで元方御一同 御出席になりまして、第一番に大里さんが、

 「さて皆様、本年は創業の際でありますから万事行届きません。実に御苦労をかけました。また 明年も本年に増して御苦労願いたい。いささか閉業祝の印ばかりでありますが、ゆるゆる召上っ て下さいますよう、実はいま少し御馳走を致す考えでありましたが、この度お(たな)が閉店になりま して、その方へ遠慮も致さねばなりませず、かたがた実に御粗末で申し訳がない。また六工社が 盛んになりますればその時こそ何ほども御馳走を致しますから、何卒御勘弁下さいますように」 と申されまして、第一番に私の前へおいでになりまして「段々有難う御座いました」と申されま して、お盃を下さいました。外の方は何も申されません。ただお盃だけお持ちになりまして、 「御苦労様でした、また明年もお願い致します」と申されまして、日頃の渋いお顔はどこへやら と申す有様にて中々面白そうにしておいでになりました。私が実に閉口致しましたのは、工女方 が一人一人皆私の所へお盃をお持ちになります。初めはお吸物椀の中やお皿へお酒を明けて居り ましたが、中々明け切れません。そこで私が好奇心にかられまして、自分も父の娘だ、どの位飲 めるものか試して見ようと、とんだことを考え出し、中途から人々の下さるお盃を引受け引受け 中々十五六杯位ではなかったように覚えます。しかしどの位強いものか、酔いますことは酔いま したが、決して小間物店だの前後忘却だのと申すようなことなしに、御飯も頂きまして休みまし た。只今考えますと婦人に酒、大禁物、私が皆様をおとめ申さねばならぬのに、とんだ所で自分 を(ため)し、また人様にも上げましたのは実に申し訳のないことだと思います。さぞ皆様方が驚いて おいでになりましたろうと、今更面目次第もありませぬ。

 翌十三日朝一同帰りました。まずこのようにして創業第一年の事業も一同心配の中から首尾能 くしまい、元方工女双方笑顔で別れましたのは実に祝すべき前兆かと存じます。

 大里氏のお言葉で初めて小野組が閉店致しましたことを承知致しました。

六工社よりの礼 私の心の迷い

 十二月十三日帰宅致しまして、私は弟妹等の春着の用意または家事に忙しく日を送って居りま した。同月末の頃ある日大里さんがおいでになりました。直に母が出てお目に懸かりまして、私 も傍に居りますと、大里さんが、「年内は色々御心配をかけまして有難う存じます。お英さんに は格別御苦労願いまして、お蔭でどうやらこうやら首尾能く閉業致しました。何とかお礼の致し ようも存じては居ますが、何を申すも未だ見込も立たぬような次第で心に任せません。これは社 中一同の志の印まででありますがお花紙でもお求め下さいますように」と申されまして、銀包に 「御礼金五円六工社」と上書きがしてありました。すると私は一目それを見ますと、日頃の信心 も打忘れ、心中にお礼なんか来るだろうとは夢にも思わなかったが、このように持って来て下す った、あれで何ぞ(こしら)えて下さるだろう、何を拵えて下さるやらなどと思って居ります。すると母 が非常に迷惑な顔になりまして、「これは思いも寄らぬ御心配を遊ばして下さいます。未だ御利 益も上らぬ内にお礼などは思いも寄らぬこと、思召しは頂いたも御同様、御持帰りを願います」 と申して、大里さんのお前へ戻して居ります。私は心中、折角持っておいでになった物をお返し 申さずともよさそうなものだなど自分勝手なことを思って居ります。すると大里さんが、「その ように仰せられては私が困ります。これは私が一存で致しましたことではない、一同に代って伺 いました。私これを持帰りましては一同へ対しても済まぬから是非お納めを願いたい」と申され ます。母がまた「いやこれはどうあっても頂く訳には参りませぬ。元より数馬がおすすめ申して お始めになりました六工社、数馬がお手伝いでも致すべきところ、娘が少々働きました位にお礼 などを頂きますことは決して出来ませぬ。やがてお利益のありました上に思召しとありますれば 御遠慮なく頂戴致しますが、この度は平にお持帰りを願います」と、受引く様子もありませぬ。 私はあのようにまでおっしゃるものをなど心中に思って居ります。彼方へやり此方へやり中々果 てしが付きませぬ。母もついつい根気負けをして、「そのように仰せられますなら、数馬が何と 申しますか帰宅致しますまでお預かり申します」と申しまして、それでひとまず落着が付きまし て、四方山(よもやま)のお話の後お帰りになりました。

