執筆は 1905-13年。本テキストは中公文庫版より山形浩生 作成。ただし富岡後記二年目の記録部分は「定本富岡日記」(創樹社, 1976) より作成。
pdf 版は http://cruel.org/books/tomioka/tomioka.pdf
要約: 富岡製糸工場の初期女工として働いた武家の娘、和田(当時は横田)英による、富岡製糸工場の記録と、彼女が故郷松代に帰ってから操業に参加した六工社の記録。当時の労働環境、女工の日々の生活、労働倫理や事業への参加意識が伺われる重要な資料。また、日本の西洋技術の習得およびその技術移転の実態も非常によくわかる。
著作権は 1981 年に期限切れとなった。
私の父は信州
私も兼ねて親類の娘が東京へメリヤスを製しますことを習いに行きました時、私も行きたいと
申しましたが、私より下に四人の弟妹がありまして、中々忙しゅうありましたから許しません。
残念に思って居りましたところでありましたから、大喜びで、一人でも
「たとい女子たりとも、天下の御為になることなら参るが宜しい。入場致し候上は諸事心を用い、 人後にならぬよう精々励みまするよう」
と申されました時の私の喜びは、とても筆には尽されません。
さてこのようになりますと
右様に取極めましたが、私はその前年当家(和田)へ縁組致します約束だけ致してありました から、当家へも右の次第を話しますと、幸い主人も東京へ一ニヵ月内に学問修行に参る心組のと ころでありましたから、承知してくれました。その時姉が一人ありまして、初子と申しました。 姉もまた、「お英さんが行くなら私も行きたい」と申しまして、直に行くことになりました。
さあこのようになりますと不思議なもので、私の親類の人、または友達、それを聞伝えて、我 も我もと相成りまして、都合十六人出来ました。後から追々願書が出ましたが、満員で下げられ ました。
| 河原 | 次女 | 河原 鶴子 | 十三歳 |
| 金井 好次郎 | 妹 | 金井 新子 | 十四歳 |
| 和田 盛治 | 姉 | 和田 初子 | 廿五歳 |
| 酒井 金太郎 | 長女 | 酒井 民子 | 十七歳 |
| 米山 友次郎 | 妹 | 米山 嶋子 | 十八歳 |
| 坂西 某 | 次女 | 坂西 滝子 | 十五歳 |
| 長谷川 藤左衛門 | 長女 | 長谷川 淳子 | 十四歳 |
| 宮坂 某 | 未来之妻 | 宮坂 しな子 | 十四歳 |
| 小林石左衛門 | 長女 | 小林 高子 | 廿一歳 |
| 同 | 次女 | 同 秋子 | 十六歳 |
| 小林 某 | 長女 | 小林 岩子 | 十七歳 |
| 福井 友吉 | 長女 | 福井 亀子 | 十八歳 |
| 塚田長作 | 長女 | 塚田 栄子 | 十七歳 |
| 東井 某 | 次女 | 東井 留子 | 廿一歳 |
| 春日 喜作 | 次女 | 春日 蝶子 | 十七歳 |
| 横田 数馬 | 次女 | 横田 英子 | 十七歳 |
一同用意もととのいまして、いよいよ近日出立と申すことになりました時、父が私を呼びまし て、
「さてこの度国の為にその方を富岡御製糸場へ遣わすに付ては、
と申渡しました。
母はこのように申しました。
「この度お前を遠方へ手放して遣わすからには、常々の教えを能く守らねばならぬ。また男子方 も沢山に居られるだろうから、万一身を持ちくずすようなことがあっては、第一御先祖様へ対し て申訳がない。また父上や私の名を汚してはなりませぬ」
と申しましたから、私はこのように申しました。
「母上様、決して御心配下さいますな。たとい男千人の中へ私一人入れられましても、手込めに 逢えばいざしらず、心さえたしかに持ち居りますれば、身を汚し御両親のお顔にさわるようなこ とは決して致しませぬ」
と申しましたら、母が、
「その一言でまことに安心した。必ず忘れぬように」
と申しました。私は自分で申しましたことを一日も忘れずに守って居ります。
一行の人々も皆このように申されたであろうと存じます。
私の姉が紙切にこのようにしたためてくれました。
富乱れても月に昔の影は添ふ
など忘るなよしき島の道
曇りなき大和心のか父みには
うつすも安きこと国の
姉は松代町広小路の真田と申します叔母の家に十七歳で縁付きまして、私よりニツ上でありま
す。只今は
この
明治六年二月二十六日、一行十六名、松代町を出立することになりまして、父兄も付添として
参りました。金井好次郎・和田盛治・長谷川藤左衛門・小林石左衛門・米山某・小林岩子母等の
人々でありました。旅費は富岡で渡りましたように覚えます。一行の内、私の父から取替えてや
った人もありますが、そのままに返さぬようであります。付添の人々は皆自費であります。
一同私の宅へ寄りまして、朝の七時頃馴れし我が家を後にして、喜び勇んで出かけましたが、
後から考えますと、実に世間見ずほど世に気楽な者はないと存じます。これまで遠い所は
河原鶴子さんは紫メリンスの袴にやはり紫の羽織、赤のシャツ、お着物は
これが実に珍無類、只今なら丁度ポンチ絵にでも有りそうな形で、どのように
右を着しまして、意気揚々と歩いて参りました。父は至って新流行を好みましたから、メリヤ スなどもその頃あまり着る人のない時私に求めてくれました。何でも西洋人の居る所だから筒袖 の方が宜しかろうと申しましたから、私も喜んで着て参りました。只今でも母や姉と寄合います と、そのことを申出して笑います。いかにその頃世間の有様が分らなかったかはその一事でお分 りになりましょう。
一行は親類その他の人々に見送られ、またその風俗のおかしさに人が立止り見られて、矢代ま
で参りますと見送りの人々に別れ、その日は上田まで馬にも
翌二十七日は追々疲れる者も出来まして、駕籠に乗る人、馬に乗る人、代り代りに致しました。
その頃は人力車は一台もありませんから、多く馬に乗りました。只今の方は御存じありますまい、
馬の
翌三月一日早朝、坂本を出立致しまして、たしか
翌二日、一同送りの人々に付添われまして、富岡御製糸場の御門前に参りました時は、実に夢
かと思いますほど驚きました。生れまして
その日はそのまま部屋に居りまして、翌三日、いよいよ事業に就きますことになりまして、先
に入場して居ります人々は午前六時過ぎ頃その身の場所に参りますが、一番笛で部屋を出、二番
笛で入場致すことになって居ります。一番笛のならぬ先から工女部屋の出口に待って居る人が沢
山ありますが、その口より一足たりとも外に出ることは許しません。一番がなりますと、工女部
屋総取締鈴木様(一人、男子)か副取締相川様(男子)この御両人の内御一人と女の取締の御両
人先に御立ち、東七十五間
このようにして一同出ました後で、私共一行は前田万寿子と申す副取締の方につれられて、ち ょっと繰場に入れ御見せ下され、直に繭えり場に御つれ下され、その日から一同繭を選分けるこ とになりました。この繭置場は西でありまして、同じく七十五間二階建て煉瓦造りであります。
私共一同は、この繰場の有様を一目見ました時の驚きはとても筆にも言葉にも尽されません。
第一に目に付きましたは糸とり台でありました。台から
一同同場に入りますと、場内を見廻ります、高木と申す書生に引渡されました。広く高きテーブ
ルに大勢ならんで一心にえりわけて居りました内の古参の人が参りまして、私共をそれぞれ場所
