富岡日記

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和田英 (1857 - 1929)


執筆は 1905-13年。本テキストは中公文庫版より山形浩生 作成。ただし富岡後記二年目の記録部分は「定本富岡日記」(創樹社, 1976) より作成。
pdf 版は http://cruel.org/books/tomioka/tomioka.pdf

要約: 富岡製糸工場の初期女工として働いた武家の娘、和田(当時は横田)英による、富岡製糸工場の記録と、彼女が故郷松代に帰ってから操業に参加した六工社の記録。当時の労働環境、女工の日々の生活、労働倫理や事業への参加意識が伺われる重要な資料。また、日本の西洋技術の習得およびその技術移転の実態も非常によくわかる。

著作権は 1981 年に期限切れとなった。


 

目次

富岡日記 (明治 6 年 2 月~ 7 年 7 月)
富岡後記 (明治 7 年 7 月~ 9 年頃)


 

富岡日記

私の身元

  私の父は信州松代(まつしろ)の旧藩士の一人でありまして、横田数馬と申しました。明治六年頃は松代の 区長を致して居りました。それで信州新聞にも出て居りました通り、信州は養蚕が最も盛んな国 であるから、一区に付き何人(たしか一区に付き十六人)十三歳より二十五歳までの女子を富岡 製糸場へ出すべしと申す県庁からの達しがありましたが、人身御供(ひとみごくう)にでも上るように思いまして 一人も応じる人はありません。父も心配致しまして、段々人民にすすめますが、何の効もありま せん。やはり血をとられるのあぶらをしぼられるのと大評判になりまして、中には「区長の所に 丁度年頃の娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」と申すようになりました。それで父も決心致 しまして、私を出すことに致しました。

  私も兼ねて親類の娘が東京へメリヤスを製しますことを習いに行きました時、私も行きたいと 申しましたが、私より下に四人の弟妹がありまして、中々忙しゅうありましたから許しません。 残念に思って居りましたところでありましたから、大喜びで、一人でも(よろ)しいから行きたいと申 しました。母はその時末の弟を妊娠して居りました(後で承知致しました)。さぞ迷惑であった ろうと後になりましてから思いました。しかし父がそのように申しますから何とも申しません。 第一許さぬと申しはせぬかと心配致しました。祖父は大喜びで申しますには、

「たとい女子たりとも、天下の御為になることなら参るが宜しい。入場致し候上は諸事心を用い、 人後にならぬよう精々励みまするよう」

 と申されました時の私の喜びは、とても筆には尽されません。

 さてこのようになりますと可笑(おか)しいもので、よいことばかり私の耳にはいります。あちらへ行 けば学問も出来る、機場があって織物も習われると、それはそれはよいこと尽し、私は一人喜び 勇んで日々用意を致して居りますと、河原鶴子と申す方がその時十三歳になられますが、「お英 さんがおいでなら私もぜひ行きたい」と申されましたとのことで、父君もお許しになりました。 いよいよ両人で参ることになりました。(鶴子さんの父君は北越戦争の時松代藩より出陣の折、 総大将で若松城に乗込んだ方であります。)

 右様に取極めましたが、私はその前年当家(和田)へ縁組致します約束だけ致してありました から、当家へも右の次第を話しますと、幸い主人も東京へ一ニヵ月内に学問修行に参る心組のと ころでありましたから、承知してくれました。その時姉が一人ありまして、初子と申しました。 姉もまた、「お英さんが行くなら私も行きたい」と申しまして、直に行くことになりました。

 さあこのようになりますと不思議なもので、私の親類の人、または友達、それを聞伝えて、我 も我もと相成りまして、都合十六人出来ました。後から追々願書が出ましたが、満員で下げられ ました。

この時の人名

河原 (ヒトシ)(旧名左京)次女河原 鶴子十三歳
金井 好次郎金井 新子十四歳
和田 盛治和田 初子廿五歳
酒井 金太郎長女酒井 民子十七歳
米山 友次郎米山 嶋子十八歳
坂西 某次女坂西 滝子十五歳
長谷川 藤左衛門長女長谷川 淳子十四歳
宮坂 某未来之妻宮坂 しな子十四歳
小林石左衛門長女小林 高子廿一歳
次女同 秋子十六歳
小林 某長女小林 岩子十七歳
福井  友吉長女福井 亀子十八歳
塚田長作長女塚田 栄子十七歳
東井 某次女東井 留子廿一歳
春日 喜作次女春日 蝶子十七歳
横田 数馬次女横田 英子十七歳

父よりの申渡し母への誓い

  一同用意もととのいまして、いよいよ近日出立と申すことになりました時、父が私を呼びまし て、

「さてこの度国の為にその方を富岡御製糸場へ遣わすに付ては、()く身を慎み、国の名家の名を 落さぬように心を用うるよう、入場後は諸事心を尽して習い、他日この地に製糸場出来(しゅったい)の節差支 えこれ無きよう覚え候よう、仮初(かりそめ)にも業を怠るようのことなすまじく、一心にはげみまするよう 気を付くべく」

 と申渡しました。

 母はこのように申しました。

 「この度お前を遠方へ手放して遣わすからには、常々の教えを能く守らねばならぬ。また男子方 も沢山に居られるだろうから、万一身を持ちくずすようなことがあっては、第一御先祖様へ対し て申訳がない。また父上や私の名を汚してはなりませぬ」

 と申しましたから、私はこのように申しました。

 「母上様、決して御心配下さいますな。たとい男千人の中へ私一人入れられましても、手込めに 逢えばいざしらず、心さえたしかに持ち居りますれば、身を汚し御両親のお顔にさわるようなこ とは決して致しませぬ」

 と申しましたら、母が、

 「その一言でまことに安心した。必ず忘れぬように」

 と申しました。私は自分で申しましたことを一日も忘れずに守って居ります。

 一行の人々も皆このように申されたであろうと存じます。

姉と(しもべ)との餞別

  私の姉が紙切にこのようにしたためてくれました。

  

    富乱れても月に昔の影は添ふ

        など忘るなよしき島の道

  

 (しもべ)はたんざくに、

  

    曇りなき大和心のか父みには

        うつすも安きこと国の(わざ)

  

 姉は松代町広小路の真田と申します叔母の家に十七歳で縁付きまして、私よりニツ上でありま す。只今は埴科(はにしな)郡西条村と同郡東条村両学校の裁縫の教師を致して居ります。松代婦人協会と愛 国婦人会の幹事を致して居ります。

 この(しもべ)は同郡芝村の彦四郎と申す者の次男で、私の父が明治初年から二年まで松代藩の公用人 を勤めました時、東京で召使いました者で、山越小三太と申し、一生横田家に多く居りましたが、 先年故人になりました。至って正直者でありましたが、先祖が立派な士族で、帰農致しました後 はとかく変ったことを致したがりまして、一生家も持たずに終りました。

出立付添の人々

 明治六年二月二十六日、一行十六名、松代町を出立することになりまして、父兄も付添として 参りました。金井好次郎・和田盛治・長谷川藤左衛門・小林石左衛門・米山某・小林岩子母等の 人々でありました。旅費は富岡で渡りましたように覚えます。一行の内、私の父から取替えてや った人もありますが、そのままに返さぬようであります。付添の人々は皆自費であります。 一同私の宅へ寄りまして、朝の七時頃馴れし我が家を後にして、喜び勇んで出かけましたが、 後から考えますと、実に世間見ずほど世に気楽な者はないと存じます。これまで遠い所は八幡(やわた)か 善光寺位でその他は知らぬ私共が、見ず知らずの他国へ何の心配もなく出かけますとは、どこま でのん気な者やらと身の毛も弥立(よだ)つように存じます。(只今の世なら当り前でありますが、その 頃は中々開けませんのに。)

銘々の服装

 河原鶴子さんは紫メリンスの袴にやはり紫の羽織、赤のシャツ、お着物は(しま)。和田初子さんは 黒縞呉紹(ごろ)の袴に同紋呉綿羽織、赤縞ネルシャツ、着物は縞。その他別に変った風はありませんで した。

私の服装

 これが実に珍無類、只今なら丁度ポンチ絵にでも有りそうな形で、どのように真面目(まじめ)な人でも 一目御覧になれば笑わずにはおいでなされますまい。父が辰年の戦争の時、松代藩を代表して甲 州の城受取りに参りました時新調致したと申す黒ラシャの筒袖に、紺地に藤色の織出しのある糸 織どんすの義経袴、無論(ひも)と裾には紫縮緬が付けてありました。殊に父は二十貫目もある肥満な る人の着ましたのを、そのまま少しも直さずに私が着しまして、例の義経袴をはき、赤スコッチ のメリヤスを着込み、羽織は祖母から伝わりました真田公より拝領の打かけ黒縮緬五ツ所紋(わ り洲浜、只今の男子方の御紋ほどの大きさ)、それを羽織に縫直しまして、私がごくその頃裁縫 が下手(へた)でありましたから、紋が合って居りませんと人が笑いましたと後で聞きました。

 右を着しまして、意気揚々と歩いて参りました。父は至って新流行を好みましたから、メリヤ スなどもその頃あまり着る人のない時私に求めてくれました。何でも西洋人の居る所だから筒袖 の方が宜しかろうと申しましたから、私も喜んで着て参りました。只今でも母や姉と寄合います と、そのことを申出して笑います。いかにその頃世間の有様が分らなかったかはその一事でお分 りになりましょう。

道中のいろいろ

  一行は親類その他の人々に見送られ、またその風俗のおかしさに人が立止り見られて、矢代ま で参りますと見送りの人々に別れ、その日は上田まで馬にも駕籠(かご)にも乗らず参りまして、宿屋に 一泊致しました。

 翌二十七日は追々疲れる者も出来まして、駕籠に乗る人、馬に乗る人、代り代りに致しました。 その頃は人力車は一台もありませんから、多く馬に乗りました。只今の方は御存じありますまい、 馬の(くら)の両側に炬燵櫓(こたつやぐら)を結び付け、その中に入るのであります。馬一(ぴき)で二人乗せます。でくで く歩きますから中々恐ろしくなりました。年のしない人は泣出しました。このようにしてその日 は追分の油屋と申す宿屋に泊りました。宿場女郎お竹と申す女中の別品(べっぴん)がお給仕に出ました。 翌二十八日は軽井沢を通り、碓氷(うすい)峠にかかりました。旧道でありましたから中々道が()しく、 飛石や禰石(ねいし)などの難所も思いましたほど難儀ではありません。皆一生の思い出に草鮭(わらじ)をはきたい と申しまして、大かたはきました。名物の力餅のおいしかったことは只今も忘れません。その日 は坂本に泊りました。

 翌三月一日早朝、坂本を出立致しまして、たしか安中(あんなか)の手前を左に折れ、段々参りますと、高 い煙突が見えました。一同いよいよ富岡が近くなったと喜びも致しましたが、ここに初めて何と なく向うが気遣わしく案事(あんじ)られるように感じました。それより富岡町に着致しまして、佐濃屋と 申す宿屋に入りましたのは未だ早う御座いましたから、町を見ますと、城下と申すは名のみで、 村落のような有様には実に驚き入りました。

 翌二日、一同送りの人々に付添われまして、富岡御製糸場の御門前に参りました時は、実に夢 かと思いますほど驚きました。生れまして煉瓦(れんが)造りの建物など稀に錦絵位で見るばかり、それを 目前に見ますることでありますから無理もなきことと存じます。それから一同御役所へ通されま した。尾高様・佐伯木様・加藤様・井原様・中山様その他御役人皆テーブルに向っておいでにな りまして、色々申聞けられまして、父兄に合札を渡されました。女子の取締の方がおいでになり まして、工女部屋につれられて参りました。その時付添の人も応接室より一同の部屋まで参りま して、皆帰りました。私共は人ずれぬようだからと総取締青木だい子様の隣室に置くと申渡され まして、河原鶴子・金井新子・和田初子・春日蝶子と私と五人一緒に居ました。六畳敷に六尺の 押入二ヵ所、中々込合いますから四人に致すようと申されましたが、何れも放す訳に参りません、 皆いやだと申しますからそのように申しましたら、それではそのままで宜しいと申されました。 その他の人々も近き所に三人四人と部屋がきまりました。この日入場の時は、私もさすが気恥か しい心地が致しまして、筒袖・袴はやめまして只の着物に羽織を着て参りました。

