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P・J・オローク『ろくでもない生活』訳者あとがき

(P・J・オローク『ろくでもない生活』(JICC 出版、1993)pp. 229-236)

山形浩生

1. 総説

 本書は P. J. O'Rourke Republican Party Reptile: The Confessions, Adventures, Essays and (other) Outrages of P. J. O'Rourke (The Atlantic Monthly Press, 1987) の翻訳である。ただし全訳ではない。何せ原著が出てから邦訳が出るまでの間にはいろいろありすぎた。ソ連がああもあっさり消滅するとは誰が思っただろうぁ。株がああも続落し、就職してみたらぼくの給料は下がる一方などという事態を誰が想像し得ただろう。それに何と、ついにアメリカでは民主党が勝ってしまった!

  まあ、そういうやむを得ない国際的な政治経済情勢を鑑みて、邦訳では時事性を失ったものや、あまりにネタがローカルすぎて味わいが伝わりにくいもの(ひらたく言えば、つまらないものってことね)を割愛している。従って、原著に二十一編おさめられていたエッセイのうち七編は、哀れ陽の目を見ぬ運命となった。また、削除にあわせて文の配列も変更した(注:このpdf版では訳した分は全部使用したが、訳の段階ですでにはずしたもの一編だけはぬけているのだ。)

 辞書は『リーダーズ英和辞典』(松田徳一郎他編、研究社、一九八四)と、『研究者新英和辞典 第五版』(小稲義男他編、研究社、一九八〇)をおもに使用。訳稿作成環境としては、Rupo 上で作成された下訳をMS-DOS形式に変換後、J3100GT+Vz Editor ver. 1.57上で修正/改訂を実施した。

2. 著者のこと

  著者のP・J・オロークは、すでに邦訳も三冊あるし、そろそろ知る人ぞ知る嫌味ライターとしての地位を日本でも確率しつつあるのではないか。だから「MAD」と並ぶお笑いアホ雑誌「ナショナル・ランプーン」の編集者だったとか、「プレイボーイ」の海外ナントカ特派員だとかいう略歴めいたネタに触れないでおこう。中年、デブ(というほどデブではないようだが、まあ自分でそう認めているのでそういうことにしておく)、騒乱好みの野次馬渡世、嫌味と皮肉の垂れ流し男、快楽至上の大口たたき。まあこの男については、おおむねこの程度知っておけばよい。

 そうそうもう一つ、この男はアイルランド系である。アイルランド人という連中は、フラン・オブライエンやR・A・ラファティの例を見てもわかるように、真面目な顔で大ボラをふくことで有名だ。こうした能力は原始人のほうが高いと言われることから考えると、やはりアイリッシュはかのピルトダウン人の血を脈々と受け継いでいるのだろう。もちろん、いいほうの血ではなく、悪いほうの血だが。最近では『娼婦どもの議会』(未訳)をベストセラーのトップに送り込み、その悪しき血のパワーをまざまざと見せつけてくれている。

3. 本書の位置づけ

 本書の発表は一九八七年。既訳の『モダン・マナーズ』(JICC 出版局)『おもしろモダンマナーズ』(講談社文庫)と『楽しい地獄旅行』(河出書房新社)のちょうど中間に位置する。内容も、『モダン・マナーズ』系の作法指南から、『地獄旅行』系の世界アブナ地帯紀行(でもこの人のアレって、「行ってみたら結構フツーだったぜ」ってのばっかだかんなあ)、さらに快楽主義者の自慢話もちりばめ、オロークの文章の多彩なバリエーションが一番楽しめるものとなっている。

  また『地獄旅行』に収録された「アキノ政権下のフィリピンもそんなによくないぜ」という内容の文は、本書に収録された「暴力と銃と金」の後日談になっている。『地獄旅行』ではいっしょうけんめいクールにふるまっているけれど、本書では立ち上がったフィリピン人民に熱い共感を寄せたりしている。意地悪な読み方だけれど、なに、ご当人の文だって充分に意地が悪いわい。われわれが親切にしてやる義理なんかあるもんか。

  さらに本書は、P・J・オロークが新保守派として強い立場表明を行い、そのスタンスと悪名を一躍全米に轟かせた出世作でもある。

4. 「共和党爬虫類派とは何か――あるいは隠れ左翼の開き直り

  本書の現題を直訳すれば「共和党爬虫類派」とでもなるだろう。圧倒的に保守なんだけれど、でも石頭の生真面目な伝統保守とはちょっとちがうんだぜ、チッチッ、という感じ。もっと詳しく知りたければ、序論を読みなさい。書いてあるから。本書で「おれは保守主義の共和党爬虫類派だ!」と宣言したことで、オロークは新保守派の看板をしょいこむことになった。みんなそれを真に受けて、「オロークは保守だ、うんうん」とうなずく。たとえば『楽しい地獄旅行』の訳者解説で、芝山幹郎は「オロークが保守だってのは解せなかったけれど、保守ってのは絶対的な価値を認めないという点で(左翼的)ユートピア主義の対局にあるんだから、やっぱりオロークは保守でいいんだ」というこじつけで、なんとかオロークの保守性を自分に納得させようとしている。