に付けまして、えりわけ方を教えてくれましたが、これが中々
隣の人と一言でも話しますと、「しゃべってはいけません」としかられます。またベランと申
す仏国人が折々見廻りに参りまして、もし話でも致すところを見付けますと、「日本娘沢山なま
け者有ります」と非常に叱りますから、
その内段々暖かになりまして、蝿が沢山出て参りました。あまり
ここでちょっと申します。諸国より入場致されました工女と申しまするは、一県十人あるいは 二十人、少きも五六人と、ほとんど日本国中の人にて、北海道の人まで参って居ります。その内 多きは上州・武州・静岡等の人は早くより入場致して居られましたから中々勢力が大した物であ ります。この静岡県の人は旧旗本の娘さん方でありまして、上品でそして東京風と申し実に好い たらしい人ばかり揃って居りました。上州も高崎・安中等の旧藩の方々はやはり上品でありまし た。武州も川越・行田等の旧藩の方々は上品で意気な風でありました。さすが尾高様の御国だけ に、取締などは皆川越辺の人ばかりでありました。
さて長野県はと申しますと、実に入場者の多きこと二百名近くありまして、私共が一番後から 参ったように思われます。小諸・飯山・岩村田・須坂等の方々は中々上品でありました。すべて 城下の人は宜しいように見受けました。このように申しましたら御立腹になる方もありますかも 知れませんが、山中また在方の人は只今のように開けませんから、とかく言葉遣いその他が城下 育ちの人のようには参りません。何に致しましてもこのように沢山居りましてはその内に色々の 人がありますから、ちょっと行儀悪う御座いましても、あれは信州の人だ、また信州の人があん なことをしたこんなことをしたと中々やかましく申しますから、それを私共が見聞き致しますと 何とも申されぬほど恥かしく、またつらいように思いまして、私共一同は決して信州と申さぬこ とに致しまして、長野県松代と申して居りました。只今丁度皆様が洋行遊ばして同胞の行状など 藤し穣に申されるをつらくお思い遊ばすと同じ位かと存じます。それで、上州・武州の人は行儀 や言葉遣いが正しいかと申しますと、中々悪い人が沢山居りましたが、そこは役人方が多くその 辺から出て居られますから勢いが違います。決してはたの人が何とも申しません。実に恐ろしい ものであります。
高木さんから申聞けられましてから、一同一心不乱に勉強致しまして、その日の至るのを待っ て居りますと、いよいよ三月二十日頃山口県から三十人ほど入場致されました。私共の部屋は南 下部屋で総取締青木様の隣でありまして、応接室に向ってありますからたとい一人の入場者があ りましても直に分ります。殊に三十人ほどもありまして、その頃長州からおいでのことゆえ御様 子もよほど違います。袖も短く御着物が大かた木綿の紺がすりの綿入れ、帯も木綿の紺がすりが 多くありました。中にはずいぶん上等な衣服を着た方もありました。皆士族の方だと申すことで 中々上品でありました。それを見ました私共の喜びはどのようでありましたろう。
いよいよ翌朝は銘々繰場に参る下用意を致しまして、手拭など忘れぬように互に注意を致しま
して、やはり繭えり場に出ましたが、今にも繰場につれて行かれるかとそれのみ待って居りまし
たが、十二時前まで何の沙汰もありません。それからはばかりに参る風にてガラスから繰場の中
を見ますと、驚きますまいか、待ちに待ったるその人々は入場直に糸をとることになりまして、
皆々口付の教えを受けて居ります。私共は驚きが通り過ぎて気ぬけのしたようになりまして、直
にも泣出したい位でありましたが、繭えり場にも七八十人も工女が居ります、その中でさすがに
泣く訳にも参りません。その内に笛が鳴りまして昼食に帰りましたが、中々食事どころではあり
ません。皆中合したように私の部屋に大勢同行の人々が参りまして、皆泣いて居りました。こん
な
しかし私共一行はどのようなつらい悲しいことがあっても国元へは通信せぬことにして居りま した。只でさえ遠国へ手放して置く両親兄弟姉妹が中々心配して居られるだろうから、珍らしい こと、面白いこと、場内の広大なこと、規則のきびしいことなどのみを報知して、少しでも喜ば せ且つ安心致させるようにとたがいに戒め合って居りましたから、この事件も別して悲しく感じ ましたのであります。
翌日になりますと、一行の内年長者なる東井とめ・小林高を初めそろそ杢目回木さんに過日の約 束の違いしことを尋ねました。私もこのように申しました。
「先日、山口県の方が御入場になり次第繰場へ出して下さると仰せられましたが、いよいよ御入
場になりまして、一日も繭えりもなされず、皆糸とりにおなりなされましたは、何故山口県の方
ばかり直に糸をおとらせなされまする御都合か伺いとう御座ります。私共は国元を出立致します
時、父より申聞けられたことも御座いますから、その御様子次第
と申しますと、高木さんも前から心配しておいでの様子で、「お前方の申されるのは実に
四五日立ちますと、一行の内七八人指をさされました。(ここでちょっと申しますが、何れへ 代りますにも決して口で申付けるということはありません。ちょっと手招きをして指をさして、 つれ行く人は先に立ち、さされた当人はその人の後から付いて参るのであります。)その時の皆 の顔と申しましたら、とても口も結ばれませんようでありました。それより繰場に入りまして、 皆糸揚げにされました。その頃富岡製糸場の糸揚げの人は大かた幼少な者でありましたが、また 私共のような年の人も居りました。通例は十二三歳より十四五歳であります。
その頃
さて弟子ばなれを致しまして、いよいよ一人で揚げますようになりましたが、その切れること
はお話になりません。何故と申しますと、糸とりが切っても一向つなぎません。殊に
そのように切れますところから、私は常々至って神信心を致しまして、毎朝人より一時間位早 く起きまして、両親兄弟姉妹その他の心願を一朝もかかさず祈念致して居りましたから、このよ うな時も神の御力を願うより外はないと存じまして、糸を揚げながら一心不乱に大神宮様を祈っ て居りまして、南無天照皇大神宮様この糸の切れませぬよう願いますと、このことを申続けまし て、少々切れぬことがありますと全く神の御助けと信じまして、その間は大枠と大枠の間の板に 腰をかけまして、糸を見つめて両手を合せ指と指とを組み、大声に申しつづけて居ります。しか し蒸気の音が実にひどう御座いますから、そばに居る人にもわかりませんが、毎日毎日そのよう に致して居りますから、何を申して居るかと糸をとる人があやしんで後をふり向いて見て居りま す。
そして糸をしめしに、明釜の所へ参ってしめすのでありますから、私も明釜へ参ってしめして
居りますと、その次の釜に静岡県の人で旧旗本の今井おけいさんと申す人が居られまして、「あ
なたは毎日何を言っておいでなさるのです」と申されましたが、人に申すべきことでありません
から私は笑って居りましたが、しめしに参る度ごとにやさしくお聞きになります。あまり親切に
お尋ね下さいますので、つい私も申さぬ訳にも参りませんから、「実は糸が切れて切れて困りま
すから、大神宮様を信心して居るのであります」と申しましたら、非常に気の毒がって下さいま