 その日はそのまま部屋に居りまして、翌三日、いよいよ事業に就きますことになりまして、先 に入場して居ります人々は午前六時過ぎ頃その身の場所に参りますが、一番笛で部屋を出、二番 笛で入場致すことになって居ります。一番笛のならぬ先から工女部屋の出口に待って居る人が沢 山ありますが、その口より一足たりとも外に出ることは許しません。一番がなりますと、工女部 屋総取締鈴木様(一人、男子)か副取締相川様(男子)この御両人の内御一人と女の取締の御両 人先に御立ち、東七十五間(まゆ)置場外長廊下を通り、また七十五間の繰場の正真中の正門から入場 致しますが、それまで行列正しく参るのであります。その長廊下の真中ほどに御役所があります から、いつも役人方がその口に出て見て居られます。万一横飛びなど致す者がありますと直に叱 られます。

 このようにして一同出ました後で、私共一行は前田万寿子と申す副取締の方につれられて、ち ょっと繰場に入れ御見せ下され、直に繭えり場に御つれ下され、その日から一同繭を選分けるこ とになりました。この繭置場は西でありまして、同じく七十五間二階建て煉瓦造りであります。

場内の有様

  私共一同は、この繰場の有様を一目見ました時の驚きはとても筆にも言葉にも尽されません。 第一に目に付きましたは糸とり台でありました。台から柄杓(ひしゃく)(さじ)、朝顔二個(繭入れ、湯こぼし のこと)皆真鍮、それが一点の曇りもなく金色目を射るばかり。第二が車、ねずみ色に塗り上げ たる鉄、木と申す物は糸枠(いとわく)、大枠、その大枠と大枠の間の板。第三が西洋人男女の廻り居ること。 第四が日本人男女見廻り居ること。第五が工女が行儀正しく一人も脇目もせず業に就き居ること でありました。一同は夢の如くに思いまして、何となく恐ろしいようにも感じました。

まゆえり場

  一同同場に入りますと、場内を見廻ります、高木と申す書生に引渡されました。広く高きテーブ ルに大勢ならんで一心にえりわけて居りました内の古参の人が参りまして、私共をそれぞれ場所 に付けまして、えりわけ方を教えてくれましたが、これが中々()つかしくあります。繭の丈から 大きさ、しぼ(・・)のより工合の揃ったのでなくてはいけません。針でついたほどの汚れがあっても役 に立ちません。選分けましたのとえり出しましたのを、高木と申す人と教えた人で改めまして、 少しでも落度があると中々やかましく申します。

 隣の人と一言でも話しますと、「しゃべってはいけません」としかられます。またベランと申 す仏国人が折々見廻りに参りまして、もし話でも致すところを見付けますと、「日本娘沢山なま け者有ります」と非常に叱りますから、(よんどこ)ろ無く無言で選分けて居ますが、只さえ日本造りの風 通しの宜しい家に住居(すまい)なれた私共が、煉瓦造りの窓位の風で物足らぬように感じますに、山の如 く積上げた繭の匂いにむし立てられ、日は追々長くのどかになりますから眠気を催しまして、そ の日の長く感じますことはお話の外であります。困難は兼ねて覚悟のことながら、実に無事に苦 しむと申す有様、私もほとほと(こう)じましたが、ここが父に申付けられたところだ、()く覚えねば ならぬと出立前皆から申されたことや何か思い出しては辛抱致して居りました。

 その内段々暖かになりまして、蝿が沢山出て参りました。あまり退屈(たいくつ)でたまりませんで、誰が 致しましたか蝿を捕えまして、羽根をもぎまして、蝿の背中に、ミゴの小さいのをさして、それに まゆの綿をより付けて、繭を一粒付けて引かせました。中々面白うございますから、追々皆が致 しまして、私までやりました。私はミゴに小さい紙を付けてさしましたから、丁度旗を立てたよ うになりまして、皆下を向いて内々笑って楽しんで居ますと、つい高木さんが見付けまして、思 わず笑いましたが、また真面目(まじめ)になりまして、これは誰が致しましたと尋ねましたが、一同存じ ませんの一点張りで通しましたが、その後はこれもすることが出来ません。来る日も来る日も辛 抱はして居ますが、一日も早く繰場に出られるようにと思いまして、ある時高木さんに、いつ頃 繰場に出られましょうと尋ねますと、この二十日頃山口県から四十名ほど入場するからその時出 して上げると申されました。それで一同喜びまして、日の立つを楽しんで店ますと、段々匂いに も業にもなれまして、さほどつらいとも思わぬようになりましたが、繰場に出たいと思う心は同 じです。

諸国よりの入場者と同県人の大多数

  ここでちょっと申します。諸国より入場致されました工女と申しまするは、一県十人あるいは 二十人、少きも五六人と、ほとんど日本国中の人にて、北海道の人まで参って居ります。その内 多きは上州・武州・静岡等の人は早くより入場致して居られましたから中々勢力が大した物であ ります。この静岡県の人は旧旗本の娘さん方でありまして、上品でそして東京風と申し実に好い たらしい人ばかり揃って居りました。上州も高崎・安中等の旧藩の方々はやはり上品でありまし た。武州も川越・行田等の旧藩の方々は上品で意気な風でありました。さすが尾高様の御国だけ に、取締などは皆川越辺の人ばかりでありました。

 さて長野県はと申しますと、実に入場者の多きこと二百名近くありまして、私共が一番後から 参ったように思われます。小諸・飯山・岩村田・須坂等の方々は中々上品でありました。すべて 城下の人は宜しいように見受けました。このように申しましたら御立腹になる方もありますかも 知れませんが、山中また在方の人は只今のように開けませんから、とかく言葉遣いその他が城下 育ちの人のようには参りません。何に致しましてもこのように沢山居りましてはその内に色々の 人がありますから、ちょっと行儀悪う御座いましても、あれは信州の人だ、また信州の人があん なことをしたこんなことをしたと中々やかましく申しますから、それを私共が見聞き致しますと 何とも申されぬほど恥かしく、またつらいように思いまして、私共一同は決して信州と申さぬこ とに致しまして、長野県松代と申して居りました。只今丁度皆様が洋行遊ばして同胞の行状など 藤し穣に申されるをつらくお思い遊ばすと同じ位かと存じます。それで、上州・武州の人は行儀 や言葉遣いが正しいかと申しますと、中々悪い人が沢山居りましたが、そこは役人方が多くその 辺から出て居られますから勢いが違います。決してはたの人が何とも申しません。実に恐ろしい ものであります。

山口県工女の入場と我々の失望

  高木さんから申聞けられましてから、一同一心不乱に勉強致しまして、その日の至るのを待っ て居りますと、いよいよ三月二十日頃山口県から三十人ほど入場致されました。私共の部屋は南 下部屋で総取締青木様の隣でありまして、応接室に向ってありますからたとい一人の入場者があ りましても直に分ります。殊に三十人ほどもありまして、その頃長州からおいでのことゆえ御様 子もよほど違います。袖も短く御着物が大かた木綿の紺がすりの綿入れ、帯も木綿の紺がすりが 多くありました。中にはずいぶん上等な衣服を着た方もありました。皆士族の方だと申すことで 中々上品でありました。それを見ました私共の喜びはどのようでありましたろう。

 いよいよ翌朝は銘々繰場に参る下用意を致しまして、手拭など忘れぬように互に注意を致しま して、やはり繭えり場に出ましたが、今にも繰場につれて行かれるかとそれのみ待って居りまし たが、十二時前まで何の沙汰もありません。それからはばかりに参る風にてガラスから繰場の中 を見ますと、驚きますまいか、待ちに待ったるその人々は入場直に糸をとることになりまして、 皆々口付の教えを受けて居ります。私共は驚きが通り過ぎて気ぬけのしたようになりまして、直 にも泣出したい位でありましたが、繭えり場にも七八十人も工女が居ります、その中でさすがに 泣く訳にも参りません。その内に笛が鳴りまして昼食に帰りましたが、中々食事どころではあり ません。皆中合したように私の部屋に大勢同行の人々が参りまして、皆泣いて居りました。こん な依怙贔屓(えこひいき)をされてはこの末とてもどのようなことをされるか分らぬと申す者やら、両親がすす まぬのを無理に来たから罰が当ったとか、色々に申しまして、畳に顔を付けて泣いて居ります と、取締の部屋へおいでになりました井原様と申す役人が私の部屋をおのぞきになりまして、私 をお呼び遊ばし、皆どうしたのだとお尋ねになりました。私も目を腫らして居りましたが、黙っ て居る場合でないと存じまして、実は皆繰場に参りたいと存じまして、先日高木様に伺いました ら、山口県の方が御入場次第出してやると御申聞けでありましたから、一心不乱に精を出して 居りましたところ、山口県の方は一日も繭えりをなさらずに直に糸とりにお出しになりました。 あまり残念に存じまして一同泣いて居る所で御座いますと、恥かしいことや何かに気も付かずに 申しますと、井原様もよほどお困りの御様子で、それはどうした都合だか早速繰場の方を問合せ て遣わすから、機嫌を直して出かけますようと申されました。その内に笛もなりますから、皆泣 顔を直して参りまして、下を向いて事業をして居りました。この日は何事も申さず終日暮しまし た。

 しかし私共一行はどのようなつらい悲しいことがあっても国元へは通信せぬことにして居りま した。只でさえ遠国へ手放して置く両親兄弟姉妹が中々心配して居られるだろうから、珍らしい こと、面白いこと、場内の広大なこと、規則のきびしいことなどのみを報知して、少しでも喜ば せ且つ安心致させるようにとたがいに戒め合って居りましたから、この事件も別して悲しく感じ ましたのであります。

高木氏へ質問並びに糸揚げ

 翌日になりますと、一行の内年長者なる東井とめ・小林高を初めそろそ杢目回木さんに過日の約 束の違いしことを尋ねました。私もこのように申しました。

 「先日、山口県の方が御入場になり次第繰場へ出して下さると仰せられましたが、いよいよ御入 場になりまして、一日も繭えりもなされず、皆糸とりにおなりなされましたは、何故山口県の方 ばかり直に糸をおとらせなされまする御都合か伺いとう御座ります。私共は国元を出立致します 時、父より申聞けられたことも御座いますから、その御様子次第(くわ)しく申遣わさねばなりませ ぬ」

 と申しますと、高木さんも前から心配しておいでの様子で、「お前方の申されるのは実に(もっと)もで あるが、この度のことは西洋人が間違えたのだから、この次こそは都合して出して上げるから、 そのように腹を立てずに居ておくれ」と申されました。その後は何も申さず、一心に精を出して 事業をして居りました。

 四五日立ちますと、一行の内七八人指をさされました。(ここでちょっと申しますが、何れへ 代りますにも決して口で申付けるということはありません。ちょっと手招きをして指をさして、 つれ行く人は先に立ち、さされた当人はその人の後から付いて参るのであります。)その時の皆 の顔と申しましたら、とても口も結ばれませんようでありました。それより繰場に入りまして、 皆糸揚げにされました。その頃富岡製糸場の糸揚げの人は大かた幼少な者でありましたが、また 私共のような年の人も居りました。通例は十二三歳より十四五歳であります。

