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タイムマシン

The Time Machine

ハーバート・ジョージ・ウェルズ 著

翻訳: 山形浩生<hiyori13@alum.mit.edu>


pdf版はhttp://cruel.org/books/timemachine/timemachinej.pdf
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© 2003 山形浩生
本翻訳は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下でライセンスされている。同一条件のもとで訳者および著者にたいして許可をとったり使用料を支払ったりすることいっさいなしに、商業利用を含むあらゆる形で自由に利用・複製・改変が認められる。(「この版権表示を残す」んだから、「禁無断複製」とかいうのはダメだぞ)

プロジェクト杉田玄白 正式参加作品。詳細はhttp://www.genpaku.org/を参照のこと。


目次

第 1 章
第 2 章
第 3 章
第 4 章
第 5 章
第 6 章
第 7 章
第 8 章
第 9 章
第 10 章
第 11 章
第 12 章
エピローグ


1.

 時間旅行者(と便宜上呼んでおく)はわれわれにとっては難解な事柄を述べ立てていた。その灰色の目は輝き、きらめいて、そしていつもは青白い顔も紅潮して生き生きとしている。火が明るく燃え、銀の百合の中の白熱光からの柔らかい放射が、われわれのグラスの中をきらめきながらたちのぼるあぶくをとらえている。われわれの椅子は、かれの発明品なので、単に漫然と座られるにとどまらず、われわれを包み込み愛撫して、そこにはあの思考が厳密性の束縛を逃れて優雅に奔走する、晩餐後の豪華な雰囲気があった。そしてかれは――論点を細い人差し指で印しつつ――われわれが座ってこの新しいパラドックス(とわれわれが思ったもの)についてのかれの真剣さと活力について、怠惰に感嘆するのを前に、このようにして説明してくれたのだった。

「わたしの話に慎重についてきてほしい。ほとんど全面的に受け容れられている観念をいくつか覆さざるを得ないでしょう。たとえば学校で教わった幾何学は、ある誤解に基づいているのです」

「われわれの手始めとするには、それはいささか話がでかくはありませんかね」と赤毛の議論好きなフィルビーが述べた。

「合理的な根拠なしに何かを受け容れろと要求するつもりはありません。あなたたちはじきに、わたしが必要なだけのことを認めることになるのですし。みなさんはもちろん、数学的な線、厚みなしの線は本当の意味では実在しないということはご存じですよね。そこまでは教わりましたか? 数学的な面もそうです。こうしたものはただの抽象概念です」

「それはそのとおり」と心理学者。

「同じく、長さと幅と厚さを持つだけの立方体も現実には存在し得ません」

「それには反対します」とフィルビー。「固体はもちろん存在できますよ。あらゆる現実のモノは――」

「ほとんどの人はそう考えます。でもちょっと待ってくださいよ。瞬間的な立方体は存在できるでしょうか?」

「よくわかりませんが」とフィルビー。

「ちょっとの時間すら保たない立方体は、本当に実在しているといえますか?」

 フィルビーは考え込んでしまった。時間旅行者は続けた。「明らかに、すべての実体は4つの方向に延長を持たなくてはなりません。長さ、幅、厚さ、そして――期間です。でも肉体の自然な弱点(これについてはすぐに説明しますが)によって、われわれはこの事実を見過ごしがちなのです。実際には次元は4つあって、そのうち3つはわれわれが空間の3方向と呼ぶもので、4つめが時間です。でも、最初の3つと最後の時間との間に、実在しない区別をする傾向があります。なぜならわれわれの意識は絶え間なく時間にそって一方向に、人生の始まりから終わりへと移動するからです」

「それは」とあるとても若い男が、ランプで葉巻に火をつけ直そうとしてスパスパと痙攣じみた努力をしつつ述べた。「それは……非常にはっきりしていますね」

「さて、これがかくも徹底して見過ごされているというのは、実に驚くべきことです」と時間旅行者は、ちょっと陽気さを増して続けた。「実はこれこそが4次元というものなのです。ただし4次元の話をする人の中には、自分が時間のことを語っているとは気がついていない人もいますが。それは単に、別の見方をした時間でしかないのです。時間と、空間の3つの次元との間には、なんらちがいはありません。唯一の差は単にわれわれの意識が時間に沿って動くというだけです。でも一部の愚かな人々は、この考え方を変な捉え方をしていますよ。この4次元について、そういう人が何を語っているかお聴きになっていますよね?」

わしは聞いとらんぞ」と地区長官。

「単にこういうことです。空間は、われらが数学者諸君によれば、3つの次元を持つかのように言われています。長さ、幅、厚さといってもいいでしょう。そしてそれは常に、お互いに直角に交わる3つの平面を参照することで定義できる、と。でも一部の哲学的な人々は、なぜことさら3つの次元なのか、と考えました――ほかの3平面と直角に交わるもう一つの方向があったっていいじゃないか?――そして4次元幾何学を構築しようとさえしたのです。サイモン・ニューコーム教授は、これをニューヨーク数学会にほんの一月ほど前に提案していましたよ。2次元しかない平面上に3次元固体の絵を表現できますね。だから同じようにして、3次元の模型によってかれらは4次元の固体を表現できると考えているのです――もしその透視法さえつかめれば、というわけです。ご理解いただけましたか?」

「まあなんとか」と地区長官はつぶやいた。そして眉根をよせて、長考状態に入り込み、その唇を神秘的な呪文を唱える者のように動かしていた。「うん、わかったと思う」しばらくしてかれは、突然うって変わったように明るく述べた。

「では言わせていただきますが、このわたしも4次元幾何学についてはかなり前から研究していたのです。いくつかの結果は奇妙なものです。たとえば、ここに8歳の男性の肖像があります。こちらは15歳、こちらは17、こちらは23、という具合です。これらは明らかに、いわば断面図です。固定され改変不可能な4次元の存在の、3次元表現というわけです」

 これが適切に理解されるだけの間をおいて、時間旅行者は続けた。「科学的な人々は、時間が空間の一種だということをよく知っています。ここによくある科学的な図があります。気象記録ですな。いまわたしが指でなぞっている線は、気圧計の動きを示しています。昨日はとても高く、昨晩は下がり、今朝は上がって、じわじわとここまで上昇しました。もちろん水銀は、一般に認識される空間の次元のどれかに沿って、この線をたどったわけではありませんよね。でも、それはまちがいなくこの線をたどったわけです。したがってこの線は、時間次元に沿ってのものだったと結論せざるを得ません」

 医師は、暖炉の石炭を凝視しながら述べた。「しかし、もし時間が空間の4番目の次元にすぎないのであれば、なぜそれは、いまも昔も、何かちがったものとして受け取られていたのでしょうか? そしてなぜわれわれは、空間の他の次元のように時間の中を移動できないのでしょうか?」

 時間旅行者はにっこりした。「空間の中を自由に移動できるというのは本当ですか? 左右にも行けます。前後も確かに自由自在ですし、人は常にそうしてきました。だから二次元でわれわれが自由に動くことは認めます。でも上下はどうでしょう? 重力がわれわれをそこで制約します」

「そうとはいえない。気球があります」と医師。

「でも気球以前は、けいれんじみたジャンプや地表面の不均等以外では、人は垂直方向を移動する自由がありませんでした」

「それでも、ちょっとは上下に移動できましたよ」と医師。

「下るほうが上がるより簡単ですね。遙かに簡単だ」

「でも時間の中ではまったく動けない。現在からは逃れられない」

「おことばではありますが、そこがまさにあなたのまちがっているところなのです。全世界がまちがっているのも、まさにそこなのです。われわれは常に、現在の動きから遠ざかっているのです。われわれの意識存在は、非物質的で次元を持ちませんが、ゆりかごから墓場まで一定速度で時間次元に沿って移動しているので。ちょうど、われわれの存在が地表面から80キロのところで始まったとしたら、われわれが下へ向かって移動するのと同じようにね」

「でも大きな問題点がありますよ」と心理学者が割り込んだ。「空間ではすべての方向に動けますが、時間の中では動き回れないじゃありませんか」

「それが我が偉大な発見の難点でした。でも、われわれが時間の中を動き回れないというのはまちがっています。たとえば、わたしがある出来事をとても鮮明に思い出していたら、わたしはそれが起きた瞬間に戻っているわけです:文字通り、意識がお留守になるわけですね。一瞬、時間を飛んで戻っているわけです。もちろん、長期にわたって戻ったままとなる手段は持っていません。野蛮人や動物が、地上2メートルに居続けられないのと同じことです。でも文明人はこの点で、野蛮人よりも成果を挙げています。文明人は気球に乗って重力に逆らえますし、だから最終的には、時間次元に沿って自分の流れを止めたり、それを加速したり、あるいは向きを変えて逆行できると期待すべきでない法もないでしょうに」

 フィルビーが口を開いた。「まったく、そこまでいくとまるっきり――」

「なぜダメなんです?」と時間旅行者。

「道理に反してる」とフィルビー。

「何の道理です?」と時間旅行者。

「議論で白を黒と言いくるめることはできるが、わたしは絶対に納得しないでしょう」とフィルビー。

「そうかもしれません」と時間旅行者は述べた。「でも、わたしが四次元の幾何学について調べだした狙いはわかってきたでしょう。昔、わたしはばくぜんとある機械の着想を――」

「時間の中を旅行する機械ですか!」と非常に若い男が叫んだ。

「運転手の決めたとおり、時間でも空間でも構わずにどんな方向へも旅行する機械の着想を得たのです」

 フィルビーはそれを笑い飛ばした。

「でも実験による証明があるんですよ」と時間旅行者。

「歴史学者には実に便利でしょうなあ」と心理学者が指摘した。「過去に戻って、たとえばヘイスティングスの戦いについての定説を確認できますぞ!」

 医師が述べた。「目立ちすぎると思いませんか? われわれの先祖は、時代錯誤をあまり大目には見てくれませんでしたから」

「ギリシャ語を、ホメロスやプラトン自身の口から習えるかも」と非常に若い男性が考えた。

「そうなったら、学位予備試験についてさぞかし根ほり葉ほり聞かれることでしょう。ドイツの学者たちがギリシャ語を大幅に改良しましたからな」

「そして未来のこともある。考えてもごらんなさい! 全財産を投資して、複利で増えるようにしてから、未来へとひとっ飛び!」と非常に若い男性。

「厳格な共産主義を基盤に構築された社会が見つかるだろうね」とわたし。

「まったく、現実離れしたとんでもない理論だ!」と心理学者が口を開いた。

「はい、わたしにもそう思えました。だからこの話はしなかったのです。それが――」

「実験による証明ですと!」とわたしは叫んだ。「それが実証できるとでも?」

「実験だ!」と、頭が混乱しはじめていたフィルビーも叫んだ。

「何はともあれ、あなたの実験を拝見しようじゃありませんか」と心理学者「とはいえ、どうせみんなでたらめでしょうが」

 時間旅行者は一同を見回してにっこりした。そして、その微笑をかすかに残しつつ、両手をズボンのポケットに深くつっこんだまま、かれはゆっくりと部屋を出て、そしてかれの研究室までの長い廊下を下るかれのスリッパの音が聞こえるだけとなった。

 心理学者がみんなを見回した。「何が出てきますかね」

「なにやら手品かなんかでしょう」と医師。そしてフィルビーは、バースレムで見かけたいかさま師の話をしようとした。でも導入部が終わるより先に、時間旅行者が戻ってきたので、フィルビーの小話もそれっきりとなった。

 時間旅行者が手に持っていたのは、輝く金属の枠組みで小型の時計よりちょっと大きいだけで、実に入念に作られていた。象牙と、透明な水晶状の物質も使われていた。そしてここでわたしは厳密な物言いをする必要がある。というのも続いて起こったことは――かれの説明を認めるのでない限り――まったく説明のつかないことだったからだ。かれは部屋のあちこちにおかれていた小さな八角形のテーブルを一つ持ってくると、暖炉の火の前に置いて、テーブルの脚の二本がじゅうたんのにかかるようにした。そのテーブルにかれはこの機械をおいた。そして椅子を寄せると座った。テーブルの上にある物体は、他には小さな笠つきのランプだけで、その明るい光が模型を照らしている。あとはまわりにろうそくが1ダースもあっただろうか。マントルピースの上の真鍮製ろうそく立てに2本、ほかに壁に取り付けた燭台に何本かあって、部屋全体が明るく照らされていた。わたしは暖炉にいちばん近い、低いソファにすわっていたので、それを前に引き寄せて、ほとんど時間旅行者と暖炉の間に割り込みそうになった。時間旅行者の背後にはフィルビーがすわり、その肩越しにのぞきこんでいる。医師と地区長官は、右から時間旅行者の横顔を見ていた。心理学者は左からだ。非常に若い男は心理学者のうしろに立っていた。みんな緊張していた。こんな状況のもとでなにかトリックが行われるということは、それがどんなに入念に仕組まれてどんなに上手に実施されたものだろうと、ほとんどあり得ないように思う。

 時間旅行者はわれわれを見て、そして機構に目をやった。「それで?」と心理学者。

 時間旅行者は、テーブルにひじをついて、装置の上に両手を押しつけた。「このちょっとしたしろものは、ただの模型です。これは時間の中を旅行するマシンの設計図なんです。これが一つだけ傾いていて、この棒のまわりに奇妙なちらつく感じがして、なにやら非現実的に見えるのがおわかりでしょう」とかれは、その部分を指さした。「それとここに白いレバーが一本、もう一本がこちらに」

 医師はたちあがってその物体をのぞきこんだ。「見事な作りだ」

「作るのは二年がかりでしたよ」と時間旅行者が答えた。そしてみんなが医師の行動に続いたとき、かれは述べた。「さて、みなさんにはっきり理解してほしいことですが、このレバーを前に倒すと、マシンは未来に滑り出し、こちらのレバーはその動きを逆転させます。このサドルは、時間旅行者の座席となります。いま、このレバーを押して、するとマシンが動き出します。よく見ていてくださいよ。テーブルもしっかり見てください。種も仕掛けもないことを納得してください。この模型を失ったあとで、インチキ呼ばわりされるのはいやですからね」

 一瞬ほど間があいただろうか。心理学者はわたしに話しかけようとしたようだったが、中断した。すると時間旅行者はレバーめがけて指を差しだした。「いや」と突然言った。「手を貸してください」そして心理学者のほうに向き直ると、かれの手をとって、人差し指を出すように言った。だから模型タイムマシンをその終わりのない旅行に送り出したのは、心理学者自身なのだった。みんなレバーが回るのを見た。そこになんの細工もなかったと確信している。風が一閃、ランプの炎がゆらめいた。マントルピースのろうそくが一本吹き消え、小さなマシンはいきなり回転して、不明瞭になると、一瞬ばかり幽霊じみたものとなり、かすかに輝く真鍮と象牙の幻影のようになった。そしてそれは行ってしまった――消滅したのだ! ランプをのぞけば、テーブルの上には何もなかった。

 みんなが一分ほど何も言わなかった。その後、フィルビーが「なんてこった」と言った。

 心理学者は茫然自失状態から回復して、いきなりテーブルの下を見た。それを見て時間旅行者はうれしそうに笑った。「いかがですな?」そして心理学者に一瞥をくれると、立ち上がり、マントルピースの上のタバコのびんのところにでかけて、こちらに背を向けてパイプにタバコを詰め始めた。

 一同は顔を見合わせた。そして医師が口を開いた。「ねえあなた。これは本気ですか? 本当にあのマシンが時間の中へ旅立ったと信じているのですか?」

「もちろん」と時間旅行者は言って、点火用こよりに火をつけようと身をかがめた。それから向きなおってパイプに火をつけ、心理学者の顔を見た(心理学者は、動揺していないことを見せようとして、葉巻を取り出すと、それをカットせずに火をつけようとした)。 「さらに、大型のマシンをあそこでほとんど完成させてあるんです」――とかれは研究室を示した――「そしてそれが組み立て終わったら、自分自身で旅行をするつもりです」

「すると、あのマシンが未来へ旅立ったとおっしゃるんですか?」とフィルビー。

「未来へか過去へか――わたしにもどっちか確実にはわかりません」

 しばらく間をおいて、心理学者が思いついた。「もしどこかへ行ったのなら、過去のはずでしょう」

「なぜです?」と時間旅行者。

「空間的には動いていないと思いますし、もし未来に旅立ったのなら、それはこの時間も通ったはずだから、まだずっとここにあるはずだからです」

「でも過去に旅立ったなら、この部屋に最初にきたときにも見えていたはずでしょう。それに、ここにみんながきた木曜日にも。その前の木曜も、そのさらに前にも!」とわたし。

「深刻な反論ですなあ」と地区長官は、公正さを漂わせつつ、時間旅行者に向き直った。

「いえちっとも」と時間旅行者は答え、心理学者に向かって述べた。「あなたが考えてください。あなたには説明できるはずだ。識閾以下の表示ですよ、おわかりでしょう。薄まった提示というわけです」

「ああそうか」と心理学者は、みんなに断言してみせた。「これは心理学上の単純なできごとです。思いつくべきでした。明快な話で、パラドックスも見事に説明できます。マシンを見ることも感じることもできないのは、回転する車輪のスポークが見えなかったり、空中を飛ぶ弾丸が見えないのと同じことです。もしあれが時間の中を、われわれよりも50倍、100倍の速度で旅しているなら、われわれにとっての1秒をかけて1分を通過するなら、それが生み出す印象ももちろん、時間の中を旅していないものに比べて、五〇分の一か百分の一になるわけです。簡単なことです」とかれは、マシンのあった空中に手を走らせて見せた。「ごらんなさい」とかれは笑った。

 われわれはすわったまま、空っぽのテーブルを一分かそこら見つめていた。すると時間旅行者が、どう思うかみんなに尋ねた。

 医師が答えた。「今夜のところは、いかにももっともらしく聞こえますな。でも明日まで待ってごらんなさい。朝の常識を待ってご覧なさい」

「本当のタイムマシンをごらんになりたいでしょうか?」と時間旅行者。そう述べたと同時に、ランプを手にとって、かれは長い風通しのよい廊下を通ってわれわれを研究室に先導した。ちらつく明かりと、かれの奇妙な幅広いシルエットになったかれの頭、陰の踊り、みんながふしぎに思って疑いつつも後に従ったこと、そして研究室の中に、先ほどわれわれの目の前から消え失せた小さな機構の拡大版を目にしたことを、はっきりと覚えている。一部はニッケル、一部は象牙、一部は明らかに、岩結晶から削りだしたか切り出したものだった。ほとんど完成していたが、結晶でできた棒が、図面何枚かの横に未完成のまま転がっていた。その一本をよく見ようと手に取った。どうやら水晶のようだ。

 医師が述べた。「ねえあなた、本当に本気ですか? それともこれは手品ですかな――こないだのクリスマスに見せてくれた幽霊のように?」

 時間旅行者はランプを掲げた。「あのマシンに乗って、わたしは時間を探検するつもりです。わかりますか? 生まれてこの方、これほど真剣だったことはありません」

 一人残らず、どう受け取るべきかとまどっていた。

 医師の肩越しにフィルビーの視線をつかまえた。かれはまじめくさってウィンクしてみせた。

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2.

  そのときは、誰一人としてタイムマシンを完全に信じていたわけではないと思う。実のところ、時間旅行者は賢すぎて信用ならない種類の人物だったからだ。かれのすべてが見えたと思えることはなかった。かれの明るい開けっぴろげさの背後には、いつもちょっとした秘密、なにか待ち伏せしている小細工があるように思えるのだった。フィルビーがあの模型を示して、時間旅行者と同じせりふで状況を説明したのだったら、かれのことはこんなに疑ってかからなかっただろう。というのも、かれの動機が理解できたはずだからだ。ブタ肉屋でもフィルビーは理解できる。でも時間旅行者の性格は、気まぐれぶりが少々などというものではなかったので、みんなかれを信用しなかった。もっと賢さの劣る人物なら動かぬ証拠に思えることですら、かれの手にかかると小細工に見えた。何かを簡単にやってしまうのはまちがいだ。かれの言うことを本気にしたまじめな人々は、かれの振る舞いについて決して確信が持てなかった。みんな、かれについての評価に自分の評判をかけるのは、育児所に卵の殻のような瀬戸物を置くも同然だということをなぜか知っていた。だから、その木曜日と次の木曜日との間で時間旅行についてさほど口にした人間は、ほとんどいなかったと思う。とはいえ、その奇妙な可能性はまちがいなく、ほとんどみんなの頭の中を駆けめぐっていただろう。その実現可能性、その現実的な信じがたさ、それが示唆するアナクロニズムの奇妙な可能性と、完全な混乱。わたしはと言えば、あの模型のトリックがことさら頭を離れなかった。これについては、リンネ協会で金曜日に出会った医師と議論したのを覚えている。かれは似たようなものをチュービンゲンで見たと語り、ろうそくが吹き消されたことを特に強調していた。が、そのトリックの実際の仕掛けはかれも説明できなかった。

 次の木曜日、わたしはまたリッチモンドに出かけた――たぶんわたしは時間旅行者をもっとも頻繁に訪れる客だっただろう――そしてちょっと遅れてついてみると、すでに客間に四、五人が集まっていた。医師は片手にかみ切れを、もう片手に時計を握っていた。わたしは時間旅行者を捜して見回した。そして――「もう七時半です。食事をしたほうがいいと思いますが?」と医師。

「――はどこです?」と家の主人の名前をわたしは挙げた。

「いまきたところですか? ちょっと変なのですよ。かれは何か避けがたいことで捕まっているそうです。このメモを残していて、7時にかれが戻っていなければ、わたしが主導して夕食を始めてくれというんです。戻ったら説明するから、と」

「夕食を無駄にするのももったいないですからな」と有名な日刊紙の編集者が言った。そしてそこで医師が鐘を鳴らした。

 前のディナーに出席していたのは、医師とわたしをのぞけば心理学者だけだった。他の人々はブランク、すでに述べた編集者、あるジャーナリスト、そしてもう一人――物静かで物言わぬヒゲをはやした人物だ――わたしの知らない人で、かれはわたしが観察していた限り、その晩一度も口を開かなかった。時間旅行者の不在について、多少の憶測がディナーのテーブル上を飛び交った。わたしは冗談半分に時間旅行だろうと述べた。編集者は何のことか説明してくれと言い、心理学者が進み出て、その前の週の同じ日にわれわれが目撃した「正真正銘のパラドックスとトリック」について木で鼻をくくったような説明を始めた。その説明の真っ最中に、廊下側のドアがゆっくり無音で開いた。ドアの正面にいたわたしが真っ先に気がついた。「やあこんばんわ。やっとおいでですか!」そしてドアがもっと大きく開いて、一同の前に時間旅行者が立っていた。わたしは驚いて叫び声をあげた。次にかれを見た医師も叫んだ。「これはまた一体! どうしたんですか?」そしてテーブルの全員がドアの方を見た。

 かれは驚くべき惨状だった。上着はほこりまみれで汚れ、袖は緑で汚れている。髪はぼさぼさで、ずっと灰色を増したように見えた――ほこりと土のせいか、それともその色が本当にあせたのだろうか。顔は恐ろしいほど真っ青だ。あごには茶色い切り傷がある――治りかけた傷だ。表情は激しい苦闘のせいかやつれて引きつっていた。一瞬、光で目がくらんだかのように戸口でためらった。それから部屋に入ってきた。足の悪い乞食のようにびっこをひいて歩いている。みんな黙ってかれを見つめ、何か言うのを待ち受けた。