 お礼は中も改めずそのまま箪笥の引出しへ入れてしまいました。慾に心の迷いましたる私は、 どうなることかと心中には思いましたが一言も申しませぬ。ただ父が帰宅して何とか申すであろ うと心中に思いつづけました。しかし私の家では先代からの家風とでも申しますものか、どのよ うなことでも両親の致しますこと子供が何とも申しませぬ。相談がありますれば銘々見込を申し ます。相談でない時万一申しますと、「余計なことを申すものでない」と申聞けられます。

 まず私のこの時の心中はいかに浅間しくいかに汚れて居りましたろう。これが神仏に身命を捧 げて六工社の隆盛を祈念致しました私に相当致しますでありましょうか。実に小人罪無し玉を(いだ) いて罪有りと申しますが、未だ玉も手にとらぬ先に「逢見ての後の心にくらぶればむかしは物を 思はざりけり」と申す歌は恋歌でありますが、何事も見ぬこそ清けれ、心の汚れは目より入るこ とと思われます。身命を捧げたほどのことなれば、いかなる大切の品とても売代なしても六工社 のためなれば惜しくは思わぬ筈、殊に両親が付き居りました私、何不自由なく人中へも出られる ようにしてくれますのに、何を苦しんでこの利益も上らぬ、立つ潰れるもわからぬ六工社からの 記お礼で自分の贅沢品をもとめてくれるだろうなど思いましたやら、その時の考えは決してこれが 欲しいと申す考えもありませぬ、ただ自分が働いたお礼、両親の手からでない自分の力でとれた 金、その金で何ぞ拵えて見たいと申す、実に馬鹿馬鹿しいつまらぬ考えを持って居りました。実 に馬鹿馬鹿しきは若き者の考えであります。

 父はその頃長野に居りました。その後帰宅致しました時、母がお礼の話を致しますと、以ての 外不快の顔つきを致しまして、「お前も何で礼などを受取った、返してしまえばよいのに、利益 も上らぬ内にとって置くということがあるものか」と申しました。母が「どのように申しても持 帰らないで、私もよんどころなく預かって置きました」と申しました。私も父の顔父の声父の口 上を聞きますと、夢から覚めたようになりまして、ようよう自分の考え違いに心付きますと、実 に実に何とも申されぬほど心苦しく感じまして、自分は今まで身命まで捧げて神仏を祈念致しな がら、何故あのような汚れた浅間しい心を出したであろう、口にこそ出さね、実に済まぬことを したと、大罪を犯したように思いますと、居ても立っても居られぬ位でありますが、両親も私の 心の汚れを存じません。直に懺悔致したいのは胸一杯でありますが、申したらさぞ両親が驚くで あろう叱られるであろう、自分の子がこのような浅間しい心を持つかとさぞ情無く思うであろう、 叱られてもそれは当り前だけれど、さぞ情無く思うであろうと思いますと、もはや懺悔する勇気 は(くじ)けてしまいます。申して気色を損ずるより申さぬ方がましならんと決心致しまして、このこ とに付きましては一言も申しませぬ。すると父も母の物語を承りまして、「そのように申された ところへ返しては却って心持を悪くするようになるから、何ぞ重宝になる品をもとめて遣わす方 宜しかろう」と申しました。この時私は初めて口を開きまして、「おとっさん、金の柄杓(ひしゃく)(さじ)を持 えさせてお遣わしになりましたら如何で御座います」と申しますと、父が「それもよかろう。し かし五円では何ほども出来ぬ。やがて利益のあるようになれば六工社で持えるだろうから、不揃 いになると却って迷惑をするであろう」と申しました。(いかに木の柄杓灰ふるい匙を心にかけま したかはこの一言でも分ります。見かけが悪いからと申す訳ではありませぬ。実に使い悪く時間 がよほど違いますから。)両親はあれかこれかと相談致しました末、父が、「どうで工女の(まかない)をす るから干物がよかろう、いつまで置いても悪くならぬような品を」と申しまして、椎茸と干瓢(かんぴょう)を 遣わすことになりまして、五円皆遣わしては折角の厚意を無にするようで宜しくないと申しまし て、この二品を四円五十銭ほどもとめて、おうつりとして長屋の和吉と申す者に持たせてやりま したが、その頃価が下直でありましたから五幅風呂敷に一ばいありました。

 私共仲間の人たちはどの位でありましたか一向知りません。皆私より以下だろうと存じますが、 互にお礼のことは一言も申しません。いかに気位が高かったものやらと只今でも折々思い出して 居ります。しかし内々座繰をとった方が徳だと申された人が仲間にも新入りにもあったように承 りましたが、表向きでは何とも申されません。