糸とり釜と糸揚げ

 その頃(かま)の数が三百ありましたが、ようよう二百釜だけふさがって居りました。一切れ五十釜、 片側二十五釜であります。その後に揚枠が十三かかって居ます。西から百釜分を一等台と申しま した。その次五十釜を二等台と、その次五十釜を三等台と申して居りましたが、私はその一等台 の南側の糸揚げの大枠三個持つことになりまして、小枠は六角でありまして中々丈夫に出来て居 ります。大枠も六角であります。小枠から揚げますに、まず水でしめしまして、下の台に小枠を さす棒があります。それにさしまして、六角の上に真鍮の丸い板金を乗せるのであります。糸が 角にかからぬように致しまして、ガラスの上から下がって居るかぎにかけ、それよりあやふり(・・・・)に ガラスのわらびの形の物があります、それに通して大枠にかけるのでありますが、中々面倒なも のでありまして、つなぎ目はごく小さく切らねばなりませず、横糸が出ましてはいけません。口 の止め方その他色々のことを年下の人に教えてもらいましたが、中々やさしく叮嚀(ていねい)に教えてくれ ました。

 さて弟子ばなれを致しまして、いよいよ一人で揚げますようになりましたが、その切れること はお話になりません。何故と申しますと、糸とりが切っても一向つなぎません。殊に友より(・・・)であ りますから少しむらになりますと、直に横に参りまして切れます。それを決してつなぐことが出 来ません。前に申しました通り機械が鉄でありますから、所々へ油をさします。それが運転致し まして、丁度油墨のようになって居ますから汚れが付くといけませんところから、つなぎますと ころを見付かりますと大叱られでありますから、枠の廻る所へちょいとかけます。枠をはずしま す時は丁度短いつづみのようであります。それ故切れるの切れないのと、大枠三個持って居ます と小枠が十二かかるのでありますが、中々つなぎきれません。実に泣きました。

糸揚げと迷信

 そのように切れますところから、私は常々至って神信心を致しまして、毎朝人より一時間位早 く起きまして、両親兄弟姉妹その他の心願を一朝もかかさず祈念致して居りましたから、このよ うな時も神の御力を願うより外はないと存じまして、糸を揚げながら一心不乱に大神宮様を祈っ て居りまして、南無天照皇大神宮様この糸の切れませぬよう願いますと、このことを申続けまし て、少々切れぬことがありますと全く神の御助けと信じまして、その間は大枠と大枠の間の板に 腰をかけまして、糸を見つめて両手を合せ指と指とを組み、大声に申しつづけて居ります。しか し蒸気の音が実にひどう御座いますから、そばに居る人にもわかりませんが、毎日毎日そのよう に致して居りますから、何を申して居るかと糸をとる人があやしんで後をふり向いて見て居りま す。

 そして糸をしめしに、明釜の所へ参ってしめすのでありますから、私も明釜へ参ってしめして 居りますと、その次の釜に静岡県の人で旧旗本の今井おけいさんと申す人が居られまして、「あ なたは毎日何を言っておいでなさるのです」と申されましたが、人に申すべきことでありません から私は笑って居りましたが、しめしに参る度ごとにやさしくお聞きになります。あまり親切に お尋ね下さいますので、つい私も申さぬ訳にも参りませんから、「実は糸が切れて切れて困りま すから、大神宮様を信心して居るのであります」と申しましたら、非常に気の毒がって下さいま して、「私が切れぬように骨を折ってとって上げるから揚げて下さい」と仰せになりまして、と って下さいました。そのことを隣釜の人にもお話しになりまして、その人も気を付けてとって、 私を呼んで揚げさせて下さいました。その他にもそのようにして下さいましたから大層楽になり まして、これも(ひと)えに神の恵みと喜んで居りました。しかし一心に揚げて居りますことを糸揚場 受持の書生さんが見て居られまして、「能く精を出します、今に糸とりにして上げる」と仰せに なりました。その嬉しさは今でも忘れません。

 その内に或日指をさされまして、三等台の北側につれられまして、いよいよ糸とりのお仲間入 りが出来ました。

糸とり方指南

 その日私に糸のとり方を教えてくれた人は西洋人より直伝の人で、入沢筆と申す人でありまし たが、実にやさしく教えてくれました。退場の時などは私の手を引き妹の如くにしてくれました。 私は只さえ嬉しく思いますに、また師と敬うその人は右の次第でありますから実に喜びまして、 皆信心の徳だと存じまして、その人を私も尊敬して居りました。

 その翌日その人は何か止むを得ぬことで休業致しましたから、代りに教えて下さいました方は 安中藩の松原お若さんと申す方で、私と同年位で美しいやさしい方で、やはり入沢と申す人の如 く私を愛して下さいました。

 その日とその翌日お若さんに習いまして、弟子ばなれを致しまして、新釜と申しまして段々三 等の下の方の釜が明きまして其処へ移されました。

 その頃教えてくれた人の所へ礼に参ることでありました。私は入沢さんと松原さんと両方へ参 りました。すべて師弟の間は互に親しみまして、弟子が昇給致しますと非常に喜んで下さいます ほどでありますから、なるべく出入にも見付けて手を引合います。一日の御弟子ではありますが、 入沢さんもやはり私に出合いますと手をお引きになります。私は初の師でありますから殊に敬っ て居りました。

父の来場

 私の父が徴兵を高崎の営所へつれて参りまして、帰りに場内視察並びに一行動静見聞のため四 月初旬頃参りまして、尾高様に親しく御、面会致しまして、追って国元に製糸場創立のため諸事取 調べたき旨願いました。尾高様は快く御承知下さいまして、場内は申すまでもなく残らず御案内 下さいまして、拝見致しまして、書類等までお貸し下さいました。三日間滞在致し、写して帰り ました。(従者山岸広作と申す者にも手伝いさせて写しました。)

 繰場を尾高様が御つれ下さいます。父がつれて参りました従者山岸広作が結髪に洋服を着用致 して居りましたので、皆内々笑いまして、これには私も閉口致しました。笑われますのも実に尤 もなることと存じます。中廻りの書生などは皆洋服ばかりで居りますが、さすが仏国人と日々一 緒に勤めて居りますから、その姿勢の正しいこと、えり付のホワイトシャツなどで一点の汚れも ありません。髪は美事にわけて水の垂る如くに見えて居ます。只今開けましたこの東京へそのま ま参られましても決して見苦しくはあるまいと折々思います。

 さて父の滞在中日曜日がありまして、一行十六名父の旅宿に参りました。国元の伝言また様子 など承り居りますと、父が柏餅を山の如く出してくれました。何か日頃甘い物もろくろくいただ きませんから、一同大喜びで皆尽してしまいました。後年に至りましても折々、お前たちが柏餅 を沢山食したには驚いたと笑いました。そこで一同は国元の親たちや兄弟に何ぞ送りたいと申し まして、寒国だから珍しかろうと申しまして茄子(なす)胡瓜(きゅうり)などを一同から父に頼みましたので、父 も閉口したと、これも一つ話になって居りました。

一行残らず糸とり

 私共一行は私と同時位に皆糸とりになりました(父の来場後)。父よりも製糸場創立のことも 承り、また出精致しますよう呉々も申聞けられまして、一同実に勉強して居りました。一行一同 一心に一ノ宮大神宮様を信心致しまして、日曜日などは一ノ宮へ参詣致して、業の上達致します ように祈って居りました。夜分互に行き来致しまして、今日はどの位とれたとか糸が切れたとか、 実に余念なく従事致して居りました。

中廻りの次第

仏国人 男  ブラット、ベラン
女  クロレンド、マリー、ルイズ

 右の西洋人は上から下まで見廻ります。

日本人 男  国重 某(山口県)弘 某(山口県)
白根某(山口県)佐伯木次郎(山口県)
三好某(山口県)長野某(山口県)
村非某(山口県)高木某(静岡県)
中島某(静岡県通訳兼)某名失念(静岡県)
児玉某(石川県)深井某(高崎)
村瀬某(長野県上田)稲垣某(長野県小諸)

 右は一人にて二十五釜受持、繭えり場・糸揚場見廻りもこの内。

 日本婦人中廻り

   尾高 勇   この方は尾高様の令嬢、只今は渋沢男御子息の令夫人の筈に有之。

   青木 けい  総取締青木たい様の御孫

   森村 時 (武州)  畑銀 (七日市)

   太田たい (武州)  笠間愛 (武州)

   轟 とね (武州)  若林若(高崎)

   磯貝某 (上州小幡) その他の姓名忘れました。

  

 右は五十釜に三人、二十五釜に一人ずつ。一人は二時間ごと位に交代。一釜を三人で代る代る に糸をとって居ります。男女二人二十五釜の前を行き来して、糸のむらになりませんように見て 歩きまして、太過ぎても細過ぎても切れてしまいます。湯かげん、しけの出し方、(さなぎ)の出し方等 やかましく申されます。それで聞きませんと叱られます。その上西洋人が見廻りまして、目に止 りますと中々厳しく申します。これは直に工女中の評判になりますから、如何なる者も恥かしく 思いますように見受けます。実に規則正しいもので、あれでなければ真の良品は製されぬかと思 います。私は後年に至りましてもとかく富岡風で通しました。

皇太后陛下皇后陛下御行啓

 たしか六月頃かと存じます。

 皇太后皇后両陛下行啓になりますことに相成りまして、その前工女一同紺がすりの仕着せと小 倉赤縞の袴が渡りました。一同はこれを着て当日業を致すことに極まりました。それで工女一同 も皆思い思いに(たすき)・手拭等美しく致しましょうと思いまして用意を致し、その日の至るを指を折 って待って居ります内に、明日御行啓と申すことになりまして、その日下御見分のため女官の方 が五六人御来場になりました。

 その女官の方が越後縮(えちごちぢみ)(かすり)のお帷子(かたびら)を召して、御帯はお下げ帯でありました。これは只今の方 は御存じのない方もおありかも知れませんが、白の綸子(りんず)でありまして、両端が一尺三四寸ほどが だきしんが入って太く丸く六寸廻りほど御座います。それを結んで下げておいででありますから、 見なれない者には中々珍しく思われます。お髪は静の椎茸(しいたけ)たぼより一際(びん)が張って居ります。(まげ) は実に小さく、(こうがい)は一尺余も御座います。おしろいは真白につけておいででありましたから、場 内の者残らず内々笑いました。

 その夜部崖長が部屋ごとに廻りまして、「今日は女官の方を見て皆さんお笑いになりましたと 申すことで、お役所から大そうお小言が出ました。明日は福助さんのような方がおいでになりま すが、万一笑った人がありますと急度(きっと)罰を申付けるから、その心得で決して笑わぬよう申伝える ようとのことであります。またお通りの折お辞儀を致してはなりませぬ」と申付けられました。 私共一同は中々心配のことでありました。万一笑いましては大不敬に当りますから。

御行啓当日場内の有様

  いよいよ当日となりました。場内は実に清潔に掃除致してあります。その頃は三百人残らず揃 うて居りまして、下の台のはずれ東入口の所に繭選(まゆえ)りをその日限り致して居ます。

 いよいよ正門(これは日々入場致します入口のことであります)よりブリューナ氏尾高氏御先 導申Lげまして、三等台のはずれ繭えりを致して居る所までしずしずと御行啓になりまして、繭 を御覧になりました。この時まで蒸気も車も止めてありましたが、其所へ御行啓になりますと同 時に、蒸気を通し車も運転を致しました。それまで工女一同(たすき)をはずし、手を膝に置き下を向い て居りましたが、その時直に棒をかけ業を致しました。その日は中々笑うどころではありません。

 神々(こうごう)しき竜顔を拝し奉り、自然に頭が下りました。前日御来場になりました女官の方もおいで になりましたが、すっかり御服装が違いまして、白綾の御召物に()のお袴でありました。