 かれは一言も言わず、痛々しい様子でテーブルのところまでくると、身振りでワインを示した。編集者はシャンペンをグラスに満たし、それをかれに押しやった。それを飲み干すとかなり落ち着いたようだ。テーブルを見回すと、かつての微笑の名残がその顔に浮かんだのだ。「いやあ、いったい何をやっておったのですか」と医師。時間旅行者はそれが耳に入らなかったようだ。「どうぞお構いなく」と言い、空のグラスを差しだして催促し、それをまた一気に飲み干した。「うまい」。目が輝きを増し、頬に少し血の気が戻った。その視線がわれわれの顔の上を走り、鈍くうなずくと、さらに暖かく快適な部屋を見回した。それからまた口を開いたが、一言一言探るような話し方だった。「ちょっと洗って着替えてきます。そうしたら戻ってきて説明しましょう……そのマトンをちょっと残しておいてください。ちょっと肉に飢えているもので」

 かれは部屋の向こうの編集者をながめた。かれはここでは珍しい客だった。そしてかれの具合を尋ねた。編集者は質問を始めた。時間旅行者は答えた。「すぐに話します。わたしは――変なので! すぐにちゃんとしますから」

 かれはグラスを下ろし、階段のドアに向かって歩き出した。再びわたしはかれがびっこをひいていることと、一歩ごとに柔らかいぴたぴたという音に気がついて、立ち上がってみると、部屋を出がけの足が目に入った。足は、千切れて血のしみた靴下しかはいていなかった。するとドアがかれの背後で閉まった。うわの空で後を追いかけようとしたが、かれが自分自身のことで騒がれるのをいかに嫌うか思い出した。一分ほどだろうか、わたしは内心で心を決めかねていた。そのとき「高名なる科学者の驚くべき振る舞い」と編集者が、(職業柄)見出しで考えて口に出すのが聞こえた。そしてこれが、明るいディナーテーブルに注意を引き戻した。

 ジャーナリストが述べた。「何のゲームです? アマチュアCadgarでもやっていたんですか? なにやらさっぱりわかりませんよ」わたしは心理学者と目があったが、かれの目にもわたしと同じ考えが浮かんでいた。痛々しく上階に向かう時間旅行者のことを考えた。他にだれも、かれがびっこをひいていたのには気がつかなかったと思う。

 この驚きから真っ先に完全に回復したのは医師で、かれは鐘を鳴らし――時間旅行者は、ディナーで召使いたちを待たせるのが大嫌いだった――熱い料理を持ってこさせた。同時に編集者がうなり声とともにナイフとフォークを手にとって、無言の男がそれに続いた。ディナーが再開された。会話はしばらくは声高で、驚愕のための間がときどきあった。すぐに編集者は好奇心を抑えきれなくなったようだった。「われらが友人は、その慎ましい所得をcrossingで補填なさっているのですか? それともネブカドネザル王的な狂乱の時期を定期的に迎えるわけですか?」とかれはたずねた。「まちがいなくこれは、かれのタイムマシンがらみの出来事でしょう」とわたしは、前回の会合について心理学者の話の続きをすませた。新しい客たちは、率直に不信を表明した。編集者は反論した。「その時間旅行とやらはいったいなんです? パラドックスの中をころげまわったところで、ほこりまみれにはならんでしょう」そして話が腑に落ちるにつれて、揶揄を始めた。未来には服のブラシがないのでしょうか? ジャーナリストも、絶対に信じようとはせず、その話全体に山ほど嘲笑を投げつけるという簡単な作業に、編集者とともにとりかかった。二人とも、あの新種のジャーナリストだったのだ――陽気で何も恐れない若者たちだ。「あさってのニュース特別取材班よりお伝えいたします」とジャーナリストが話しているところだった――むしろ叫んでいたというべきか――そこへ時間旅行者が戻ってきた。かれはふつうのイブニング用衣服を身につけ、わたしを驚かせたあの変化を思い出させるものは、かれのやつれた外見をのぞけば何もなかった。

 編集者は冗談めかして言った。「なんですか、ここにいらっしゃる方々によれば、なにやら来週半ばあたりまで旅をしてらしたとか。ローズベリーのことを教えてくださいよ。くじなら何を買いなさるね?」

 時間旅行者は、何もいわず自分の席についた。昔ながらのやり方でさっと微笑した。「わたしのマトンはどこだ? 肉に再びフォークを突き刺せるとは、なんとすばらしいことだろう!」

「話を!」と編集者が叫んだ。

「話なんかどうでもいい!」と時間旅行者。「食べ物をくれ。血管にペプトンを入れるまでは一言もしゃべらんぞ。ありがとう。それと塩をくれ」

「一言だけ。時間旅行をしてきたのですか?」とわたし。

「はい」と時間旅行者はほおばりながらうなずいた。

「そのままの様子を書いてくれたら一行あたり一シリング払いますよ」と編集者。時間旅行者はグラスを物静かな男のほうに押しやり、爪ではじいた。するとかれの顔を見つめていた静かな男は、身震いとともに飛び上がって、ワインを注いだ。ディナーのその後は居心地が悪かった。わたしはといえば、いきなり質問が口をついて出そうになり、それはほかのみんなも同様だったと断言しよう。ジャーナリストは緊張を和らげようとして、へティ・ポッターの小話をした。時間旅行者は食事にだけ関心を向け、乞食まがいのガツガツぶりを示した。医師はタバコを吸って、まつげ越しに時間旅行者をながめた。物静かな男はいつもよりさらに動転しているようで、不安のあまりシャンペンを繰り返し決然と飲み干していた。とうとう時間旅行者は皿を押しやり、一同を見回した。「謝らねばなりません。ただとにかく空腹だったもので。とんでもない時間を過ごしていたのです」かれは葉巻に手を伸ばして、その一端を切った。「だが喫煙室にきてください。脂まみれの皿越しに語るには、長すぎる話ですから」そして通りすがりに鐘をならしつつ、かれは隣室へと一同を先導した。

「ブランクとダッシュとチョーズに、マシンの話をなさったんですか?」とかれは安楽椅子に身を沈め、新参の客を名指しつつわたしに尋ねた。

「だがあんなのはただのパラドックスだ」と編集者。

「今晩は議論できません。お話はできますが議論はできません。もしお望みなら、何が起きたかはお話しますが、でも割り込むのはご遠慮を。わたしも話したいのです。それもひどく。ほとんどはウソに聞こえるでしょう。ならそれでもいい! そう思われようと、全部本当なのです――一つ残らず。四時に研究室にいて、それ以来……わたしは八日間を過ごしたのです……どんな人間もこれまで過ごしたことのないような日々を! もう疲れ果てていますが、この話をみなさんにするまでは眠りますまい。話したらベッドに行きます。でも中断しないでください! ご了解いただけますか?」

「了解」と編集者が述べ、残りのみんなも「了解」と反響した。そしてそれとともに時間旅行者は、以下に記したようにその物語を語りはじめた。最初は椅子に深くもたれて、疲れ切った人物のように話をした。その後、だんだん生き生きとしてきた。それを書き記すにあたって、わたしはその語り口を表現するペンとインクの至らなさを――そして何よりもわたし自身の至らなさを――実に切実に感じている。みなさんはおそらく、十分に慎重に読んでくださるだろう。でも小さなランプの明るい輪の中に浮かぶ、話者の白い率直な顔も見られなければ、かれの声の抑揚も聞こえない。物語の展開につれてのかれの表情の推移もわからない! われら聞き手のほとんどは影の中にいた。というのも喫煙室のロウソクには火がともされず、照らされているのはジャーナリストの顔と、物静かな男のひざから下の脚だけだったのだ。最初のうちは、みんなお互いに何度も顔を見合わせた。しばらくするうちにそれもやめ、みんな時間旅行者の顔だけを見つめていた。

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3.

「先週の木曜日に、みなさんの一部にはタイムマシンの原理をおはなしして、実物を未完成の状態で工作室でお目にかけました。いまここにありものです。ちょっと旅でくたびれていますが。そして象牙のバーの一つはひびが入り、真鍮のレールが曲がっています。でも残りはちゃんとしっかりしています。金曜日に完成させるつもりでしたが、金曜に組み立てが終わりかけたところで、ニッケルのバーの一つがちょうど1インチ短いことに気がついて、これを作り直させなければなりませんでした。ですからマシンは、今朝まで完成しなかったのです。初のタイムマシンがその第一歩を記したのは、今朝の十時でした。わたしは最後の一たたきを加え、ねじを全部締め直して、水晶ロッドにもう一滴油をさして、サドルにすわりました。次に何がくるのだろうかというわたしのその時の気分は、自分の頭に拳銃をあてた自殺者さながらだったでしょう。片手に軌道レバーを握り、停止レバーをもう片方で握って、最初のを押して、そのほぼ一瞬後に二番目のを押しました。くらっときたようです。落ちていくような、悪夢のような感覚がしました。そして見回すと、研究室はまったく前のままです。何か起きたのでしょうか? 一瞬、頭が混乱したのかと思いました。それから時計に気がつきました。一瞬前と思えた時点では、時計は十時一分過ぎかそこらでした。いまそれは、ほぼ三時半になっていました!

 わたしは深呼吸して歯を食いしばり、両手でスタートレバーを握ると、ズンッという音をたてて出発しました。研究室は霞がかったようで暗くなりました。ワッチェットさんが入ってきて、どうやらわたしが見えないようで、そのまま庭のドアに向かいました。たぶんここを横切るのに一分もかかったでしょうか。でもわたしには、ロケットのように部屋を突進して横切るように見えました。レバーを目一杯先へ進めました。ランプを消したようによるがやってきて、一瞬で明日がやってきました。研究室は幽かで霞がかったように見え、それからだんだん薄れてきました。明日の夜が真っ暗になってやってきて、それから昼、また夜、また昼、それがどんどん速度を増しました。渦巻くつぶやきが耳を満たし、奇妙なめくらめっぽうの混乱が意識にふりかかってきました。

 時間旅行の奇妙な感覚は、どうもお伝えしようがありません。とんでもなく不快なものです。スイッチバックの鉄道にのった時とまさに同じ感覚があります――どうしようもない真っ逆さまな移動の感覚です! やがて衝突するという、同じ恐ろしい予想も感じました。勢いを増すにつれて、昼と夜が黒い翼の羽ばたきのように入れ替わります。研究室を示唆するおぼろな様子は、すぐに崩れ去り、そして天を高速に太陽が横切るのが見えました。一分ごとに空をよぎり、一分ごとに一日が記されるわけです。たぶん研究室は破壊されて、空き地になったのでしょう。なにか建築の足場のような印象が漠然とありましたが、動くものを識別するにはすでにあまりに高速に動いているところでした。這いずるきわめて低速なカタツムリですら、わたしには速すぎた。闇と明かりのきらめく連続は、目にはあまりに苦痛でした。それから間欠的な闇の中で、月が新月から満月までの月齢で急速に回転するのが見え、そして回転する星もかすかにうかがえました。速度を増しつつ進むにつれて、やがて昼と夜の点滅は、一つの連続的な灰色へと融合しました。空はすばらしく深見のある青となりました。夕暮れすぐに、あのすばらしく明るい色です。とびまわる太陽は、炎の帯となり、輝くアーチとなって宙に浮かびます。月はもっとかすかに点滅する帯です。そして星は、空の青の中でちょっと明るい円がときどき一瞬ともるのを除けば、まったく見えませんでした。

 風景は霧がかってぼんやりとしていました。わたしは相変わらず、この家が今も建っている斜面におりまして、斜面の肩が頭上に灰色くぼやけてそびえていました。木々が蒸気の固まりのように、成長して変化するのが見えました。茶色になったと思えば緑になり。育ち、広がり、ふるえ、そして枯れます。巨大な建物が幽かに美しく立ち上がり、夢のように消えるのを見ました。地表面のすべてが変わったようです――目の前で溶けて流れるかのよう。わたしの速度を記録するダイヤルの針は、ますます速く回転しています。すぐに太陽の軌道が、一分以下で夏至から夏至へと上下するのに気がつきました。つまりわたしの速度が、一分一年に相当すると言うことです。そして一分ごとに白い雪が世界にちらついては消え、そしてまばゆく短い春の緑に取って代わられました。

 出発したときの不快な感覚は、もうさっきより収まっていました。最後にそれは、一種のヒステリックな陽気さへと煮詰まっていったのです。マシンの説明のつかない奇妙な揺れについては申し上げました。でも意識が混乱しすぎて、それに対処することもできず、一種の狂気にとらわれて、わたしは未来に飛び込んでいったのです。当初は、止まろうとはほとんど思わず、こうした新しい感覚以外のことはほとんど考えませんでした。でもすぐに、新しい一連の印象が心中にふくれあがり始めました――一種の好奇心と、それにともなうある種の恐怖です――そしてそれがついには完全にわたしを圧倒しました。目の前を駆け抜けては変動する、おぼろでぼやけた世界を間近で見れば、いかに奇妙な人類の進歩、われわれの未発達な文明からいかにすばらしい進歩が実現したかを見られるかもしれない! 巨大ですばらしい建築、われわれの時代のどんな建物よりもはるかに壮大なものがまわりに建ちましたが、それは輝きと霧でできているかのようでした。もっと豊かな緑が斜面を流れるように登り、冬らしき中断なしにそこにとどまりました。わたしの混乱のヴェールを通してでさえ、地球はとても平穏に見えました。そしてわたしの頭はやっと、止まるにはどうしようかという問題にたどりついたのです。

 ここで固有の危険性は、わたしまたはマシンが占有する空間に別の物質が存在するという可能性でした。時間の中を高速で移動する限りにおいては、これはほとんど問題になりませんでした。わたしは、いわば薄まっていました――間に入る物質のすき間を蒸気のようにすりぬけていたわけです! でも停止するには、わたし自身を分子ごとに、なんであれわたしの行く手のあるモノの中に押し込むことになるわけです。つまり、わたしの原子を障害物の原子と非常に密接な接触状態に持ち込むわけで、すさまじい化学反応――ヘタをすると大規模な爆発――が生じ、わたしと我が装置をあらゆる次元から未知の世界へと吹き飛ばす可能性があります。この可能性は、マシンを作っている時に何度も何度も頭に浮かんだのですが、そのときは仕方がないリスクだと思って喜んでそれを受け入れたのです――男として引き受けるべきリスクだと! いまやリスクが回避不能となって、わたしはかつてほど嬉しげにはそれを考えられなくなりました。実際問題として、すべてのものの異様な奇妙さ、マシンの気分が悪くなりそうな振動と揺れ、何よりも果てしなく落ち続けているような感覚のおかげで、知らぬ間に神経が完全におかしくなってしまったのです。このまま絶対止まれないんだと自分に言い聞かせると、かんしゃくを爆発させたようにわたしはすぐに止まろうと決意しました。あわてた愚か者のように、わたしはレバーの上にlugして、するとマシンはだらしなく横転して、そしてわたしは宙を投げ出されました。

 耳の中で雷のような音がしました。一瞬気絶していたかもしれません。まわりには無情にもヒョウがうなって降り、わたしは横転したマシンの前の柔らかい土盛りにすわっていました。すべてはまだ灰色に見えましたが、すぐに耳の混乱が消えたことに気がつきました。見回すと、どうも庭園の小さな芝生らしきところにいて、それがシャクナゲの茂みに囲まれています。そしてその深紫と薄紫の花が、降り注ぐヒョウに打たれて次々に落ちてゆくのに気がつきました。地面にはねて踊るヒョウは、マシンの上空にクモ状にかかって煙のように地面にたたきつけます。一瞬後にはびしょぬれになっていました。「おまえたちを見に数え切れない年月を旅してきたのに、大した歓迎だよ」とわたしはつぶやきました。

 すぐに、そもそもびしょぬれになったこと自体が愚かだと気がつきました。立ち上がってあたりを見回しました。すると巨大な像が、明らかに何か白い石から刻まれて、霧がかった降水を通じてシャクナゲの向こうにぼんやりとそびえています。でも世界のその他のものは何も見えませんでした。

 そのときの感覚を説明するのはむずかしい。降り注ぐヒョウの柱が細くなるにつれて、白い像はもっとはっきり見えるようになりました。銀の樺の木がその肩に触れていたから、かなり大きなものです。白い大理石でできていて、何か羽の生えたスフィンクスのような形ですが、その羽は脇に垂直についているのではなく、広げられていたので、滑空しているように見えました。台座は見たところ、ブロンズ製で、緑青に覆われていました。たまたまその顔がこちらに向いていました。何も見ていないその目は、わたしを見ているかのようです。その唇にはかすかに微笑が浮かんでいました。かなり風化していて、それが病気のような不快な印象を与えていました。しばらくは立ちつくしてそれを眺めていました――三〇秒ほどでしょうか、それとも三〇分だったか。降り注ぐヒョウが強まったり弱まったりするたびに、こちらに向かってきたり下がったりするように見えました。やっとわたしは一瞬そこから視線を引きはがし、そしてヒョウのカーテンがかなりか細くなり、空が明るんできて太陽の約束が見えてきていることに気がつきました。

 うずくまる白い像を再び見上げると、自分の旅の無鉄砲さが一気に認識されてきました。この霧のようなカーテンが完全に消え去ったら、何が現れることだろう。人類には、ありとあらゆることが起こった可能性がある。人類共通の情熱として残虐さが発達していたらどうしよう? この期間に人類がその人間らしさを失って、何か非人間的で、共感しがたい、圧倒的に強力なものに発達していたらどうしよう? わたしなんか、旧世界の野蛮な獣にしか見えず、共通の類似点のためになおさら恐ろしく嫌悪すべき存在にすら見えるかもしれない――即座に殺してしまうべき醜悪な生き物と思われるかもしれない。

 すでに他の大きな形が目に入っていました――嵐がやむにつれて、入念なパラペットや高い柱を持った巨大な建物に、森の茂った斜面がぼんやりと迫ってきます。わたしはパニック状の恐怖に襲われました。タイムマシンのほうにあわてて向き直り、調整し直そうと苦闘したのです。そうするうちに、雷雨の中に日光の筋が差し込んできました。灰色の降水は脇へ押しやられ、幽霊のひきずる衣装のように消え失せました。頭上には、濃い青の夏空が広がり、かすかな茶色い雲の切れ端が、やがて渦巻いては消え失せました。周辺の大きな建物は、はっきりと目立つように浮かび上がり、雷雨にぬれて輝き、その途中でくっついた溶けていないヒョウのために、白い模様がついています。見知らぬ世界で裸になった気分でした。澄んだ空気の中で、頭上に鷹が羽ばたいていて急降下してくるのを知っている鳥のような気分だったかもしれません。恐怖は狂乱にまでふくらみました。わたしは深く息を吸い込んで、歯をくいしばると、またもやひじと膝を使って、マシンと必死で格闘しました。わたしの必死の努力にあって、マシンは根負けしてひっくり返りました。それが派手にアゴにあたりました。サドルに片手をかけ、片手をレバーにのせて、はあはあと荒い息をついてそこに立ったわたしは、再びマシンに乗り込もうとしました。

 でもマシンを起こしてちょっと安堵がもどってきたので、勇気も回復しました。この遙かな未来世界を、もっと好奇心をもっておびえずに眺めてみました。手近な家の壁高くにある丸い空き地に、豊かで柔らかいローブに身を包んだ一団が見えました。向こうもわたしを見て、その顔がまっすぐこちらを見ています。

 そのとき、近づいてくる声がしました。白いスフィンクスの隣のしげみをやってくるのは、走ってくる人々の頭と肩でした。その一人が、わたしがマシンの横に立っている小さな芝生にまっすぐつながる小道にあらわれました。かれは小さな人物でした――身長一メートル20センチくらいでしょうか――紫のチュニックをきて、それをウェストで革ベルトにより締めています。サンダルかバスキン――どっちかははっきりわかりませんでした――を履いています。脚はひざまでむきだしで、頭も毛がありません。それを見たとき、わたしは空気が実に暖かいことに初めて気がつきました。

 かれは見るからに美しく優雅な生き物でしたが、何とも言いようがなく脆弱な感じでした。紅潮した顔は、肺病患者の美しいほうを思わせました――かつてわれわれがよく耳にした、あの消耗病の美です。かれを見て、わたしは急に安心感が戻ってくるのを感じました。そしてマシンから手を離しました」

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4.

「次の瞬間、われわれは向かい合って立っていました。わたしと、この未来からきた繊細そうな生き物です。かれはまっすぐにこちらに歩み寄って、目を見て笑いかけてきました。かれの振る舞いに恐怖の徴がまるでないことがすぐにわかって驚きました。それからかれは、後に続いていた二人のほうを振り返り、奇妙なとても甘く液状のことばで語りかけたのです。

 他の人々もやってくるところで、すぐにこうしたexquisiteな生き物たち8人から10人ほどに囲まれました。一人がこちらに話しかけます。奇妙なのですが、自分の声がかれらにはきつくて深すぎるのではないか、という考えが浮かびました。そこでわたしは頭をふって、耳を指さすとまた首を振りました。かれは一歩進み出て、ためらうと、わたしの手に触れました。すると、他にも柔らかく小さな手が背中や肩に触れるのが感じられました。わたしが本物かどうか確かめているのです。これにはまったく怖いことはありませんでした。このきれいな小さい人々には、何か安心させるようなものがありました――優雅な穏やかさ、なにか子供じみた警戒心のなさ。さらにみんな実にか弱く見えて、九柱儀のように一ダースくらいまとめて放り投げられそうでした。でもかれらの小さなピンクの手がタイムマシンをいじっているのを見たとき、急に動いて警告しました。ありがたいことに、手遅れに成る前に、わたしはこれまで忘れていた危険に思い当たり、マシンのバーの上にかがむと、マシンを動かす小さなレバーをねじってはずし、ポケットにおさめました。それからなんとか意思疎通ができないかと思いつつ振り返りました。

 それからかれらの姿形をもっとしっかり見てやると、かれらのドレスデン磁器じみたきれいさに、さらに奇妙なところをいくつか見つけました。髪はみんなカールしていましたが、首とほおのところで急になくなっていました。顔には毛がまったく見あたらず、耳は不思議なくらい小さいものでした。口も小さく、唇は明るい赤でいささか細く、小さなほおがとがっていました。目は大きくて優しく、そして――これはこちらのエゴのように思えるかもしれません――期待したほどの興味を示してくれていないようにさえ思えたのです。

 かれらはわたしと意思疎通をしようという努力をまったく見せず、単にまわりに立ったまま柔らかいクークー言う音で話し合っているだけだったので、こちらから会話を切り出しました。タイムマシンと自分を指さしました。それから時間をどう表現したものかちょっと躊躇してから、太陽を指さしました。すぐに紫と白のチェックを着たふうがわりにきれいな小人物がわたしの仕草を真似て、雷の音を真似てこちらを驚かせてくれました。

 一瞬ひるみましたが、かれの身振りの含意は単純きわまりないものでした。いきなり、ある疑問が頭に浮かびました。この生き物どもはバカなのではないか? これがどんなにショックだったか、なかなかおわかりいただけないと思います。二八〇〇年かそこらの人々は、知識の面でも技芸の面でも、あらゆる点ですさまじく進歩しているだろうと昔から思っていたのです。ところがその一人がいきなり、現在の五歳児並の知的水準しかないことをうかがわせる質問をするのですから――要するに、わたしが雷雨にのって太陽からやってきたのか、ときいたのです! かれらの服装や、か細い軽い手足、細い姿を見ても保留していた判断が、本格的によみがえってきました。失望の流れが心を横切りました。一瞬、タイムマシンを作ったのは無駄だったのかと感じました。