して、「私が切れぬように骨を折ってとって上げるから揚げて下さい」と仰せになりまして、と
って下さいました。そのことを隣釜の人にもお話しになりまして、その人も気を付けてとって、
私を呼んで揚げさせて下さいました。その他にもそのようにして下さいましたから大層楽になり
まして、これも
その内に或日指をさされまして、三等台の北側につれられまして、いよいよ糸とりのお仲間入 りが出来ました。
その日私に糸のとり方を教えてくれた人は西洋人より直伝の人で、入沢筆と申す人でありまし たが、実にやさしく教えてくれました。退場の時などは私の手を引き妹の如くにしてくれました。 私は只さえ嬉しく思いますに、また師と敬うその人は右の次第でありますから実に喜びまして、 皆信心の徳だと存じまして、その人を私も尊敬して居りました。
その翌日その人は何か止むを得ぬことで休業致しましたから、代りに教えて下さいました方は 安中藩の松原お若さんと申す方で、私と同年位で美しいやさしい方で、やはり入沢と申す人の如 く私を愛して下さいました。
その日とその翌日お若さんに習いまして、弟子ばなれを致しまして、新釜と申しまして段々三 等の下の方の釜が明きまして其処へ移されました。
その頃教えてくれた人の所へ礼に参ることでありました。私は入沢さんと松原さんと両方へ参 りました。すべて師弟の間は互に親しみまして、弟子が昇給致しますと非常に喜んで下さいます ほどでありますから、なるべく出入にも見付けて手を引合います。一日の御弟子ではありますが、 入沢さんもやはり私に出合いますと手をお引きになります。私は初の師でありますから殊に敬っ て居りました。
私の父が徴兵を高崎の営所へつれて参りまして、帰りに場内視察並びに一行動静見聞のため四 月初旬頃参りまして、尾高様に親しく御、面会致しまして、追って国元に製糸場創立のため諸事取 調べたき旨願いました。尾高様は快く御承知下さいまして、場内は申すまでもなく残らず御案内 下さいまして、拝見致しまして、書類等までお貸し下さいました。三日間滞在致し、写して帰り ました。(従者山岸広作と申す者にも手伝いさせて写しました。)
繰場を尾高様が御つれ下さいます。父がつれて参りました従者山岸広作が結髪に洋服を着用致 して居りましたので、皆内々笑いまして、これには私も閉口致しました。笑われますのも実に尤 もなることと存じます。中廻りの書生などは皆洋服ばかりで居りますが、さすが仏国人と日々一 緒に勤めて居りますから、その姿勢の正しいこと、えり付のホワイトシャツなどで一点の汚れも ありません。髪は美事にわけて水の垂る如くに見えて居ます。只今開けましたこの東京へそのま ま参られましても決して見苦しくはあるまいと折々思います。
さて父の滞在中日曜日がありまして、一行十六名父の旅宿に参りました。国元の伝言また様子
など承り居りますと、父が柏餅を山の如く出してくれました。何か日頃甘い物もろくろくいただ
きませんから、一同大喜びで皆尽してしまいました。後年に至りましても折々、お前たちが柏餅
を沢山食したには驚いたと笑いました。そこで一同は国元の親たちや兄弟に何ぞ送りたいと申し
まして、寒国だから珍しかろうと申しまして
私共一行は私と同時位に皆糸とりになりました(父の来場後)。父よりも製糸場創立のことも 承り、また出精致しますよう呉々も申聞けられまして、一同実に勉強して居りました。一行一同 一心に一ノ宮大神宮様を信心致しまして、日曜日などは一ノ宮へ参詣致して、業の上達致します ように祈って居りました。夜分互に行き来致しまして、今日はどの位とれたとか糸が切れたとか、 実に余念なく従事致して居りました。
| 仏国人 | 男 | ブラット、ベラン |
| 女 | クロレンド、マリー、ルイズ |
右の西洋人は上から下まで見廻ります。
| 日本人 | 男 | 国重 某 | (山口県) | 弘 某 | (山口県) |
| 白根某 | (山口県) | 佐伯木次郎 | (山口県) | ||
| 三好某 | (山口県) | 長野某 | (山口県) | ||
| 村非某 | (山口県) | 高木某 | (静岡県) | ||
| 中島某 | (静岡県通訳兼) | 某名失念 | (静岡県) | ||
| 児玉某 | (石川県) | 深井某 | (高崎) | ||
| 村瀬某 | (長野県上田) | 稲垣某 | (長野県小諸) |
右は一人にて二十五釜受持、繭えり場・糸揚場見廻りもこの内。
日本婦人中廻り
尾高 勇 この方は尾高様の令嬢、只今は渋沢男御子息の令夫人の筈に有之。
青木 けい 総取締青木たい様の御孫
森村 時 (武州) 畑銀 (七日市)
太田たい (武州) 笠間愛 (武州)
轟 とね (武州) 若林若(高崎)
磯貝某 (上州小幡) その他の姓名忘れました。
右は五十釜に三人、二十五釜に一人ずつ。一人は二時間ごと位に交代。一釜を三人で代る代る
に糸をとって居ります。男女二人二十五釜の前を行き来して、糸のむらになりませんように見て
歩きまして、太過ぎても細過ぎても切れてしまいます。湯かげん、しけの出し方、
たしか六月頃かと存じます。
皇太后皇后両陛下行啓になりますことに相成りまして、その前工女一同紺がすりの仕着せと小
倉赤縞の袴が渡りました。一同はこれを着て当日業を致すことに極まりました。それで工女一同
も皆思い思いに
その女官の方が
その夜部崖長が部屋ごとに廻りまして、「今日は女官の方を見て皆さんお笑いになりましたと
申すことで、お役所から大そうお小言が出ました。明日は福助さんのような方がおいでになりま
すが、万一笑った人がありますと
いよいよ当日となりました。場内は実に清潔に掃除致してあります。その頃は三百人残らず揃
うて居りまして、下の台のはずれ東入口の所に
いよいよ正門(これは日々入場致します入口のことであります)よりブリューナ氏尾高氏御先
導申Lげまして、三等台のはずれ繭えりを致して居る所までしずしずと御行啓になりまして、繭
を御覧になりました。この時まで蒸気も車も止めてありましたが、其所へ御行啓になりますと同
時に、蒸気を通し車も運転を致しました。それまで工女一同
さて両陛下の御衣は、藤色に菊びしの織出しのある錦、御一方様は萌黄に同じ織出しのように
拝しました。御袖は大きく太き白のじゃばらで、御袖口に飾縫いがしてありました。丁度親王様
の御衣のようでありました。緋の御袴を召し、金の御時計のくさりをお下げになりまして、御
それよりまた元の正門の方へ御戻りになります時、下から二切目の北側の角から五六釜目に私 はその頃居ました。その後釜に仏国人のアルキサンと申す人が三釜の人をわきによせてその場に 入りまして、糸を繰ります所を御覧に入れました。二十分位その前に、両陛下御立ち遊ばされま して、御覧になりました。私はその頃未だ業も未熟でありましたが、一生懸命に切らさぬように 気を付けて居りました。初めは手が震えて困りましたが、心を静めましてようよう常の通りにな りましたから、私は実にもったいないことながら、この時竜顔を拝さねば生涯拝すことは出来ぬ と存じましたから、能く顔を上げぬようにして拝しました。この時の有難さ、只今まで一日も忘 れたことはありませぬ。私はこの時、もはや神様とより外思いませんでした。六百名から工女が 居ますから、ずいぶん美しいと日頃思った人が御座いますが、その人の顔を見ますと、血色が土 気色のように見えまして、実に驚きました。これより以上申しましては不敬に当りますから見合 せます。