 さて両陛下の御衣は、藤色に菊びしの織出しのある錦、御一方様は萌黄に同じ織出しのように 拝しました。御袖は大きく太き白のじゃばらで、御袖口に飾縫いがしてありました。丁度親王様 の御衣のようでありました。緋の御袴を召し、金の御時計のくさりをお下げになりまして、御(くつ) は昔の塗鞜(ぬりぐつ)と拝しました。御ぐしはお(びん)が非常に張って居りまして、お鬢裏(びんうら)が前から能く拝され ます。御下げ髪の先に白紙の三角にしたのが付いて居りました。女官の方も皆その通りの御髪で ありました。

 それよりまた元の正門の方へ御戻りになります時、下から二切目の北側の角から五六釜目に私 はその頃居ました。その後釜に仏国人のアルキサンと申す人が三釜の人をわきによせてその場に 入りまして、糸を繰ります所を御覧に入れました。二十分位その前に、両陛下御立ち遊ばされま して、御覧になりました。私はその頃未だ業も未熟でありましたが、一生懸命に切らさぬように 気を付けて居りました。初めは手が震えて困りましたが、心を静めましてようよう常の通りにな りましたから、私は実にもったいないことながら、この時竜顔を拝さねば生涯拝すことは出来ぬ と存じましたから、能く顔を上げぬようにして拝しました。この時の有難さ、只今まで一日も忘 れたことはありませぬ。私はこの時、もはや神様とより外思いませんでした。六百名から工女が 居ますから、ずいぶん美しいと日頃思った人が御座いますが、その人の顔を見ますと、血色が土 気色のように見えまして、実に驚きました。これより以上申しましては不敬に当りますから見合 せます。

 それより二等台より一等台に入らせられまして、西繭置場に便殿が御座いましたから其処に御 休憩になりました。ブリューナ氏夫妻拝謁(はいえつ)仰付けられました。

ブリューナ氏夫人並びにクロレント服装

 ブリューナ氏の夫人は実に美しい人でありました。ふだん一日置き位にブリューナ氏と手を引 合って繰場の中を上から下まで歩みますのが例でありました。服装はいつも美事でありましたが、 御行啓当日の服には実に目を驚かせました。あれが大礼服と申しますのか、胸と腕とは出しまし て、白のレイスのような品に桜の花のようなる模様がありまして、その下にも同じような品で二 枚重ね、一番下に桃色の服を着して居ります。その色が上まですき通りますから、その美しい 神々しいこと何とも、言いようがありません。裾は六尺ほども引いて居りました。そして白ビロウ ドのような帯を結んで居ましたが、丁度日本の男子のはさみ帯のように並べて立てたようにして 居りました。顔には網をかけ、襟飾・腕飾・首飾を致しまして、帽子は白い羽根その他の飾が付 きまして、美事なことは筆にも尽されませぬほどでありました。

 クロレントと申す女教師は仏国の貴族の娘さんだと申す話でありましたが、その日の服装は緋 ラシャに縫取りをした上衣に袴も実に美しいのを着て居りまして、やはり赤の帯をおはさみのよ うにして居まLた。その他の西洋人は皆ふだん着のままで居ました。

アルキサン

 アルキサンは女の教師の内で第一番糸は上手だと申すことでありますが、明治五年の暮の頃、 自分が教えた工女から蜜柑を貰いましたことがブリューナ氏に知れまして、直に場内に入ること を禁ぜられまして、ブリューナ氏の小児の守をして居りましたが、御行啓に付きまして許されま したと申すことで、その日から出場致しまして、その後は折々工女の釜に付きまして糸を繰りま したが、実に落着いて履りまして上手でありました。

御還啓

 しばらく御休憩の後御還啓になりました時は、工女一同場内の広庭に出まして御見送り申上げ ました。この時私共は初めて、騎兵が御供して参りましたので当時の兵士を見ました。

 両陛下竜顔うるわしく見上げ奉りました。

 御還啓後、便殿になりました所を拝しました。色々飾り付けてありましたが、只今のように美 一事ではありませぬ。木で持えました長さ六尺ほど幅三尺ほどの平箱に花菖蒲が植えてありました 位なものであります。実にその頃はすべて質素なものでありました。

御酒頂戴 御扇子下賜

 陛下より賜わりますとのことで、工男工女その他係り一同役人方まで御酒頂戴がありまして、 お肴は二三種で手軽な御料理でありましたが、諸役人方取締まで、今日は何をしても宜しい、芸 尽しをするようにと部屋部崖をお伝えになりまして、芸のある人は色々のことを致しました。そ の内に取締の方が、長野県出身の工女に、「お前さん方のお国には盆踊があるということだが、知 っておいでなら踊って下さい」と申されました。初めは皆引込んで居ましたが、余りおすすめに なりますので、四五人踊りますと、一人増し二人殖えて段々多くなりまして、二三十人踊りまし て、私も踊りましたところ、尾高様・青木様初め諸役人方大そうお喜びになりまして、工女たち も山の如く見物致して居ました。

 たいがいにしてその日は止めましたが、これが元になりまして実に困ったことが出来ました。 東京その他より製糸場にとって大切な方がおいでになりますと、盆踊をしてお目に懸けてくれと 取締の方が申されます。嫌だと申せば後が心配になりますから、その度に引出されました。こん な馬鹿馬鹿しいことはありません。

 程立ちまして、菊・桐の銀箔で御紋章の付きました御扇子を工女一同拝領致しました。只今に 実家の方に大切にして秘蔵致して置きます。

夕涼み

  段々暑気が強くなりますに従いまして病人が沢山出来て参りました。洋医の申しますには、大 勢部屋にとじ込めて置くから病気になるのだ、夕方から夜八時半頃まで広庭に出して運動させる ようにと申しましたとのことで、毎夕広庭に出まして遊ぶことになりました。役人取締が付添い まして九時頃まで遊びます。

 さあこうなりますと、また例の盆踊の御催促がしきりにありますから踊り始めますと、段々沢 山になりまして、他県の人まで加わります。一時実に盛んなことでありましたが、ここに競争者 があらわれました。山口県から参って居ります五十何人の方々でありました。信州の人が盆踊を 盛んにおどるから山口県の者も負けぬように踊るが宜しいと申されまして、毎日毎日休みの時間 に部屋部屋で下稽古をして居られましたが、その内に十分用意が調いましたと見えまして、夜分 庭に出ますと始めましたが、何を申すも人数が少う御座いますから、とても長野県の人に(かな)いま せん。しかし踊が信州の盆踊と違いまして、何か御座敷で踊るような踊と見えます。中々高尚で あります。これから、前にも申しました通り佐伯様初め勢力の有る人が出て居られますから、 段々山口県の方へ加わる人が出来ましたはまだしも、高張提灯(たかはりぢょうちん)まで山口県の踊の所へ立てまして、 長野県の方を真暗にしてしまいまして、部屋長や取締まで助力するように見えましたから、長野 県出の人々は大立腹致しまして、踊なんぞ何でも宜しいが、初めはいやだと言うのに無理にすす めて置いて、今になって山口県の人々に助力する上に高張まであちらへ二本も持って行くとは実 に依怙贔屓(えこひいき)だから、長野県の人は明晩から一人も庭に出ぬことにしようと、誰が申出しましたか、 それからそれと伝わりまして、翌晩は一人も出ません。蚊帳(かや)の中に休んで居ります。

 さあこのようになりますと、庭はすきずき致します。何を申しましても長野県の人が二百名近 く居ることでありますから、役人方・取締・部屋長まで驚かれまして、部屋部屋を見廻りまして、 是非是非出ろと申しますが、皆お腹が痛いの頭痛がするのと申しまして、皆出ません。引出され ましても直に戻って参ります。私の部屋は前々述べました通り青木様の隣でありますから、初め は(のが)れましたが、是非出ろ是非出ろと手を取ってつれ行かれまして、(よんどこ)ろなく出まして、後から 見て居りましたが、後で皆々に小言を申され、実に心苦しいことでありました。

 しかし私は皆に申しました。「どう見ても山口県の踊は高尚でもあり、このようなことでつま らぬ争いをしたところで何の利益も無いことだから、私はこれから見物して、決して国の盆踊は 踊らぬ」と申しました。追々同意者がありまして、これから後、信州の踊は止めました。皆さん はさぞ岬獅いと思いましょうが、このようなことで憎まれたり争ったりして、第一の業にまで障 りましては両親に対しても済まぬと心付きましたから、山口県の方々に勢力を奪われましても、 私共は決して恥かしいとも何とも思いませんでした。今から考えましてもよいところで見切りを 付けたと思います。しかし引手のあると申すものは実に恐ろしいものと存じます。

河原鶴子さんの病気

  私共一行の人々はその後も一心に勉強して居ましたが、ある日、河原鶴子さんが急に不快だと 申されまして、驚きました。その日は部屋に休んで居られましたが、急に足がひょろひょろする と申されましたから、翌朝病院に参られまして、診察を受けられますと、脚気だとのことで、そ の日頃から足は立たぬようになられましたから直に入院致されましたが、追々様子が宜しくあり ません。私は休みの時間ごとに見に参りましたが、二日目頃はよほど悪いように見受けました時、 私の驚きはとても筆にも詫葉にも尽されません。初め両人で参るとさえ申した位でありますから、 互に力になり合わねばなりません。私より年は四つ下で、大家に育ち、大勢の人にかしずかれて 居られましたことは私が能く存じて屠ります。

 殊に脚気はその頃全快せぬとさえ申しましたから、私は泣く泣く部屋長の所へ参りまして、 「これから直に私はお鶴さんをつれて帰国致したい、碓氷峠を越せば薬をのまずに全快すると国 で申しますから、何とぞ願って下さい」と申しましたから、部屋長から取締に申出し、また病院 へも問合せになりましたが、帰国致さずとも決して命に別条はないと申されまして、その日から 私が看病することになりましたが、段々様子が宜しくありません。食事も進みません。第一足が 少しも立ちませんから、はばかりにも私が肩にかけてようようつれて参りまして、子供に手水を 致しますように後から抱いて居るのでありますが、何分私も年弱の十七歳、力もありませず、 中々骨が折れましたが、一生懸命で居りましたから格別告労だとも思いませんで、一日も早く全 快致されますよう朝夕神信心をして居りました。只今のように便羅でもありますと、病む人も看 病致す私もどのように楽でありましたろう。大小用の度ごとに互に骨が折れました。

 が、それは未だ宜しゅう御座いますが、病人の食事は病室へ参りますが、私は自分の部屋へ三 度三度に参らねばなりません。病院は工女部屋の東の端の向うにあります。私の部屋は西の端に ありますから、七十五間と十間余、丁度八十五間余の所を往復致さねばなりません。私は行きも 戻りもいつも駆足で、食事致しますにも大急ぎでしまいまして、部屋の人達と話も致さぬように して戻りますが、待たるるとも待つ身になるなと申す諺の如く、病人は待遠で待遠でなりません から、お英さんはお部屋へ行って遊んでおいでなさるから手間がとれるの何のといつも申されま すが、私は実につらく思いまして、一人涙をこぼしたことが度々ありますが、思い直して、から だが自由におなりなさらず年も行かぬ人だから無理もないと、だましすかして慰めて居ります中 に、日数も段々立ちまして三ヵ月近くなりまして、少しは快くなられまして、入湯することにな りまして、湯殿までおんぶして参り、私も共々はだかになりまして抱いて入るのであります。友 だちがのぞきまして笑いましたが、私は笑うどころではありません。

 まずこのようになられましたところで、尾高様青木様なども、横田英ばかり永々看病させては 気の毒だから、同行の中で代り代りに看病致しますよう、と申されました時の私の喜びはどのよ うでありましたろう。決して看病が苦労だからと申す訳ではありませんが、毎日出て居りまして さえ未熟なところを、何ヵ月も看病致して居りましては業の上達することが出来ません。その病 院から伸び上りますと、皆々笛の鳴ります度ごとに通行致しますのが見えますから、とかく伸び 上って見ますと、病人がそれを気にかけてむずかしく申されます。私はこのような心配をしたこ とはその時までには初めてでありました。