 わたしはうなずくと太陽を指さして、雷鳴を実に真に迫って真似て見せたので、みんな怯えたようでした。みんな一歩かそこら下がると頭を下げます。それから、一人がこちらに笑いながらやってきて、まるで見たことのない花の輪を持ってきて首にかけてくれました。このアイデアは、楽しげな拍手で迎えられました。そしてすぐに、みんなあちこと走り回って花を探し、笑いながらそれをわたしに投げかけて、花びらで窒息死そうなほどでした。ご覧になったことのない皆さんは、数え切れない年月にわたる育成が作り出した花の繊細さやすばらしさが想像もつかないでしょう。そしてだれかが、おもちゃを手近な建物で展示しようと思いついたようで、わたしは白い大理石のスフィンクス(それはずっとこちらを観察し、驚きぶりに微笑するようでした)の横を通って、腐食した石造の広大な灰色の建築物につれてこられました。連れだって歩くうちに、圧倒的に深遠で知的な子孫への確信をもった期待がふと思い出され、我ながらおかしくてたまりませんでした。

 建物は巨大な入り口をしていて、全体はとてつもない大きさでした。もちろん一番興味をひいたのは、増える一方の小さな人々の群衆で、また目の前で影をつくりなぞめいた様子で口を開ける、大きな開いた入り口も興味をおぼえました。かれらの頭上ごしに見た世界の全般的な印象は、美しい茂みや花のごちゃごちゃした荒れ地、長く放置されていたのに雑草のない庭園、というものでした。背の高い奇妙な白い花が突出しているのをたくさん見かけました。たぶんすべすべの花びらは、差し渡しで30センチはあったでしょうか。それは色とりどりの茂みの中、あちこちに散らばって生え、野生のようでしたが、でも申し上げたように、そのときにはじっくり観察はしませんでした。タイムマシンはシャクナゲの中の土盛りの上に、無人で残されました。

 入り口のアーチは豊かに彫られていましたが、もちろんその彫刻をあまり細かく見はしませんでした。ただし通過するときに、古いフェニキア装飾のなごりを見たような気はして、さらにそれがひどく壊れていて風化しているのに驚かされました。明るいふくを着た人々がもう何人か戸口でわたしを迎え、みんなで中に入りました。わたしはむさくるしい一九世紀の衣服をまとって、それだけでもグロテスクなのに、花で飾り立てられて、明るく柔らかな色合いのローブと輝く白い手足のうねる集団に囲まれ、メロディアスな笑いと楽しげな会話の渦中にいたのです。

 巨大な入り口は、それに比例して巨大な広間に出ました。そこは薄暗くなっていました。屋根は影になっていて、窓は部分的には色つきガラスで覆われ、部分的にはガラスなしでしたが、抑えた光を通していました。床は何かとても堅い白い金属の大きなブロックでできていました。プレートでもスラブでもありません――ブロックで、しかもかなりすり減っていました。たぶん過去の世代が行ったり来たりしたせいで、通り道の部分は深くえぐれています。その広間の長手方向に沿って、磨いた石のスラブでできたテーブルが無数にあって、それが床から30センチほど持ち上がっており、そのてっぺんには果物の山がありました。一部は、一種の肥大したラズベリーとオレンジだと見受けられましたが、ほとんどは見たことのないものです。

 テーブルの間にはものすごい数のクッションが散乱しています。そのクッションの上に、わたしの先導者たちはすわり、わたしにもすわれと身振りで示します。見事なまでに何の儀式もなく、かれらは手づかみで果物を食べはじめ、皮や芯などはテーブルのまわりの丸い空地に投げ捨てています。わたしもかれらの顰みに習うのはやぶさかではありませんでした。のどが乾いて腹も減っていたからです。そしてそうしながら、暇を見てはその広間を観察していました。

 そして何よりも驚いたのは、その荒れ果てた様子だったかもしれません。ステンドガラスの窓は、幾何学模様しか示していませんでしたが、あちこちで割れていて、その低い部分にかかっているカーテンにはほこりが厚くこびりついています。そして手近な大理石のテーブルのかどが砕けているのも目につきました。それでも、全般的な雰囲気はきわめて豊かで壮麗でした。その広間で食事をしているひとは、数百人ほどだったでしょうか。そのほとんどが、できるだけわたしの近くにすわり、興味津々でわたしをながめ、食べている果物の上で小さな目を輝かせています。みんな同じ、柔らかいのに強い絹状の材質を身にまとっていました。

 ちなみに、かれらの食事は果物だけでした。遙か未来のこの人々は厳格な菜食主義者で、かれらといっしょにいる間は、ある程度の肉体的な渇望にもかかわらず、わたしもまた果物だけ食べるしかありませんでした。実はあとでわかったのですが、馬も、牛も、羊も、イヌも、すべてイクシオザウルスの後を追って絶滅してしまったのでした。でもその果物はすばらしくおいしいものでした。特にわたしがいた間ずっとシーズンだったらしき果物――三面のさやに入った小麦粉状のものです――は特においしくて、それがわたしの主食でした。最初はこうした各種の奇妙な果物や、目にした奇妙な花にとまどいましたが、やがてその重要性が理解できるようになってきました。

 でも、いまは遙か未来の果物の夕食の話をしていたんでしたっけ。やがて食欲が少しおさまり、わが新しい人々のことばを断固として学ぼうという決意をしたのです。明らかにそれが次にやるべきことでした。手始めにその果物を使うのがお手軽そうでしたので、それを持ち上げて、一連の問いただすような音や身振りを開始しました。いわんとするところを伝えるのはずいぶん苦労しました。最初のうち、その努力はオドロキの凝視か、とめどない笑いをもって迎えられたのです。でもやがて、金髪の小さな生き物がこちらの意図を理解して、名前を何度も繰り返しました。連中はぺちゃくちゃしゃべって、何が行われているかを延々とお互いに説明しあわなければすまないようで、その言語の見事なかわいい音をたてようという最初の試みは、すさまじくおもしろがられたのでした。でも、自分が子供たちの中の校長先生のような気分になって、辛抱強く続けるうちに、やがていくつかの名詞句を使いこなせるようになりました。それから指示代名詞、そして「食べる」という動詞もものにしました。でもそれは遅々としてはかどらず、小さな人々はやがて退屈して、こちらの質問から逃げようとしはじめます。そこでわたしは、むしろ必要にかられて、向こうの気が向いたときにすこしずつ教えてもらおうと決めたのです。そしてすぐに、それがいかに少しずつかを思い知ることになりました。というのも、これほど怠惰ですぐに疲れる人は見たことがなかったくらいだったのです。

 この小さなご主人たちについてすぐに気がついた奇妙な点は、かれらが関心を持っていないということです。かれらは子供のように、驚きの叫びをあげつつやってきますが、子供のようにやがてこちらを調べるのをやめて、ほかのおもちゃをおいかけてふらふらと向こうにいってしまいます。夕食と会話の発端がおわって気がつくと、こちらを囲んでいた人々はほとんど全員いなくなっています。またわたし自身、すぐにこの小さな人々を無視するようになったのも奇妙なことです。飢えがおさまると同時に、入り口を通って日に照らされた外に出ました。これら未来の人々にはさらに続々と会いましたが、みんなしばらくついてきて、ぺちゃくちゃしゃべっては笑い、親しげに微笑して身振りをしてみせると、またわたしを放ってどこかへ行ってしまいます。

 大ホールから出ると、夕暮れの穏やかさが世界を覆いつつあり、あたりは夕日の暖かい光に照らされていました。最初、ものごとは実に困惑させるものでした。何もかも、自分の知っている世界とはまるでちがっています――花でさえも。後にしてきた大建築は、広い川による峡谷の斜面に立っていましたが、テームズ川は現在の位置から一マイルほどもずれていたでしょう。二キロかそこら離れたところにある丘のてっぺんに上ってやろうと思いました。そこからなら、紀元802千2701年の地球をもっと広く見渡せるでしょう。ちなみに、タイムマシンの小さなダイヤルが記録していたのはそういう日付けでした。

 歩きながら、世界のおかれた豪華な廃墟状態をなんとか説明するのに役立つどんな印象でもいいから探し回ったものです――というのも、廃墟状態にはちがいなかったからです。たとえばちょっと丘をあげると、巨大な大理石の山が大量のアルミのかたまりでまとめられていて、急な壁の広大な迷路やくしゃくしゃの山があって、その中に非常に美しいパゴダのような植物――イラクサかもしれません――があったのですが、それが葉のまわりがすばらしい茶色に染まっていて、トゲもないのです。なにやら巨大な構造物の倒壊した残骸なのは明らかでしたが、何のために建てられたものかは見極められませんでした。後になって、非常に奇妙な体験を運命付けられていたのはここでした――もっと奇妙な発見に初めて出くわすことになるのです――が、その件についてはまた折りを見て話すことにしましょう。

 突然思いついて、しばらく休んでいたテラスからあたりを見回すと、小さな家がどこにも見あたらないのに気がつきました。明らかに戸建て住宅や、それどころか世帯そのものが消えたようです。緑の中のあちこちに、宮殿のような建物がありましたが、わがイギリスの風景で実に特徴的な性質を形成している家屋や小屋は、消えていました。

「共産主義か」とつぶやきが口をついて出ました。

 そしてそこからの連想で別の思いつきが浮かびました。わたしは、後についてきた半ダースほどの小さな姿を見ました。そして一瞬で、その全員が同じ形の服装をし、同じ柔らかい毛のない顔立ちと、同じ女の子じみた丸みを帯びた手足をしていることに気がつきました。今までこれに気がつかなかったのは奇妙に思えるかもしれません。でも何もかもがあまりに奇妙だったのです。いまや、事態がはっきりと見えてきました。服装でも、その他現在では両性のちがいを示す各種の特徴や装束の差においても、この未来の人々はまったく同じだったのです。そして子どもたちは、わたしの目には親のミニチュア版にしか見えませんでした。その時点で、この時代の子どもたちは少なくとも肉体的には実に早熟だと判断しましたが。後にこの見解の裏付けは山ほど得られました。

 この人々が暮らしている安楽さと安全性を見ると、男女がそっくりなのも考えてみれば予想がつくなと感じました。男の強さと女の柔和さは家族のための制度であり、職業の区分は物理的な力の時代において圧倒的だった必要性にすぎないのです。人口がおちついて豊富になれば、多産は国にとっては喜びではなく悪となります。暴力がほとんど生じず、子どもたちが安全なところでは、効率のいい家族の必要性は下がり――いやまったく不要となり――子供のニーズに応えるために性の役割特化も消えます。われわれの時代ですらその萌芽は見られますし、この未来の時代にはそれが完成されたのです。申し上げておきますが、これはその時点でのわたしの推測です、後に、これがいかに現実に及ばないものだったかを思い知らされることになるのですが。

 こうしたものをおもしろがって眺めているうちに、きれいな小構造物に目が向きました。キューポラの下の井戸のようなものです。いまだに井戸があるというのは不思議だな、とふと思いましたが、また思索を続けました。丘のてっぺんには大きな建造物はなく、そしてわたしの歩行力はどうやらすさまじいものだったようで、じきに初めて一人にしておいてもらえました。自由と冒険の奇妙な感覚を持って、わたしは頂上まで登りました。

 そこにはなにやら見たこともない黄色い金属の座席があって、それがあちこちピンクがかったさびで腐食し、柔らかいコケで半分覆われています。腕置きは、グリフィンの頭を模して鋳造・彫刻されています。そこにすわり、その長い一日の日暮れの下に広がる、われらが古き世界の広い眺めを見渡しました。それはこれまで見たこともないほど甘く美しい眺めでした。太陽はすでに地平線の下にもぐり、西の空は燃えるような黄金で、そこにいくつか紫と深紅の水平の雲がたなびいています。眼下にはテームズ川の峡谷で、そこに川が磨かれた鉄のように横たわっています。すでに濃淡様々な緑のあちこちに点在するすごい場所についてはお話しました。一部は廃墟、一部はまだ居住されています。あちこちに、地球の荒れた庭の中に白や銀色の人影が浮かび、あちこちに何かキューポラやオベリスクの鋭い垂直線が見かけられます。生け垣もなければ財産権のしるしもなく、農業の存在もうかがえませんでした。全地球が庭園になってしまったのです。

 そうやって眺めつつ、わたしは見てきたものについて、自分なりの解釈をあてはめ出しました。そしてその晩にわたしの頭の中で形成された解釈は、こんなものでした(後に、自分の理解が半分しか正しくなかったこと――というか、真実のごく一面をほんのかいま見たにすぎなかったことを知るのですが)。

 自分がたまたま人類衰退期にやってきたのだと思えました。赤い日没が、人類の没落を連想させたのです。初めてわたしは、現在われわれが取り組んでいる社会的な努力の奇妙な帰結を認識しはじめました。でも、考えてみれば、それは確かに論理的な帰結ではあります。強さは必要性の結果として生じます。安全性は、弱さを有利にします。人生の条件を改善しようと言う作業――人生をますます安全にする、真の文明化プロセス――はゆっくりとクライマックスに到達したのです。人類連合は自然に対し、一つ、また一つと勝利をおさめました。現在ではただの夢でしかないことが、意図的に取り組まれ、勧められるプロジェクトとなりました。そしてその成果がわたしの見ていたものだったのです!

 なんと言っても、今日の衛生状態と農業はまだ未熟な段階でしかありません。現在の科学は、人間の病気のごく一部を克服しただけですが、それでもその活動範囲を着実にたゆまず進めています。われわれの農業や園芸は、ほんのちょっとした雑草を破壊して、ごく少数の豊かな植物を耕作しますが、その他多くは勝手にバランスを実現するに任せています。ごく少数の――考えてみれば、何とも少ない数です――お気に入りの植物や動物をゆっくりと選択交配によって改善します。こんどは新しい向上した桃、こっちではもっと便利な牛の種類。ゆっくりとしか改善できないのは、われわれの理想が漠然としてうつろいやすく、また知識がとても限られているからです。というのも自然も、われわれも不器用な手の中では引っ込み思案でのろいからです。いつの日か、このすべてはもっとうまく案配されて、それがますます改善されるでしょう。よどみや逆流はあっても、それが流れの方向性です。全世界が知的で教育を得て、協力するようになります。物事は自然を支配すべくますます速度を増して動くでしょう。最後には、賢く慎重にわれわれは、人類のニーズにあわせて動植物のバランスを調整しなおすことになるでしょう。

 この調整が、思うに実施され、そして成功したにちがいありません。それもわたしのマシンが跳び終えたあらゆる時間すべて、時間の幅のどこかで。空気にはブヨはいないし、地表には雑草もキノコもありません。いたるところに果物と、甘く美しい花があります。美しいチョウがひらひら飛んでいます。理想的な予防薬が実現されました。滞在中ずっと、伝染病がある様子はまったく見受けられませんでした。そして腐敗と分解のプロセスでさえ、こうした変化によって根本的な影響を被っていたようだ、と後で言わざるをえません。

 社会的な勝利も影響を受けていました。わたしが見たのはすばらしい家屋に住んで、華々しく着飾った人類でしたが、いまのところかれらが何ら労働にいそしんでいるところは見あたりませんでした。苦労のかけらもありませんし、社会的・経済的な闘争もないようです。店舗、広告、交通など、われわれの世界を構成するあらゆる商業は消え失せていました。そしてその黄金の午後に、ここが社会的パラダイスだという発想にとびついたのも当然でしょう。人口増からくる困難も解決されたようで、人口は増加をやめたようでした。

 でもこうした条件の変化には、必ずその変化への適応が伴います。生物科学が何もかも間違っていれば話は別ですが、人類の知性や強さの原因はなんでしょうか? 苦労と自由です。活発で強く賢いものが生き延び、弱い者が押しやられるための条件です。有能な人々の忠実な連合、自己抑制、辛抱、意志決定に報いる条件です。そして家族制度とそこから生じる感情、強い嫉妬、子供への優しさ、親の自己献身は、すべて幼き者たちにさしせまった危険があればこそ、正当化も支持もされるのです。さて今や、その差し迫った危険はどこにあるでしょうか? すでに夫婦間の嫉妬、強すぎる母性、あらゆる強い情熱をよくないものとする感情が生じていて、それは今後さらに成長するでしょう。いまやこれは必要ないし、われわれを不快にするだけだし、野蛮な残存物で、洗練された快適な生活における不協和音なのです。

 ここの人々の肉体的な脆弱さ、知性の欠如、そしてあの巨大で豊富な廃墟群のことを考えました。そして、自然が完全に征服されたのだという信念は強化されました。というのも戦いの後には静寂が訪れます。人類は強く、エネルギッシュで、知性的であり、その豊富な活力を総動員して、自分の暮らす環境を変えようとしてきました。そしていまや、その変化した条件に対する反応がやってきたのです。

 この完全な快適さと安全という新しい条件の下では、われわれにとっては強みであるあの落ち着かないエネルギーは、弱点になるのです。われわれのこの時代ですら、かつては生存に必要だったある種の傾向や欲望は、絶え間ない失敗の原因となっています。たとえば肉体的な勇気や戦闘への愛は、文明人には大して役に立ちません――むしろ足を引っ張るかもしれない。そして肉体的なバランスと安全の状態にあっては、力は、肉体的なものも知的なものも、場違いです。数え切れないほどの年月にわたり、戦争や個別暴力による危険はなかったのだろう、とわたしは判断しました。野獣からの危険もなく、体質の強みを必要とする無益な疫病もなく、苦役の必要もない。そんな人生にとって、われわれが弱者と呼ぶ者たちは、実はもはや弱くはない。かれらのほうが適応しているのです。強者ははけ口のないエネルギーに悩まされることになりますから。わたしの見た建物のすばらしい美は、いまや無意味となった人類のエネルギーの最後の盛り上がりによるものだったのでしょう。でもその後人類は、生存条件との完璧な調和に落ち着いたのです――その勝利の反映が、最後の偉大なる平和を始めたのでした。これは昔から安全のもとでのエネルギーの運命ではありました。それはアートとエロティシズムに向かい、やがて怠惰と退廃に向かうのです。

 この芸術的な勢いすらやがては死に絶えます――わたしの見た時代ではほぼ死に絶えていました。日光の下で自らを花で飾り、踊り、歌う――芸術精神で残ったのはそれだけ、他には何もありません。それさえも、いずれは満足しきった無活動の中に消え去るでしょう。われわれは苦痛と必要性という砥石のおかげで鋭敏でいるのであり、その憎むべき砥石はここではついに壊されたのです!

 深まりゆく闇の中に立ちつくしながら、わたしはこの単純な説明で世界の問題を見切ったと思ったのです――こうした興味深い人々の秘密すべてを理解したと。おそらくかれらが人口増を防ぐために考案した仕組みがあまりに成功しすぎて、人口は一定に保たれるどころか減少傾向となったのでしょう。それで遺棄された廃墟も説明がつく。きわめて単純な説明だし、実にもっともらしい――まちがった理論の常として!」

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5.

「この人類の完璧すぎる勝利について考えながら立っていると、北東の空に満月が黄色く立体感をもって上がってきて、銀色の光をあふれさせていました。下では明るい小さな姿がうろつくのをやめ、無音のフクロウが横を飛びすぎ、そして夜の冷気でわたしは身震いしました。下りて寝場所を探すことにしました。

 見覚えのある建物を探しました。そしてブロンズの台座に乗った白いスフィンクスの姿に目が映りました。スフィンクスは、昇った月の光が強くなるにつれてはっきりしてきます。それに触れた銀のカバノキも見えます。シャクナゲのもつれた茂みが、淡い光の中で黒く見え、そして小さな芝生がありました。その芝生を見ました。奇妙な疑念がわたしの安心感に冷や水を浴びせました。「いやちがう」とわたしは強く自分に言い聞かせました。「あの芝生じゃない」

 でもまさにその芝生だったのです。なぜならあばたのできたスフィンクスの白い顔がそちらに向いていたのです。この確信が腑に落ちたときのわたしの気分が想像つくでしょうか? 無理でしょう。タイムマシンは消えていたのです!

 いきなり、顔をひっぱたかれたかのように、自分自身の時代を失うのではないか、この奇妙な新世界に寄る辺なく残されてしまうのでは、という可能性が頭に浮かびました。それを考えるだけで、本当に肉体的な反応が生じました。それがわたしののどを締め上げ、息を止めるのが感じられました。次の瞬間、わたしは恐怖の発作におそわれ、斜面を大股に駆け下りていました。一度、前のめりに転んで顔を切ってしまいました。でも血をぬぐう暇もなく、とびおきて走り続け、ほおとあごになま暖かい液体が流れるままにしました。走りながらずっと、「ちょっと動かしただけだろう、茂みの中のじゃまのならないところに押しやっただけだ」と自分に言い聞かせ続けていました。それでも、必死で走り続けました。その間ずっと、過剰な恐怖に時々伴う確信をもって、わたしは自分の考えが気休めにすぎず、マシンがわたしの手の届かないところに移動されたことを直感的に悟っていました。呼吸するのも苦しかった。丘のてっぺんから小さな芝生までの、おそらく3キロほどを10分もかからずにカバーしたでしょう。そしてわたしは若くはないのです。走りながら、マシンを置いて去った自分の自信たっぷりの愚行を声高にののしり、おかげで息がきれる始末。おおごえで叫んでも、だれも答えてくれません。月に照らされた世界では、生き物一匹たりとも動いていないようです。

 芝生にたどりつくと、最悪のおそれが現実のものとなっていました。タイムマシンはあとかたもありません。黒く生い茂ったやぶの中の、空っぽの空間に直面したときには、気が遠くなって身震いがしました。それがすぐそこに隠してあるかもしれないというようにあわててその周りを駆け回り、 急に立ち止まって、手で髪をかきむしりました。頭上にはスフィンクスが、ブロンズの台座の上にそびえ、白く、穴だらけで、上ってきた月の光に照らされています。わたしの絶望をばかにしてほほえんでいるかのようです。

 あの小さな人々が、わたしのために機械をどこかにしまってくれたのだと想像することで慰めを得られたかもしれません。でも、わたしはかれらが肉体的にも知的にもそんなことはできないのを感じ取っていました。だからこそわたしはがっかりしたのです。これまではうかがいしれなかった力があって、それが介入してわたしの発明品は消えてしまいました。でも、一つだけ確信できたことがありました。別の時代にあの完全な複製品が生まれない限り、あのマシンは時間内を動いたはずはありません。レバーの取り付け方――後で仕組みはごらんに入れます――のおかげで、それを取り外したら、何人たりともそれを操作することは不可能なのです。あれが移動して隠されたのは、空間内だけのこと。でもそれなら、いったいどこにあるのでしょう?