 その後は自分で自分の心の汚れぬよう心懸けて居りました。叔父が申したと母が毎々申聞かせ ましたが、実にこの歌の通りであります。

 「心こそ心迷はす心なれこころに心心ゆるすな」

 当地へ参りましても、お礼一条の私の心の迷いは忘れませぬ。母に逢いましたら話しましょう と思って居ますが、外の話に実が入って一度も思い出しません。後でまた忘れたと気が付きます、 三十五年の昔犯しましたる心の汚れを初めて懺悔致します。世に若き人の考えほど当てにならぬ ものはないと、ここに書きとめて置きます。

 私は国元を出ましてから、製糸業に従事致しましたことを誰にも一言も申しません。同じ所に 十三四年も居、姉妹も及ばぬほど親しく致しました人々にでも決して申しませぬ。申しますと私 は前後も忘れてこの業のことを申しますから、その人は私の親友でありますから実とも思われま すかも知れませぬが、他へ漏れますと、その内には法螺(ほら)を吹くとか何とか申されましては少しの 益もなく、却って身の(あだ)になります。どんな育ちをした者やらと両親のことまで申されるであろ し う。その業に従事して居ってこそ申す必要もあれ、何も申さぬに如くはないと心に誓って居りま した。しかし一日も忘れたことはありませぬ。

 独り居ます時は八年間のことを繰返し繰返し日々楽しんで居ます。汽車汽船または近所の製造 場などの汽笛の音を聞きましては、世界第一の音楽を聞きますより私の耳には楽しく聞えます。 自分が従事致しましたところの業がますます隆盛になりまして、帰省致すごとに汽笛の数が増し て参ります。この業によって松代も段々栄えて参ります。母も日々この音を聞いて喜んだり楽し んだり致して居るであろうと日々考えて居ります。祖父も叔父も地下でこの音を聞きます時は百 千の僧の読経より嬉しく思いますでありましょうと、そればかり私は喜んで居ます。昔身命を捧 げた業が今は自分の長寿の妙薬の如く、いかなる苦痛もこのことを思います時には一時に忘れて、 身の幸福を喜びます。かく(したため)めましたとて、決して私の力で成功したの何のと思いますのではあ りませぬ。大勢寄りましてこそ功も奏します。いかに一人で働きましたとて決して成功するもの ではありませぬ。不成功に終りましたらこの楽しき汽笛の音も地獄の鐘の音の如く、人は知らず とも自分が聞いて命を縮める種となったであろうと、そのことを片時も忘れず喜んで居ます。 「末は雲助」の歌も昔語りの笑い話の種となりましたのは、実に嬉しく喜ばしく筆には尽されま せぬ。

以上記しましたことは日記もなく日々私が繰返し繰返し二十九年の長日月心に秘めて置きまし た昔語りであります。この次より第二年三年と順に記してお目に懸けます。

六工社創業第二年目の春

  六工社創業第一年目は前段に記しましたる有様にて、まずまず目出度(めでた)く閉業致しました。私は 宅に帰りまして、弟妹の春着の用意も調え、新しき年を迎えまして心地よく覚えます折から、い と喜ばしきことが家の内にもありました。末の弟が永々病気のため夜分床に就きますと泣きます ので、母は永い間夜と共に抱きかかえて立尽して居ますので体が弱ります上に、弟の植疱瘡(うえぼうそう)のこ じれが乳に伝染しまして乳首が切込みまして、乳を呑ませますと非常に痛みますのを見るも痛ま しいようでありました。私が休業で帰りましたその夜から手代りをしたいと思いましても、私の 留守中生れましたから私に馴染みません、私にはだかれませぬ。致し方がないからお前は先に休 めと母が申しますから、私も床に入りますが、その泣声を聞き母の立尽しますのを見ますと中々 眠られませぬ。

 毎夜毎夜その通りに心を苦しめて居りましたが、また私のことでありますから、神の御力を願 うより外仕方がないと思いまして、十二月十九日の真夜中、庭へ出、泉水の氷を砕き、自身は丸 裸になり、金盥(かなだらい)にて水を汲み幾杯も幾杯も肩よりかけて身を清め、八幡(やわた)の八幡様、竹山の稲荷様 を一心不乱に祈念致しました。八幡様へは母の乳の治りますよう、四足二足並びにいり豆を三力 年間断ちまして、稲荷様へは弟の夜泣きの治りますよう、御願果しには赤飯と油揚を奉納致すと 申して、その翌夜二十日の夜弟の夜泣きがふっと止りました。私は今にも泣くかとその夜は目も 眠らず気を付けて居りましたが、実に静かに休みまして、夜はほのぼの明けました。母は幾月こ の方になく弟が休みますので、疲れて居ますこととて日の高く昇りますまで知らずに休みまして、 八時頃ようよう目を覚しまして、夕べは坊がよく休んだのでこのように遅くなるまで知らずに休 んだと申して喜んで居ました。