それより二等台より一等台に入らせられまして、西繭置場に便殿が御座いましたから其処に御
休憩になりました。ブリューナ氏夫妻
ブリューナ氏の夫人は実に美しい人でありました。ふだん一日置き位にブリューナ氏と手を引 合って繰場の中を上から下まで歩みますのが例でありました。服装はいつも美事でありましたが、 御行啓当日の服には実に目を驚かせました。あれが大礼服と申しますのか、胸と腕とは出しまし て、白のレイスのような品に桜の花のようなる模様がありまして、その下にも同じような品で二 枚重ね、一番下に桃色の服を着して居ります。その色が上まですき通りますから、その美しい 神々しいこと何とも、言いようがありません。裾は六尺ほども引いて居りました。そして白ビロウ ドのような帯を結んで居ましたが、丁度日本の男子のはさみ帯のように並べて立てたようにして 居りました。顔には網をかけ、襟飾・腕飾・首飾を致しまして、帽子は白い羽根その他の飾が付 きまして、美事なことは筆にも尽されませぬほどでありました。
クロレントと申す女教師は仏国の貴族の娘さんだと申す話でありましたが、その日の服装は緋 ラシャに縫取りをした上衣に袴も実に美しいのを着て居りまして、やはり赤の帯をおはさみのよ うにして居まLた。その他の西洋人は皆ふだん着のままで居ました。
アルキサンは女の教師の内で第一番糸は上手だと申すことでありますが、明治五年の暮の頃、 自分が教えた工女から蜜柑を貰いましたことがブリューナ氏に知れまして、直に場内に入ること を禁ぜられまして、ブリューナ氏の小児の守をして居りましたが、御行啓に付きまして許されま したと申すことで、その日から出場致しまして、その後は折々工女の釜に付きまして糸を繰りま したが、実に落着いて履りまして上手でありました。
しばらく御休憩の後御還啓になりました時は、工女一同場内の広庭に出まして御見送り申上げ ました。この時私共は初めて、騎兵が御供して参りましたので当時の兵士を見ました。
両陛下竜顔うるわしく見上げ奉りました。
御還啓後、便殿になりました所を拝しました。色々飾り付けてありましたが、只今のように美 一事ではありませぬ。木で持えました長さ六尺ほど幅三尺ほどの平箱に花菖蒲が植えてありました 位なものであります。実にその頃はすべて質素なものでありました。
陛下より賜わりますとのことで、工男工女その他係り一同役人方まで御酒頂戴がありまして、 お肴は二三種で手軽な御料理でありましたが、諸役人方取締まで、今日は何をしても宜しい、芸 尽しをするようにと部屋部崖をお伝えになりまして、芸のある人は色々のことを致しました。そ の内に取締の方が、長野県出身の工女に、「お前さん方のお国には盆踊があるということだが、知 っておいでなら踊って下さい」と申されました。初めは皆引込んで居ましたが、余りおすすめに なりますので、四五人踊りますと、一人増し二人殖えて段々多くなりまして、二三十人踊りまし て、私も踊りましたところ、尾高様・青木様初め諸役人方大そうお喜びになりまして、工女たち も山の如く見物致して居ました。
たいがいにしてその日は止めましたが、これが元になりまして実に困ったことが出来ました。 東京その他より製糸場にとって大切な方がおいでになりますと、盆踊をしてお目に懸けてくれと 取締の方が申されます。嫌だと申せば後が心配になりますから、その度に引出されました。こん な馬鹿馬鹿しいことはありません。
程立ちまして、菊・桐の銀箔で御紋章の付きました御扇子を工女一同拝領致しました。只今に 実家の方に大切にして秘蔵致して置きます。
段々暑気が強くなりますに従いまして病人が沢山出来て参りました。洋医の申しますには、大 勢部屋にとじ込めて置くから病気になるのだ、夕方から夜八時半頃まで広庭に出して運動させる ようにと申しましたとのことで、毎夕広庭に出まして遊ぶことになりました。役人取締が付添い まして九時頃まで遊びます。
さあこうなりますと、また例の盆踊の御催促がしきりにありますから踊り始めますと、段々沢
山になりまして、他県の人まで加わります。一時実に盛んなことでありましたが、ここに競争者
があらわれました。山口県から参って居ります五十何人の方々でありました。信州の人が盆踊を
盛んにおどるから山口県の者も負けぬように踊るが宜しいと申されまして、毎日毎日休みの時間
に部屋部屋で下稽古をして居られましたが、その内に十分用意が調いましたと見えまして、夜分
庭に出ますと始めましたが、何を申すも人数が少う御座いますから、とても長野県の人に
さあこのようになりますと、庭はすきずき致します。何を申しましても長野県の人が二百名近
く居ることでありますから、役人方・取締・部屋長まで驚かれまして、部屋部屋を見廻りまして、
是非是非出ろと申しますが、皆お腹が痛いの頭痛がするのと申しまして、皆出ません。引出され
ましても直に戻って参ります。私の部屋は前々述べました通り青木様の隣でありますから、初め
は
しかし私は皆に申しました。「どう見ても山口県の踊は高尚でもあり、このようなことでつま らぬ争いをしたところで何の利益も無いことだから、私はこれから見物して、決して国の盆踊は 踊らぬ」と申しました。追々同意者がありまして、これから後、信州の踊は止めました。皆さん はさぞ岬獅いと思いましょうが、このようなことで憎まれたり争ったりして、第一の業にまで障 りましては両親に対しても済まぬと心付きましたから、山口県の方々に勢力を奪われましても、 私共は決して恥かしいとも何とも思いませんでした。今から考えましてもよいところで見切りを 付けたと思います。しかし引手のあると申すものは実に恐ろしいものと存じます。
私共一行の人々はその後も一心に勉強して居ましたが、ある日、河原鶴子さんが急に不快だと 申されまして、驚きました。その日は部屋に休んで居られましたが、急に足がひょろひょろする と申されましたから、翌朝病院に参られまして、診察を受けられますと、脚気だとのことで、そ の日頃から足は立たぬようになられましたから直に入院致されましたが、追々様子が宜しくあり ません。私は休みの時間ごとに見に参りましたが、二日目頃はよほど悪いように見受けました時、 私の驚きはとても筆にも詫葉にも尽されません。初め両人で参るとさえ申した位でありますから、 互に力になり合わねばなりません。私より年は四つ下で、大家に育ち、大勢の人にかしずかれて 居られましたことは私が能く存じて屠ります。
殊に脚気はその頃全快せぬとさえ申しましたから、私は泣く泣く部屋長の所へ参りまして、 「これから直に私はお鶴さんをつれて帰国致したい、碓氷峠を越せば薬をのまずに全快すると国 で申しますから、何とぞ願って下さい」と申しましたから、部屋長から取締に申出し、また病院 へも問合せになりましたが、帰国致さずとも決して命に別条はないと申されまして、その日から 私が看病することになりましたが、段々様子が宜しくありません。食事も進みません。第一足が 少しも立ちませんから、はばかりにも私が肩にかけてようようつれて参りまして、子供に手水を 致しますように後から抱いて居るのでありますが、何分私も年弱の十七歳、力もありませず、 中々骨が折れましたが、一生懸命で居りましたから格別告労だとも思いませんで、一日も早く全 快致されますよう朝夕神信心をして居りました。只今のように便羅でもありますと、病む人も看 病致す私もどのように楽でありましたろう。大小用の度ごとに互に骨が折れました。