 たぶん何か狂乱状態に陥ったのでしょう。スフィンクスをずっと取り巻く、月に照らされた茂みすべてに、あらっぽく駆け込んでは飛び出していたのを覚えています。そしてそれにより、何か白い動物をびっくりさせたことも。薄明かりの中で、それは小さな鹿に思えました。またその晩遅く、げんこつを握りしめて茂みを殴りつけ、こぶしが折れた小枝のために傷ついて血が出ていたのも覚えています。そして心が千々に乱れる中で泣いては怒鳴りつつ、わたしは巨大な石造建築のほうに下っていきました。巨大な広間は暗く、静かで、無人でした。でこぼこの床ですべり、クジャク石のテーブルの一つの上に倒れこんで、ほとんど脛を折りそうになりました。マッチをともして、すでにお話したほこりまみれのカーテンを通りすぎました。

 そこには二番目の大ホールがあって、そこもクッションに覆われ、おそらく二〇人ほどの小さな人々が眠っていました。かれらがわたしの二度目の登場をずいぶん奇妙に思ったのはまちがいありません。いきなり静かな暗闇からあらわれて、わけのわからない騒音をたて、マッチの音と炎を手にしているのです。というのも、かれらはマッチも忘れ去っていました。『わたしのタイムマシンはどこだ?』とわたしは腹をたてた子供のように叫び、かれらを捕まえるとまとめて揺さぶりました。かれらにしてみれば、ずいぶん奇妙に思えたでしょう。何人かは笑いましたが、ほとんどは心底おびえた様子でした。まわりに立っているかれらを見たとき、恐怖の感覚を呼び覚まそうとするなんて、自分がいまの状況で最高に愚かしいことをやっていると自覚しました。というのもかれらの日中の振る舞いから判断して、わたしはかれらが恐怖を忘れたにちがいないと思ったのです。

 あわててわたしはマッチをおろし、一人を突き倒しつつも、また巨大な食堂をよろよろと抜けて、外の月光の下に出ました。恐怖の声と、かれらの小さな足があちこちで走っては転んでいる音が聞こえました。月が空に上るにつれて自分のやったことをすべて覚えているわけではありません。たぶん、狂乱してしまったのは、まったく予想もしない形でマシンを失ってしまったからなのでしょう。わたしは自分の同類たちから絶望的に切り離された気がしました――未知の世界での奇妙な動物になってしまったのです。あちらへこちらへとさまよい、神と運命に向かって泣き叫びました。絶望の長い夜が過ぎるにつれて、ひどい疲労におそわれた記憶があります。絶対にあり得ないような場所をあちこちのぞいたことも。月に照らされた廃墟の中を闇雲につかみ回り、黒い影の中の奇妙な生き物に触れたことも。最後に、スフィンクスの近くの地面に横たわって、圧倒的な悲嘆にくれて泣いたことも。それからわたしは眠りに落ちました。目をさますと、真っ昼間で、土盛りの上ではツバメが二羽、手の届くところで飛び跳ねていました。

 わたしは朝の新鮮さの中で身を起こし、自分がどうやってここにたどりついたか、なぜ自分がこんなにも深い孤独と絶望を感じているのか、思い出そうとしました。すると頭の中がはっきりしてきました。ふつうのまともな日光の元で、わたしは自分の状況を真正面から公平に見ることができたのです。夜間の狂乱ぶりがとんでもなく愚かしかったことも悟りましたし、自分で自分に合理的な説明もできました。『最悪の場合を想定してみようか。仮にマシンが丸ごと失われ――あるいは破壊されていたら? 当然ながらわたしはおちついて辛抱強くなり、ここの人々の風習を学んで、マシンがどのように失われたかはっきり理解しようとして、材料や道具を手に入れる手段を身につけねばならない。そうすればいずれ、もう一台マシンを作れるかもしれない』それが唯一の希望かもしれませんが、でも絶望よりはましです。それになんと言っても、ここは美しくおもしろい世界ではあったのです。

 でもおそらく、マシンは単にどこかへ運び去られただけでしょう。それでも落ち着いて辛抱強くその隠し場所を見つけ、力づくか籠絡かによってそれを取り戻さなくてはなりません。そう思ってわたしはさっと立ち上がってあたりを見回し、水浴びできる場所がないかと思いました。朝の新鮮さのおかげで、自分も同じくらい新鮮な気分になりたいと思ったのです。興奮するのには疲れてしまいました。作業を始めるにつれて、前日のすさまじい興奮ぶりを我ながら不思議に思っているほどでした。小さな芝生のまわりの地面を慎重に調べてみました。通りがかった小さな人々の一部に、そうしたことを精一杯伝えようとして、無駄な質問時間をとられてしまいました。だれもわたしの身振りを理解してくれませんでした。一部はぽかーんとその場に突っ立って、一部はそれが冗談だと思って笑いました。その笑うかわいい顔につかみかかりたいのを抑えるのは、実に至難の業ではありました。ばかげた衝動ではありましたが、恐怖と目もくらむ怒りに憑かれた悪魔は抑えがきかず、いまだに我が困惑につけ込もうとしていたのです。地面のほうが優れた情報を与えてくれました。スフィンクスの台座と、到着時にひっくり返ったマシンと格闘したわたしの足跡との間の半ばくらいに、溝が引き裂くように刻まれていたのです。それ以外にも移動のしるしがありました。ナマケモノがつけたと思えるような、奇妙な狭い足跡などです。これで関心がこの台座にしぼられました。それは、すでに申し上げたと思いますが、ブロンズ製でした。ただの箱ではなく、どの面も深いふちどりつきのパネルで入念に装飾されていました。叩いてみると、台座は空洞になっていました。パネルを慎重に調べると、それが枠とは分離しているのがわかりました。取っ手も鍵穴もありませんでしたが、もしこのパネルが思ったように扉であるなら、中から開くのでしょう。一つだけまちがいないことがありました。わがタイムマシンが台座の中にあると推測するのは、大してむずかしくありませんでした。でもなぜそれがそこに入ったのかは、別の問題です。

 オレンジの服をまとった人の頭が二つ、茂みの中を通って、花に覆われたリンゴの木の下をこちらにやってくるのが見えました。かれらにほほえみかけると、こちらに差し招きました。かれらがくると、わたしはブロンズの台座を指さして、これを開けたいのだという願いを伝えようとしました。でもこれを初めて身振りでつたえたとき、かれらの振る舞いは実に奇妙なものでした。その表情をどうお伝えしたらいいものやら。繊細な心を持った女性に、とんでもなく不適切な身振りをしてみせたとしましょう――そのときの女性の表情です。二人は、これ以上の侮辱はあり得ないとでもいうようにその場を去りました。白い服の優しそうな人物も試してみたが、結果は全く同じでした。なぜか、かれの様子を見てわたしは自分が恥ずかしくなりました。でも、ご承知のとおりタイムマシンを取り戻したかったので、もう一度その人物に働きかけてみました。かれが他のみんなと同じように背を向けると、ついカッとなってしまいました。たった三歩で追いつくと、そのローブのゆるい首周りをつかんで、スフィンクスのほうに引きずっていきかけたのです。でも、その表情に浮かんだ恐怖と嫌悪を見て、突然放してやりました。

 でもわたしはまだ負けてはいませんでした。ブロンズのパネルをげんこつで殴りつけました。何かが中で動くのが聞こえたような気がしました――正確には、何かくすくす笑いのような音が聞こえたような気がしたのです――でもこれは気のせいでしょう。それから、川で大きな石を拾ってくると、それを持って殴りつけ、おかげで装飾の渦巻きが一つつぶれ、緑青が粉状のかけらになって落ちてきました。繊細で小さな人々は、遠くからでもわたしが荒っぽい激情に駆られて殴りつけているのが聞こえたにちがいありませんが、何も起こりませんでした。斜面に集団がいて、こっそりこちらを見ているのがうかがえました。とうとう暑くて疲れてしまったので、わたしは座ってその場を眺めました。でも、長く見物しているほどの落ち着きはありません。わたしは長い夜警をするにはあまりに西洋人すぎるのです。ある問題に何年も取り組むことはできますが、二四時間何もせずに待つとなると――それは話が別です。

 しばらくして起きあがると、あてもなく茂みの中を、丘に向かって歩き出しました。そして自分に言い聞かせました。『あわてるな。マシンに再会したければ、あのスフィンクスには手を出さないことだ。もし連中がマシンをどこかへ持ち去る気なら、ブロンズのパネルを壊しても何の役にもたたないし、持ち去らないなら、いつか頼めばすぐに返してもらえるだろう。あんなわけのわからないものの中で、あんなふうにパズルの前ですわりこんでいるのは絶望的だ。その先には偏執狂があるだけだ。この世界に直面しろ。その方法を学んで、観察し、その意味についての性急な憶測には気をつけろ』。すると、状況のおかしさが頭に浮かびました。何年もかけて研究と苦労を重ねて未来に到達しようとしてきたのに、いまや必死でそこから脱出しようとしている。わたしは人類がこれまで考案したこともないほど複雑で、最も絶望的なわなを自分に仕掛けてしまったのです。対象は自分自身でしたが、どうにも抑え切れませんでした。わたしはげらげら笑い出してしまいました。

 巨大な宮殿の中を通るうちに、どうも小さな人々がわたしを避けているように思えました。ただの思いこみかもしれないし、ブロンズの門を叩いていたのと何か関係があるのかもしれません。でも避けられているのは、まちがいないと感じました。でもわたしは、注意して何の懸念も見せないようにして、かれらを追いかけようとは絶対にしないことにしました。そして一日の終わりには、一人か二人が昔通りにやってくるようになりました。わたしは言語でも多少なりとも進歩をとげ、さらにあちこちで探求を深めました。細かい点が理解できなかっただけかもしれませんが、かれらの言語はとてつもなく単純でした――ほとんど具体名詞と動詞だけしかありません。抽象用語はほとんど、あるいはまったくなく、描写的な言語はほとんど使われません。文はふつうは単純で単語二つしかなく、主張や提案はきわめて単純なものしか伝えることも理解することもできませんでした。タイムマシンとスフィンクスの下のブロンズの戸に関する謎は、なるべく記憶の片隅におしやろうと決意しました。知識が増えれば、自然とそこにまた導かれるだろうと思ったのです。でも到着地点から半径数キロの範囲内にいると、ある種の感情にさいなまれたことはご理解いただけるでしょうか。

 わたしの見た限り、世界はすべて、テームズ峡谷と同じすばらしい豊かさを示していました。上ったすべての丘からは、同じように壮大な建物がたくさん見え、そのどれも材質や様式が果てしなく異なり、同じく緑が生い茂り、どこも花咲く木や樹木だらけです。あちこちで水面が銀のように輝き、彼方では土地は青い波打つ丘陵となり、やがて空の美しさにのみこまれていきました。すぐに目を引いた奇妙な特徴として、ある丸い井戸がいくつかあって、かなり深いもののようでした。一つはわたしが初めて歩いた丘の上の小道の横にありました。 他のと同じく、これもブロンズでふちどられ、妙にすり減っていて、小さなキューポラで雨から守られています。こうした井戸の横にすわり、竪穴の暗闇を見下ろしても、水の反射はまったく見られませんし、マッチで明かりをつけても、反射が見えるわけでもありません。でもそのすべてで、ある音が聞こえました。ズンズンズン、というような巨大な動力機関の鼓動のようです。そしてマッチの炎のたなびきかたから、この竪穴にはずっと空気が流入し続けていることがわかりました。さらに紙切れを一つに投げ込んでみると、ひらひらとゆっくり落ちていくかわりに、さっと急速に引き込まれて見えなくなってしまいました。

 またしばらくして、わたしはこれらの井戸を、斜面のあちこちに立っている高い塔と結びつけて考えるようになりました。というのもそのてっぺんには、しばしば強い日差しにさらされた砂浜で見られるようなかげろうが見られたからです。いろいろ総合して考えると、複雑な地下換気システムがあるという強い示唆が得られました。その本当の重要性は想像が困難だった。まずはそれを、この人々の衛生装置と関連づけようと思いました。すぐ思いつく結論ですが、圧倒的にまちがっていました。

 そしてここで、排水や電話や輸送手段などの利便施設については、この真の未来での期間中にほとんど学べなかったということは白状せねばなりますまい。ユートピアのビジョンや来るべき世界の描写は読んだことがありますが、そこには建物や社会的な仕組みなどについて、莫大な細部が書き込まれています。でもこうした細部は、全世界が想像の中に収まっているときにはすぐにわかるものですが、ここで見いだしたような現実のさなかにいる本物の旅行者には、まるで手の届かないものです。中央アフリカから出てきたばかりの黒人が、ロンドンについて自分の部族にどんな話を持って帰るか想像してみてください! 鉄道会社だの、社会運動だの、電信電話線だの、小包配達会社だの、為替だの等々についてかれに何がわかるでしょうか? でもわれわれは、少なくともそうしたことをかれに喜んで説明してやるべきでしょう! そしてわれわれの知っていることのうちで、この旅慣れぬ友人に理解させる、あるいは信じさせられるのはどの程度でしょうか? そして、いまの時代において黒人と白人の差がいかに小さいかを考えてみてください。そしてわたしとこの黄金時代の間隙がいかに大きいかも! わたしはほとんど目には見えないけれど、わたしの快適さに貢献していた多くのものがあることを感じていました。でも自動化された仕組みがあるという漠然とした印象以外には、その差についてほとんどお伝えできないのではないかと思います。

 たとえば葬儀の面では、火葬場や墓を思わせるものはいっさい見つけられませんでした。でも、ひょっとしたら自分が探検した範囲外に墓(または火葬場)があるのかもしれない、と思いつきました。これもまた、意図的に自分に投げかけた疑問で、わたしの好奇心はこの点で完全に敗北したかのようでした。この物体はわたしを不思議がらせ、そこからわたしはさらにある発見を行い、それでさらに不思議さはましました。この人々の中には、高齢者や体の不自由な人々がまったくいなかったのです。

 白状しますと、自動化された文明と退廃した人類に関する最初の理論についての自己満足は、長続きしませんでした。でも、それ以外には思いつきませんでした。何が難しかったかご説明しましょう。探検した巨大な宮殿のいくつかはただの生活場所で、大きな食堂と就寝用アパートでした。機械も、装置も、まったく見つかりません。それなのにこれらの人々は快適な布を身にまとっています。これも時には更新が必要でしょう。そしてかれらのサンダルは、装飾こそありませんが、かなり複雑な金属細工の成果でした。こうしたものがどうにかして作られなければならないはずです。でもこの小さな人々は、創造性のかけらも見せません。店もなく、工房もなく、お互いの交易の様子すらうかがえません。みんなひたすら穏やかに遊んで時間を過ごすばかり。川で水浴びしたり、遊び半分に愛を交わしたり、果物を食べて眠ったり。どうやって物事が運営されているのか、さっぱりわかりませんでした。

 そして再び、タイムマシンのことがあります。正体はわかりませんが、何かがそれを白いスフィンクスの空洞の台座に運び込みました。なぜでしょう。どう考えても想像つきません。あの水のない井戸も、あのかげろうを発する円筒も。ヒントが欠けているように思いました。感じたのは――どう言ったらいいでしょうか。たとえば何か書き付けを発見して、ここそこでごく普通の立派な英語で文章が書かれているのに、その間に単語や、ひょっとして文字すら、まったく見たこともないようなものが混じっている、という感じでしょうか。とにかく訪問の三日目には、80万2千701年の世界はわたしにはそう見えたのです!

 またその日は、一種の――友だちもできました。たまたま、浅瀬で水浴びをしているこうした小さな人々を見ていると、一人が足をつらせて、下流に漂いはじめたのです。本流はかなり急でしたが、そこそこの泳ぎ手でもそんなに強いとは感じなかったでしょう。ですから、目の前で溺れている弱々しく泣き叫ぶ者をだれもまるで助けようとしなかったというのは、これらの生き物に見られる奇妙な欠陥について何事かを物語るものでしょう。これに気がついて、急いで服を脱ぎ捨て、もっと下流の地点で水に入ると、可哀想なやつをつかまえて、彼女を安全な陸地へと引き戻しました。手足をちょっとさすってやると、すぐに息をふきかえし、彼女をあとにしたときにはもう大丈夫だというのがわかって、わたしは満足でした。彼女の種族について実に低い評価しかしていなかったので、感謝はまったく期待していませんでした。でもこの点でわたしはまちがっていました。

 これが起きたのは朝でした。午後に探検から自分のセンターに戻りかけていたとき、あの小さな女性だと思われる女性にでくわし、そして彼女は喜びの声をあげてわたしを迎え、大きな花束を差し出しました――明らかにわたし一人だけのために作られたものです。それはわたしの想像力に訴えかけるものでした。たぶん寂しい気持ちがあったせいものあるのでしょう。いずれにしても、その贈り物がうれしいことを精一杯伝えました。やがてわれわれは小さな石のあずまやに並んで腰掛け、もっぱら微笑みあいから成る会話に没頭しました。この生き物の人なつっこさは、まさに子供と同じような形でわたしに影響しました。お互いに花をやりとりして、彼女がわたしの手にキスをしました。わたしも同じことを彼女の手にしました。それから話そうとして、彼女の名前がウィーナということを知りました。これは、意味はわかりませんでしたが、なぜか彼女にふさわしいように思いました。これが奇妙な友情の発端でした。一週間続いて、そして終わりは――これからお話しします!

 彼女はまさに子供のようでした。いつもわたしと一緒にいたがります。どこにでもついてこようとして、次に出かけてうろつく探索行にでかけたときには、彼女を疲れ果てさせ、ついには疲れ切っていささか悲しげにわたしの後から叫ぶまま後に残していくのは、胸が痛みました。でも世界の問題は理解しなくてはなりません。未来にやってきたのは、些末な恋愛ごっこのためじゃないんだ、とわたしは自分に言い聞かせました。でも後に残していったときの彼女の悲嘆はすさまじく、別れるときの説得ぶりは時に狂乱の域に達していて、彼女の献身ぶりからは、喜びと同じくらいの困惑を得たものです。それでも彼女は、なぜか実に大きな喜びをもたらしてくれたのです。彼女がわたしにくっついてきたのは、単なる子供じみた愛情のせいだと思っていました。手遅れになるまで、彼女を後にしたときにわたしが彼女にどんな危険をもたらしていたのか、はっきりとは理解できませんでした。手遅れになるまで、自分にとって彼女が何なのかはっきりとは理解できていませんでした。というのも、単にわたしのことを気に入った様子を見せ、弱々しく無意味な形でわたしを気にかけてくれているのを示すうちに、このかわいらしい生き物はまもなく、白いスフィンクスのあたりに戻ってくるのが帰宅に等しいような気分を作り出してくれたのです。そして丘を越えると同時に、わたしは彼女の白と金色の小さな姿を探すようになりました。

 世界から恐怖が消えたわけではないというのを学んだのも、彼女からでした。彼女は昼間は恐れ知らずでしたし、実に不思議なことに、わたしをえらく信用していました。一度、ちょっとふざけて彼女に脅かすようなそぶりをしてみせたのですが、笑い飛ばされただけでした。でも彼女は闇を恐れ、影を恐れ、黒いものを恐れていました。唯一彼女にとって恐ろしいものは、暗闇でした。それはずばぬけて情熱的な感情であり、わたしはそれでずいぶん考え込み、さらに観察を重ねました。そして、いろいろ発見したことの一つとして、こうした人々が日暮れ以降は大きな家に集まっていて、群れて眠るということがありました。明かりを持たずにこうした家に入ると、かれらは不安がって大騒ぎします。一人として日が暮れてからは外に出ず、屋外で一人で眠る者もいません。でも、わたしは頭がかたすぎて、その恐怖が教えてくれるものに気がつかず、そしてウィーナのおびえにもかかわらず、わたしはこの大群の眠りから離れて眠ることにこだわったのでした。

 彼女は大いに困惑しましたが、最終的にはわたしに対する奇妙な好意が勝利をおさめ、われわれが知己を得た五晩、最後の夜も含め、彼女はわたしの腕を枕にして眠りました。が、彼女の話をするとつい話がそれます。彼女の救出の前の晩だったはずですが、夜明け頃に目が覚めました。溺れて、イソギンチャクがその柔らかい触手で顔をなでまわしているという実に不快な夢を見ていてうなされていました。びくっとして目を覚ましましたが、なにやら灰色がかった動物がたった今部屋から飛び出していったという奇妙な印象が残ったのです。もう一度眠ろうとしましたが、落ち着かず不愉快な感じでした。物事がちょうど闇からゆっくり抜け出そうとする、薄暗い灰色の時間で、何もかも色彩を欠いて明瞭で、それなのに非現実的に見えるのです。起きあがり、大広間に入り、さらにそこを出て宮殿の前の旗台に出たのです。そこで用を足すとともに、日の出を見ようと思いました。

 月が沈もうとしていて、消えゆく月光と夜明けの最初の明かりが混じって、不気味な薄明かりとなっていました。茂みはインキのように真っ黒で、地面は重々しい灰色、空は無色で陰気です。そして斜面の上のほうに、幽霊が見えたような気がしました。斜面を見渡すたびに、そこに何度か白い姿が見えたのです。二度は白いサルのような生き物がいささか素早く丘を駆け上っているのが見えたような気がしたし、一度は廃墟の近くで、それが三人一組でなにやら黒っぽい物体を運んでいるのが見えました。動きは素早く、それがどこへ向かったのかはわかりませんでした。茂みの間に消え失せたようです。夜明けはまだ明瞭ではなかったことをご理解ください。ちょうどみなさんもご承知かもしれない、あの寒い自信のない早朝の雰囲気を感じていたのです。自分の目が信用できませんでした。

 東の空が白むにつれ、昼の光が強まって、その鮮やかな彩色が再び世界の上に戻ってくるにつれて、わたしは風景の中を熱心に探し回りました。でも、あの白い人影は影も形もありません。あれは単に、おぼろな光の生き物だったのかもしれません。「幽霊だったんだろう。いつ死んだんだろうか」とわたしは口に出しました。というのも、グラント・アレンの奇妙な発想がふと思い浮かび、おもしろいなと思ったのです。各世代が死んで幽霊を残すなら、世界はやがて幽霊過密になってしまうだろう、とかれは論じました。その理論にしたがえば、80万年ほど後では幽霊は文字通り無数になっていたでしょうし、だから4匹一度に見たところで何の不思議もありません。でもその冗談は満足のいかないもので、わたしは朝の間ずっとあの姿のことを考えていたのですが、そこでウィーナが救いにあらわれて、それを頭から追い払ってくれました。わたしはそれを、初めて熱心にタイムマシンを探したときに脅かした、あの白い動物となぜかしら結びつけていたのです。でも、ウィーナの方が考えるには気分がよかった。とはいえ、それらはやがて、わたしの意識に遥かに恐ろしい形で取り憑くことになるのです。

 この黄金時代の天候が、われわれの時代よりずっと暑かったことは申し上げたかと思います。理由はわかりません。太陽が暑くなったのか、地球が太陽に近づいたのか。将来は太陽がどんどん冷却化すると考えるのが通例のようです。でも若きダーウィンのような考察に慣れていない人々は、惑星はいずれ一つずつ母星に落下して戻らなくてはならないのだ、ということを忘れてしまいます。こうした転変地異が起こるにつれて、太陽はエネルギーを更新してまた燃えさかるでしょう。そして、いくつか内側の惑星がこうした運命を迎えたのかもしれません。理由は何であれ、太陽はいまよりもずっと暑かったというのは事実です。

 とにかく、とても暑いある朝――たしか四日目だったと思います――眠って食事をする大きな家に近い、巨大な廃墟の中で、熱と陽光から逃れようとしているとき、奇妙なことが起こりました。煉瓦の山を登っているうちに、狭いギャラリーに出たのですが、その端とスライド式の窓が倒れてきた石の山でブロックされています。屋外の明るさに比べて、最初はそこは入るのもはばかられるほど真っ暗に思えました。明るいところから暗いところに変わって、目の前に色のついた点がちらちらしているほどだったので、手探りでその中に入りました。急にわたしは、呪文にかかったように凍り付きました。外の日光を反射して輝く目が二つ、暗闇の中からこちらを見ているのです。

 昔ながらの本能的な野獣に対する嫌悪がわき起こりました。手を握りしめると、ぎらつく目玉をしっかりとにらみつけました。背を向けるのはこわかった。そのとき、人類が絶対的な安全の中に暮らしているように思えたことが頭に浮かびました。そして暗闇に対する奇妙な怯えも。多少は自分の恐れを克服して、わたしは一歩進み出て話しかけてみました。その声がきつくて、抑えが効いていなかったことは認めざるを得ません。手をのばすと、何か柔らかいものに触れました。すぐに目は横に飛び退いて、何か白いものが脇をすりぬけていきました。わたしは死ぬほど驚いて振り返り、そして奇妙な小さいサルのような姿が、独特の形で頭を下げ、背後の陽に照らされた空間を駆け抜けるのを目にしたのです。それは花崗岩のかたまりにぶつかって、よろめき、そして一瞬で別の壊れた煉瓦壁の山の下にある、黒い影の中にかき消えてしまいました。