 その翌晩も能く休みましたが、決して願がけを致したことは申しませぬ。母が神信心を好みま せぬので。二十一日に先々代の祥月命日で真田の姉が参りましたから姉だけに内々話しました。 姉も大層喜びました。姉は私以上神信心を致しますので。母も十分眠りましたのでいといと快き 顔つきになりまして、何となく気力も付きましたかのように見受けます。私はその嬉しさは今に 忘れませぬ。

 それで私は何卒今晩も能く下に休みますようと心に念じて居りましたが、実に幸いその後は毎 夜毎夜下に休みまして、一度も泣きませぬので、弟も日に日に快方に向い、母の乳も能く眠られ ますので元気が付きます故か日に日に快くなりまして、一月頃は大方治りましたから、日々楽し く嬉しく、時節は寒中ながら家の内は春の如く、朝から晩まで笑い続けて居ます。(以上記しまし たことを只今の皆様が御覧になりまして、迷信も甚だしい、このようなことがある筈がないと仰せられまし ようが、決して偽りのことではありませぬ、ありの儘を(したた)めましたのであります。実に竹山の稲荷様位夜泣き をお止め下さいますのは恐れ入ったものだと只今でも思って居ります。)

 その内にも六工社の工女方が日々御年始においで下さいます。中々賑やかなことでありました. 己母と私で居ります時でも笑い続けますので、裏隣の方が、横田では親子で居て何が可笑しくて毎 日毎日笑って居るやらと申されたと申すことであります。人様が不思議にお思いになりますも御 尤(ごもっと)もであります。母が色々面白く話しましても弟や妹がつまらぬことを申しても、私が極々(ごくごく)の笑 い好きでありますから何事も皆笑いますのであります。折節は余り笑いますので叱られたことも ありますが、なおおかしくなりまして陰に逃込んで笑いますことは毎度ありました。父は留守、 母と弟妹と私ばかりでありましたから、まず極楽と申すはあのような時のことを申すのでありま しょう。六工社に居ましてはいかに笑い好きな私でも中々笑うどころではありませぬが、宅に居 りますればそのような心配もありませぬ。日々母と弟の快くなります嬉しさに追々母の顔色も赤 味を添えて参りますので、ただもう嬉しいことばかりでありますから、毎朝弟共妹共四人学校へ 参ります世話やら家のことの仕事などの忙しきことも喜び勇んで致して居りました。

 するとたしか二月初めかと覚えます、或日中村氏がおいで下さいました。母と共に直にお目に 懸りました。

蒸気機械の元祖六工社製糸の初売込み ――生糸二梱 中村氏売込場の物語――

 さて中村氏へお目に懸りますと、いといと喜ばしきお顔であります。同氏は至って人相のよい 方ではありましたが、また至って真面目(まじめ)で居られますのが常でありました。まず時候の挨拶が済 みますと、同氏が、「さて昨年中は段々御心配下さいましたが、六工社の糸をこの頃売込みまし て、実に上々の首尾でありました。それで早速お礼かたがた売込みの様子を申上げようと思って 伺いました」と申されました。母も私も日々笑いの中から心にかけて居りましたことであります から、何とも申されぬほどその物語を聞きたいと思いました。