が、それは未だ宜しゅう御座いますが、病人の食事は病室へ参りますが、私は自分の部屋へ三 度三度に参らねばなりません。病院は工女部屋の東の端の向うにあります。私の部屋は西の端に ありますから、七十五間と十間余、丁度八十五間余の所を往復致さねばなりません。私は行きも 戻りもいつも駆足で、食事致しますにも大急ぎでしまいまして、部屋の人達と話も致さぬように して戻りますが、待たるるとも待つ身になるなと申す諺の如く、病人は待遠で待遠でなりません から、お英さんはお部屋へ行って遊んでおいでなさるから手間がとれるの何のといつも申されま すが、私は実につらく思いまして、一人涙をこぼしたことが度々ありますが、思い直して、から だが自由におなりなさらず年も行かぬ人だから無理もないと、だましすかして慰めて居ります中 に、日数も段々立ちまして三ヵ月近くなりまして、少しは快くなられまして、入湯することにな りまして、湯殿までおんぶして参り、私も共々はだかになりまして抱いて入るのであります。友 だちがのぞきまして笑いましたが、私は笑うどころではありません。
まずこのようになられましたところで、尾高様青木様なども、横田英ばかり永々看病させては 気の毒だから、同行の中で代り代りに看病致しますよう、と申されました時の私の喜びはどのよ うでありましたろう。決して看病が苦労だからと申す訳ではありませんが、毎日出て居りまして さえ未熟なところを、何ヵ月も看病致して居りましては業の上達することが出来ません。その病 院から伸び上りますと、皆々笛の鳴ります度ごとに通行致しますのが見えますから、とかく伸び 上って見ますと、病人がそれを気にかけてむずかしく申されます。私はこのような心配をしたこ とはその時までには初めてでありました。
そこで同行の人々一週間交代と申すことに致しましたが、私は休みの時間ごとに見舞いに参り ますと、目に涙をためて喜ばれまして、私の参るごとにはばかりにつれて参ることにきめて居ら れました。馴れぬ人がおつれ申しますと、痛いとか工合が悪いとか、また人によりますと臭い臭 いと申しましたとか、それで私も、参らねばさぞ待って居られるだろうと心配になりますから、 一度もかかさず夜分まで参りました。
その内段々快方に向われまして、つかまり立ちの出来るようになられました頃、父君がおいで
になりまして、ついに帰国致されましたが、互に泣別れを致しました。そのお鶴さんは只今では
お雪さんと申されまして、
さて私共一行は皆一心に勉強して居りました。中に病気等で折々休む人もありましたが、まず 打揃うて精を出して居ります。何を申しましても国元へ製糸工場が立ちますことになって居りま すから、その目的なしに居る人々とは違います。その内に一等工女になる人があると大評判があ りまして、西洋人が手帖を持って中廻りの書生や工女と色々話して居ますから、中々心配でなり ません。
その内に、ある夜取締の鈴木さんへ呼出されまして段々中付けられます。私共は実に心配で、 立ったり居たり致して居りますと、その内に呼出されました。
「横田英 一等工女申付候事」
と申されました時は、嬉しさが込上げまして涙がこぼれました。
一行十五人(その以前坂西たき子は病気で帰国致されました)の内、たしか十三人まで申付け られたように覚えます。呼出しの遅れました人は泣出しまして、依怙贔屓だの顔の美しい人 を一等にするのだのとさんざん申して、後から呼出しが来て申付けられました時は、先に申付け られた人々で大いじめ大笑い、しかし一同天にも昇る如く喜びました。残った人は皆年の少い人 で、中には未だ糸揚げをして居た人もありました。月給は、一等一円七十五銭、二等一円五十銭、 三等一円、中廻り、一円でありました。
一等工女になりますと、その頃は百五十釜でありまして、正門から西は残らず一等台になりま した。私は西の二切目の北側に番が極まりまして、参って見ますと、私の左釜が前に申述べまし た静岡県の今井おけいさんでありましたから、私の喜びは一通りではありません。また今井さん も非常に喜んで下さいました。その日から出るも帰るも手を引合いまして、姉妹も及ばぬほど睦 しく致して居りました。この台の受持の書生さんは深井さんと申しまして高崎の方でありました が、私の父の心安く致しました同藩の玉川渡と申す人の夫人の甥の方だと申すことがその後分り ました。玉川の御子息がその深井さんにつれられて見物に参られた時私に目礼されましたので、 何国へ参りましても身元が分るものだと感心致しました。この台へ参りましてから業も実に楽に なりました。繭は一等でありますから大きい揃ったので、たちも宜しゅうありますから、毎朝繰 場へ参るのが楽しみで、夜の明けるのを待兼ねる位に思いました。皆同じことだと存じます。
父が富岡へ参りまして実地視察致しまして、製糸場を創立致しますにはとても工女ばかりでは
出来ぬことを見極めましたので、帰国後そのことを申しましてすすめました。その人々は海沼房
太郎田中政吉外二名の名を忘れましたが、七日市に宿をとりまして、日々御場所へ通勤致して居
りましたが、中々繰場に出る訳に参りません。繭置場その他の雑業に従事致して居りました。或
者は蒸気の火燃場その他枠はずし位までは致したように覚えますが、その後三四ヵ月で皆帰国致
しました。この海沼房太郎と申す人は六工社創立の際大里氏と共に蒸気機械の発明を致したので
あります。
追々寒くなりまして、もはや一月も間近くなりました頃、部屋には年中土焼の火鉢がありまし
て、三度三度に
ある夜、私共部屋の和田さん金井さん春日さん私とやはり南部屋の東はずれの二階部屋へ遊び
に行きまして、帰りに夜が
たしか十二月頃かと思いますが、ある日事業済み後部屋長から、今夜お賄にお芝居があるから
参って見るようにと申されました。大喜びで皆参りました。何個もあります大釜の上に舞台が出
来まして、花道は本式にかかって、賄方の番頭共が皆役者になりまして、かつらをかむり、衣裳
なども皆本物で致します。何と申す芝居か名は忘れましたが、白玉と申すおいらんが恋人と道行
の所で、色々
事業も十二月二十八日に終いになりまして、いよいよ三十一日になりますと、今夕はお年取だ
がお賄では何を出すだろうと申して居ました。いよいよ夕食に参って見ますと、虫のさした
私共入場致しました頃は、皆自分の部屋で食事を致しました。部屋の入口の上にかけ札があり
ます。その人数だけ御飯もお菜も置いて参るのであります。三度三度に
その時は取締の方々総出で見張っておいでになります。実に食し方が早くあります。ぐずぐず
して居りますととり残しになりますから皆急いで食してしまいます。一日と十五日と二十八日が
赤の飯に鮭の塩引、それが実に楽しみでありました。只今と違いまして上州は山の中で交通不便
でありますから、生な魚は見たくもありません。塩物と干物ばかり、折々牛肉などもありますが、
まず赤隠元の煮たのだとか切昆布と