 それについてのわたしの印象は、もちろん不完全なものです。でもそれが鈍い白で、奇妙に大きな灰色がかった赤の目をしているのはわかりました。さらに頭と背中にかけて亜麻色の毛もありました。でも申し上げたように、はっきり見て取るにはあまりに素早かった。それが四つ足で走ったのか、前の腕をとても低く下げていただけなのかもわかりませんでした。一瞬ためらってから、わたしはそいつの後を追って二つ目の廃墟の山に入っていきました。最初はそいつを見つけられませんでした。でもその広大な茫漠の中でしばらくするうちに、すでにお話ししたあの丸い井戸のような開口部の一つに出くわしました。これが倒れた柱によって半分閉じています。いきなりひらめきました。あの生き物は、この竪穴の中に消えたんじゃないか? わたしはマッチをともし、見下ろすと、小さな白い動く生き物が見え、そいつが大きな明るい目で、退却しつつもこっちをじっとにらんでいました。実に人間グモのようでした! そいつはかべをはい降りつつあって、いまや初めてその竪穴に金属の足場がたくさんついていて、そこを降りるはしご代わりとなっているのがわかりました。そのときマッチの火が指を焼き、手から落ちて、落下するうちに消えてしまい。そしてもう一本マッチを擦る頃には、小さな怪物は消えていました。

 その井戸の中を、どれほどのぞきこんでいたのかはわかりません。自分が見たものが人間だったと言うことを自分に納得させるのに成功するまで、かなりの時間がかかりました。でもやがて、真実が見えてきました。人類は一つの種のままではなく、二種類のちがった動物へと差別化していったのです。地上世界の我が優雅な子どもたちは、われわれの世代の唯一の子孫ではなく、わたしの目の前を駆け抜けた、あの漂白されて醜悪な夜行性の代物も、この時代を通じてずっと子孫だったのだ、と悟ったのです。

 わたしはちらつく小塔と、自分の地下換気理論のことを考えました。かれらの真の意義がわかってきたのです。そしてこのレムールは、完全にバランスのとれた組織という我が図式の中で何をしていたのでしょうか? 美しい地上世界人たちの怠惰な静穏とどう関係しているのだろう? そしてあの縦穴の底、地下には何が隠されているのだろう? わたしは井戸のふちにすわって自分に言い聞かせました。とにかく何も恐れることはないのだ、と。そして我が困難の解決のためには、あそこに下って行かなくてはならないのだ、と。 そしてそれにもかかわらず、わたしはそこに行くのが心底怖かった! ためらううちに、美しい地上世界の人々が二人走ってきて、日光の中を影から影へと走る、かれらの優雅なスポーツをやっていました。男が女を追いかけ、走りながら花を投げつけています。

 かれらは、ひっくり返った塔に腕をかけて井戸をのぞいているわたしを見つけて、おびえたようでした。どうやらこうした装置について言及するのはよくないことと思われていたようです。というのも、これを指さして、かれらの言語でそれについての質問をしようとすると、かれらはいっそうおびえて、背中を向けてしまいました。でもマッチには興味を持ったようで、かれらを楽しませるために何本か擦ってやりました。井戸についてもう一度きいてみましたが、また失敗です。そこで、じきにかれらを後にして、ウィーナのところに帰ろうと思いました。彼女なら何か教えてくれるかもしれません。でも頭の中はすでに大混乱していました。憶測や印象が揺れ動いては変動し、新しいところにおさまろうとしていたのです。いまやこうした井戸や換気塔、そして幽霊たちの謎についてヒントが得られました。そしてもちろん、ブロンズの門の意義やタイムマシンの行方についても! そして非常に漠然とですが、悩んできた経済上の問題の答えに向けて、示唆が思い浮かんだのです。

 新しい見方というのはこうです。明らかに、この人類二番目の種は地下にすんでいます。かれらがたまにしか地上に登場しないのは、長く続いた地下の習慣の結果だと思わせる状況証拠が三つありました。まず、暗闇の中でもっぱら過ごす動物たち――たとえばケンタッキーの洞窟に住む魚など――に共通の、あの漂白されたような外見があります。そしてあの光を反射できる大きな目は、夜行性動物の共通の特徴です――フクロウやネコをごろうじろ。そして最後に、日光の下で明らかに混乱していて、あわててしかもよたよた不器用に暗い影に逃げ出す様子、そして光の下にいるときには奇妙な形で頭を覆っていること――このすべては、瞳孔がきわめて敏感だという仮説を強化するものです。

 すると足下では、地下にすさまじいトンネルがほられ、そのトンネルは新しい人種の居住地になっているにちがいありません。丘の斜面沿いの換気シャフトや井戸の存在――いや、川の峡谷沿いを除けば実はあらゆる場所にありました――はその広がりがいかに広大かを告げています。でしたら、昼間の種族の安楽のために必要な仕事が、この人工の地下世界で行われていると想定すること以上に自然なことがあるでしょうか。この考えはあまりに納得がいったので、わたしはすぐにそれを受け入れ、この人類の分裂がどうやって起きたかを考え始めました。たぶんあなたたちも、わたしの理論の方向性は予想がつくはずだ、と申し上げておきましょう。でもわたし自身はといえば、やがてそれが真実に遙かに及ばないものであると感じることになったのですが。

 最初、われわれの時代の問題から考えを進めると、資本家と労働者の間の、現在では単に一時的で社会的な相違が徐々に拡大してきたのが、この状況すべてへの鍵だと言うことは真昼のように明らかに思えました。もちろんあなたたちにはグロテスクに思えるでしょう――そしてまるで信じられないと!――でも現在ですら、その方向を示すような状況が存在しているのです。文明の中であまり見栄えのしない目的のためには地下空間を使う傾向があります。たとえばロンドンでは都市地下鉄道がありますし、新しい電気鉄道も、地下通路も、地下の作業室やレストランもありますし、それが増えては増殖しています。明らかに、この傾向が拡大して、やがて産業は徐々に空に対する生得権を失ってしまったのだ、とわたしは思いました。つまりそれがますます深く、ますます大きな地下工場へと移行し、その中でますます多くの時間をすごすようになって、そしてついに――! 今ですら、イーストエンドの労働者たちは実に人工的な環境に住んでいて、実質的に地球の自然な表面からは切り離されているのではありませんか?

 またも、裕福な人々特有の性向――まちがいなく教育がますます洗練され、かれらと貧困者の粗野な暴力との間の溝が拡大してきたせいですが――のおかげで、地表面のかなりの部分は、かれらの利益になるような形で囲い込まれています。たとえばロンドン周辺では、見目麗しい方のいなかのうち、半分は侵入できないように囲われているでしょうか。そしてこの広がる溝――それは高等教育の長さと費用と、金持ちの洗練された習慣のための設備向上と魅力の高まりのせいなのですが――は、階級間の交流、現在では人類が社会的な階層化によって分断されるのを抑えている、あの階級間の婚姻による階級移動は、ますます起こりにくくなります。したがって最後には、地上には持てる者がいて、快楽と安楽と美を追究し、地下には持たざる者、自分の労働条件にますます適応する労働者たちがいるようになります。いったん地下に入ったら、まちがいなく賃料を支払うことになるでしょう。しかも、かなりの額のはずです。あの洞窟の換気設備がありますから。そしてそれを拒否すれば、未払い金のせいで飢え死にするか絞め殺されるでしょう。惨めさや反逆心を感じるように作られた者たちは死にます。そしてついには、バランスが永続的なものとなり、生き残った者たちは地下生活の条件に立派に適応し、地上世界の人がこちらで感じているのと同じような幸せを、地下の暮らしで感じるようになります。わたしの目には、洗練された美としおれたような蒼白さはそこから十分自然に続いてくるものでした。

 わたしが夢見た人類の偉大な勝利は、心の中でまったく別の形をとって現れました。それはわたしが想像したような、道徳教育と全般的な協力の勝利ではありませんでした。かわりに、本物の貴族階級が完全な科学で武装して、今日の産業システムの論理的帰結にまで突き詰めたのが見いだされました。その勝利は単に自然に対する勝利ではなく、自然と仲間の人間に対する勝利でした。警告しておきますが、これは当時のわたしの理論でした。ユートピア関連書のパターンに関する手軽な案内はありませんでした。だからわたしの説明はまるっきりまちがっているかもしれない。それでも、いちばんもっともらしい説明だと思います。でもそう想定したとしても、ついに実現したバランスのとれた文明は、たぶんその最盛期を遙か昔に過ぎ、いまや衰退に落ち込んで久しいようでした。地上世界人たちのあまりに完璧すぎる安全保障は、かれらをゆっくりと退行させて、体の大きさも、強さも、知性も、全般に縮んでいったのです。この点はすでに十分にはっきりと見て取れました。地下世界人たちに何が起きたか、そのときはまだ見当がつきませんでした。でもそれまでに見たモーロックたちから判断して――ちなみにモーロックというのは、この生き物たちの呼び名でした――わたしがすでに知っていた美しい種族「エロイ」たちに見られるよりもっと激しい人間の変形が生じたものと思われます。

 そして困った疑念がわき起こりました。なぜモーロックたちはわたしのタイムマシンを持ち去ったのか? というのも、それを取ったのはまちがいなくかれらだと思ったのです。また、もしエロイが主人であるなら、なぜかれらはマシンをわたしのところに戻してくれないのか? そしてなぜかれらは暗闇をひどく恐れるのか? すでに述べたように、地下世界についてウィーナに問いただし始めましたが、ここでもがっかりさせられました。最初、彼女はわたしの質問を理解せず、理解した後はそれに答えることを拒否したのです。そして追求すると、詰問がきつすぎたのか、いきなり泣き出しました。この黄金時代に見た涙は、自分自身のものをのぞけば、それが唯一のものでした。それを見て、わたしはあわててモーロックたちのことで悩むのをやめて、こうした人間の遺産の徴をウィーナの目から消滅させることに専念しました。そしてまもなく、わたしが荘厳にマッチをともすのを見て、彼女は笑っては手をたたいていました。

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6.

「奇妙に思えるかもしれませんが、新しく見つけた証拠を、どう見ても適切だと思える形でフォローアップできるまでに二日かかりました。あの青白い体に、どうも独特の身がすくむ思いを感じたのです。かれらは、ミミズや、動物学博物館でアルコール漬けにして保存されているようなものに見られる、漂白しかけたような色をしています。そしてさわると、気持ち悪いほどに冷たいのです。たぶんわたしが身をすくませたのは、エロイからの好意的な影響も大きかったのでしょう。かれらのモーロックたちに対する嫌悪を、わたしも理解するようになりました。

 翌晩は、あまり眠れませんでした。健康状態もちょっと不調だったのでしょう。困惑と疑念に圧倒されていました。一度か二度、理由のはっきりしない強い恐怖に襲われました。小さな人々が月光に照らされて眠っている大ホールに、音をたてずに忍び込んだのを覚えています――その晩、ウィーナがそこにいました――そしてかれらがそこにいることで安心したのを覚えています。そのとき、この数日の間に、月が最後の月齢を経て、夜が暗くなるにつれて、この地下からの不快な静物たち、この漂白したレムールたち、かつての害獣に置き換わった新たな害獣たちの登場ももっと頻繁になるだろうと思い当たりました。そしてこの両日、わたしは避けがたい責務から逃避する人物の落ち着かない気分を味わってきました。タイムマシンを取り戻すには、この地下の謎に果敢に乗り込むしかないと確信していました。でもその謎に直面できませんでした。連れがいれば、話はちがったでしょう。でもわたしはとてつもなく孤独で、あの井戸の闇に下りるだけでも、とんでもないという気分でした。この気持ちがご理解いただけるかはわかりませんが、背中にいつも危険を感じていたのです。

 この落ち着かなさ、この不安さのせいで、さらに探検旅行を進めようと思ったのかもしれません。南西部の、現在はコームウッドと呼ばれている高くなった地域に向かうと、十九世紀のバンステッドの方角に巨大な緑の構造物が遙かかなたに見えました。これまで見たほかのどんな建物とも性格がちがっています。これまで見た宮殿や廃墟のどれよりも大きく、そのファサードは東洋風でした。その表面は、ある種のシナの磁器のような光沢と淡い緑の色調、一種の青緑がかった感じがありました。この外見のちがいは、使途もちがうことを思わせました。だから前進して探求しようという気になりました。でもその日は遅くなっていましたし、その場所を見つけるまでにかなり長く疲れる旅をしてきました。そこで探検は翌日にまわそうと決めて、小さなウィーナの歓迎と愛撫のもとに戻ったのです。でも翌朝、緑の磁器の宮殿に対する好奇心は一種の自己欺瞞で、自分が心底やりたくない体験をもう一日先送りしようとしているだけだ、というのが自分ではっきりわかりました。どこでこれ以上時間を無駄にせずに、地下に下りようと決め、翌朝早朝に、花崗岩とアルミの廃墟の近くにある井戸のほうに出発しました。

 小さなウィーナがいっしょに走ってきました。井戸の横までわたしの隣で踊りましたが、その縁に乗り出してのぞき込んでいるのを見ると、彼女は不思議と当惑したようでした。『さよなら、小さなウィーナ』とわたしは彼女にキスしました。そして彼女を下に下ろすと、パラペットの向こう側を探ってのぼるためのフックを探しました。かなり急いでいたと告白しましょう。なぜなら、勇気が漏れ出てしまうのがこわかったからです! 最初、彼女は不思議そうにわたしを見ていました。それから実に悲しげな悲鳴をあげると、こちらに駆けだして、小さな手でわたしをひっぱり始めました。彼女の反対ぶりは、むしろ先に進むようわたしをうながしたと思います。彼女を、ひょっとするとちょっとあらっぽく振り払い、そして次の瞬間わたしは井戸の口に入っていました。パラペットの上に彼女の苦悶する顔が見えたので、にっこりして安心させてやりました。それから、見下ろして、自分がつかまっている不安定なフックを見なければなりませんでした。

 二百メートルほども縦穴をくだらなくてはならなかったでしょうか。下りるのは井戸の横からつきだした金属の棒につかまって行いましたが、これはわたしよりずっと小さくて軽い生き物のニーズに適応したものだったので、すぐに手足がしびれて疲れてきました。それもただの疲れではありません! 棒の一つが重みで急に曲がり、下の暗闇にわたしを落としかけたのです。一瞬、片手だけでぶら下がり、その体験の後は二度と休む気はしませんでした。腕や背中がすぐにひどく痛み始めましたが、なるべく早い動作でひたすら降下を続けたのです。上を見ると、開口部が小さな青い円盤となって見え、そこに星が見え、そして小さなウィーナの頭が丸い黒い影として見えています。下にある機械の鼓動はますます大きく抑圧的になってきました。頭上の小さな円盤を除くすべてが実に暗く、もう一度目を上げるとウィーナも消えていました。

 不快感がつのってつらい状態でした。縦穴を戻って登り、地下世界は放っておこうかとも思いました。でもこれを頭の中で反芻しつつも、降下を続けました。とうとう、心底ほっとしたことに、右手30センチのところに、細い抜け穴が壁にあるのがぼんやり見えました。そこに飛び込んでみると、横になって休める狭い横穴の開口部だったのです。腕が痛み、背中が凝っていて、落ちるのではとずっと怯えていたのでふるえていました。これ以外に、とぎれない闇が目には不愉快な影響をもたらしていました。空気は縦穴に空気を取り込んでいる機械の脈動と騒音でいっぱいでした。

 どれだけ横たわっていたのかはわかりません。柔らかい手が顔を触っているので気がつきました。闇の中でガバッと身を起こし、マッチをつかんであわてて一本擦りました。すると地上の廃墟の中で見たのと似た、よたよたした白い生き物が三匹、光の前にあわてて退却するところが見えました。かれらのように、わたしには何も見えない暗闇としか思えない中で暮らしているかれらの目は、以上に大きくて敏感でした。まるで闇の中の魚の瞳孔と同じで、そして同じように光を反射するのです。あの光なき闇の中でも、やつらにはわたしが見えるのはまちがいありません。そして光を除けば、かれらはまるでわたしを恐れていないようです。でも、連中を見ようとマッチを擦ったとたん、みんなあわてて逃げだし、暗い溝やトンネルに消えて、そこから目だけが実に不思議な形でこちらをじろりと見ています。

 呼びかけようとしましたが、かれらの言語はどうやら地上世界の人々のものとはちがっていました。だからわたしは当然、わが助けのない試みの中に取り残され、探検の前に逃げようという考えが早速頭に浮かびました。でも自分に言い聞かせたのです。『おまえはもう足を突っ込んでいるのだ』と。そしてトンネルの中を手探りで進むにつれて、機械の音が大きくなってくるのがわかりました。すぐに壁が開けて、大きな広場にやってきました。マッチをもう一本擦ると、巨大なアーチ上の洞窟に出たのがわかりました。それはわたしの光の届かない暗闇の彼方にまで広がっていたのです。わたしが見たのは、マッチの火で見えるだけのものでしかありませんでした。

 当然、記憶もはっきりしません。大きな機械状の巨大な形が闇の中からそびえ、グロテスクで黒い影を投げかけ、その影の中にぼんやりと、幽霊のようなモーロックたちが輝きから身を隠しています。ちなみにそこは、非常に息苦しくて圧迫感があり、空中には流れたばかりの血の臭気がかすかに感じられました。中央通路を少し下ったところに、白い金属の小さなテーブルがあって、そこに食事らしきものが置かれていました。モーロックたちは、何はともあれ肉食でした! その時ですら、目にした赤いジョイントに載るだけの大型動物で何が生き残ったのだろうか、と不思議に思ったのを覚えています。どれもはっきりしませんでした。きついにおい、巨大な意味不明の形、影の中でうごめく醜悪な姿、そしてそれが単に、闇がわたしを襲うのをひたすら待ちかまえている! そのときマッチが燃え尽きて指を焦がし、地面に落ちました。暗黒の中でもがく赤い斑点として。

 それまでにも、自分がこんな体験にはいかに装備不足だったかと考えたものです。タイムマシンで出発したときには、未来の人類はあらゆる道具において、われわれより途轍もなく先を行っているにちがいないというばかげた想定を持っていたのです。武器も、医薬品も、喫煙具も――時にタバコが死ぬほど恋しかったものです――マッチすら十分に持たずにやってきしてまいました。コダック(カメラ)を持ってくることを思いついていれば! この地下世界の様子を一瞬で写し取ることができたでしょうに。でも現実には、そこで立っているわたしは自然が与えてくれた武器しか持っていませんでした――手、足、歯。そしてそれに加えて、まだ手元に残った安全マッチが四本。

 わたしは闇の中でこんな各種の機械の中を前進するのが怖かった。そして光がやっと見えたところで、マッチの蓄えが底を尽きかけているのに気がつきました。その瞬間まで、マッチを節約する必要があるなどとは思わず、火を物珍しがる地上世界の住民を驚かせるのに箱の半分を使ってしまっていました。いまやすでに述べたように、マッチは四本しか残って折らず、闇の中で立っていると手がわたしのに触れ、ひょろ長いな指が顔をなで回し、そして独特の不快なにおいがしました。その怖気をふるうような小動物どもの群れの呼吸が、まわりで聞こえたような気がしました。手に握ったマッチ箱がそっと引きはがされ、そして他の手がわたしの服を引っ張っているのが感じられます。この目に見えぬ生き物たちがわたしを調べている感覚は、表現しようがないくらい不快でした。そして急に、かれらの考え方や行動様式を知らないという認識が、暗がりの中で鮮明に襲ってきました。思いっきり怒鳴りつけてやりましたよ。連中は驚いて離れましたが、でもまた接近してきたのが感じられました。もっと大胆にわたしにつかみかかり、お互いに変な声で囁きあっています。わたしは激しく身震いすると、いささかおびえたようにまた怒鳴りました。今回は向こうも本気では怖がらず、また戻ってきながら変な笑い声らしきものをたてています。白状しますと、わたしはすさまじく怯えていました。マッチをもう一本擦って、その輝きの保護のもとで逃げようと思いました。そしてそれを実行し、さらに炎をポケットから引っ張り出した紙切れを燃やして補いつつ、狭いトンネルへ一目散に逃げ出しました。でもそこに入ったか入らないかのうちに、光は吹き消され、闇の中でモーロックたちが風にそよぐ木の葉のようにかさかさと音をたて、パタパタと雨のような足音で、後を追ってきます。

 すぐにいくつかの手につかまれ、それがわたしを引き戻そうとしているのはまちがいありませんでした。もう一本マッチを擦って、火をあわてふためくやつらの顔の前で振りました。かれらがいかに吐き気のするほど非人間的だったか、ご想像いただけないと思います――あの青白い、アゴなしの顔と巨大でまぶたのないピンクがかった灰色の目!――その目が盲目と驚愕の中で見つめているのです。でも断言しますが、それを眺めるためにとどまったりしませんでした。再び退却し、そして二本目のマッチが消えたら、三本目を擦りました。縦穴に続く開けた場所に出たときには、それがほとんど燃え尽きていました。わたしは縁に横たわりました。下にある大きなポンプの脈動でめまいがしていたからです。それから横の方の、突き出したフックを手探りで探しましたが、そのとき両足が後ろからつかまれ、あらっぽく後ろに引っ張られました。わたしは最後のマッチを擦りました……が、それはすぐに消えました。でもすでに昇降用の手すりに手が掛かっていたので、激しくけ飛ばして、モーロックたちの手から自らをふりほどき、急いで縦穴をよじ登りました。かれらは後に残って、こちらのほうをのぞいては見上げています。ただし一人だけはしばらくついてきて、その勲章として正当にも一蹴りお見舞いされるハメになったのでした。

 その登りは果てしないように思えました。最後の十メートル近く、死にそうな吐き気に襲われて、手すりにつかまっているのが実にむずかしくなりました。最後の数ヤードは、この気雑しそうな感覚との恐ろしい戦いでした。何度か頭がくらくらして、落下するような感覚を味わいましたよ。でもついに、わたしはなんとか井戸の口を乗り越え、廃墟からヨロヨロとまぶしい陽光の中に出たのです。土ですら、あまく清潔な香りがしました。そしてウィーナがわたしの手や耳にキスし、ほかのエロイたちの声がしたのを覚えています。それから、しばらくは気を失ってしまいました」

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7.