 そこで同行の人々一週間交代と申すことに致しましたが、私は休みの時間ごとに見舞いに参り ますと、目に涙をためて喜ばれまして、私の参るごとにはばかりにつれて参ることにきめて居ら れました。馴れぬ人がおつれ申しますと、痛いとか工合が悪いとか、また人によりますと臭い臭 いと申しましたとか、それで私も、参らねばさぞ待って居られるだろうと心配になりますから、 一度もかかさず夜分まで参りました。

 その内段々快方に向われまして、つかまり立ちの出来るようになられました頃、父君がおいで になりまして、ついに帰国致されましたが、互に泣別れを致しました。そのお鶴さんは只今では お雪さんと申されまして、耶蘇(ヤソ)の伝道師になって居らるるように承りました。

一等工女

 さて私共一行は皆一心に勉強して居りました。中に病気等で折々休む人もありましたが、まず 打揃うて精を出して居ります。何を申しましても国元へ製糸工場が立ちますことになって居りま すから、その目的なしに居る人々とは違います。その内に一等工女になる人があると大評判があ りまして、西洋人が手帖を持って中廻りの書生や工女と色々話して居ますから、中々心配でなり ません。

 その内に、ある夜取締の鈴木さんへ呼出されまして段々中付けられます。私共は実に心配で、 立ったり居たり致して居りますと、その内に呼出されました。

 「横田英 一等工女申付候事」

 と申されました時は、嬉しさが込上げまして涙がこぼれました。

 一行十五人(その以前坂西たき子は病気で帰国致されました)の内、たしか十三人まで申付け られたように覚えます。呼出しの遅れました人は泣出しまして、依怙贔屓だの顔の美しい人 を一等にするのだのとさんざん申して、後から呼出しが来て申付けられました時は、先に申付け られた人々で大いじめ大笑い、しかし一同天にも昇る如く喜びました。残った人は皆年の少い人 で、中には未だ糸揚げをして居た人もありました。月給は、一等一円七十五銭、二等一円五十銭、 三等一円、中廻り、一円でありました。

 一等工女になりますと、その頃は百五十釜でありまして、正門から西は残らず一等台になりま した。私は西の二切目の北側に番が極まりまして、参って見ますと、私の左釜が前に申述べまし た静岡県の今井おけいさんでありましたから、私の喜びは一通りではありません。また今井さん も非常に喜んで下さいました。その日から出るも帰るも手を引合いまして、姉妹も及ばぬほど睦 しく致して居りました。この台の受持の書生さんは深井さんと申しまして高崎の方でありました が、私の父の心安く致しました同藩の玉川渡と申す人の夫人の甥の方だと申すことがその後分り ました。玉川の御子息がその深井さんにつれられて見物に参られた時私に目礼されましたので、 何国へ参りましても身元が分るものだと感心致しました。この台へ参りましてから業も実に楽に なりました。繭は一等でありますから大きい揃ったので、たちも宜しゅうありますから、毎朝繰 場へ参るのが楽しみで、夜の明けるのを待兼ねる位に思いました。皆同じことだと存じます。

国元より工男の入場

  父が富岡へ参りまして実地視察致しまして、製糸場を創立致しますにはとても工女ばかりでは 出来ぬことを見極めましたので、帰国後そのことを申しましてすすめました。その人々は海沼房 太郎田中政吉外二名の名を忘れましたが、七日市に宿をとりまして、日々御場所へ通勤致して居 りましたが、中々繰場に出る訳に参りません。繭置場その他の雑業に従事致して居りました。或 者は蒸気の火燃場その他枠はずし位までは致したように覚えますが、その後三四ヵ月で皆帰国致 しました。この海沼房太郎と申す人は六工社創立の際大里氏と共に蒸気機械の発明を致したので あります。(くわ)しくは六工社創立のくだりで述べます。

年の暮

  追々寒くなりまして、もはや一月も間近くなりました頃、部屋には年中土焼の火鉢がありまし て、三度三度に賄方(まかないかた)の女中が火を配ります。炭は大箱に出して梯子段の所に置いてありますか ら、銘々持って参りまして、おこしますが、遅くなるとありません。夜具は一人に付四幅ふとん が二枚渡されて居りますが、中々寒くありますから、両人ずつ一所に休みますが、とかく手水に 参りますはばかりが至って離れて居ります。私の部屋からは二十間位あります。廊下には懸行燈 がつけてありましたが、種油でありますから実に暗いことであります。恐ろしいと思いますので つれ誘いをして参りますが、私は人並はずれて度々参りますので、そうそうつれがありません、 いつも目を塞いで行き帰り致しました。行く時は静かに参りますが、帰りにはいつも駆足で参り まして、いよいよ部屋の口に入りますと俄かに恐ろしくなりますので、障子をひどく閉めまして、 冴木さんから度々お小言を申されました。なぜこのように恐いと申しますと、中々広い部屋の長 廊下でありますから、折々狸か(むじな)がいたずらを致しますと見えまして、板塀の上に生首があった の、はばかりの中から毛ものが首を出したのと大評判があります。

 ある夜、私共部屋の和田さん金井さん春日さん私とやはり南部屋の東はずれの二階部屋へ遊び に行きまして、帰りに夜が()けまして廊下の燈も消えてしまい、四人一かたまりに恐い恐いと心 中で思って帰りますと、中の梯子段の際の部屋から火が見えました。その部屋は長く(あき)部屋であ りましたから、どうして火が有るかあぶないと思いまして見ますと、実に青い火でありましたか ら驚きましたが、申したら皆恐ろしがるだろうと存じまして、無言で通過ぎまして、その次の梯 子段を降りました時春日さんが、今の火は何でしょうと震い声で申されましたので、一同きゃっ と申しまして、なぜそのようなことをここでおっしゃいます、それだからなお恐ろしくなったと、 三人で大小言を申しまして、早々駆込んで寝てしまいました。銘々見た所が違います。私は破れ 障子から見えました。後の三人は梯子段の隅または梯子段の通り。その翌朝早々参って見ますと、 障子は破れて居りません。これは只今でも不思議と思って居ります。その他色々のことを申す人 がありますので、実に夜分恐ろしくて困りました。

賄方の芝居

  たしか十二月頃かと思いますが、ある日事業済み後部屋長から、今夜お賄にお芝居があるから 参って見るようにと申されました。大喜びで皆参りました。何個もあります大釜の上に舞台が出 来まして、花道は本式にかかって、賄方の番頭共が皆役者になりまして、かつらをかむり、衣裳 なども皆本物で致します。何と申す芝居か名は忘れましたが、白玉と申すおいらんが恋人と道行 の所で、色々台詞(せりふ)を申して居りますと、花道から製糸場と印のある弓張提灯を持って副取締の相 川と申す方と中山様と申す役人がつかつかと出て参られました。私共はやはり芝居をこの方々ま で遊ばすのかと見て居ますと、いきなり白玉になって居ります者の領髪取って投げ付け、恋人も 突き飛ばし、蹴倒し、大声で(ののし)っておいでになりましたが、未だ気が付きませぬ。その内に芝居 方は申すまでもなく女の取締の方々から部屋長の人々まで総立ちになりまして逃げ出しました。 これで初めてこの芝居は、男の工女部屋取締にもお役所の方々にも御内々で致したことと気が付 きました。その後が中々面倒になりまして、総取締の青木さん、副取締の前田さんなどもよほど 尾高様その他からお叱られになりましたようでしたが、何分女の取締一同皆同意でありましたか らそのまま済みました。私共は大失望でありました。今でも折々思い出しまして一人笑い致しま す。

お年取

  事業も十二月二十八日に終いになりまして、いよいよ三十一日になりますと、今夕はお年取だ がお賄では何を出すだろうと申して居ました。いよいよ夕食に参って見ますと、虫のさした(あじ)の 干物に冷飯と漬物、一同驚きまして、ろくろく御飯も頂きませず、部屋に帰り、皆ぶつぶつ申し て居りました。しかしおかちんだけは渡りました。一升(ます)位な四角さの薄き物二枚ずつ、今から 考えますと中々大したことであります。三ガ日は羽根をつきまた(まり)をつき、市中へ散歩に参り遊 びまして、たしか四日から事業を致しました。しかし業は進みますだけ楽で面白くなりますから、 少しも退屈致しません。

食物のこと

  私共入場致しました頃は、皆自分の部屋で食事を致しました。部屋の入口の上にかけ札があり ます。その人数だけ御飯もお菜も置いて参るのであります。三度三度に半切(はぎれ)に御飯を入れて車で ()いて参りました。不足の時は呼んで貰いましたが、十一月頃から大食堂が出来まして、御飯の 茶椀と箸だけ持って行くのであります。

 その時は取締の方々総出で見張っておいでになります。実に食し方が早くあります。ぐずぐず して居りますととり残しになりますから皆急いで食してしまいます。一日と十五日と二十八日が 赤の飯に鮭の塩引、それが実に楽しみでありました。只今と違いまして上州は山の中で交通不便 でありますから、生な魚は見たくもありません。塩物と干物ばかり、折々牛肉などもありますが、 まず赤隠元の煮たのだとか切昆布と揚蒟蒻(あげこんにゃく)と八ツがしらなどです。さすが上州だけ、芋のあるこ と毎日のようでありますから閉口致しました。朝食は汁に漬物、昼が右の煮物、夕食は多く干物 などが出ました。しかし働いて居ますから何でも美味に感じましたのは実に幸福でありました。

 尾高様は折々御飯を食べて御覧になりました。或時臭いの付きました御飯を配る所をお見付け になりまして、賄の頭取が出されまして大騒ぎでありましたが、その後ようようお詫びが(かな)いま して、その後は決して悪しくなった物を出しませんでした。

祖父病気の報知

 一月も末の頃、国元よりの便りに祖父が大病でとても全快(おぼつか)ないと申して参りました。私の 驚きは一通りではありません。宅に居りました時は実に行儀作法その他きびしい人でありました から随分心配も致しましたが、つまり私共を愛してくれますからのことでありますから、私も入 場後何ぞ珍しいことを申遣わしたら喜ぶだろうと存じまして、廻らぬ筆で色々通信致しまして楽 しんで居ました。また私が業を()えて帰国致しましたらさぞ喜んでくれますだろうとそればかり 楽しんで居ました。

 その中に()つかしいと申して参りましたから、また神の御力を願うより外はないと存じまして、 一ノ宮大神宮様を一心に信心致しまして、その内二月十一日に休みでありましたから、一ノ宮へ 参詣致しました。道々の梅も真盛りで天気ものどかでありましたから、心中祖父が全快する前兆 だと喜んで帰場致しました。

 その翌日国元から書状が届きまして、同月八日養生叶わず死去致したとのことで、私の愁傷は 筆に尽されません。年は七十五歳でありました。寿命は致し方ないとようよう諦めました。その 後母からの文に承りますと、衣類など新しいのを病中着せようと致しましても、これはお英が西 条製糸場(六工社のこと)を開いた時見物に着て行くのだと申して、何程だましても着なかった とのことで、私はひとしお涙がこぼれました。その前ついでがありまして、祖父の所へ私が砂糖 を送りました。それを大事に大事に致しまして、これはお英が送ってよこしたのだから大事にせ ねばならぬと申しましたとのことで、私をどこまで愛してくれましたことかと、只今に折々思い 出しまして涙がこぼれます。

お花見

  三月末頃でありました。製糸場一同(工男は参らず)は一ノ宮へお花見に参りました。役人方、 取締一同、賄方、中々盛んなことでありました。尾高様をはじめその他(工女は申すまでもな く)おいでになりました。その前日北海道から工女が両名入場致しました。その人も参りまして、 その工女を送っておいでになりました役人もおいでになりました。ラッコの皮の外套を着て居ら れました。私共はその役人も工女も皆アイヌ人種かと思って居りました。後から考えますと決し て左様ではありませぬ。工女ばかりも五六百名、その他の人で七百名余も居りました。