 中村氏物語――「さて私も悪い繭ばかりでとりました真黒な糸ただ二(こり)持って参りました。そ の心配はどの位だかわかりません。仲間の者は皆上等な繭でとった雪のような糸を沢山持って参 りますことでありますから、中には私を馬鹿にする人、またそんな糸を持って行って売れるもの かと申さぬばかりに申されるのを聞き、そのつらさは何とも言われませぬが、仕方がないと諦め て何とも申さずこらえて居りました。いよいよ今日は生糸の検査場へ引込みました時の私の心配 はどの位でありましたろう。恥かしいやら情ないやらで後の方に引込んで居りました。仲間の者 はこれ見よがしに銘々自分の糸を出しました。その美しさは譬えようがありませぬ。いよいよ私 の番になりまして、二梱の糸を出しました時は丁度お姫様のおみ足と私のこの毛臑を並べたよう で、実に顔が赤くなりました。すると仲間の者は糸と私の顔を取分けに見て笑って居るように見 えます。穴があったら入りたいと思いました。その黒い糸を西洋人が一目見まして直に「これは 珍しい糸を持って来た。これは蒸気機械の糸ではないか」と尋ねますから、「左様であります」 と申しましたら、「このような糸なら何ほども買ってやる。糸は何ほどあるのか」と申しますか ら、「この二梱だけです」と申しますと、「惜しい物だ、なぜもっと沢山持って来ない、これは気 に入った、沢山あれば七百枚でも八百枚でも買うけれど、たった二梱では幾ら良くてもはした物 で、そうは買うことが出来ぬから六百五十枚までに買って置く、この次は沢山持って来るよう に」と申されました時は、私は夢ではないかと思いました。それで座繰の雪のような糸は「四百 五十枚より買われぬ」と申しましたので、仲間の者も驚いて、「あんな黒い糸を六百五十枚に買 って、何故この糸を四百五十枚により買われぬのだ」と申しましたら、「お前さんたちもあんな 糸を持って来れば幾らもよい値に買ってやる」と西洋人が馬鹿にしたようなことを申した時の皆 の顔は何とも譬えようのない顔をして居ますに引替え、私の鼻が俄かに高くなりましてこのよう でありました(天狗の鼻の真似、両手を鼻の先にやって手真似で致されまして)、実に西洋人の目の高い には驚きました。また蒸気機械の糸のよろしいと申すことも初めて承知致しました。まずこの位 嬉しかったことは生れて初めてであります。仲間の者の萎々(しおしお)して居りますのを見るとおかしくて たまりませんでした。あまり私を馬鹿にして居りましたから、「私等はな、色は黒くもそんな糸 は持って来ぬ、品は少くも上等の品を持って来る」と申してやりましたが、誰も一言も申しませ んでした。あんな選り出し繭でとった糸が上等の繭でとった糸より二百枚も高く売れるとは、実 に驚いて夢のように思われます。その後私に向って小さくなって居って、実に心持が宜しゅう御 座いました」と申されました時は、母も私も生きかえったような心持が致しまして、口も結ばれ ぬ位喜ばしく感じましたが、何を申すも売込まぬ先は口に出す訳に参りませぬ。殊に煮てとらせ てくれと申された時、大里夫人のとられた時、私が先に立って立派なことを申して強情を張りま したことでありますから、実に実に嬉しく、中々言葉に尽されませぬ。「それはまあ実に結構で 御座いました。ようよう安心致しました」と申しまして、四方山の話に時を移して帰られまし た。

 何故開業七月以来十二月までにようよう二梱かと申しますと、人の糸を賃挽き致しましたのは 皆座繰のように小さい四角な大枠(おおわく)にかけて角をしめし、島田にして下げ糸にして座繰の中へ入れ てその主が持って参ったのであります。それ故その主が、友より(・・・)はよりがかかって一筋一筋にば らばら致しますので、真綿のように軟かにならぬと小言を申します。また元方の人たちもやはり どうも軟かにならぬ軟かにならぬと私に毎々小言を申されましたが、私は煮過ぎて腰折れ糸にな ることを皆様がご存じないからあのように申されるのだと心中思って居りますので、どのように 申されましても富岡通りにして居ったのであります。仲間の人々も私同様中々聞きませぬのが実 に仕合せになりました。売込みの物語を聞きましてから、母と両人明けても暮れてもそのことば かり申出しまして、「まあよかった、これでようよう安心した」と母も申します。私も「実に嬉 しいことであります、これでようよう元方の人たちも解りましたでありましょう」と申して、ま た尋ねられます工女方にも話しまして、共に喜んで居りました。

売込み相場銀目のこと

 先にちょっと(したため)めますのを忘れ書残しましたから、ちょっと左に認め置きます。

 只今は如何や、その頃は生糸の価は皆銀目で申しましたから、

      六工社初売込みの六百五十枚は、

      現金千八十三円三十銭に相成ります。

      座繰の四百五十枚は、

      現金七百五十円に相成ります。

 御存じかも知れませんが、私の承知致して居りますこと、三十九年前のことゆえちょっと申上 げて置きます。銀目は六で割りますと現金が出ました。

 只今考えましても、上等の繭で製しましたものが七百五十円、選り出し繭の縮緬(ちりめん)糸にその頃す るような下等の繭で製したものが千八十三円三十銭になりましたことでありますから、人の驚い たのも無理はありませぬ。しかし西洋人が蒸気製法を奨励致しましたのかも知れませぬ。

売込み後の六工社

 横浜の初売込みが前文の次第でありましたから、生糸界の人々は申すまでむなく、市中至る所 この評判を知らぬ者はないようになりました。その頃は新聞と申すものは東京には二三種ありま したようでありますが、信州などへはまず参りませぬが、人から人に伝わりますのも中々恐ろし いものであります。六工社とさえ申せば生糸では並ぶものがないと人々に思われるようになりま した。あだかも旭の昇るが如き有様でありました。僅か半年も立たぬ内にかくまで相変ずるもの かと、ただただ驚きの外はありませぬ。