尾高様は折々御飯を食べて御覧になりました。或時臭いの付きました御飯を配る所をお見付け
になりまして、賄の頭取が出されまして大騒ぎでありましたが、その後ようようお詫びが
一月も末の頃、国元よりの便りに祖父が大病でとても全快
その中に
その翌日国元から書状が届きまして、同月八日養生叶わず死去致したとのことで、私の愁傷は 筆に尽されません。年は七十五歳でありました。寿命は致し方ないとようよう諦めました。その 後母からの文に承りますと、衣類など新しいのを病中着せようと致しましても、これはお英が西 条製糸場(六工社のこと)を開いた時見物に着て行くのだと申して、何程だましても着なかった とのことで、私はひとしお涙がこぼれました。その前ついでがありまして、祖父の所へ私が砂糖 を送りました。それを大事に大事に致しまして、これはお英が送ってよこしたのだから大事にせ ねばならぬと申しましたとのことで、私をどこまで愛してくれましたことかと、只今に折々思い 出しまして涙がこぼれます。
三月末頃でありました。製糸場一同(工男は参らず)は一ノ宮へお花見に参りました。役人方、 取締一同、賄方、中々盛んなことでありました。尾高様をはじめその他(工女は申すまでもな く)おいでになりました。その前日北海道から工女が両名入場致しました。その人も参りまして、 その工女を送っておいでになりました役人もおいでになりました。ラッコの皮の外套を着て居ら れました。私共はその役人も工女も皆アイヌ人種かと思って居りました。後から考えますと決し て左様ではありませぬ。工女ばかりも五六百名、その他の人で七百名余も居りました。
その日は三味線もありまして、工女の内でひきます人も中には本手に踊ります人もありまして、
実に面白いことであり京した。工女も皆十二三より二十五六歳位までの者が揃って、ふだん日な
たに出ず毎日湯気に蒸されて居ますから、髪の
四月初旬頃、或日青木様へ私が呼ばれました。何御用かと参りますと、尾高様がおいでになり まして御申しに「お前方一同能く精を出して実に感心だ。この後も御場所の御為明年までも止っ て勤めくれるよう」と申されましたから、私は「国元へ製糸場の立ちますまではいつまでも御場 所に居り、一心に精を出しまする心得で御座ります」と申しましたら、「一同にもその由申伝え くれ」と申されましたから、直に帰りまして一行の人々に申しますと、皆同意でありまして、尾 高様も大きにお喜びになりまして、私の父へも御書状を下されまして、また表向き県庁へもお遣 わしになったとのことであります。(その御書状は只今も私が持って居ります。)
そのように申されましてお喜び下さいましたが、国元では埴科郡西条村字
四月末頃、私共一行の三四人と武州
鈴木様も一緒にお帰りになりましたが、教師方が私共を異人館に同道したいと申しましたら御 承知になりました。私共六七人皆一緒に参りまして、ビスケット・葡萄酒の御馳走になりました。 この時生れて初めてビスケット・葡萄酒など食しました。残って居りました教師が裁縫をして居 りました。只今考えますと、あまり広からぬ室に一同居りましたように思われます。此の後半月 ほど立ちまして、ブリューナ氏初め一同帰国致しまして、仏国人その他外国人は一人も居らぬよ うになりました。
一等工女の日々繰ります
その頃同じ切の南台東の角に武州押切と申す所から出て居りましたたしか小田切せんとか申す 十九か二十歳位な人が居りましたが、中々元気な人で、桝数も六七升とって居りましたが、或日 その人が八升上げました。これが富岡創業以来初めてと申す桝数でありましたから、受持書生 (佐伯木次郎)中廻りの工女も大喜びでありました。そのことが場内中の大評判になりまして、書 生たちが皆見に参ります。私共も驚いて居りました。私共台の受持書生深井さんが、今井さんと 私の間の前に立って見て居られましたが、やがてこのように申されました。「今井おけいさんも 横田お英さんも、向う台の小田切せんは八升とりました。お前さん方も八升とったらどうです」 と申されましたが、両人口を揃えまして、「中々私共が八升なんてとれません」と申しましたら、 深井さんは何とも申さず行っておしまいになりました。そこで私が今井さんにこのように申しま した。「おけいさん、おせんさんが八升おとりになりましたとて皆大騒ぎをしておいでになりま すが、私共とて同じ繭で同じ蒸気、一生懸命になったらとれぬこともありますまい。明日からや って見ましょうではありませぬか」と申しますと、今井さんも至極そうだと申されまして、いよ いよ明朝からと申す約束を致しました。
その頃一等台に居りますと、繭が宜しゅう御座います、手は馴れて参ります、実に楽でありま すから怠る訳ではありませんが、中廻りや書生が向うを向いて居りますと折々話も致します。殊 に心の合った両人並んで居りますことでありますから、はばかりに参りますにも二人づれで参り まして、ゆるゆる歩いて参りました。物を申されぬ時は両人横目の遣い合いを致しまして、中廻り りや書生に笑われたこともありましたが、その翌朝場に付きましてからは再人とも無言、決して 目遣いも致しません。はばかりにもなるべく参らぬように致しまして、是非参らねばならぬ時は 往復とも駆出して参る位に致しまして、一生懸命にとって居ましたから、かつがつ七升余とれま した。そのように致しまして、たしか三日目頃両人とも八升上りました。両人の喜びはどの位か わかりません。受持中廻り深井さんなどは実に喜ばしそうに両人の顔をにこにこして御覧になり まして、「能くとれました。これから毎日このようにおとりなさい」と申されました。
このことがまた場内中の評判になりまして、書生たちがどのようなことをしてとって居るかと
思われまして見に参ります。しかし別にとり方が違う訳ではありませぬ。ただ油断が無いのと糸
を切らさぬように用心を致しまして、湯を替えるにもとりながら追々さして、わざわざ手間を潰
して替えると申すようなことを致さぬように気を付けて居りますばかり、すべて無益な時間のか
からぬ用心のみ致しました位、その頃富岡では落繭並びに
夕方部屋へ帰ります時も嬉しくて嬉しくてにこにこして部屋に入りますと、皆帰って居られま して、第一番に和田さんが「お英さん、今日は八升おとりになりましたってネー」と申されまし たから、「はあ、どうやらこうやら八升とれました」と申しますと、「そんなにとれる筈がない。 七粒八粒付けてとったのに違いない。桝数を上げさせたがって深井さんも黙って見ていらっした のだ」と申されますから、私が「なんぼ深井さんだって七粒八粒付けさせて黙って見ていらっし ゃるものですか。西洋人だって目があります」と申しましたが、まだ色々申されますから、「そ んならそうにしてお置きなさい」と申しまして、私は相手になりません。色々争いまして青木さ んへでも聞えますと、どちらが勝ちましても松代工女の名に障りますから。その頃富岡では細糸 でありまして、厚繭揃いなれば四粒、薄繭が二つ或は三つ交りで、五粒付けてありました。六粒 になりましても三粒に致しましても切られました。その夜はそれで休みましたが、和田さんはご く負けることの嫌いな人でありましたから、その翌朝から一心に桝を上げることを思い立って居 られました様子で、その夜七升ほどとれたとか申して居られましたが、私は何とも申さず、自分 が八升つづけることばかり心にかけて居ましたから日々上げて居りました。