 その日は三味線もありまして、工女の内でひきます人も中には本手に踊ります人もありまして、 実に面白いことであり京した。工女も皆十二三より二十五六歳位までの者が揃って、ふだん日な たに出ず毎日湯気に蒸されて居ますから、髪の(つや)顔の色実に美しいことで、とても市中の婦人と 場内の人では一つになりませぬ。入湯も一日も欠かしませず、身嗜(みだしな)みも宜しゅう御座いますから、 別品さんが沢山居られました。女の目で見ましてさえ十二分の楽しみ気晴しを致しまして、夕方 一同帰場致しました。このようなことは毎年あります。前年は小幡城跡へ参りましたが、このよ うに盛んではありませぬ。芝居にも折節一同参ることがありますが、その日は小屋残らず場内の 人ばかり他の人は一人も入れませぬ。

四月頃

  四月初旬頃、或日青木様へ私が呼ばれました。何御用かと参りますと、尾高様がおいでになり まして御申しに「お前方一同能く精を出して実に感心だ。この後も御場所の御為明年までも止っ て勤めくれるよう」と申されましたから、私は「国元へ製糸場の立ちますまではいつまでも御場 所に居り、一心に精を出しまする心得で御座ります」と申しましたら、「一同にもその由申伝え くれ」と申されましたから、直に帰りまして一行の人々に申しますと、皆同意でありまして、尾 高様も大きにお喜びになりまして、私の父へも御書状を下されまして、また表向き県庁へもお遣 わしになったとのことであります。(その御書状は只今も私が持って居ります。)

 そのように申されましてお喜び下さいましたが、国元では埴科郡西条村字六工(ろっく)にいよいよ製糸 場創立になりますことに極まりまして、六工社と名が付きまして、社長は春山喜平次、副社長大 里忠一郎、その他元方増沢利助、土屋直吉、中村金作、字敷政之進、岸田由之助の諸氏で、日々 工事を急ぎまして、五月末頃にはよほど工事も出来(しゅったい)致しましたとのことであります。

一ノ宮参詣並びに鈴木様と西洋婦人

 四月末頃、私共一行の三四人と武州行田(ぎょうた)の人お琴さんにお沢さんその他両三人、一ノ宮へ参詣 に参りました。丁度お宮の御門の所で工女取締(男子)鈴木様もおいでになって、お目に懸りま した。そこへ御雇教師仏国人クロレンド、マルイサン、ルイズ三人づれでこれも参詣か見物かに 参られまして、門内に参ろうと致しましたが、鈴木様がどうしても門内にお入れになりません。 「これから帰る宜しい。門内に入ってはいけません」と申されまして、一足も中へお入れになり ません。そう致しますと、マルイサンと申す婦人はその前から病気で居りまして、実に痩せ衰え て屑りまして、ようよう一ノ宮まで参りましてお宮へ入ることが出来ませんから目に涙をためま Lて、「私この次どんたく(休日)一の宮まろ(参る)ありまっせん。中見たいあります」と度々 申しましたが、中々御承知になりません。それで外のクロレンド、ルイズ両人で何か色々申しな だめまして、そこから帰りました。私共も教師たちと一所に帰りましたが、実に気の毒で涙がこ ぼれました。鈴木様は、彼等が肉食を致しますから神宮の境内が汚れるとお思いになりまして、 それでお止めになりましたように見受けました。

 鈴木様も一緒にお帰りになりましたが、教師方が私共を異人館に同道したいと申しましたら御 承知になりました。私共六七人皆一緒に参りまして、ビスケット・葡萄酒の御馳走になりました。 この時生れて初めてビスケット・葡萄酒など食しました。残って居りました教師が裁縫をして居 りました。只今考えますと、あまり広からぬ室に一同居りましたように思われます。此の後半月 ほど立ちまして、ブリューナ氏初め一同帰国致しまして、仏国人その他外国人は一人も居らぬよ うになりました。

桝数

  一等工女の日々繰ります(ます)数は四升五升位がその頃通例でありました。私もその位ずつとりま した。今井おけいさんは中々桝数が上りまして六升位おとりになりましたから、私も一生懸命に なりまして、追々六升位とれますようになりました。

 その頃同じ切の南台東の角に武州押切と申す所から出て居りましたたしか小田切せんとか申す 十九か二十歳位な人が居りましたが、中々元気な人で、桝数も六七升とって居りましたが、或日 その人が八升上げました。これが富岡創業以来初めてと申す桝数でありましたから、受持書生 (佐伯木次郎)中廻りの工女も大喜びでありました。そのことが場内中の大評判になりまして、書 生たちが皆見に参ります。私共も驚いて居りました。私共台の受持書生深井さんが、今井さんと 私の間の前に立って見て居られましたが、やがてこのように申されました。「今井おけいさんも 横田お英さんも、向う台の小田切せんは八升とりました。お前さん方も八升とったらどうです」 と申されましたが、両人口を揃えまして、「中々私共が八升なんてとれません」と申しましたら、 深井さんは何とも申さず行っておしまいになりました。そこで私が今井さんにこのように申しま した。「おけいさん、おせんさんが八升おとりになりましたとて皆大騒ぎをしておいでになりま すが、私共とて同じ繭で同じ蒸気、一生懸命になったらとれぬこともありますまい。明日からや って見ましょうではありませぬか」と申しますと、今井さんも至極そうだと申されまして、いよ いよ明朝からと申す約束を致しました。

 その頃一等台に居りますと、繭が宜しゅう御座います、手は馴れて参ります、実に楽でありま すから怠る訳ではありませんが、中廻りや書生が向うを向いて居りますと折々話も致します。殊 に心の合った両人並んで居りますことでありますから、はばかりに参りますにも二人づれで参り まして、ゆるゆる歩いて参りました。物を申されぬ時は両人横目の遣い合いを致しまして、中廻り りや書生に笑われたこともありましたが、その翌朝場に付きましてからは再人とも無言、決して 目遣いも致しません。はばかりにもなるべく参らぬように致しまして、是非参らねばならぬ時は 往復とも駆出して参る位に致しまして、一生懸命にとって居ましたから、かつがつ七升余とれま した。そのように致しまして、たしか三日目頃両人とも八升上りました。両人の喜びはどの位か わかりません。受持中廻り深井さんなどは実に喜ばしそうに両人の顔をにこにこして御覧になり まして、「能くとれました。これから毎日このようにおとりなさい」と申されました。

 このことがまた場内中の評判になりまして、書生たちがどのようなことをしてとって居るかと 思われまして見に参ります。しかし別にとり方が違う訳ではありませぬ。ただ油断が無いのと糸 を切らさぬように用心を致しまして、湯を替えるにもとりながら追々さして、わざわざ手間を潰 して替えると申すようなことを致さぬように気を付けて居りますばかり、すべて無益な時間のか からぬ用心のみ致しました位、その頃富岡では落繭並びに(さなぎ)を釜の中に置きますこと、湯を濁ら すことを(かた)く禁じてありましたから、その辺も、桝は上るが釜の中が(きたな)いなど申されぬよう致し て置きました。

 夕方部屋へ帰ります時も嬉しくて嬉しくてにこにこして部屋に入りますと、皆帰って居られま して、第一番に和田さんが「お英さん、今日は八升おとりになりましたってネー」と申されまし たから、「はあ、どうやらこうやら八升とれました」と申しますと、「そんなにとれる筈がない。 七粒八粒付けてとったのに違いない。桝数を上げさせたがって深井さんも黙って見ていらっした のだ」と申されますから、私が「なんぼ深井さんだって七粒八粒付けさせて黙って見ていらっし ゃるものですか。西洋人だって目があります」と申しましたが、まだ色々申されますから、「そ んならそうにしてお置きなさい」と申しまして、私は相手になりません。色々争いまして青木さ んへでも聞えますと、どちらが勝ちましても松代工女の名に障りますから。その頃富岡では細糸 でありまして、厚繭揃いなれば四粒、薄繭が二つ或は三つ交りで、五粒付けてありました。六粒 になりましても三粒に致しましても切られました。その夜はそれで休みましたが、和田さんはご く負けることの嫌いな人でありましたから、その翌朝から一心に桝を上げることを思い立って居 られました様子で、その夜七升ほどとれたとか申して居られましたが、私は何とも申さず、自分 が八升つづけることばかり心にかけて居ましたから日々上げて居りました。

 すると三日目か四日目頃、深井さんが私共の前に立って、時計台の角から二番目の和田初とい う人が今日八升上げたと申されました。私は心中おかしくておかしくてたまりません。夕方部屋 へ帰りましたが、私は何とも申しません。すると和田さんが、「ようよう今日こそは八升とれた」 と申されましたから、私は笑いながら、「それは結構でした。やはり七粒も八粒もお付けになり ましたか」と申しますと、ははと笑われまして、「あんなこと言って御免ネ」と申されました。 私がまた、「それだからあまりためさぬことを色々おっしゃらぬが宜しゅう御座います。私だか らよいけれど」と申しましたら、「これからもうあんなことは言わぬ」と申されましたので、私 も大笑い、両人でとり方に付き色々話合い、大笑いを致しました。

 この日頃は追々一行の人々も皆負けることは嫌いでありますから、酒井、春日、小林高、福井、 東井、その他の人々にも八升とる人が沢山出来ました。その他の人々にも追々出来まして、余り 珍しくないようになりました。折節切れたりとり悪かったりして七升位になりましても、深井さ んが「怠けてはいけません」と申されます位でありましたが、しかし何業でも同じことでありま すが、負けぬ気が第一かと存じます。

 業が上達致しますと、同じ枠をはずしますにも上達した人のを先に致します。書生はもとより 中廻りでもいつもにこにこして、何を頼みましても直に聞入れて下さいます。やれいこひいきだ の何のと申します人は、まず業の出来ぬ人の申すことかと存じます。我が業を専一に致しまして 人後にならぬよう続けて居ますと皆愛して下さるよう思われます。私共一行は野中の一本杉の如 く役人も書生も中廻りも一人も松代の人などありませんが、皆一心に精を出しましたから、上は 尾高様より下は書生中廻りに至るまで、皆台は違った所に居りましたが愛されて居りましたから、 帰国の折も皆さんから名残を惜しまれました。ちと申過ぎますかも知れませんが、少しも飾りの ないところであります。

糸結び

  五月末頃には六工社の工事もよほど出来致しましたとのことで、私の父から尾高様へその旨申 上げまして、製糸業一通りのこと覚えさせて頂きたく願いましたとのことで、私は六月一日頃か ら糸結びを致しますことを命ぜられました。同時に和田初子さんも申付けられました。

 糸結びは多く年長の人または目の悪しき人等が致します。私などの年の人はありませぬから、 場内の人残らず目を付けて見て居ります。馴れました人の後から才槌(さいづち)を持って大枠のはずしてあ る所へ参りまして、結びまして、繭を入れます蒸籠(せいろう)に並べます。それが一杯になりますと、役所 の糸仕上げ場へ持って参りまして、何本と申す受取を帳面に付けて貰って来るのであります。

  この糸結びも中々()つかしくあります。上手な人が結び方、なれぬ人が(ねじ)り方を致すのであり ますが、とかく丸くなります。所々潰れます。中々一月や二月で結び方には致しませぬが、尾高 様から私共のこと御話しになってありましたと見え、一週間余で教えて下さる人が結んで見ろと 申されますから、結びましたが、とかく(はまぐり)の所が振れます。実に心配でなりません。毎夜部屋 で和田さんと両人で手拭を継合せて糸の幅位にして、結び方になったり振り方になったりして稽 古を致しました。それでもようよう結ばれる位でありましたから、教えて下さる方が折々「あな たでもお国へお帰りになれば先生だ」と申されますと、恥かしくて顔が赤くなりました。しかし 親切に教えて下さいまして、四百廻までとらせて下さいました。