 その後私共が通りましても「豚」とも申しません、「末は雲助」の歌も聞きませぬ。私は実に 人は正直なものだと感心致しました。私共の喜びはどのようでありましたろう。しかし兼ねて期 したることなれば、別に威張りも致しません。この上ともますます勉強して製糸場の隆盛になり 譜ますよう、また二つには富岡御製糸場の御名を揚げたいと日夜念じて居りました。

    日記の写し

    大正二年十一月二十五日認め

和田ゑい


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第二年目開業

  たしか四月二十日に開業になりますとのことで、二十日の朝、皆一同今年こそはと喜び勇んで、道 順でありますから、仲間の人は大かた私方へ誘いまして参りました。すると、帳場の前と繰場の端を 通りまして、おのおの自分のへやに行きますような通り道になっていますので、そこを通ります時に、 何やら繰場の入口に筆太に書いた一片のした物がありましたから一目見ますと、

  と書いてありましたが、私は自分のことと思いまして別に心にも留めません。仕度をして出てみます と、見知らぬ工男が両人と、肥満したいかにも尊大にかまいたような二十七、八歳とも見ゆる婦人 が、繰場の内を我物顔に廻っています。私は実に驚きましたが、大里氏初め元方一同、又海沼氏より も一言の話もありませぬ。この時に至り、私は怒り心頭に満ちましたが、まず彼らの致し様見きわめ、 その上にて思案はあれと、わざと笑をふくんで何事も申し出しませぬ。

  私は私で繰場に参り、揚枠場にも参り、平日と同じよう努めて平気をよそおいまして居ますと、新 入工女のところへかるかやの「ほうき」を持って参りまして、工男とその婦人がつかって見せて糸の 口の付け方など直していますが、さすが富岡帰りの人の前には参りませぬが、私ども仲間は皆立腹し て、私に内々申されましたが、私が「今何やかや申すと見苦しいから、今日だけ知らぬ顔して居、今 夜何かの相談を致す方よろしからん」と申しましたら、皆同意でありまして、昼食も致し、夕方仕舞 いますと、一同私のへやに参られました。

  その内に、昨年の新入の人に委しい様子を知った人がありまして、その工男は佐久間猪之吉と木村 某、婦人は藤田ふみと申す人でありまして、佐久間と藤田は奥州二本松のたき火の製糸場に居た人 で、流義は「イタリヤ」つかみどりの人で、中々両人共高言を申しおられ、富岡帰りの工女が何程の ことが出来るものか、我々に任せれば世界無比の良品を製すようなことを申されたとやら。

  右を聞きました私どもの無念は、まあどのくらいでありましたろう。創業の際、何事も知らぬ元方 を相手にして、苦心に苦心を重ねまして、初売込も上々の首尾、今年こそは双方笑顔で業もはげま れ、又繭とても去年に引替え良き物を繰られるであろうと、口には中しませぬが心中は皆同じ心で、 喜び勇んで参りましたかいもなく、ただ一言の話もなく、何程の業が出来る人かそれさい知れぬ人々 に、大事の大事の繰場を歩み汚され、何の面目におらるべき。実に元方の人々の仕方こそ心得ねと思 いますと、実に無念で無念で今日一日知らぬ風にて過したるその口惜しさが一時にこみ上げ、私が第 一番にわっとばかりに泣き出しました。残る一同も一人として涙をこぽさぬ人はありませぬ。たがい に手を取合いまして、さんざん泣きましたが、私の「もはやこの製糸場に居るわけには参らぬ。決し て皆様は私が帰るからと申して、御一所に御出下さるには及ばぬ。皆御心任せに遊ばすように」と申 しましたが、誰一人残る人はありませぬ。

  「あんな何国の人だか知らぬ人に大きな顔をされて、だれがこのような所に居る者があるものか」と 申されますから、「それではこれから直ぐに帰りましょう。帳場へ知れると面倒だから早く仕度をす る方がよい」と、おのおの一抱えの包を持ち、帳場の所へ参りますと、大里様が箱火鉢に向い外の通 りをながめておられました。

  この度は私が真っ先に立ちました。実に実に早口に「大里様、長々御厄介になりまして有難う存じま す。これでお暇申します」と申すやいなやかけ出しました。つづく一同の人達も「有難う。有難う」 と申し、飛鳥の如くかけ出しまして、つかまいられましては、ことがむずかしくなりますから、後も 見ずに一生懸命いきと足のつづくだけかけました。大里氏はただぼうぜんと皆の後姿をながめてお いでたと後で承りました。