「さて、いまやわたしはかつてよりひどい状況にはまったようでした。これまでは、夜の苦悶とタイムマシンの喪失を除けば、最終的には逃げられるという望みをつないでいたのです。が、この新しい発見によってこの希望が揺らぎました。これまでは、この小さな人々の子供じみた単純さと、何か理解さえすれば乗り越えられる未知の力によって妨げられているだけだと思っていました。でもモーロックたちの胸が悪くなるような性質には、まったく新しい要素がありました――なにか非人間的で邪悪なものです。本能的にわたしは彼らを嫌悪しました。それまでは、自分が穴に落ちた人物のように感じていました。いまや罠にはまった獣で、じきに敵がやってくるような感じがしたのです。

 わたしの恐れていた敵というのには、驚かれるかもしれません。それは新月の闇だったのです。ウィーナは暗い夜に関する、当初はわけのわからない発言によって、これをわたしの頭に植え付けました。いまでは、来る暗い夜が何を意味するか当てるのはそんなに難しくありません。月は細る一方でした。夜ごとに、闇の時間は長くなりました。そしていまや、小さな地上世界の人々が闇を恐れる理由について、ほんの少しばかり理解できるようになりました。モーロックたちは、新月のもとでどんな野蛮な行為を行うのでしょうかと、ぼんやり思いめぐらしたものです。自分の二番目の仮説がまったくまちがっていたことには、すでにかなり確信がありました。地上世界の人々は、かつては生え抜きの貴族だったかもしれず、モーロックたちはその機械的な召使いだったかもしれません。でもそれはとっくの昔に消え去っていました。人類の進化の結果として生じた二つの種は、まったく新しい関係に向かっていた、あるいはすでにそこに到達していたのです。エロイは、カロリング朝の王たちのように、ただの美しい無意味な存在に堕落していたのです。まだ 地上をお情けで所有はしていました。無数の世代にわたり地下で暮らしていたモーロックたちは、ついには太陽に照らされた地表面を耐え難く感じるようになったのです。そしてモーロックたちは、エロイたちの衣服を作り、その習慣上のニーズにも対応してやっているにちがいないと思いました。おそらくは、奉仕という古い習慣によって。それは立っている馬が足を踏みならしたり、人がスポーツで動物を殺すのを楽しむとの同じことです。古く、すでに不要となった生活上の必要性は、その肉体組織に刻まれているのです。でも、明らかにその古い秩序は部分的には逆転していました。繊細な人々の敵は、着実に迫ってきています。遙か昔、何千世代も前、人は兄弟の人々を安楽な生活と陽光から押し出してしまいました。そしていまや、その兄弟が変わり果てて戻ってきたのです! すでにエロイは、昔ながらの教訓を改めて学習することになっていました。かれらは恐怖を再び身近に感じるようになっていました。そして突然、地下世界で見た肉の記憶が戻ってきました。それをふと思いついたのは奇妙に思えました。いま思案していたことから連想されたわけではなく、むしろ外からの質問のように振ってきたのです。その形を思い出そうとしました。なにか見慣れたものだという気が何となくしましたが、その時は何だかわかりませんでした。

 でも、小さな人々がなぞめいた恐怖にとらわれるといかに無力になるとはいえ、わたしは作りがちがっていました。わたしは今のわれわれの時代、人類の成熟した最高潮の時代からきたのであり、これは恐怖で麻痺したりせず、謎がその恐怖を失った時代です。わたしは少なくとも自衛します。躊躇せずに、わたしは武器を作り、また中で眠れる要塞を作ろうと決意しました。そういう拠点があれば、夜ごとに自分がどんな生き物たちに晒されていたか気がついて失った自信を持って、この不思議な世界と対決できるでしょう。連中がすでにわたしをどういうふうに調べたか考えて、恐怖に身震いしました。

 午後には、テームズ峡谷に沿ってさまよいましたが、だれにも手が出せないと思えるような場所はまったく見つかりませんでした。あらゆる建物や木々は、あの井戸から判断して巧みな登り手だと判断されるモーロックたちにはすぐにたどりつけそうでした。そのとき、緑の磁器の宮殿の高い尖塔と、その壁の磨き上げられた輝きが思い出されました。そして晩には、ウィーナを子供のように肩にのせて、わたしは丘を登って南西に向かいました。距離は12--13キロくらいと見積もったのですが、実際は三十キロ近かったでしょう。最初は湿気の多い午後にその宮殿を見たのですが、これは距離感がかなり短く見える時間なのです。さらに靴の片方の踵がゆるんでいて、靴底に釘がささっていました――屋内でわたしの履いていた、古い快適な靴だったのです――おかげでびっこをひくようになりました。だから宮殿が見えるようになったのは、とっくに日が暮れたあとでした。宮殿は、空の淡い黄色を背景に黒いシルエットとなっています。

 ウィーナは、抱き上げて運び始めた頃には大喜びでしたが、しばらくすると、下ろしてくれと要求し、わたしの隣を走って、ときどき左右にかけだしては、花をつんでわたしのポケットにつっこむのでした。ポケットはずっとウィーナを不思議がらせていましたが、最終的に彼女は、それが花を飾るための風変わりな花瓶の一種だと結論したのです。少なくとも、彼女はポケットをその用途で使っていました。それで思い出した! 上着を着替えるときにこんなものを見つけたのです……」

 時間旅行者はそこで間を置き、ポケットに手をつっこんで、だまってしおれた花を二本小さなテーブルに置いた。花は、とても大きなシロゼニアオイにちょっと似ていた。そしてかれは、話を再開した。

「夜の静けさが世界に忍び寄り、丘の頂を越えてウィンブルドンに向かうにつれて、ウィーナは疲れてきて、灰色の石の家に戻りたがりました。でもわたしは彼方にある緑の磁器の宮殿の尖塔を指さし、彼女のおびえに対してあそこで難を逃れるのだというのをわからせようと苦闘しました。夕暮れの前に物事に忍び寄るあの大いなる間をご存じでしょうか? そよ風すら木々の間で止まります。あの晩の静止には、常に何か期待の雰囲気があるように思えるのです。空は澄んで高く、日没方向に水平に幾筋かたなびく雲以外は何もありません。しかしその晩、我が期待は我が恐怖の色を帯びていました。その暮れゆく静けさの中で、わたしの感覚は超自然的に鋭くなっているかのようでした。足下の地面の下の空洞すら感じられるように思ったほどです。それどころか、その中を見通して蟻塚の中のモーロックたちがあちこちうろつき、闇を待っているのが見えそうな気がしました。興奮のあまり、わたしが彼らの穴に侵入したら、連中はそれを宣戦布告と受け取るのではないかと思いました。それに、やつらはどうしてわたしのタイムマシンを盗んだのでしょう?

 そこでわたしたちは静けさの中を進み、夕暮れが深まって夜になりました。彼方の澄んだ青が消え、星が一つ、また一つと現れました。地面が薄暗く、木々が黒くなってきます。ウィーナの怯えと疲労がつのってきました。わたしは彼女を抱きかかえて、話しかけ、なでてやりました。すると、闇が深くなるにつれて、彼女はわたしの首に腕をまわし、目を閉じて、顔をしっかりと肩に押しつけてきました。そうやって、長い斜面を下りて谷に入り、暗がりの中で小川に踏み込みそうになりました。それを横切って、谷の反対側を登り、眠れる家をたくさん通り過ぎて、彫像の横をすぎました――フォーンかそれに近い姿ですが、頭がありませんでした。ここにもアカシアがありました。今のところモーロックたちの姿はまったく見えませんでしたが、まだ夜も早く、古い月が昇るまでのもっと暗い時間はまだこれからでした。

 次の丘のふちから、目の前に鬱そうとした森が果てしなく暗く広がっているのが見えました。これを見て、わたしは躊躇しました。森は右も左も途切れる様子がありません。疲れていたので――特に足がくたくたでした――わたしは止まるとともに、ウィーナを慎重に肩から下ろすと、土盛りの上に座りました。緑の磁器の宮殿はもう見えなくなっていましたし、自分が正しい方向に向かっているかも自信がなかった。濃い森を見て、そこに何が隠れているだろうと考えました。あの密にもつれあった枝の下では、星も見えないでしょう。何か危険がそこに潜んでいないにしても――そんな危険についてあれこれ想像をめぐらせることは敢えてしませんでした――つまづく根っこやぶつかる木の幹がいくらもあるでしょう。

 今日一日の興奮のあとで、わたしもかなり疲れていました。そこで、いまは森の踏破はやめて、今夜はこの開けた丘で過ごそうと決めたのです。

 ありがたいことに、ウィーナはぐっすり眠っていました。彼女を慎重に上着でくるんでやると、隣にすわって月の出を待ちました。斜面は静かで何もいませんでしたが、森の闇からは時々、生き物の気配が感じられました。頭上には星が輝いていました。夜空はとても澄んでいたのです。星の輝きには、なんだか親しげな安心感を感じました。でも昔の星座はすべて空から消えていました。人間の一生を百回繰り返してもわからないほどのゆっくりした動きが、はるか昔に懐かしい星の構成を並べ替えていたのです。でも天の川は、見たところ、昔ながらのまだらの星くずの帯でした。南(とわたしは判断しました)には、とても明るい赤い星があって、いまの緑のシリウスよりもさらに輝いていました。そしてこれらすべてのまたたく点の中に一つの明るい惑星が、親切そうにしっかりと、旧友の顔のように輝いていたのです。

 これらの星を眺めると、突然自分自身の苦労やこうした地上生活の桎梏がつまらないものに思えてきました。星までの想像もつかない距離を考え、そしてそれらが未知の過去から未知の未来へとゆっくり不可避に漂いゆくのを考えました。地軸が描く、大きな歳差周期のことを考えました。わたしの横断してきたあらゆる年月で、その静かな回転はたった四十回しか起きていません。そしてその数回転の中で、あらゆる活動、あらゆる伝統、複雑な組織、国、言語、文学、野心、そしてかつて知っていた人類の単なる記憶でさえ、存在からかき消されてしまったのです。かわりにいたのは、立派な出自を忘れたか弱い生き物たちと、そしてわたしが恐れたあの白い代物たちです。それから、この両種の間にある大きな恐怖のことを考え、そして初めて、とつぜんの身振りとともに、自分が見たあの肉が何だったかについて、はっきりとわかった気がしました。でも、それはあまりに恐ろしいことでした! 隣で眠る小さなウィーナを見て、星の下で白く星のような顔を長め、そのまま自分の思いつきを棄却したのです。

 その長い夜を通じて、できるだけモーロックたちのことを考えないようにしました。そして、かつての古い星座の痕跡をいまの新しい混乱の中に見いだせるようなふりをすることで時間をつぶしました。空は、たまのぼやけた雲の一つ二つを除けばとても澄んでいました。もちろん、時にうとうとしたはずです。そして不寝番がなんとか続くにつれて、東方の空に、無色の火からの反射のような、かすかな光が見られ、古い月が細くとがって白くのぼってきました。そしてその直後に、月を圧倒してかき消すように、夜明けがやってきました。最初は薄暗く、それからピンク色に暖かくなってきます。モーロックたちは一人も近づいてきませんでした。それどころか、その夜は丘の上にも一人も見かけませんでした。そして新しい日の安心感のおかげで、それまでの恐れがほとんど根拠のないものだったような気さえしてきました。立ち上がってみると、かかとのゆるんだ靴の足が、足首のところで腫れていて、かかとのところが痛むことに気がつきました。そこですわりなおして靴を脱ぐと、それを投げ捨てました。

 ウィーナを起こして、いまや黒く人を寄せ付けないどころか緑で快適な森に入っていきました。果実を見つけて、朝食とします。やがて優美な連中の他の人々に会いました。太陽の中で笑って踊っている様子は、自然に夜などというものがないかのようです。そのとき、見かけた肉についてもう一度考えてみました。今や、それが何かについて確信が持てました。そして、人間という大きな流れからの、この最後のか弱い細流たる人々に対し、心底から哀れみを感じたのです。明らかに、人間の衰退の遙か昔のどこかで、モーロックたちの食料が不足したのです。たぶん、ネズミなどの害獣で生き延びたのでしょう。いまの時代ですら、人間は昔に比べて、その食料の点ではるかに節操がなくえり好みがありません――どんなサルと比べても。人肉に対する偏見も、別に根深い本能というわけではない。というわけで、この非人間的なる人類の息子たちは――! わたしは事態を科学的な精神で見ようとしました。結局のところ、かれらはわれわれの三、四千年前の人肉食の先祖たちと比べても、人間性は少ないし時間的にも隔たっているのです。そしてこの種のことを苦痛な責め苦にしたであろう知性もなくなっていました。なぜそれを気にしてやる必要があるだろう? このエロイたちは、単に肥え太ったウシで、アリのようなモーロックたちはそれを保存し、食べていたのです――たぶん繁殖もするように管理されているのでしょう。そしてそこでわたしの隣では、ウィーナが踊っていました!

 そして迫ってきた恐怖に対して、それが人間の身勝手さに対する強硬な懲罰なのだと考えることで耐えようとしました。人々は、仲間の人類の労働のもとに、安楽で楽しげに暮らすことに満足して、必要性を金科玉条の口実としてきたために、時が満ちるにつれてその必要性が人類のもとにもどってきたのです。カーライル式に、このろくでもない退廃した貴族階級を非難もしてみました。でもこの意識的な態度をとるのは不可能でした。知的衰退がいかに大きなものだろうとも、エロイはあまりに人間の形態を保ちすぎているためにどうしても同類意識を引きおこし、かれらの衰退とその恐怖について否応なく同情してしまうのでした。

 そのときは、どんな方向をたどるべきか、ごく漠然とした考えしかありませんでした。まず考えたのは、安全な避難場所を見つけて、金属か石の武器を工夫して作ることでした。これはすぐにも必要でした。次に、何か火をつける手段を確保したいと思いました。そうすれば、手元にたいまつという武器が手に入ります。というのも、あのモーロックたちにこれ以上有効な武器はないのを知っていたからです。それから白いスフィンクスの下のブロンズのドアを破って開けられるような装置を作りたいと思いました。念頭においていたのはくい打ち用の槌のようなものです。もしあのドアを入って、手に光の閃光を掲げれば、タイムマシンを見つけて逃げ出せるという確信がありました。モーロックたちが、あれをそんなに遠くまで運べるほど強いとは思えませんでした。ウィーナは、この時代につれて帰ることにしていました。そしてこうした計画を頭の中で練るにつれて、わたしは想像の中で住まいと決めた建物目指して道を進んだのです。」

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8.

「昼も近くなって、緑の磁器の宮殿を発見しましたが、無人で、廃墟と化していました。その窓にはガラスのギザギザの痕跡だけが残り、そして腐食した金属の枠組みから、緑の外装材の大きなシートがはずれて落ちていました。土盛り状の丘陵のかなり高いところにあって、そこに入る前に北東方向を眺めると、巨大な河口や、小川さえも目に入ったのには驚きました。たぶんかつてワーズワースやバターシーがあったところだと思いました。そのとき思ったのは――もっともその後、その考えを進めることはありませんでしたが――海の生き物たちはどうなったのか、またはどうなりつつあるのか、ということでした。

 宮殿の材質は、調べてみると本当に磁器で、その表面に沿ってなにやら知らない文字でかかれているのが見えました。わたしは、いささか愚かなことですが、ウィーナがこれを解読する役に立ってくれるのでは、と思いましたが、わかったのはそもそも字を書くという発想すら彼女の頭には浮かんだことがない、ということでした。彼女はわたしにとって、いつも実際より人間的に思えたのです。たぶんその愛情が実に人間的だったからでしょう。

 ドアの大きなバルブ――それは開いて壊れていました――の中には、いつもの大広間のかわりに、多くの側窓で照らされた長い展示室が見つかりました。一見してそれは博物館を思わせました。タイル張りの床は厚くほこりがつもり、驚くほど多様な各種の物体が、同じ灰色の覆いに覆われていました。それから、明らかに巨大な骸骨の下半分が広間の真ん中に、奇妙な形でがっしりと立っているのに気がつきました。奇妙な足から、それがメガテリウムと似た絶滅した生き物だということがわかりました。頭蓋骨と上半身の骨は、その脇のほこりの中に転がっていて、一カ所は屋根の水漏れから雨水がしたたって、すりへってなくなっていました。展示室の奥に入ると、ブロントサウルスの巨大な骨格模型がありました。博物館だろうというわたしの仮説は確認されました。脇のほうに行くと、傾いた棚らしきものを見つけました。厚いほこりをはらうと、昔懐かしい、われわれの時代のガラスケースが見つかりました。でも内容物の一部の保存状態がよかったことから見て、気密ケースだったにちがいありません。

 明らかにその時立っていたのは、未来の南ケンジントンの廃墟の中でした! ここは明らかに古生物学室で、実にすばらしい化石の集合だったことでしょう。ただししばらくはくい止められ、バクテリアとカビの排除によって九割九分の力を失った腐食のプロセスは、そのきわめてゆるやかながらも絶対的な確実性を持って、再びその宝物すべてに作用していました。あちこちで、珍しい化石をこなごなに砕いたり、それを葦に通してビーズ状にしてみたりしている小さな人々の痕跡が見受けられました。そしてケースはときには、丸ごと消え去っていました――たぶんモーロックたちによってでしょう。この場所はまったく無音でした。厚いほこりが足音を消していました。ウニをケースの傾いたガラスで転がしていたウィーナは、見回すわたしのもとにすぐやってきて、とても静かに手をとると横に立ちました。

 わたしも最初は、この知的な時代の古代記念碑に実に驚かされ、それが提供する可能性についてはまったく頭に浮かびませんでした。タイムマシンに関する執着すら、ちょっと頭を離れたくらいです。

 規模から判断して、この緑の磁器の宮殿は、古生物学の展示室以外にもかなりいろいろあったようです。歴史展示室もあったでしょう。図書室すら! わたしにとって、少なくともいまの状況では、これはかつての地質学が腐敗しているのを見るよりもずっとおもしろかったでしょう。探検してみると、最初のものと交差して走る短い展示室を見つけました。これは鉱物の展示室らしく、硫黄のかたまりがあったので、頭は火薬に向かいました。でも硝石は見つかりませんでした。それどころか硫化物は何一つとして。まちがいなく、はるか昔に溶解したのでしょう。でも硫黄のことは頭にこびりつき、次々に思考を導きました。その展示室の他の内容は、全体としては見た中で一番保存状態がよかったのですが、あまり興味のないものでした。鉱物学はあまり専門ではありませんし。さらに入ってきたところにあったのと平行に走る、腐食の激しい棚がありました。明らかにこの部分は自然史の展示ですが、何もかも認識できないほどになってました。かつては動物の剥製だったものの縮んで黒くなった痕跡がいくつか、かつては生き生きとしていた標本のひからびたミイラ、枯れた植物の茶色いほこり:それだけです! これは残念でした。動物界の征服が実現された目新しい調整をたどれたらうれしかったでしょう。それから、ひたすら巨大な展示室にやってきましたが、ここだけ照明が暗く、その床はわたしの入った入り口からちょっと斜面になって下がっていました。間隔をおいて天井から白い球体がぶら下がっています――その多くはひびが入り、割れていました――どうやらもともとはこの場所は人工的に照明されていたようです。ここではわたしはもっと本領を発揮できました。両側には大きな機械の巨大な固まりがあって、どれも非常に腐食して多くは壊れていましたが、一部はかなり完全な形で残っていたからです。わたしが機械には目がないのはご存じでしょう。もうちょっとここでぐずぐずしていたい気持ちになりました。それらの多くがパズルのおもしろさを持っていたのでなおさらですし、いまではわたしは、その使途について実におおざっぱな推測しかできません。もしそのパズルを解いたら、モーロックに対抗するのに役に立つ力を手に入れられるのではと考えたのです。

 突然ウィーナが脇にぴったりと寄り添ってきました。それがあまりに急で、びっくりしたほどです。彼女のおかげがなければ、展示室の床が傾いていることにはまったく気がつかなかったでしょう(編注:もちろん、傾いていたのは床ではなく、博物館が丘の斜面に建っていたとも考えられる)。わたしが入ってきた端は、かなり地上高くて、間隔のあいたスリット状の窓で照らされていた。建物を下るにつれて、地上が窓に迫ってきて、やがてそれぞれの窓の前に、ロンドンの家屋の地下勝手口じみた穴蔵ができており、日光はてっぺんの細い線から入ってくるだけでした。ゆっくりとすすみ、機械のまわりで首を傾げ、明かりがだんだん少なくなるのに気がつかないほど意識を集中していましたが、ウィーナがますます不安がるので気がついたのです。そしてその展示室の端が、濃い闇の中へと続いているのが見えました。ためらいましたが、あたりを見回すと、ほこりが前ほどは多くなくて、その表面が他より不均一なのに気がつきました。さらに闇のほうに向かったあたりでは、どうも小さく狭い足跡でほこりが途切れているようです。モーロックがすぐ近くにいるという感覚が復活しました。機械の学術的な検討で時間を無駄にしていると思いました。すでに午後もかなりまわって、未だに武器もなく、隠れ家もなく、火をおこす手段もないことを思い出しました。そしてその展示室の奥の闇の中で、あの奇妙なピタピタという足音と、さらにあの井戸の奥で聞いた同じ変な音が聞こえたのです。

 わたしはウィーナの手を取りました。そのとき、いきなり思いついて、彼女を残して信号切り替え機に見られるようなレバーが突き出した機械のほうに向き直りました。台座の上によじ登り、そのレバーを手にとって、全体重を横方向にかけました。いきなり、中央の廊下に放り出されたウィーナがめそめそ泣き始めました。レバーの強さをかなり正確に見積もったようで、それは一分ほどの抵抗の後に折れ、わたしはウィーナのもとに、鉄棒を手に戻ったのです。この鉄棒は、出くわすどんなモーロックの頭蓋骨にも十分以上でしょう。そしてモーロックを一匹かそこら、殺してやりたくてたまりませんでした。自分の子孫を殺したがるとはなんと非人間的な、とお考えかもしれませんね! でもこいつらにいささかでも人間らしさを感じるのは、なぜか不可能でした。ウィーナを残していきたくなかったのと、殺人欲を満たし始めたらタイムマシンに害が及ぶかもしれないという信念があればこそ、展示室をまっすぐに出て、声の聞こえた蛮人を殺すのを控えたのです。

 片手に金てこ、片手にウィーナで、わたしはその展示室を出て、別のもっと大きな展示室に入りました。そこはぼろぼろの旗が下がった軍の礼拝堂を思わせました。壁の両側からぶら下がっている茶色い焦げたボロは、やがて腐食した無数の本だとわかりました。ずっと昔にこなごなになり、あらゆる印刷物らしさがすでに消え失せていました。でも、あちこちには曲がった板やひびの入った金属のクリップがあって、それで十分にわかりました。もし文筆家であれば、ここであらゆる野心の無力さについて道徳論を一節ぶったところでしょう。でもそのとき実に強く感じられたのは、この腐食する紙の陰鬱な荒野が証言している、壮大な労働の無駄でした。正直申し上げて、そのときわたしがもっぱら考えていたのは PHILOSOPHICAL TRANSACTIONS と、わたし自身の物理光学に関する論文十七編のことだったのです。

 それから広い階段をのぼって、かつては化学技術の展示室だったとおぼしきところに出ました。ここで役に立つ発見があろうとはまるで期待していませんでした。でも屋根が陥没した一端を除けば、この展示室はよく残っていました。壊れていないケースを一つ残らず、熱心に見て回りました。そして最後に、実に機密性の高いケースの一つで、マッチの箱を見つけたのです。期待に胸を躍らせてそれを試してみました。完全に使えます。湿気てさえいませんでした。わたしはウィーナの方に向き直りました。そして彼女のことばで「踊り」といいました。というのもいまやわたしは、恐れていた恐ろしい生き物に対する武器を手に入れたからです。そしてその荒廃した博物館で、厚く柔らかいほこりのカーペットの上で、ウィーナが大喜びしたことに、わたしは荘厳に一種の組み合わせダンスを上演しました。The Land of the Leal をできるだけ陽気に口笛で吹きながら、部分的にはお粗末なカンカンダンス、部分的にはステップダンス、部分的にはスカートダンス(わたしの燕尾服が許す限り)、そして一部は即興です。というのも、わたしはご存じの通り生まれつき発明の才がありますので。

 さて、いまでもこのマッチ箱が果てしない時の腐食を逃れたというのは実に奇妙なことだと思いますが、わたしにとっては実に幸運なことでした。でも、奇妙なことに、マッチよりずっと意外な物質も見つけたのです。それは樟脳でした。封をしたびんの中にあって、たぶんそれが偶然にも、実に魔法のように気密に封印されていたんだと思います。最初はパラフィンワックスかと思って、ガラスを叩き割りました。でも樟脳のにおいは間違いがたいものです。何もかもが腐敗する中で、この不安定な物質は偶然にも、何千世紀を通じて生き残っていたのです。何百万年もの昔に絶滅して化石化した、化石のイカ墨で描かれた、セピア色の絵のことを思い出しましたよ。捨てかけたところで、樟脳が可燃性で、しかも実に明るい炎をあげることを思い出しました――樟脳は優れたロウソクにもなるのです――だからポケットにしまいました。でも爆発物は見つからず、ブロンズのドアを破る手段も見つかりませんでした。いまだに金てこが手に入ったいちばん有用なものでした。とはいえ、そのギャラリーをわたしは意気揚々と立ち去ったのです。

 この長い午後の話をすべてお話しするわけにはいきません。あの探検をすべて正しい順序で思い出すには、かなり記憶をふりしぼらなくてはならないでしょう。錆びゆく武器の並んだ展示室があって、自分の金てこを捨ててなたか剣を取ろうかと、しばらくためらったものです。でも両方とも運ぶわけにはいきませんでしたし、ブロンズの門に対してはこの鉄の棒がいちばんいいと思えました。多くの銃、拳銃、ライフルがありました。ほとんどは錆の固まりになっていましたが、新しい金属でできたものも多く、かなりしっかりしていました。でもかつてあったであろう薬莢や火薬は、腐食してほこりになっていました。一角を見ると、焦げて砕け散っています。展示物の中で爆発があったのかな、と思いました。別のところには、たくさんの偶像がありました――ポリネシア、メキシコ、ギリシャ、フェニキア、世界の思いつく限りありとあらゆる国から。そしてここでは、どうしようもない衝動に負けて、わたしは自分の名前を特に気に入った南米からのステアタイト製化け物の鼻に書いてしまいました。

 晩が近づくにつれて、興味が薄れてきました。展示室から展示室へとめぐりましたが、どこもほこりまみれで、無音で、しばしば荒廃し、展示物はときにはただのサビと褐炭の山と化し、時にはもっと新鮮な状態でした。一カ所では、突然スズ鉱山の模型の近くにいるのに気がついて、そしてほんの偶然から、気密ケースの中に、ダイナマイトのカートリッジが二つあるのを発見しました! 「ユリイカ!」と叫んで、そのケースを喜々として壊しましたよ。それから疑念が生じました。ためらいました。それから、ちょっとした脇の展示室を使って、試験を行いました。五分、十分、十五分と待って、爆発が決して起きなかったときほどの失望を感じたことはありませんでした。もちろんそれは、ただの模型だったのです。その在処からして当然わかるべきでした。本当にそれがほんものだと信じていて、だから考えもせずにでかけてスフィンクスも、ブロンズのドアも、そして(後からわかったように)タイムマシンを発見する機会も、まるごと消滅させていたところでした。

 宮殿内のちょっと開けた場所にやってきたのは、その後だったと思います。土が盛ってあり、果樹が三本ありました。そこで休んで飲食をしました。日が暮れかけるにつれて、自分の立場を考え始めました。夜が迫ってきていて、わが誰にも手の届かない隠れ場所は未だに見つかりません。でもそれはいまや心配の種にはなりませんでした。わたしはモーロックたちに対する防御として、おそらくは最高のものを所有していました――マッチがあったのです! さらに閃光が必要な場合には、樟脳もあります。できる最高のことは、開けた場所でたき火に守られて夜を過ごすことだと思えました。朝には、タイムマシンをどうやって手に入れるかという問題があります。でもいまや、知識が増すにつれて、あのブロンズのドアについての印象もかなり変わってきました。いままでは、それをこじ開けようとはしませんでしたが、それは向こう側に何があるかわからなかったせいが大きいのです。前から大して頑丈なものとは思えませんでしたし、それをこじあけるのに十分使えるだけの鉄棒を探そうと思っていました」

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9.