 ちょっと大枠のことをお話し申しますが、富岡は一等二等繭は六角枠で三升がけであります。 六工社のよりよほど大きく寸が長くあります。三等繭は四角な大枠にかけます。やはり三升がけ でありますが寸は六工社のより少し短いようでありました。このようになって居りますから、少 しも間違いなどはありません。

 糸をとりますより心配は少く中々面白う御座いました。和田さんと私は別々の人に習いました から、受持場所が違って居ます。遠くからちらちら見ゆる位で、一日一緒になることは部屋に帰 った時ばかりでありました。糸を結び、役所に納めて参ります、その間に四百廻もとります。骨 は折れますが中々楽しみのように思われました。それに教えて下さる人がまたやさしい人で、私 を実に愛して下さいました。

国元より迎いの人来る

 七月の初めに、いよいよ六工社創立に付き宇敷政之進、海沼房太郎両氏、松代工女一同御暇賜 わり()くとの願書を持って富岡御製糸場へ出頭致されました。

 尾高様も非常に御喜びになりまして、早速御聞届けになりまして、申されますよう、「このよ うな愛度(めでた)きことはこれ無く、御場所創立以来この度が初めて、実に悦ばしい。しかし今この出精 なる工女一同を帰国致させるのは、当御場所において本年一ヵ年に九百円以上御損に相成るが、 何も国の為なれば致し方がない。皆一同感心に精を出したから、帰りには東京見物にてもさせて やるように」と申されましたが、中々その頃そのようなことは思いもよらぬことでありました。 宇敷氏が入費として六工社から一百円受取って参られたと申すことでありました。

 それより私共一同役所に呼ばれまして、尾高様から御賞詞を賜わりました。

  

 繰糸業格別勉励に付為褒賞金五拾銭下賜候事

                     製糸場印

  

 右に姓名を書付けまして、大かた頂きました。一行の内病気勝ちの人は頂かぬ人も三四人あり ました。

 その頃は日本国中に製糸場と申すは富岡の外ありませんから、ただ製糸場と申す印が押して あります。只今にその書付は持って居ります。

 尾高様が、首尾()く帰国致すのだから御場所残らず拝見させてやると申され、繭蒸場、蒸気機 関のある所、繭置場、二階、その他残らず拝見致しまして、繰場へも改めて暇乞いに参りました。 書生たち、中廻りの人も町瞭、に暇を述べられまして、皆名残を惜しんで下さいました。この月初 めに紺がすりの仕着せが渡りました。ただ退場致しますのなれば返納致さねばなりませぬが、格 別の思召を以てそのまま賜わりました。

一同帰り用意

  一行は待ちに待ったる製糸場が国元へ立ちまして、喜び勇んで種々用意を致します。中には何 分なれぬ少女が国元に居ります時は金銭は皆親の手より外自分に使用致しましたことない中に、 月給の一円七十五銭もとれば、何を買ってもあるように思いまして、銘々呉服屋から帯だの帯揚 だのと買いまして、また小間物屋などから色々(もと)めました。皆賄方(まかないかた)の家内が店を出して売りま すから、月々払いでありました。俄かに帰国のことになりましたから、中には十円から払わねば ならぬ人もありました。五円または六円と大かたはあります。それを払わねば帰ることが出来ま せぬ。宇敷氏もこれには驚かれまして、とてもそのような用意までしては来ぬと申されました。 私は父から用意金を宇敷氏に託して送ってくれました。殊に私は中々心配性でありますから、買 いがかりは致しませぬ。送ってくれました金で帯揚だのその他需めまして、土産物なども相当に 需めました。しかし他の人の困るのを見て居る訳にも参りませんから、宇敷氏に段々頼みまして、 皆帰る中に残る人があっては気の毒だから是非是非貸して上げて下さいと申しまして、ようよう 皆形が付きました。それで皆大喜びで一同退場致しまして、この度は青木屋と申す宿に一泊致し ました。その時父兄で迎いに参られましたは金井氏小林氏等の諸氏でありました。

白桃の枝と暇乞い

 一同退場致します時に、銘々これまで心安く致しました人々の部屋へ暇乞いに参りました。皆 別れを惜しみまして、互に涙でろくろく言葉も出ぬほどでありましたが、残る人々は別して故郷 へ帰ります私共を見まして実に羨ましく思って居られました。わけて静岡県の今井おけいさんは、 私が帰ると申しました時から涙ばかりこぼして居られましたが、いよいよ退場の時、出口の所へ 後から駆出しておいでになりまして、桃の小枝を持っておいでになりまして、私の髪へ()して下 さいまして、「これは白桃の枝だから、これを挿して居れば暑気に当らぬ呪禁(まじない)だから、道中挿し て行って下さい」と涙ながらに申されまして、後をも見ずにお顔にお袖を当てて御自分のお部屋 の方へ駆けて行かれました。私もその時の悲しさは今でも忘れません。そのやさしき親切なる御 心立てを折々思い出して懐かしく思います。春ごとに白桃の花を見ますと、何となくその人にお 目に懸かるよう思われまして、白桃を愛して居ます。

 私共の退場を、御取締の方々から部屋長方まで皆御祝し下さいまして、上々の首尾で退場致し ましたは、実に一同幸福なることでありました。私共もこれが御場所の見納めかと存じますと、 実に名残惜しく存じました。

その頃富岡製糸場は政府から立てて居りますので、上は尾高様より下は市中の人まで御場所 と敬って申して居ました。いかに開けませんかはこの言葉でもお分りになりましょう。その 他私が書きます言葉はその頃のままにわざわざ致して置きますから、その御つもりで御覧を 願います。

富岡町出発並びに高崎見物より道中

  その日は青木屋に一泊致しまして、市中の見納めに銘々遊歩致しまして、翌朝同地を出立致し ました。尾高様もあのように仰せられをとだから、せめては高崎でも見物さして上げると宇敷 象申されました。実は東京見物でもさせて上げるつもりなりしが、思いよらぬ皆様のお買いが かりのためとても今急に金子(きんす)を取寄せる訳にも行かず、お貸し申さぬ方には実にお気の毒だが 許してくれと申されました。そのお言葉が私共にはなおお気の毒に存じました。

 さて僅か一ヵ年余りの間に開けまして、もはや人力車が富岡町に沢山ありまして、それに一同 乗りました。折悪しく途中から大雨になりまして、桐油(とうゆ)をかけました。只今と違い上から袋をか けたようになりまして、その匂いに酔った人がありまして、病気に罹った人もありました。一同 大閉口致しました。

 しかし高崎に着致しました頃は晴れまして、同地の知人(富岡に出て居た工女にて帰宅した人々) も幾人か宿屋へ尋ねくれまして、同地にて糸を繰り居る所も見に参りましたが、皆七輪で炭火で ありました。兵営なども見物致しまして、その日は同地に一泊致しまして、その翌目は坂本に泊 り、翌日たしか碓氷峠を越しましたが、段々旅費が不足になったと申すことで、皆草鮭(わらじ)をはきま して越しました。能く覚えませんが軽井沢に泊ったようにも思います。

 その翌日は終生忘れぬ宿泊であります。宿は信州田中宿の家号は忘れましたが見るもいぶせき 宿屋に泊りました。家は(すす)けてかたがり、何とも譬えようのない一室に皆居りますと、隣室には 御嶽行者らしい若者が大勢居りましたが、宿の人に頼まれてお給仕に代る代る出て参りました。 これも上等の宿に泊れば宿泊料がかかるから致し方ないとのことでありました。

 宇敷氏は高崎から先に帰られまLた。金子を持って来ると申されたとのことであります。その 宿に泊りました時は、もはや宿料に不足を生じましたとのことで、一行の内何ほどでも持って居 る人は貸してくれと申されまして、銘々持合せを出してやりました。私なども一銭も残さず出し ました。そのようにして翌日は上田で昼食の時は、裏通りのちょっとした茶屋に入りまして、外 に一同休んで居りまして、迎いに参られた人が途中まで金子持参の人の迎いに出ましたら、よう よう道で行逢いましたとのことで、それで払いをして、その日は板城宿に一泊致しまして、翌早 朝矢代本陣柿崎へ着致しました。

(したため)めましてはそのようにもありませんが、道中旅費不足のため、宇敷、海沼氏は申すまで もなく、一同の心配はとても筆に尽くされませぬ。只今なら電信為替で直に間に合いますが、 実に開けぬ時代のことは、只今の方は御存じありません。

仕度

  それより本陣で風呂を沸かさせ、銘々湯に入り、皆髪を結い、上手に結う人は幾人も結ってや り、湯に入り、富岡仕込みの厚化粧致します。一行十四人の仕度、中々手間がとれます。

富岡では化粧は女子の身嗜(みだしな)みの一つとして許されて居ました。毎夜湯に入り、皆おしろいを つけます。つけぬ人は却って嗜みが悪いと申されます位でありました。

宇敷氏、岸田氏等、馬で迎いに参られまして、早く早くと申されました。また銘々の家からは 皆力に応じた新しい衣類帯等皆本陣まで持たせてよこされましたが、中々一様に参りません。そ こで私が申しますには、「お宅から折角お遣わしだけれど、品に不同があっては面白からず、誰 もよき物着たいは同じことだから、一そうお仕着を揃って着て、富岡で拵えた唐縮緬友禅の帯 を締めて行けば、良きも悪しきも無くて宜しかろう」と申しますと、中には不服の人もありまし たが、大勢その方がよいとのことで、皆一同紺がすりに唐縮緬の帯を締めました。

 ようよう仕度も出来ましたので、いよいよ出発致すことになりました。

行列順

  一行一同柿崎の玄関より広庭に出、門前に早朝から待たせて置きました人力車に乗りました。 一行十四人に付添人三名都合十七名車に乗りました。その頃至って人力車が少くありましたので、 坂城矢代松代とこの三ヵ所の人力を早朝から午後二時過ぎまで止めて置きましたのであります。

 さて挽出(ひきだ)すことになりますと、順番を宇敷氏と海沼氏両名で指図致されまして、第一番に私の 車を真先に参るようにと車夫に申付けられましたので、私は驚きまして「それはいけません。御 年順でもあり、和田さんの車を先にして下さい。それから皆々様、私は後から参りとう御座いま すから」と申しましたが、中々聞かれませんから、「私はどうしても和田さんより先に行くこと は確くお断り致します。御存じの通りの事情もありますから姑へ対しても心苦しく存じます。こ の一事は是非お聞入れを願います」と申しましたが、宇敷氏の申されますには、「これは決して 私共の致す訳ではありません。尾高様よりの御指図だから、決して番を狂わせる訳には行かぬ」 と申されます。私共は尾高様の仰せは決して(そむ)きません。私もここに至って致し方ないと決心 致しましたが、その心の内の苦しさは譬えようがありませぬ。姑の思わく、姉の心中、後来のこ となど思い巡らし、泣出したい位でありましたが、致し方なく第一番に私、第二番に和田初子、 第三番に小林高子、第四番に酒井民子、それより段々に列を正しく挽出しましたが、何が田舎の ことではあり、十七台も車が続くようなことはこれまでないこととて、家に居る人は駆出す、道 を行く人は止る、畑に居る者は鍬を棄てて駆付け見て居ると申す有様、十四名揃いの衣服で同じ 年頃の者が揃って居ます、風俗もよほど違って居りましたから、皆珍しがって見物致すのであり ましょう。