  仲間一同は宅(代官丁横田)へよられまして、母にそのことを代る代る申され、私も申しました。母 も「それはもっともだ。そのような所にはおらぬ方がよろしい」と申しまして、皆一同で「今頃はさ ぞ騒ぎでおるだろう」など、先程の泣き顔に引替え、皆勢いよく笑いきょうじているところへ、海沼 氏いきもたいだいにかけ付けました。母が出て遊ばしますと、「何か思召に合わぬご様子で、お揃い でお帰りになりましたが、思召にかなわぬところは幾重にも改正致しますから御帰場下さるように」 と申しましたが、母が「いや、もはやお英は決して出さぬ。又出るにも及ばぬ。あれらにましたる程 の方々がおいでになったそうだからその方々に六工社を御引渡し申せば、このような安心なことはな い。お前が何程申しても、参る必要はないから出さぬ。又迎いに来るはずもないではないか。社に帰 って『長々御厄介になって有難う、まずまずそのようなお腕のある方がお出になって結構だ』と私が 申したと伝いてくれ」と決して動きませぬ。

  海沼氏は涙をこぼしておられましたが、致し方なしにすごすご六工社へ帰られました。私ども一同 は、奥の座敷で賑やかに笑ったり話したりしておりまして、皆それぞれお宅へと御引とりになりまし た。母と私は、後でも「実に驚いたものだ。海沼などは折々参りながら、そのようなことを一言も申 さず、知らぬ顔をしておって、人をだしぬくようなことをする。元方の人達も実にわからぬ仕方だ」 など中して、その夜は休んでしまいました。

  翌朝は早く起きまして、家の掃除その他、私は働いておりました。午前に樋口様がお出になりまし て、「とんだ事で、さぞお腹も立ちましょうが勘弁してくれ」と申されましたが、母が、「まず、その 人達に任せておやらせになる方がよろしう御座いましょう」と申しまして、受付けませぬのでお帰り になりました。

  すると、午後二時過ぎ頃、大里様がお出になりました。母が出てお目に懸りますと、大そう困った ようなお顔付でそろそろお口をお切りになりまして、「この度は実になんとも申訳のない次第で、さ ぞ御立腹遊ばしたことと、平に私よりお詫びを申上げる。実は私はあのような事をさせる考えではな かったので、若い者どもが二本松の製糸場におった工男と工女が居るから雇ったらどうかと申します ので、それはよかろうと申しておりましたが、中廻りや教師にする考えでは少しもありません。工女 には無論糸をとらせる考えでおりました。昨日も種々用事があって夕方社の方へ参りますと、お英様 はじめ富岡からお帰りの皆様が揃ってお帰りになりました。ふしぎなことだと思いまして、後から皆 に聞きますとこれこれの訳だと申しますので、私も実に驚きました。さんざん皆に小言を申しまし て、今朝、その藤田文と申す女に糸をとらせましたが一向とれませぬ。八木沢浪ほどにもとれませぬ から、元方一同も驚きました(八木沢なみと申す人は前年開業の時入場致しました。その時二年目の人。新入 では中々よく出来る方)。直ぐにおっ払ってやりましたから、何事も私の不行届から起りました事、な にとぞなにとぞ万事御勘弁下さいまして、これまで通り御帰場下さいますよう」と申されましたので、 母も、「私ども別に立腹致したと申すわけではありませぬが、そのようなお腕のある方がお出になっ て御引渡し申せば大安心だと申しておりましたが、そのような御都合ならば今夕帰場致させます」と 申しましたので、大里氏も大そうお喜びになりました。そして、その藤田と申す人が口ばかり大きな ことを申して何も出来ぬと申され、若い手合には困るなどと申され、御帰りになりました。

  私ども仲間のお宅へも樋口様ならびに元方の方々御自分でお出になりまして、「藤田文を出してや ったから帰ってくれ」と申されましたので、皆帰ること振りました。夕方になりますと、ぞろぞろ 私方へ誘いにおより下さいました。皆、大里さんの話を致しますと、「それみたことか」などと笑っ ておられました。母が皆さんに、「皆さん、これからは中々荷が重くなりました。去年までは、皆さ んばかりだから別に心配もいらなかったけれど、今年は、折角雇った人を追出して皆様のお顔を元方 の人達が立てたのだから、このことについては、これから一言もお申しにならぬよう、又何事につい ても大人しく一生懸命に精を出して、六工社のますます盛んになるようにお心掛遊ばすよう、自分ら でなければならないような顔を、仮にもしてはいけません。この上そのような風をすると、元方の人 達にもあいそを尽かされてしまいます」と申しました。私には、大里氏お帰り後、よくよく申聞かせ てくれました。「これまでから思いばば実に荷が重くなった。何事にかかわらずつまらぬことに苦情を 申さぬよう」と申聞けられました。それで一同打揃うて「ただいま、ただいま」と帳場で申して、自 分自分のへやにその夜は休みました。