「わたしたちは、太陽がまだ少し地平線上にあるときに宮殿から出てきました。翌朝早くに白いスフィンクスまでたどりつこうと思っていました。そして日没前にわたしは前の旅でわたしを止めた森の中を強行しようと提案しました。計画は、夜のうちになるべく遠くまででかけ、たき火をして、その輝きの保護下で眠ろうということでした。そのために、道々見かけた枝や乾いた草を片端から拾い、すぐに両腕はこうしたがらくたでいっぱいになりました。こんな荷物を持ったために、われわれの歩みは予想よりも遅く、それにウィーナも疲れていました。そしてわたしも睡眠不足に苦しむようになりました。だから森にたどりつくまでに真っ暗になっていました。森の縁の茂み状の丘で、ウィーナは目の前の闇を恐れて止まったことでしょう。でも来るべき争乱の突出した感覚が、本来わたしにも警告として働くべきだったのに、わたしを先に押しやりました。わたしは二日と一晩にわたり寝ておらず、熱っぽくて怒りっぽくなっていました。眠りが襲ってくるのを感じました。そして同時にモーロックたちも。

 ためらううちに、背後の黒い茂みの中で、黒を背景におぼろとはいえ、三つの姿がしゃがんでいるのが目に入りました。まわりはずっと茂みや背の高い草で、かれらの狡猾な接近から安全だとは思えませんでした。見積もりでは、森は幅 1.6 キロもありません。もしむきだしの丘陵地まで出られたら、そこのほうがずっと休息地としては安全だと思えました。マッチと樟脳があれば、なんとか森林の中で道を照らし続けられると思ったのです。でも、手でマッチをつけるなら、薪は捨てなくてはなりません。そこで、いささかがっかりしつつ、わたしはそれを下に置きました。そのとき、これに火をつければ後続の友人たちを驚かせられるな、と思いつきました。後でこの行為のどうしようもない愚かさを思い知るのですが、そのときは退路を隠すための賢明な動きだと思えたのです。

 人類のいない温帯気候において、炎がどんなに珍しい物かをお考えになったことがあるでしょうか。太陽の熱は、熱帯の一部で時々ある場合とはちがって、露で集中したときにも燃えるほど強烈にはほとんどなりません。雷が炸裂して黒こげにすることはあっても、大規模な火事を起こすことはめったにありません。腐った植生は、たまに腐敗熱でくすぶることはありますが、炎をあげることはまずありません。退廃の中で、火をおこす技術も地上から忘れ去られたのです。わが木の山をなめる赤い舌は、ウィーナにとってまるで新しく不思議なものでした。

 彼女は駆け寄って、火と遊ぼうとしました。抑えてやらなかったら、火に飛び込んだんじゃないかと思います。でもわたしは彼女を捕まえると、いやがるのもかまわずに、まっすぐ目の前の森に飛び込みました。しばらくは、火の輝きが行く手を照らしてくれました。振り返ってみると、密生した枝の隙間から、炎が隣接する茂みに広がったのが見え、そして火の曲がった線が丘の草を焼いていました。わたしはそれを見て笑い、そしてまた正面の暗い木に向かいました。真っ暗で、ウィーナはガタガタふるえながらしがみついて来ましたが、目が闇に慣れるにつれて、まだ枝を避けるのに十分な光はありました。頭上はひたすら真っ暗で、ただ遠くの青い空があちこちで降り注いでいました。両手がふさがっていたので、マッチは擦りませんでした。左腕には小さなウィーナを抱え、右手には鉄棒を持っていたのです。

 しばらくは、足の下で折れる小枝の音、頭上でざわめくかすかな微風、自分の呼吸音と耳の血管の脈動以外は何も聞こえませんでした。やがて、まわりにパタパタという音が聞こえたようです。わたしはむっつりと先へ進みました。パタパタという音はもっとはっきりしてきて、それから地下世界で聞いたのと同じ奇妙な音や声が耳をとらえました。明らかにモーロックたち何人かで、それが迫ってきているのです。そしてもう一分もすると、上着が引っ張られるのを感じ、それから何かが腕をつかみました。ウィーナはガタガタと身震いすると、まったく動かなくなりました。

 マッチをつける潮時でした。でもつけるには、ウィーナを下ろさなくてはなりません。下ろして、ポケットを探るうちに、ひざのあたりの闇でなにやら争いが始まりました。ウィーナはまったくの無音で、モーロックたちからは相変わらずのクークーいう音です。また柔らかい小さな手がわたしの上着と背中にしのびより、首筋さえ触っていました。そのとき、マッチが擦れて火を放ちました。その炎が燃えるままに掲げ、そしてモーロックたちの白い背中が、木々の間を逃げ去るのが見えました。急いでポケットから樟脳の固まりを出すと、マッチの火が衰えたらすぐに点火できるように準備しました。そしてウィーナを見ました。彼女はわたしの足をつかんで横たわり、まったく身動きせず、地面に顔を向けています。急に怖くなって、ウィーナのほうへ身をかがめました。ほとんど息もしていないようです。樟脳のかたまりに火をつけてそれを地面に投げると、割れて燃え上がり、モーロックと影を押し戻しました。そして跪くと、彼女を抱き上げました。背後の森は、盛大なお仲間たちの気配と物音だらけのようでした!

 彼女は気絶したようでした。わたしは慎重に彼女を肩に抱え上げ、立ち上がってさらに進もうとしましたが、そこで恐ろしいことに気がつきました。マッチとウィーナとを扱おうとして何回か向きを変えたために、いまやどちらが進むべき道なのか、皆目見当がつかなくなっていたのです。ヘタをすると、あの緑の磁器の宮殿に戻って向かっているのかもしれない。冷や汗が出てきました。急いで手を考えなくては。火をたいて、この場でキャンプすることに決めました。まだ身動きしないウィーナを盛り上がった木の幹におろすと、最初の樟脳のかたまりが消えかけてきたので、あわてて枝や葉を集めはじめました。周辺の闇の中のあちこちで、モーロックたちの目が石榴石のように輝いていました。

 樟脳がゆらいで消えました。マッチをともし、それと同時にウィーナに接近していた白い姿2つがあわてて離れました。一人は光であまりに目がくらみ、まっすぐこちらに飛びかかってきました。そしてげんこつで殴ると、骨がきしむのが感じられました。やつは絶望のほえ声をあげると、ちょっとよたよた歩いてから倒れました。わたしはもう一つ樟脳に火をつけて、たき火の燃料集めを続けました。やがて、頭上の葉の一部がかなり乾燥しているのに気がつきました。タイムマシンで到達して以来、一週間ほどにわたり、雨がまったく降らなかったからです。だから落ちた小枝を探して木々の間をうろつくより、飛び上がって枝を引っ張り下ろしはじめました。すぐにせき込むほどの煙を出す、緑の木と乾燥した枝のたき火ができて、樟脳を節約できました。それから、鉄棒の隣に横たわるウィーナのところに戻りました。なんとか息をふきかえさせようとして手をつくしましたが、死んだように横たわり続けています。息をしているかどうかもはっきりわかりかねました。

 いまや、炎の煙がこちらに吹き付けて、おかげで急に体が重くなったようです。さらに樟脳の蒸気がたちこめていました。炎はあと一時間は燃料補給が不要でしょう。奮闘の後でとても疲れて、すわりこんでしまいました。森も、理解できない眠たげなつぶやきでいっぱいでした。一瞬うとうとして、また目を開けただけだと思いました。でもあたりは暗くなっていて、モーロックたちがこちらにつかみかかってきています。しつこい指をふりはらい、あわててポケットの中を探り、マッチ箱を探しましたが――なくなっています! するとかれらはつかみかかり、間合いを詰めてきます。眠り込んでしまい、火が消え、死の恐怖の苦い味が魂に降りかかっていたのです。森林は燃える木のにおいで充満しているようでした。首を捕まれ、髪を捕まれ、腕を捕まれ、引きずり倒されました。こんな柔らかい生き物たちが自分の上に積み重なっているのを感じるのは、闇の中でどう表現していいかわからないほど恐ろしいことでした。自分が化け物じみたクモの巣につかまったような気分です。圧倒され、地に伏してしまいました。小さな歯が首をかじっているのがわかります。仰向けになり、そのとき手が鉄レバーに当たりました。それが力を与えてくれたのです。なんとか立ち上がり、人間ネズミどもを振り払って、棒を短く持つと、連中の顔があると思ったあたりを突きました。打撃により、柔らかな肉と骨が崩れるのが感じられ、しばらくは自由になりました。

 真剣な戦いにしばしばつきものの、奇妙な高揚感が訪れました。自分とウィーナがともに道に迷ったのはわかっていましたが、でもモーロックたちが肉を得るならそれなりの代償は支払わせるつもりでした。木に背中をつけて、前方で鉄棒を振り回しました。森は連中の気配と叫びでいっぱいでした。一分が過ぎました。彼らの声は、もっと高い興奮の声に上がったようで、その動きも早くなりました。でも、だれも手の届くところにはきません。わたしは立ったまま闇をにらみつけていました。そのとき、急に希望がわいてきました。モーロックたちはおびえているのでは? そしてその考えを終えたそのとき、奇妙なものがやってきました。闇が光を増してきたようです。ごくぼんやりと、まわりのモーロックたちが見えるようになってきました――三人がわたしの足を殴りつけています――そしてほかの連中が奔流となって憑かれたようにわたしの背後から駆けだしてきて、正面の森に逃げ込んでいるのに気がつきいて、わたしはひどく驚きました。そして彼らの背はもはや白くはなく、むしろ赤みがかっています。あんぐりと驚いて立っているうちに、枝の間の星の間に、小さな赤い火花が漂って横切って消えるのが目に入りました。そしてそのとき、燃える木のにおいも、いまや力強い轟音と化したあの眠たいつぶやきも、モーロックの闘争も、すべて理解できたのでした。

 木の背後から踏み出して振り返ると、手近な木の黒い柱を通して、燃える森林の炎が目に入りました。最初につけた火が、いまやわたしを追いかけてきたのです。それに気がついてウィーナを探しましたが、消えていました。背後のシュウシュウパチパチいう音、新しい木が炎上するときの爆発音から判断して、考えている余裕はありませんでした。鉄棒を握ったまま、わたしもモーロックたちに続きました。危ないところでした。一時は、右手の火があまりに早く広がり、追い越されそうだったために左へ曲がるしかありませんでした。でもやっと、小さな開けた場所に出て、それと同時にモーロックがわたしめがけて突進してくると、前を通りすぎて、まっすぐ火に飛び込んだのです!

 そしていまや、未来の時代が擁する最高に不気味で恐ろしい代物を目にすることになったのです。あたり一面が、炎の反射で真昼のように明るくなりました。真ん中には小さな丘か塚が、焼けこげたサンザシに覆われていました。その向こうにはまた一群の燃える森林で、そこからすでに黄色い舌がくねっていて、その空間を火の柵で完全に囲っていました。斜面にはモーロックが三十人か四十人、明かりと熱にあわてて、驚きの中であちこちおたがいにぶつかりあっていました。最初、かれらの目が見えないことに気がつかず、おびえに浮かされて、近くにやってきたものを鉄棒で思いっきり殴り、一人を殺して数人は手足をへし折りました。でも赤い空を背景にサンザシの中でうごめく一人の動きを見るにつけ、この輝きの中でかれらが完全に無力で惨めな状態なのを確信し、もうそれ以上は殴りつけませんでした。

 でもときどき、一人がまっすぐこちらに向かってきて、ふるえるような咆哮をあげるので、即座にそいつをかわしました。あるとき、炎がちょっとしずまって、醜い生き物たちがすぐにわたしを見られるようになるのが怖かった。これが起きる前に、何人か殺して戦いを始めようかと考えていました。でも炎がまたまばゆく息をふきかえし、わたしは手を押さえました。かれらの中、丘を歩き回ってそれを避けつつ、ウィーナの痕跡を探しました。でもウィーナは消えていました。

 とうとうわたしは、丘のてっぺんに座り、炎の明かりが照らす中で、この奇妙で不可解なめくらの生き物たちがあちこちよたつき、お互いに得体の知れない音をたてるのを眺めていました。渦巻く煙が空を横切って立ち上り、その赤いキャノピーがまれにとぎれたところでは、まるで別の宇宙に属しているかのように遠く、小さな星々が輝いていました。モーロックたちが二、三人ぶつかってきましたが、げんこつでなぐって追い払いました。ふるえながら。

 その晩のほとんど、わたしはそれが悪夢だったと確信していました。わたしは自分にかみつき、何とか目覚めようとして絶叫しました。両手で地面をたたき、立ち上がってはすわり、そこら中をうろつき、またすわりました。それから倒れて目をこすり、起こしてくれと神に呼びかけました。三度、わたしはモーロックたちが一種の苦悶に頭を下げて炎に飛び込むのを見ました。でも、やっと、消えゆく炎の赤の上に、流れる黒い煙の固まりの上に、白黒に焦げた木の切り株の上に、そしてかなり減った愚鈍な生き物の上に、昼の白い光が訪れたのです。

 もう一度ウィーナの痕跡を探しましたが見つかりません。連中が彼女の可哀想な体を森の中に残してきたのは明らかでした。彼女が、運命づけられていると思えたひどい末路を逃れたことを知って、どんなにか安心したことでしょう。それを考えるにつけ、まわりにいる寄る辺ない蛮族どもの虐殺を始めてやりたい気になりかけましたが、何とか自分を抑えました。丘陵地は、すでに述べたように、森の中の一種の島でした。その頂からは、いまでは煙による霞を通して緑の磁器の宮殿を見分けることができました。そしてそこから白いスフィンクスへの方向もつかめました。そこで、日が明るくなるにつれて、こうした呪われた生き物たちがあちこちへうめきながらうろつくのを後にして、足に草をまきつけて、煙を上げる灰や、まだ内側がくすぶる黒焦げた枝の中を通って、びっこをひきながらタイムマシンの隠し場所へと進みました。疲れ切っていたし、足をやられていたので歩みは遅く、小さなウィーナのひどい死について、実に強い悲嘆を感じていたのです。とてつもない悲劇に思えました。いま、この昔懐かしい部屋にいると、それは実際の損失と言うよりも、夢の悲しみのように思えます。でもその朝、それはわたしを再び絶対的な孤独の中に残したのです――まったくの孤独に。わたしはこの自分の家、この炉端、あなたたちの何人かのことを考え、そしてそうした考えとともに、痛いほどの渇望をおぼえました。

 でも明るい朝の空の下で、煙を上げる灰の上を歩きつつ、ちょっとした発見をしました。ズボンのポケットにまだ何本かマッチが残っていたのです。マッチ箱がなくなる前にこぼれたにちがいありません。」

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10.

「朝の8時か9時、わたしは到着した晩に世界を眺めた黄色い金属の座席にやってきました。到着した晩に出した拙速な結論を思い出して、当時の己の自信に対して苦々しい笑いをおさえことができませんでした。風景は相変わらず美しく、植生も相変わらず豊かで、すばらしい宮殿や壮大な廃墟も相変わらず、豊かな岸辺の間に銀の川が走るのも相変わらずです。美しい人々の陽気なローブが、木々の間をあちこち動いています。中には、わたしがまさにウィーナを助けたその場所で水浴びをしている者もいて、それがいきなり、差すような心の痛みをもたらしました。そしてその風景の染みのように、キューポラが地下世界への入り口の上に立っていました。いまや、この地上世界の人々の美しさすべてが何を隠しているのかがわかりました。かれらの日々は非常に快適で、草原のウシの一日のように快適なのです。ウシのように、敵も知らず、どんなニーズにも応える努力はいりません。そしてかれらの末路も、ウシたちと同じなのです。

 人類の知性の夢がいかにはかないものかを思って悲嘆にくれました。知性は自殺したのです。それは着実に快適さと安楽さを目指して進み、安全と永続性を合い言葉にしたバランスのとれた社会を目指し、そして望みを実現し――挙げ句の果てがこれです。かつて、生命と財産はたぶんほとんど絶対的な安全に到達しました。金持ちは、富と快適さを保証され、労働者は生命と仕事を保証されました。この完璧な世界では、失業問題もなく、社会問題で解決されないものはなかったことでしょう。そして大いなる静けさが続きました。

 人類が見落としたのは自然の法則です。知性の柔軟性は、変化と危険とトラブルを補うためのものだということです。環境と完璧に調和した動物は、完璧なメカニズムです。自然は、習慣と本能が役にたたなくなるまで知性に訴えたりはしません。変化も、変化の必要性もないところに知性はありません。実に様々なニーズや危険に直面しなくてはならない動物だけが、知性を持つのです。

 つまりわたしの見立てでは、地上界の人間は繊細なきれいさの方へ向かい、地下世界はただの機械的産業に向かったわけです。でもこの完璧な状態は、機械的な完成の点から見ても、一つ欠けているものがありました――絶対的な永続性です。明らかに時がたつにつれて、地下世界の食糧事情は、どんな形になっているにせよ、断絶してしまったのです。数千年にわたってお呼びがかからなかった必要の母が、復活して、彼女は地下世界から活動を始めました。地下世界の存在は機械を扱っていて、それはいかに完璧なものとはいえ、まだ習慣以外にちょっと思考が必要です。そして地下は、上の世界の人々に比べて、その他あらゆる人間の特性はいざしらず、おそらく必要にかられた行動を指向として維持したはずです。そして他の肉が手に入らなくなったとき、かれらは古い習慣がそれまで禁じてきたものに目を向けたのです。ですからわたしが、802701年の世界で見たのはそういうことだったと思います。もちろん一介の人間の頭が生み出した説明としてこれ以上はないほどまちがっている説明かもしれません。これはわたしなりの事態のまとめで、そういうものとしてお示ししています。

 過去数日の疲労と興奮と恐怖、および悲しみにもかかわらず、この座席と静謐な眺めと暖かい日光はとても気持ちのよいものでした。疲れて眠くて、やがて理論を組み立てるうちにうとうとしてしまいました。そういう自分に気がついて、土盛りの上に横になると、長く快適な眠りに落ちたのです。

 日没のちょっと前に目をさましました。いまや、昼寝中にモーロックたちに捕まる危険はないと感じ、のびをすると、丘をおりて白いスフィンクスに向かいました。片手には金てこを握り、もう片手はポケットのマッチをもてあそんでいました。

 そしてこんどは、実に意外なものに出くわしたのです。スフィンクスの基壇に近づくと、ブロンズのバルブが開いているのを見つけました。溝のなかにすべり下りていたのです。

 そのちょっと手前で止まり、入ろうか思案しました。

 中には小さな区画があり、そしてその隅の一段上がった場所にはタイムマシンがありました。小さなレバーはポケットに入っていました。つまり、白いスフィンクスの戦いに備えて入念な準備をしてきたのに、向こうはあっさり降伏してきたのです。わたしは鉄棒を投げ捨てましたが、それを使わなかったことがほとんど残念に思えたほどです。

 突然思いついて、わたしは開口部のほうに身を乗り出しました。少なくともこの時ばかりは、モーロックの頭の働きが理解できたのです。笑い出したいのをこらえつつ、わたしはブロンズの枠を乗り越えてタイムマシンに歩み寄りました。驚いたことに、入念に油を差してきれいにしてあります。わたしはそれまで、モーロックたちがマシンの目的を理解しようという愚かな試みの中で、部分的にせよそれを分解してしまったのではないかと思っていたのでした。

 立って調べて、その装置の感触だけでも喜びを感じているうちに期待通りのことが起きました。ブロンズのパネルが突然すべるように閉じて、ガチンと音を立てて枠に当たりました。わたしは闇の中です――しかも閉じこめられて。モーロックたちはそう思ったことでしょう。そう思ってわたしは喜々として笑いました。

 こちらに向かってくるかれらの、くぐもったような笑いがすでに聞こえていました。わたしは落ち着いてマッチを擦ろうとしました。あとはレバーを固定して、それから幽霊のように出発すればいい。でも一つだけ見落としていたことがありました。このマッチは、箱で擦らないと火がつかない、あのろくでもない種類のものだったのです。

 わたしが平静さをまるっきり失ったのは想像がつくでしょう。小さな野蛮人どもが近づいていたのです、一人がわたしに触れました。わたしはレバーを、闇の中で思いっきり振り回し、マシンのサドルにあわててよじのぼり出しました。すると手が一本わたしをつかまえ、さらにもう一本がのびてきました。そしてわたしは、とにかくそのしつこい指がレバーを奪おうとするのを払いのけつつ、そのレバーがはまる穴を手探りで探さなくてはなりませんでした。一本は、実はほとんどなくしそうになったほどです。手から滑り落ちたので、取り戻すのに頭で探し回るはめになりました――モーロックのどくろの指輪が聞こえたので。たぶんこの最後の奮闘は、森の中の戦いよりもきわどいものだったと思います。

 でもついにレバーがはまって、引き倒せたのです。しがみつく手がわたしから滑り落ちました。すぐに闇が目の前から消えました。気がつくと、すでに説明した灰色の光と大騒乱の中にいたのです」

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11.