すると三日目か四日目頃、深井さんが私共の前に立って、時計台の角から二番目の和田初とい う人が今日八升上げたと申されました。私は心中おかしくておかしくてたまりません。夕方部屋 へ帰りましたが、私は何とも申しません。すると和田さんが、「ようよう今日こそは八升とれた」 と申されましたから、私は笑いながら、「それは結構でした。やはり七粒も八粒もお付けになり ましたか」と申しますと、ははと笑われまして、「あんなこと言って御免ネ」と申されました。 私がまた、「それだからあまりためさぬことを色々おっしゃらぬが宜しゅう御座います。私だか らよいけれど」と申しましたら、「これからもうあんなことは言わぬ」と申されましたので、私 も大笑い、両人でとり方に付き色々話合い、大笑いを致しました。
この日頃は追々一行の人々も皆負けることは嫌いでありますから、酒井、春日、小林高、福井、 東井、その他の人々にも八升とる人が沢山出来ました。その他の人々にも追々出来まして、余り 珍しくないようになりました。折節切れたりとり悪かったりして七升位になりましても、深井さ んが「怠けてはいけません」と申されます位でありましたが、しかし何業でも同じことでありま すが、負けぬ気が第一かと存じます。
業が上達致しますと、同じ枠をはずしますにも上達した人のを先に致します。書生はもとより 中廻りでもいつもにこにこして、何を頼みましても直に聞入れて下さいます。やれいこひいきだ の何のと申します人は、まず業の出来ぬ人の申すことかと存じます。我が業を専一に致しまして 人後にならぬよう続けて居ますと皆愛して下さるよう思われます。私共一行は野中の一本杉の如 く役人も書生も中廻りも一人も松代の人などありませんが、皆一心に精を出しましたから、上は 尾高様より下は書生中廻りに至るまで、皆台は違った所に居りましたが愛されて居りましたから、 帰国の折も皆さんから名残を惜しまれました。ちと申過ぎますかも知れませんが、少しも飾りの ないところであります。
五月末頃には六工社の工事もよほど出来致しましたとのことで、私の父から尾高様へその旨申 上げまして、製糸業一通りのこと覚えさせて頂きたく願いましたとのことで、私は六月一日頃か ら糸結びを致しますことを命ぜられました。同時に和田初子さんも申付けられました。
糸結びは多く年長の人または目の悪しき人等が致します。私などの年の人はありませぬから、
場内の人残らず目を付けて見て居ります。馴れました人の後から
この糸結びも中々
ちょっと大枠のことをお話し申しますが、富岡は一等二等繭は六角枠で三升がけであります。 六工社のよりよほど大きく寸が長くあります。三等繭は四角な大枠にかけます。やはり三升がけ でありますが寸は六工社のより少し短いようでありました。このようになって居りますから、少 しも間違いなどはありません。
糸をとりますより心配は少く中々面白う御座いました。和田さんと私は別々の人に習いました から、受持場所が違って居ます。遠くからちらちら見ゆる位で、一日一緒になることは部屋に帰 った時ばかりでありました。糸を結び、役所に納めて参ります、その間に四百廻もとります。骨 は折れますが中々楽しみのように思われました。それに教えて下さる人がまたやさしい人で、私 を実に愛して下さいました。
七月の初めに、いよいよ六工社創立に付き宇敷政之進、海沼房太郎両氏、松代工女一同御暇賜
わり
尾高様も非常に御喜びになりまして、早速御聞届けになりまして、申されますよう、「このよ
うな
それより私共一同役所に呼ばれまして、尾高様から御賞詞を賜わりました。
繰糸業格別勉励に付為褒賞金五拾銭下賜候事
製糸場印
右に姓名を書付けまして、大かた頂きました。一行の内病気勝ちの人は頂かぬ人も三四人あり ました。
その頃は日本国中に製糸場と申すは富岡の外ありませんから、ただ製糸場と申す印が押して あります。只今にその書付は持って居ります。
尾高様が、首尾
一行は待ちに待ったる製糸場が国元へ立ちまして、喜び勇んで種々用意を致します。中には何
分なれぬ少女が国元に居ります時は金銭は皆親の手より外自分に使用致しましたことない中に、
月給の一円七十五銭もとれば、何を買ってもあるように思いまして、銘々呉服屋から帯だの帯揚
だのと買いまして、また小間物屋などから色々
一同退場致します時に、銘々これまで心安く致しました人々の部屋へ暇乞いに参りました。皆
別れを惜しみまして、互に涙でろくろく言葉も出ぬほどでありましたが、残る人々は別して故郷
へ帰ります私共を見まして実に羨ましく思って居られました。わけて静岡県の今井おけいさんは、
私が帰ると申しました時から涙ばかりこぼして居られましたが、いよいよ退場の時、出口の所へ
後から駆出しておいでになりまして、桃の小枝を持っておいでになりまして、私の髪へ
私共の退場を、御取締の方々から部屋長方まで皆御祝し下さいまして、上々の首尾で退場致し ましたは、実に一同幸福なることでありました。私共もこれが御場所の見納めかと存じますと、 実に名残惜しく存じました。
その頃富岡製糸場は政府から立てて居りますので、上は尾高様より下は市中の人まで御場所 と敬って申して居ました。いかに開けませんかはこの言葉でもお分りになりましょう。その 他私が書きます言葉はその頃のままにわざわざ致して置きますから、その御つもりで御覧を 願います。
その日は青木屋に一泊致しまして、市中の見納めに銘々遊歩致しまして、翌朝同地を出立致し
ました。尾高様もあのように仰せられをとだから、せめては高崎でも見物さして上げると宇敷
象申されました。実は東京見物でもさせて上げるつもりなりしが、思いよらぬ皆様のお買いが
かりのためとても今急に
さて僅か一ヵ年余りの間に開けまして、もはや人力車が富岡町に沢山ありまして、それに一同
乗りました。折悪しく途中から大雨になりまして、
しかし高崎に着致しました頃は晴れまして、同地の知人(富岡に出て居た工女にて帰宅した人々)
も幾人か宿屋へ尋ねくれまして、同地にて糸を繰り居る所も見に参りましたが、皆七輪で炭火で
ありました。兵営なども見物致しまして、その日は同地に一泊致しまして、その翌目は坂本に泊
り、翌日たしか碓氷峠を越しましたが、段々旅費が不足になったと申すことで、皆
その翌日は終生忘れぬ宿泊であります。宿は信州田中宿の家号は忘れましたが見るもいぶせき
宿屋に泊りました。家は
宇敷氏は高崎から先に帰られまLた。金子を持って来ると申されたとのことであります。その 宿に泊りました時は、もはや宿料に不足を生じましたとのことで、一行の内何ほどでも持って居 る人は貸してくれと申されまして、銘々持合せを出してやりました。私なども一銭も残さず出し ました。そのようにして翌日は上田で昼食の時は、裏通りのちょっとした茶屋に入りまして、外 に一同休んで居りまして、迎いに参られた人が途中まで金子持参の人の迎いに出ましたら、よう よう道で行逢いましたとのことで、それで払いをして、その日は板城宿に一泊致しまして、翌早 朝矢代本陣柿崎へ着致しました。