  翌朝繰場へ出ますと、元方の人達、海沼氏、佐久間氏等の人々の、その心持の悪そうなお顔付は、 ただいまに目の内に残っております。しかし、大里氏だけは、平日の通りなお顔付でありました。私 ども仲間の人達ならびに私も少しも知らぬ顔をして、皆一生懸命に精を出しておりました。前日に引 替え、大里氏よりどのくらいきびしくお申しになりましたか、佐久間氏も工女の前にお立ちになりま せん。遠くから一心に皆の繰方をながめておられました。

  それに、特筆大書致さねばならぬことは器械の改良してあったことであります。富岡の器械は、小 わくを止めます時、うしろの左の腰の辺にわく止めが付いておりますから、左の手で止めなければな りませぬ。それを足で止めるようにしてありました。これは無論、佐久間氏が二本松の風に直された のであります。富岡のように上等の繭で繰ります時は、手で止めましても別に差支いはありませぬ が、繭が下等になりますと、いちいち手で止めましては手間も違い、第一むらになります。この改良 は一同喜びました。これより後年まで(十二年くらい)この佐久間氏が六工社に尽されましたことは、 どのくらいかわかりませぬ(十年間くらい)。

  その後は、元方の人達も何も申されず、工女一同も大人しく、日々双方一心に製糸に精を出して実 に平和なものでありました。

  本年から五十人に釜がなりました。追々新入の工女も業が上達して参りましたが、さすが富岡から 帰った人にはかないませぬ。蒸汽の元釜は二つになりまして、五十釜に渡るようになりましたが、や はり折々工合がわるくなりまして、その時々、元方の人は申すまでもなく佐久間氏まで皆惣出で、土 かつぎ、どろこねを致されました。

  生糸の荷造方は、木村と申す人と佐久間氏とで致されました。私が富岡で覚えて参りましたのは、 厚紙を二枚つぎ合せて横長に致しました中へ、生糸十本入れて巻えて、上をニヵ所結わいるのであり ましたが、「かさ」ばかり多くなりましてしっくり致しませぬ。ただいまのように四角に造りますの は、元は二本松の仕方、「イタリヤ」流であります。

  この年から繭の買入れも、どしどし致されましたから、中々たちもよろしう御座いました。とり釜 は、開業当時より皆瀬戸焼でありましたが、その釜から直ぐに蒸汽の出ますようにくふう致されまし たのは、大里氏・海沼氏であります。元金が不足のため、お金のかからぬようと言う考えにてなされ ましたのが、大そう煮工合がよろしう御座いますので、皆喜んでその釜に参りたがります。後には皆 その釜になりました。第一、糸の艶が大そうよろしう御座います。この釜をはじめて製造致しました のは、松代町字代官丁、岩下清周様の屋敷内にありました瀬戸焼業、たしか加藤某と申す人でありま した。この釜を焼初めまして、六工社の釜を焼いておりましたが、追々遠国からまで注文致されます ので、大そう盛んになりました。その年は何事もなく、やはり十二月二十日頃、無事閉業致しました。 その年閉業後、蒸汽の元釜は、新たに製造致されました。西条村大宮の境内に幕を張り(横田の幕)、 製造人横田文太郎が。これまでの元釜は、たしか上州前橋ならびに信州へ売れましたように覚えま す。繰釜に入りおりますパイプ等、残らず古き物は付けまして売渡し、新しくこの年から工女の月給 も繰糸の糸目できまりまして、五円くらいとる人が追々出て参りました。もっとも、下になりますと 七八十銭くらいの人もありました。月々書出しになりましたから皆中々勉強致されました。

  この評判が追々諸国へ伝わりましたので、見物に参る同業者が中々多く有りましたが、ただいまと 違い、行通不便の頃でありますから、参る人は皆わらじがけで参るのでありますから、骨が折れま す。

  その後は、同じことを繰返し致しておりましたが、その翌九年の末に、富岡製糸場から私どもの仲 間に、「今一度入場してくれ。この頃は工女の気分が引立たなくなって困るから、一同で来てやって 見せてくれ」と申されました。私どもおります頃、糸仕上げ場におられました信州小諸の人で加藤様 と申す方でありました。何か若い者ばかりでありますから、花やかな富岡のこと、一日も忘れられぬ 所でありますから、私初め参りたいと思いまして、大里さんにもそのことを申しましたが、同氏が 「横田さん、もうおいでになるに及ばぬではありませぬか」と笑っておられます。幸い父が帰宅致 しましたから申しますと、大しかられで、「何のために六工社をすてて富岡へ今から行く必要がある」 と一言申されましたので、思いとどまりました。私ども仲間でも、三、四人参られ、新入の人にて参 った人がありました。たしか翌十年の春頃お帰りになりましたように覚えます。

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