「時間旅行に伴う気分の悪さと混乱についてはすでにお話しました。それに今回は、サドルにきちんとすわっておらず、不安定な形で横座りになっていたんです。どれほどでしょうか、わたしはマシンが揺れて振動する中しがみつき、そしてやっと再びダイヤルを見られるようになったとき、自分のたどりついたところには驚いてしまいました。一つのダイヤルは日を、一つは千日、一つは百万日、一つは十億日をあらわします。わたしはレバーを逆転させるかわりに、押しやって前に進むようにしたのですが、この目盛りを見ると、千の位の針が時計の秒針並の速度で回転しているのが見えました――未来に向かって。

 進むにつれて、物事の外見に奇妙な変化が忍び寄りました。脈打つ灰色がどんどん濃くなりました――わたしは相変わらず恐ろしい速度で進んでいたのに――昼と夜の点滅は、ふつうは速度が遅くなったことを示すのですが、それが復活して、しかもだんだん明瞭になってきました。これははじめのうち、かなり困惑させられました。昼と夜の交代がますます遅くなり、同時に空を横切る太陽の動きも遅くなって、何世紀もかかるようになりました。最後に地上はずっと夕暮れが続くようになり、それが破られるのは、たまに暮れゆく空に彗星が輝きつつ横切るときだけでした。太陽を示していた光の帯は、とっくの昔に消えていました。というのも、太陽はもう沈まなくなっていたのです――単純にのぼっては西に下り、そしてますます大きく、赤くなっていきました。月は影も形もなくなりました。星の巡りも、どんどん遅くなって、やがて光の点がにじむだけとなりました。とうとう、止まるしばらく前に、赤く巨大になっていた太陽は地平線の上で動かずに止まってしまい、鈍い熱を放ちつつ輝く広大なドームとなって、ときどき瞬間的に消えたりするのでした。一度、しばらくの間輝きを増したのですが、すぐにもとの鈍い赤い熱に戻ってしまいました。この太陽の昇り下りの停止から、潮汐の抵抗力の仕事が終わったことを理解しました。地球はもはや、太陽に片面だけを向けてじっとしているようになったのです。ちょうどわれわれの時代に月が一面だけをこちらに向けているように。とても慎重に(というのも、以前に頭から落っこちたのを覚えていたからですが)わたしは動きを元に戻しはじめました。だんだん回転する針がゆっくりとなり、やがて千の針が動きを止めたように見えて、一日の針が以前のように、目盛り上の霞には見えなくなってきました。さらに速度を落とすと、無人の浜辺のぼんやりした輪郭線が見えてきました。

 とてもゆっくりと止めてからタイムマシンにすわり、あたりを見回しました。空はもう青くはありませんでした。北東部は墨のような黒で、その黒さの中に、まばゆく動かずに青白い星が輝いていました。頭上は深いインディアンレッドで星はなく、南東部はだんだん明るくなって、まばゆい深紅となり、そこで地平線に分断される形で、太陽の巨大な輪郭がじっとしていました。赤く、不動です。あたりの岩は、きつい赤褐色で、最初目に入る唯一の生命の痕跡は、その岩の南東面に突き出すあらゆる点を覆っている、密生した緑の植生でした。森林のコケや、洞窟の地衣類でお目にかかるのと同じ深い緑です。こうした植物が、永遠の夜明けには育つのです。

 マシンは傾く浜辺に立っていました。南西に向かって海が広がり、青ざめた空を背景にくっきりと明るい水平線へと続いていました。波頭も波もありません。風が一吹きたりともそよいでいなかったからです。ただかすかな油っぽいうねりが、静かな呼吸のように上がっては消え、永遠の海がまだ動いて生きていることを示していました。そして水がときどき割れる水辺には、分厚い塩が結晶化していました――毒々しい空の下でピンク色をしています。頭の中が圧迫されるような感じがして、呼吸がとても速くなっているのに気がつきました。その気持ちは、前に一度だけ山登りをしたときのことを思い出させるものでした。そしてそこからわたしは、空気がいまよりも希薄になっているのだと判断したのです。

 荒涼とした斜面をずっと上がったところで、きつい悲鳴が聞こえました。そして巨大な白いチョウのようなものが、空をめがけて傾きつつ羽ばたいて、旋回しては向こうの低い丘陵の上に消えました。その声の音はあまりに陰気で、わたしは身震いするとマシン上にしっかりとすわりなおしました。見回すと、ごく近くの赤褐色の岩の固まりだとおもったものが、ゆっくりとこちらに動いているのに気がつきました。あそこのテーブルほども大きなカニを想像できますか。その多数の脚がゆっくりとあぶなっかしげに動いて、その巨大なツメが揺れ、その長い触覚が、荷馬車屋の鞭のように揺れては触れ、そしてその突き出した目が、その金属じみた正面の両側からこちらを見てるんです。その背中は波状で、醜い突起で飾られ、緑がかった付着物があちこちでそれに染みを作っています。その複雑な口の多くのひだが、動きながら揺らめいて感じているのを見ることができました。

 この忌まわしい幻影がこちらに這いずってくるのを見ていると、頬にハエがとまったかのようなくすぐったさを感じました。それを手で払いのけようとしましたが、一瞬で戻ってきて、ほとんど即座に別のが耳元にやってきました。それをはたくと、何かひも状のものがつかまりました。そしてそれがすぐに手から引き抜かれました。びくっとした不安とともに振り向くと、真後ろにいた巨大カニの触覚をつかまえたのだということがわかりました。その邪悪な目は茎の上でうごめき、口は食欲をむき出しにして息づき、その広大な醜いツメは、海藻の粘液まみれで、わたしに向かってのばされてくるところでした。一瞬でわたしの手はレバーにかかり、自分とこの怪物たちとの間に一ヶ月の時間をおいたのでした。でも相変わらず同じ浜辺にいて、停止すると同時にまたかれらがはっきり見えました。くすんだ光の中で、濃い緑の植生の覆いの中を何十匹もがあちこちにうごめいていました。

 世界にたれこめている、恐ろしい荒涼の感覚は、表現のしようがありません。赤い東の空、北の暗黒、塩の死海、これらの醜悪でのろい怪物たちの這いずる岩浜、こけ状の植物の、均一で有毒そうな緑色、肺を痛める薄い空気:そのすべてがぞっとするような効果に貢献していました。わたしは百年先に進みましたが、相変わらず同じ赤い太陽です――ちょっと大きさと鈍さが増していましたが――同じ死にゆく海、そして同じ地上の甲殻類の群が、緑の雑草と赤い岩の間をうろついています。そして西の空には、広大な新月のようなカーブした薄い線が目に付きました。

 そしてわたしは旅を続け、地球の運命の謎に惹かれて、千年以上の大幅な間隔で何度も繰り返し止まってみました。奇妙な感動をもって、西の空で太陽がますます大きく鈍くなり、古い地球の生命が衰退するのを眺めていましたよ。最後に、3千万年後、太陽の巨大な灼熱のドームは、暗い空のほとんど1割も占めるようになりました。そしてわたしはもう一度止まりました。というのも這いずる無数のカニが消え、そして赤い浜辺は、生き生きとした緑の苔類や地衣類をのぞけば、生命が消えたようだったからです。そしていまやそこは白いものが散っていました。刺すような冷気がわたしを襲います。白い雪片が絶えず繰り返し舞い降りてきました。北東部では、雪の照り返しが陰気な空の星明かりの下に横たわり、波状の丘の頂がピンクがかった白となっているのが見えます。海の水辺には氷のふちができて、沖には大きな流氷も見られます。でも塩水の海のほとんどの部分は、永遠の日没の下で血のように真っ赤でしたが、まだ凍っていませんでした。

 あたりを見回して、動物の痕跡があるかどうかを調べました。なにか説明しがたい感覚のために、マシンのサドルにすわったままでいました。でも、動く物は何も見えませんでした。地上にも空にも海にも。岩についた緑の粘液は、生命が消えたわけではないことを証拠立てていました。海の中には浅い砂州ができていて、水は浜辺から後退していました。この岸辺に、何か黒い物体がはねているのを見たような気がしましたが、それに目をやると、錯覚だったようで、その黒い物体はただの岩のようでした。空の星は強烈にまぶしく、ほとんどまたたかないようでした。

 突然、太陽の西側の丸い輪郭線が変わったのに気がつきました。曲線に湾ができているのです。これがさらに大きくなるのが見えました。一分ほど、太陽の上に忍び寄るこの黒さを驚いて見つめていましたが、そのときこれは蝕が起きているのだと気がつきました。月か水星が、太陽の円盤を横切っているのです。もちろん、最初は月だと思いましたが、でもそれが内側の惑星が地球のごく近くを通った姿だと思えてなりませんでした。

 闇が速度を増してきました。冷たい風が、新鮮な突風となって東から吹き寄せ、大気中を降り注ぐ白いかけらが増えてきました。海のふちでは、さざ波とささやきが見えます。こうした生命なき音をのぞくと、世界は無音でした。無音? その静止ぶりをお伝えするのはむずかしい。人の音のすべて、羊のいななき、鳥の声、虫の羽音、われわれの生の背景をなす揺らぎ――そのすべてが終わっていました。闇が深まるにつれて、渦巻くかけらがますます増え、目の前で踊るようになりました。そして空気の冷たさも高まってきました。最後に、一つ一つ、急速に、順番に、遠くの丘の白い山頂が闇の中に消えていきました。そよ風が、うめく突風と化します。蝕の黒い中心的な影がこちらに向かっているのが見えました。一瞬後には、淡い星しか見えなくなりました。その他すべては、光もなく見えません。空は漆黒でした。

 この壮大な闇に対する恐怖が芽生えました。骨の髄までしみこむような冷気と、呼吸のときに感じる痛みにはかないませんでした。みぶるいすると、死にそうな吐き気に襲われました。すると空の赤く熱い弓のように、太陽のふちが現れました。わたしはマシンを下りて気を取り直そうとしました。ふるえがきて、帰途に直面できそうになかったのです。気分が悪く混乱したまま立っていると、海の赤い水を背景に、浅瀬上に何か動くものが見えました――いまやそれが動くものだというのは間違いありませんでした。丸くて、サッカーボールくらいの大きさだったかもしれません。あるいはもっと大きかったか。そしてそこから触手がたれていました。血のように赤い逆巻く水を背景に、黒く見えました。それがけいれんするように、ぴょんぴょんはねています。そのとき、卒倒しそうな気がしました。でもこの遙か遠くのひどい夕暮れに、無力なまま横たわることに対するひどい恐れのために、サドルによじのぼるまでなんとか意識が保たれたのです」

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12.

「こうしてわたしは戻ってきました。長いことマシンの上で意識を失っていたにちがいありません。昼と夜の点滅するような連続が回復し、太陽はまた黄金となり、空は青くなりました。呼吸もずっとたやすくなりました。大地の波打つ高低が、盛り上がっては平らになります。ダイヤルの針は逆回転していました。とうとうわたしは、再び家屋の暗い影を目にするようになりました。衰退した人類の存在の証です。これらも変化しては消え、新しい家屋が出現しました。やがて、百万の桁のダイヤルがゼロになると同時に、わたしは速度を落としました。われわれ自身のチンケでお馴染みの建築が見分けられるようになってきて、千の位の針が出発点に戻り、昼と夜の明滅がますます遅くなります。やがて研究室の古い壁がわたしのまわりを囲みましたとても慎重に、わたしはマシンの速度を下げました。

 一つ、奇妙に思えた小さなことがありました。出発するとき、速度を大幅に上げる前にワッチェット夫人が部屋を横切るのを見た、ということをお話したと思います。わたしにはそれが、ロケットのように高速で動いているように見えました。戻るときにも、彼女が研究室を横切ったその時間を再び通過したのです。でもこんどは、彼女のあらゆる動きは前の動きの正反対に見えました。奥のドアが開いて、彼女は静かに研究室を、背中を先にして横切り、前に入ってきたドアの背後に消えたのでした。その直前に、ヒリヤーをちらりと見かけたように思いました。が、かれは稲妻のように通り過ぎてしまいました。

 そしてマシンを止めると、身のまわりは再び古いお馴染みの研究室、わたしの道具、わたしの各種装置が、出発したときのままに残されているのがわかりました。がくがくしつつ、マシンから降りて、椅子にすわりました。しばらくは、激しいみぶるいが止まりませんでした。それから落ち着いてきました。身の回りには昔ながらの工作室が、以前とまったく同じ形で存在していました。そこで眠ってしまっただけで、あのすべては夢だったのかもしれません。

 でも、完全には同じではありませんでした! マシンは研究室の南東隅から出発しました。それが再び落ち着いたのは北東部、ご覧になった壁にもたれかかった状態です。これはわが小さな芝生から、モーロックたちがわたしのマシンを運んでいった先の白いスフィンクスの基壇の距離と正確に対応しています。

「しばし、脳が働きませんでした。やがて立ち上がると、この廊下に出てきたのです。かかとがまだ痛かったので足をひきずり、ひどく薄汚れた気分でした。ドアの脇のテーブルに、ポール・モール・ガゼットが見つかりました。日付がまさに今日のもので時間を見ると、それがほとんど八時近いのがわかりました。あなたたちの声と、カチャカチャいう皿の音が聞こえました。ためらいましたよ――実に気分が悪くて力が入らない感じでしたから。すると、おいしい立派な肉の香りがしたので、あなたたちのいる方のドアを開けました。あとはご存じの通りです。手を洗い、食事をして、そしてこうしてお話をしているわけです。

 しばらく間をおいてかれは言った。「確かに、これはすべてまったく信じがたく思えるでしょう。わたしにとっても唯一信じがたいのは、自分が今夜、このなじみ深い部屋にいて、あなたたちの親しい顔を眺め、こうした奇妙な冒険の話をしているということなのです。

 かれは医師を見やった。「いいえ、あなたに信じていただけるとは期待していません。作り話だと思ってください――あるいは予言だとでも。作業室で夢を見たのだとでも。人類の運命について考察するうちに、このフィクションを思いついたのだと思ってください。わたしがこれを真実だと主張するのは、興味深さを増すための技の一つだと思ってください。さて、これがお話だったとして、いかがでしたか?」

 かれはパイプを取ると、あの手慣れた手つきで火床の格子に神経質に軽くたたきつけた。一瞬の静寂があった。そして椅子がきしみだし、靴がカーペットの上でこすれだした。わたしは時間旅行者の顔から目をそらし、観衆のほうを見回した。みんな暗がりの中で、それぞれの前に、小さな色つきの点が泳いでいる。医師はわがホストについての考察に没頭しているようだ。編集者は自分の葉巻の先端をじっと見ている――もう六本目だ。ジャーナリストは時計をせわしなく探している他の人々は、わたしが覚えている限りでは、身動きしなかった。

 編集者はため息をついて立ち上がった。「あなたが物語作者でないとは残念至極ですよ!」とかれは、時間旅行者の肩に手を置いた。

「信じてはいただけませんか?」

「うーん――」

「そうだと思いました」

 時間旅行者はこちらに向き直った。「マッチはどこです?」かれはマッチを一本擦ると、パイプをくわえてふかしながら語った。「正直言って……わたし自身、ほとんど信じられないのです……が……」

 かれの目は、小さなテーブルに乗ったしおれた小さな花を、だまって探るように見つめた。そしてパイプを持つ手を裏返した。こぶしの治りかけた傷を眺めているようだった。

 医師はたちあがってランプのところにくると、花を調べた。「めしべが奇妙ですね」とかれ。心理学者は身を乗り出してもっとよく見ようとして、一つを手に取ろうとして手を伸ばした。

「おやまあなんと、もう1時15分前だ。どうやって家に帰ろう?」とジャーナリスト。

「駅にタクシーがいくらもいますよ」と心理学者。

「実に不思議なものですが、この花の性質がよくわかりません。いただいてよろしいでしょうか?」と医師。

 時間旅行者はためらった。そしておもむろに「もちろんだめです」

「本当にどこで手に入れたのですか」と医師。

 時間旅行者は片手で頭を抑えた。逃れようとするアイデアをつかみ取ろうとする人物のようにかれはこう言った。「花は時間の中を旅したときに、ウィーナがわたしのポケットに入れたのです」そして部屋の中を見回した。「こんな一切合切は、すべてなくなってしまうのに。この部屋も、あなたたちも、日々の空気も、わたしの記憶にはあまりに強烈だ。わたしは本当にタイムマシンを作ったのか、タイムマシンの模型を?それともすべてはただの夢? 人生は夢だと言う。時には貴重ながらもあわれな夢だと――でも他のおさまりきらない夢があるなんて耐え難い。狂ってる。そしてその夢はどこからきたのか?……マシンを見てみなければ。それが実在していればだが!」

 かれはサッとランプをつかむと、それを持って、赤い光をばらまきつつ、ドアを出て廊下を下った。みんな後に続いた。ランプのちらつく明かりの中で、確かにマシンはそこにあった。それにしたがった。ずんぐりと、醜く、傾いている。真鍮、黒檀、象牙、半透明に輝く水晶でできている。さわればがっちりしている――手を出して、そのレールをさわってみたのだ――そして象牙には茶色の斑点やしみがついていて、低い部分には草やコケのかけら、さらにレールの一つがゆがんで曲がっている。

 時間旅行者は作業台にランプを置くと、壊れかけたレールに手を走らせた。「大丈夫です。わたしが語ったお話は本当です。こんな寒いところに連れ出して申し訳ない」そしてかれはランプをまた手にして、われわれはいっさい無言のまま、喫煙室に戻った。

 かれは玄関までいっしょにきて、編集者がコートを着るのを手伝った。医師はかれの顔を見つめて、ためらいがちに、働き過ぎですよと告げ、すると時間旅行者は大笑いした。かれが開いた戸口にたって、おやすみなさいと叫んでいたのを覚えている。

 わたしは編集者といっしょにタクシーに乗った。かれはあの話を「見事なウソ」だと思っていた。わたしはというと、結論が出せなかった。かれの話は実にすばらしく信じがたく、語り口は実にもっともらしくて筋が通っていた。ほとんど一晩中そのことを考えて眠れなかった。そこで翌日、また時間旅行者に会いに出かけようと決めた。かれが研究室にいると言われ、勝手知ったる家だったから、研究室にあがりこんだ。が、そこは無人だった。わたしはしばしタイムマシンを眺めると、手を伸ばしてレバーに触れた。すると、その短くてがっちりして見えた固まりが、風に揺れる大枝のようにしなった。その不安定さにひどくあわてて、わたしはなぜかさわってはいけないと追われた子供の日々を思い出してしまった。廊下を戻ると、時間旅行者とは喫煙室で出くわした。かれは家から出てきたところだった。片脇には小さなカメラを抱え、もう片脇にはナップサックを抱えている。わたしを見ると笑って、握手用にひじを差し出してよこした。「あれがあそこにあるおかげで、えらく忙しくてね」とかれは言った。

「でも、これは何かインチキではないのですか? 本当に時間旅行ができるのですか?」

「本当ですし、本当に時間旅行ができます」そしてかれは、まっすぐにわたしの目を見つめた。ためらった。目を部屋の中にさまよわせる。「30分ください。あなたが来た理由はわかっているし、それは心底感謝しています。雑誌が少しありますから。もし昼食に立ち寄ってくれれば、今回こそこの時間旅行を、疑問の余地なく証明して見せましょう。ですからいまはちょっとお相手できないのをお許しいただけますか」

 わたしはかれのせりふの持つ意味のすべてをほとんど理解しないままに同意し、かれはうなずくと廊下をそのまま下っていった。研究室の扉がばたんと閉まるのが聞こえ、わたしは椅子にすわると、新聞を手に取った。昼食前に何をするつもりだろう? そのとき、ある広告を見て、出版者のリチャードソンと2時に会うことになっていたのを思い出した。時計を見ると、ぎりぎりその約束に間に合うかどうかだ。わたしはたちあがって、時間旅行者にそのことを告げようと通路を下った。

 ドアの取っ手を握ると、爆発音が聞こえたが、それは妙に尻切れトンボで、そのあとカチッ、ドサッという音がした。ドアを開けると、一陣の風がまわりに生じて、部屋のなかから割れたガラスが床に落ちるのが聞こえた。時間旅行者はいなかった。黒と真鍮の回転する固まりの中に、おぼろげなはっきりしない姿が一瞬だけ見えたような気がした――その姿は透けていて、その向こうにある図面を何枚も重ねた作業台が実にはっきりと見えたほどだ。でも、目をこすったらこの幻影は消えた。タイムマシンはなくなってしまった。おさまりつつある一陣のほこり以外には、実験室の奥には何もなかった。どうやら天窓が一枚、室内に吸い込まれたようだった。

 曰く言い難い驚きを覚えた。何か変なことが起きたのはわかった。そしてその瞬間には、その変なことの中身がわからなかった。立って眺めていると、庭への扉が開き、召使いが現れた。

 われわれはかおを見合わせた。そしていろいろ考えが浮かんだ。「――さんはそっちから出ていったかね?」とわたしは尋ねた。

「いいえ。こちらからはどなたも。――様はこちらにいらっしゃるのかと思っておりました」

 そのときわたしにはわかった。リチャードソンの不興を覚悟で、わたしはそのままそこにとどまり、時間旅行者を待った。二番目の、ひょっとしてもっと不思議な話を待ち望み、かれが持ってくる標本や写真を期待して。でもいまや、残念ながらそれには一生待ち続けなくてはならないのではと恐れるようになっている。時間旅行者が消えたのは 3 年前。そしていまやだれもが知っている通り、かれは二度と戻ってきていない。

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エピローグ

 考えずにはいられない。かれはいつか戻ってくるのだろうか? ひょっとするとかれは、過去へとさかのぼって、旧石器時代の血をすする毛むくじゃらの野蛮人たちの手に落ちてしまったのかもしれない。あるいは白亜紀の海の深みにのまれたか。あるいはジュラ紀の巨大な暴虐爬虫類、グロテスクなサウルス類に囲まれたか。今でも――と呼んでよければ――プレシオザウルスのうろつく オーリス珊瑚礁をさまよったり、三畳紀の無人の塩水湖沼のほとりにいるのかもしれない。それともかれは未来へ向かったのだろうか。もっと近い時代、人間がまだ人間ではあるけれど、われわれの時代の謎が解け、その悩ましい問題が解決した時代に? それは人類の成年期だ。というのもこのわたしは、近年のはかない実験や断片的な理論、相互の不協和が人間の最盛期だとはとても思えないからだ! わたしは、自分としてはこう述べる。かれは、人類の進歩についてきわめて暗い考えを持っていたことをわたしは知っている――この問題については、タイムマシンが作られるずっと前にかれと議論したのだ。そしてかれは、山積する文明の中に、いずれ結局はその創造者たちの上に崩れ落ち、破壊することになってしまう、愚かしい山しか見ていなかった。もしそうであるなら、われわれとしては自分がそうした存在ではないかのごとくに生き続けることができるだけだ。 だがわたしにとって、未来は未だに暗く白紙のままだ――広大な無知の領域であり、かれの物語の記憶によって、ほんの数カ所あちこちが照らされているだけだ。そしてわたしは、気休めに、奇妙な白い花を二つ――いまやしおれ、茶色くつぶれてもろくなっているが――手元に持っている。精神と強さがなくなってしまったときでも、感謝とお互いの優しさは、まだ人の心に生き続けていたという証拠として。

 

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