  私は真先で実に間が悪う御座いますから洋傘で顔を隠して居りましたが、雨宮(あめのみや)、岩野、土口(どぐち)と 段々人出が多くなりまして、両側に人垣を築きましたようになりましたから、私はその時に至り まして、心配がすっかり変りました。中々姑や姉の思わく位な小さい心配ではありませぬ。この ように沢山な人が見て居りますことでありますから、この度業を卒えて帰国致し、創業の製糸場 へ参りましても、機械その他が富岡のように毘来て居りますれば何も差支えもなけれども、何を 申すも政府の御力で立てて居りまする所と、その頃の人民の力で致すこと、万一成功致さぬ時は、 私共は世間の人から何と申されましょう。自分のみかは親兄弟姉妹まで人に対して顔向けも出来 ぬように相成るべく、また損を致しますれば、元方の方々にも気の毒、殊に私が真先に立ちます ことでありますから、責任は自分が第一重いように感じまして、今まで喜び勇んで居りました松 代が近くなるほど心配が増して参りまして、夢現(ゆめうつつ)の心地で土口へ参りますと清野(きよの)村の側に元方 一同の方々が皆羽織袴の礼服で出迎いに出て居られました。大里氏、中村氏その他の方々のお顔 が只今に目に付いて居ります。その盛んなことは丁度昔殿様のお通りの時のような有様でありま した。只今考えますと、やはり松代の製糸場の今目の如く盛んになります前兆かとも存じます。

 そこで初めは松代学校へ着と申すのでありました。その頃役場がありましたから。しかしあま り時間が遅くなりましたので、やはり私の宅(代官丁横田)へ着致すことになりまして、一同無 事に着致しました。一行の父兄親族皆道まで迎いに出て居られまして、ひとまず横田に落着きま した。待受けの用意も出来て居りましたから、ちょっと休足致されまして、銘々自宅へ引きとら れました。私などは両親姉妹兄弟その他親族知己に久々で面会致しまして、実に嬉しく存じまし たが、この先が心配でたまりませんでした。

 これより六工社創立に付きましてお話を致しますが、まず一段落を付けまする。

穴かしこ

この書は当夏初めより思い立ち、書始めましたが、日々家事向の用多く、殊に人出入の劇しき こととて隙がありません。折々深夜人静まり後一枚二枚としたためましたから、書落としが沢 山にあります。どうぞ御判じ下さいますよう願います。

ようよう十二月十七目夜、したため終り。

書添

  お笑草にちょっとしたためて置きます。

 私共富岡へ参りました頃は未だ郵便がありませんから、毎月東京へ参ります飛脚に頼んで、手 紙や品物を銘々の家から送られました。私共も手紙を出します時はその人に頼み、または国元の 人が見物に来た時など一同出すのでありましたが、能くは覚えません、或時私の父から郵便で手 紙が参りまして、五厘の切手が四つ貼ってありました。私はこのような結構なことが始まったの かと大喜びで、賄方の女中に尋ねますと、当町にも出来たと申しましたから、私一人で出すのは 惜しいものだと思いまして、一行の部屋部屋を知らせて歩きまして、「私は今日郵便とやら申す 物で手紙を出すから、一人で出すのも惜しいから皆さんもお出しなさらぬか」と申しますと、皆 皆大喜びで、我も我もと十六人大方お出しになりましたのを私が一包にして、女中のお大さんと 申すに頼みまして、私が十銭札を持たして八銭お釣が来るだろうと思って居ますと、やがて女中 が帰って来て、「切手のおあしはあれで丁度よかった」と申します。私は父から二銭で来たのに 十銭とはちと不思議だと思いまして、「この頃国元から来た手紙に五厘の切手が四つ貼ってあっ たが、どういうせいだろう」と申しますと、その女中が大腹立てて「使を仕てやったり疑られた りしちゃあ、あったせんぎでない」と申しますから、ようようなだめましたが、私は心中不思議 で不思議でたまりません。その次の日曜日に外出致しました時、その郵便を出す店へ参りまして 尋ねますと、目方次第で段々高くなると申されまして、ようよう分りましたが、郵便銭は私が出 し損を致しまして、この後はなるべく紙の薄いのへしたためました。折々一人で笑いますが、実 に開けぬ時には色々可笑(おか)しいことがあります。その頃は手紙を持って参りますと、その店の人が 目方をかけて切手料を取るので、別に郵便箱も出来てはありませんでした。その後間もなく箱が 出来ました。

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富岡後記

六工社初見物

私共一同は明治七年七月七日故郷松代へ着致しまして、その翌日は宅に居りましたが、その翌 日九日埴科(はにしな)郡西条村字六工(ろっく)に建築致されましたる六工(ろっこう)社製糸場へ一同打揃うて参りました。その 道にありました大里忠一郎氏の御宅へ立寄りまして、同氏並びに夫人里子御老母等に御面会致し まして、同氏の御案内で六工社へ参りました。

 機械その他を見ました。兼ねて覚悟のことなれば別に驚きも致しませぬ。却って()くこの位に 出来たと思いました。しかし富岡と違いますことは天と地ほどであります。銅・鉄・真鍮は木と なり、ガラスは針金と変り、煉瓦(れんが)は土間、それはそれは夢に夢を見るように感じましたが、まず まず蒸気で糸がとられると申すだけでも日本人の手で出来たとは感心だ位にて、その日は引取り ました。

六工社初製糸並びに私の病気

 翌十日は宅に居りまして、その翌七月十一日いよいよ初製糸にかかりますので、私共仲間六七 名参りまして、釜場(かまば)のありました通りの真向き南側(大ぜんまいのありました西二釜目)でとり 始めまして、代る代るにとりましたが、何を申すも天日で干上げた小粒な(まゆ)でありますから、繭 に重みがなくて、その糸の口の細きこと、指にべたべた付きまして実にとり(にく)きことは富岡で一 度も手がけたことがないように覚えました。富岡は蒸気の通りました大管で蒸してありますから、 どのようにたたぬ繭でも重みがあります。しかしとることが出来ますので一同喜んで居りました。 とり釜は半月形で、中にパイプが出て居ります。形も小さくありますから(ほうき)も十分につかわれ ませぬ。その日は代り代りとりまして、翌十二日にもまたまた参ってとりましたが、私は昼頃か ら俄かに寒気が致しまして、段々寒くなりまして、末には顔色が真青になりましたと申すことで、 皆一同心配致されました。それで大里夫人も大そうお案事(あんじ)下さいまして、御召縮緬(おめしちりめん)霜ふりのお羽 織をお貸し下さいまして、宅に帰って養生を致すようにとくれぐれおすすめになりますから、私 も帰宅致しますことに定めました。するとじいやを御付け下さいますから再三御辞退致しました が、是非是非と申されますので、その人と帰りましたが、途中私が考えますには、私が六工社か ら病気で帰ったことが世間の人に知れると、また何だのかだのと申して、新入工女の気受けに障 り不都合ならんと思いましたから、馬場丁の金井氏方へ寄り休ませて頂き、夜に入って帰宅致す 方が(よろ)しからんと、直に金井氏へ参りまして、右の次第をお話致しまして、お座敷に休ませて頂 きましたが、その時ははや心の緩みと病の重りと同時になりまして、身動きも出来ぬようになり まして、身体は火の付いたかと思いますほど熱く、口は渇き、その後のことは更に覚えはありま せん。その日六工社へ参ります時、父の実家の伯父に途中で逢いましたが、未だ帰国後その家へ 参りませぬのでそのことばかり心にかかりまして、折ふしそのことを申して居りましたとのこと であります。

 金井氏では夕方になりまして、私が右の有様でありますから大そう驚かれまして、早速実家へ 知らせて下さいまして、母と姉が参ります。医者が参りまして診察致しまして、これは「傷寒」 だと申されましたとのことであります。金井氏方では御家族総がかりで御看病下さいまして、そ の上夫人の姉君までおいでになりまして、実に実に十二分の御看病下さいました。お蔭にて四五 日立ちますと少々快方に向いましたとのことで、夜分駕籠(かご)に乗せられて実家へ帰り、養生致しま した。その頃からようよう正気になりましたが、未だ一人立つことも(かな)わぬ同月たしか二十二日 かと存じます、六工社はいよいよ開業式が盛大にありました。私はこの盛大なる古今未曽有(みぞう)なる 日本帝国民間蒸気機械の元祖六工社製糸場の開業に出席致すことが出来ぬことかと病床に泣いて 居ました。

  私の病気も幸い人に伝染も致しませんで私一人ですみましたのは実に仕合せでありました。只 今と違いその頃は予防と申すことは存じません。皆一緒の所に居りましてその場で飲食致して居 りました。只今思いますと実に恐ろしい位であります。

六工社開業式と同行者の等級

  さて六工社開業式当日、私共一行が富岡退場致します時尾高様より宇敷氏へお渡しになりまし た松代工女等級が発表されたとのことで、同行者の両三人私の所へ見舞いかたがた知らせに来 て下さいました。その等級左の通り。

  

     二等工女

    横田 英  和田 初  小林 高  酒井 民

     三等工女

    福井 亀  春日 蝶  その他

  

 殊に驚きましたのは、富岡でおおかた三等で居りました人が四等になって、私などが二等殊に筆 頭でありましたから、嬉しいようなまた気の毒のような気が致しました。

 その人々から承りますと、下った人は皆泣いて居られたと申すことでありました。私は病気の ため開業式に出席出来ぬとて泣いて居りましたが、その時初めて何が幸いになるか分らぬと思い ました。私も出席致して居りましたらさぞさぞ下った人たちが気の毒であっただろうと存じます。 殊に私が筆頭に居ますから慰める言葉がありませぬ。また下った人たちも私を憎らしく思われる だろうと存じます。まずまず病気が却って仕合せであったと心中喜びました。

 私が思いますには、四等に下った人などは決して業で下った訳ではありませぬ。たとい怠けた と申す訳でなくても病気その他で休業の多くあった人のように思われます。私などの筆頭に居り ますのもこれと同じことで、人様より業が上達致して居ったと申す訳ではありませねが、一心不 乱に勉強致して居ただけは決して人様より後には居らなかったと自分で信じて居りました。しか し一番になって居ろうなどと申す自信もまたありませんでした。元より同行者は皆座繰(ざぐり)は馴れて 居る人ばかりでありました。私は宅で蚕を少しずつ飼いましても、人に糸にしてもらいました。 私は生れつき糸など繰りますことが好きでありましたから、毎年くず繭位手どりに致して居りま したが、たとい座繰と蒸気機械と繰り方は違いますとも、馴れた人と馴れぬ人では一つにはなり ませぬ。殊に私は根が無器用でありますから、入場後もその苦心は一通りではありませぬ。出立 前祖父に申付けられました、人後にならぬよう、また父に申付けられました、諸事心を用いて覚 えるよう、殊に一人でも参ると申した自分の口上、このようなことを思いますと、万一あまり下 に居りましたなら両親に合す顔もありません。また私が下に居りましたら、父が人様に面目を失 うことであろうと、入場以来実に心の安まることはありませぬ。とても自分一人の力では及ばぬ ことと思いまして、毎朝神仏に祈りまして、命も捧げる位の意気組で居りました。その様子がさ すが数多の人の上に立っておいでになりますところの尾高様のこと、また書生中廻りの人たちま で見ておいでになりまして、ただただ私の心を筆頭に遊ばして下すったのだろうと存じます。

 しかし糸目と(ます)数では決して人様の後には居ませぬ。糸は如何(いかが)か存じませんが、一度も小言を 申されたことがありませぬから、まず悪い糸はとらなかったのだろうと存じます。何事も一心は 岩をも(とお)すと申しますが、実にその通りであります。

 その後海沼氏が参られまして、実はお渡しになります時は、「この等付は開業式まで決して開 くことはならぬ。その前に開くと女子のことだからどのような騒ぎをするか知れぬ、富岡へ帰る の引くのと申すと面倒だから」と仰せられたから、当日までその儘にして置いたと申されました が、尾高様と申す方はどこまでお届きになった方やらと実に