認 めましてはそのようにもありませんが、道中旅費不足のため、宇敷、海沼氏は申すまで もなく、一同の心配はとても筆に尽くされませぬ。只今なら電信為替で直に間に合いますが、 実に開けぬ時代のことは、只今の方は御存じありません。
それより本陣で風呂を沸かさせ、銘々湯に入り、皆髪を結い、上手に結う人は幾人も結ってや り、湯に入り、富岡仕込みの厚化粧致します。一行十四人の仕度、中々手間がとれます。
富岡では化粧は女子の
身嗜 みの一つとして許されて居ました。毎夜湯に入り、皆おしろいを つけます。つけぬ人は却って嗜みが悪いと申されます位でありました。
宇敷氏、岸田氏等、馬で迎いに参られまして、早く早くと申されました。また銘々の家からは 皆力に応じた新しい衣類帯等皆本陣まで持たせてよこされましたが、中々一様に参りません。そ こで私が申しますには、「お宅から折角お遣わしだけれど、品に不同があっては面白からず、誰 もよき物着たいは同じことだから、一そうお仕着を揃って着て、富岡で拵えた唐縮緬友禅の帯 を締めて行けば、良きも悪しきも無くて宜しかろう」と申しますと、中には不服の人もありまし たが、大勢その方がよいとのことで、皆一同紺がすりに唐縮緬の帯を締めました。
ようよう仕度も出来ましたので、いよいよ出発致すことになりました。
一行一同柿崎の玄関より広庭に出、門前に早朝から待たせて置きました人力車に乗りました。 一行十四人に付添人三名都合十七名車に乗りました。その頃至って人力車が少くありましたので、 坂城矢代松代とこの三ヵ所の人力を早朝から午後二時過ぎまで止めて置きましたのであります。
さて
私は真先で実に間が悪う御座いますから洋傘で顔を隠して居りましたが、
そこで初めは松代学校へ着と申すのでありました。その頃役場がありましたから。しかしあま り時間が遅くなりましたので、やはり私の宅(代官丁横田)へ着致すことになりまして、一同無 事に着致しました。一行の父兄親族皆道まで迎いに出て居られまして、ひとまず横田に落着きま した。待受けの用意も出来て居りましたから、ちょっと休足致されまして、銘々自宅へ引きとら れました。私などは両親姉妹兄弟その他親族知己に久々で面会致しまして、実に嬉しく存じまし たが、この先が心配でたまりませんでした。
これより六工社創立に付きましてお話を致しますが、まず一段落を付けまする。
穴かしこ
この書は当夏初めより思い立ち、書始めましたが、日々家事向の用多く、殊に人出入の劇しき こととて隙がありません。折々深夜人静まり後一枚二枚としたためましたから、書落としが沢 山にあります。どうぞ御判じ下さいますよう願います。
ようよう十二月十七目夜、したため終り。
お笑草にちょっとしたためて置きます。
私共富岡へ参りました頃は未だ郵便がありませんから、毎月東京へ参ります飛脚に頼んで、手
紙や品物を銘々の家から送られました。私共も手紙を出します時はその人に頼み、または国元の
人が見物に来た時など一同出すのでありましたが、能くは覚えません、或時私の父から郵便で手
紙が参りまして、五厘の切手が四つ貼ってありました。私はこのような結構なことが始まったの
かと大喜びで、賄方の女中に尋ねますと、当町にも出来たと申しましたから、私一人で出すのは
惜しいものだと思いまして、一行の部屋部屋を知らせて歩きまして、「私は今日郵便とやら申す
物で手紙を出すから、一人で出すのも惜しいから皆さんもお出しなさらぬか」と申しますと、皆
皆大喜びで、我も我もと十六人大方お出しになりましたのを私が一包にして、女中のお大さんと
申すに頼みまして、私が十銭札を持たして八銭お釣が来るだろうと思って居ますと、やがて女中
が帰って来て、「切手のおあしはあれで丁度よかった」と申します。私は父から二銭で来たのに
十銭とはちと不思議だと思いまして、「この頃国元から来た手紙に五厘の切手が四つ貼ってあっ
たが、どういうせいだろう」と申しますと、その女中が大腹立てて「使を仕てやったり疑られた
りしちゃあ、あったせんぎでない」と申しますから、ようようなだめましたが、私は心中不思議
で不思議でたまりません。その次の日曜日に外出致しました時、その郵便を出す店へ参りまして
尋ねますと、目方次第で段々高くなると申されまして、ようよう分りましたが、郵便銭は私が出
し損を致しまして、この後はなるべく紙の薄いのへしたためました。折々一人で笑いますが、実
に開けぬ時には色々
私共一同は明治七年七月七日故郷松代へ着致しまして、その翌日は宅に居りましたが、その翌
日九日
機械その他を見ました。兼ねて覚悟のことなれば別に驚きも致しませぬ。却って
翌十日は宅に居りまして、その翌七月十一日いよいよ初製糸にかかりますので、私共仲間六七
名参りまして、
金井氏では夕方になりまして、私が右の有様でありますから大そう驚かれまして、早速実家へ
知らせて下さいまして、母と姉が参ります。医者が参りまして診察致しまして、これは「傷寒」
だと申されましたとのことであります。金井氏方では御家族総がかりで御看病下さいまして、そ
の上夫人の姉君までおいでになりまして、実に実に十二分の御看病下さいました。お蔭にて四五
日立ちますと少々快方に向いましたとのことで、夜分
私の病気も幸い人に伝染も致しませんで私一人ですみましたのは実に仕合せでありました。只 今と違いその頃は予防と申すことは存じません。皆一緒の所に居りましてその場で飲食致して居 りました。只今思いますと実に恐ろしい位であります。
さて六工社開業式当日、私共一行が富岡退場致します時尾高様より宇敷氏へお渡しになりまし た松代工女等級が発表されたとのことで、同行者の両三人私の所へ見舞いかたがた知らせに来 て下さいました。その等級左の通り。
二等工女
横田 英 和田 初 小林 高 酒井 民
三等工女
福井 亀 春日 蝶 その他
殊に驚きましたのは、富岡でおおかた三等で居りました人が四等になって、私などが二等殊に筆 頭でありましたから、嬉しいようなまた気の毒のような気が致しました。
その人々から承りますと、下った人は皆泣いて居られたと申すことでありました。私は病気の ため開業式に出席出来ぬとて泣いて居りましたが、その時初めて何が幸いになるか分らぬと思い ました。私も出席致して居りましたらさぞさぞ下った人たちが気の毒であっただろうと存じます。 殊に私が筆頭に居ますから慰める言葉がありませぬ。また下った人たちも私を憎らしく思われる だろうと存じます。まずまず病気が却って仕合せであったと心中喜びました。
私が思いますには、四等に下った人などは決して業で下った訳ではありませぬ。たとい怠けた
と申す訳でなくても病気その他で休業の多くあった人のように思われます。私などの筆頭に居り
ますのもこれと同じことで、人様より業が上達致して居ったと申す訳ではありませねが、一心不
乱に勉強致して居ただけは決して人様より後には居らなかったと自分で信じて居りました。しか
し一番になって居ろうなどと申す自信もまたありませんでした。元より同行者は皆
しかし糸目と
その後海沼氏が参られまして、実はお渡しになります時は、「この等付は開業式まで決して開
くことはならぬ。その前に開くと女子のことだからどのような騒ぎをするか知れぬ、富岡へ帰る
の引くのと申すと面倒だから」と仰せられたから、当日までその儘にして置いたと申されました
が、尾高様と申す方はどこまでお届きになった方やらと実に