  でも、これってウソでしょ? 保守って、絶対的な価値観を認めない人たちなんかじゃないもの。ホントの保守ってのはむしろ、まわりを見ないことで、自分たちの現状が一番いいんだ、と何の努力も根拠もなく思い込んでる怠慢な連中のことじゃないの。ソ連東欧が崩壊したとき、「ほらやっぱり資本主義は最高です、市場原理にまかせておけば何でも解決するんです」とか言っておきながら、その市場原理の資本主義が不況になると、政府の指導だの公共投資だの言い出す連中じゃないの。そしてオロークが保守だというのも、実はまったくウソなのだ。

  オロークって、自称保守派だけど、これはむしろ反語と考えるべきだ。「共和党爬虫類派」と言ったとき、力点は「爬虫類」のほうにある。日本で言えば、自民党政治が大ッ嫌いで、ホントは社会党を応援したいんだけど、それだけに社会党のあのザマは怒り心頭に達してしまうので、「そんならいっそ自民党に入れてやる! 小沢一郎万歳!」と開き直るようなもの。証拠? 本書の献辞を見てごらん。こういうところには、その物書きの一番本音に近い気取りが出るものだ。この人は共和党をやめた人とか、共和党をおちょくったジョークに共感を感じているでしょう。内容を見ても、基本的にオロークは、心情左翼ヒッピーなんだ。それが一番よく出ているのが、あのマルコス失脚を描いた「暴力と金と銃」だろう。見ろ! 横暴な独裁者マルコス! 立ち上がる人民! いいなあ、涙が出るなあ! 昔のデモを思い出すなあ! あの頃はよかった! 要はそういう話(それだけとは言わないけれど)。

  つまりこの人のユーモアというのは、現状の革新を愛せない心情革新派が、現状の革新を否定するために無理に保守に身をやつす、というすごく屈折した心理から生まれているものだ。人が雄弁になるのは、たいてい何らかの言い訳をしたがってるときだからね。日本でも全共闘くずれがある日突然「おれはまちがっていた! バタイユを読んでおれは目覚めた!」と言って、目覚めて何をするかと思ったら、それで延々とこちゃこちゃマルクス/ヘーゲル批判をやってた笠井潔みたいな人がいるでしょう。せっかく目覚めたのに、後ろを向いて昔の自分をつつきまわすなんて、つまらないなあ。もっと生産的なことをすればいいのに(とは言っても矢吹駆シリーズはそこそこ生産的でおもしろけれど)。たとえばベトナムとか中国みたいに、「うちの政治は社会主義、経済は資本主義」とか、マルクスが聞いたらひっくりかえるようなわけのわかんないことを言い出すとかね(もっとも、これまでの社会主義諸国を見てたら、いい加減ひっくりかえり飽きてるだろうけど)。これなんかは、大まじめに考えた結果がえらくふざけたものになった例だけど、オロークは逆に、ふざけてみせたつもりで、根の生真面目な部分が隠しきれないでいる、というわけ。

  だからオロークの笑いは、いつもちょっとブラックでシニカルだ。保守を誉めるときも、どうしても斜に構えてしまう。ほめかたがおおげさでウソ臭い。革新の悪口を言うときも、ストレートには罵倒できない。かすかに自嘲気味となる。通常、こういう転向型旧左翼の人間の末路は、日本の全共闘世代の人間たちの身の振り方を見ればわかるように、次の三タイプに分類される。

  1. 昔の自分の否定に精を出す
  2. 卑近な社会改良に手をそめる(含む宗教関連)
  3. 政治的ニヒリズムに走って趣味の世界に逃避する

  オロークは、敢えて言うなら1と3のごった煮に近いのだが、しかしそれでは分類しきれないものを持っている。それは「ナショナル・ランプーン」仕込みの悪乗り当てこすり的ユーモアのセンスと、自分の物欲への忠実さと旺盛な好奇心と常識であり、また彼の飽きっぽさと怠惰さと知性でもある。あまり実直に反省なんかするのも面倒だし(どうせ自分以外は誰も気にしないことだし)、フェラーリでナンパするのは楽しいし、コカインでハイになるのも気持ちいいし、世の中みんな、なんのかんの言いつつ何とか続いてるみたいだし、自分のとこはさておき、よその政治は間抜けでおもしろそうだし、といった具合。「ナショナル・ランプーン」誌から『モダン・マナーズ』にいたるオロークは、比較的旧左翼のシニズムが強い物書きだった。それが徐々に常識性を増し、本書以来、現在にいたるオロークは、旧左翼性と常識性がちょうどよくブレンドされている次期と言えるだろう。

  彼の行く手には、実はもう一つわなが待ち受けていて、このまま常識性をましていった場合、オロークの末路はガチガチの反動主義者となる可能性がある。そこから逃れられるかどうかは、彼の今回の大統領選への態度如何ではないだろうか。

  アメリカ大統領選では、ついに共和党が破れ、民主党の時代が(何年続くか知らないが)やってきた。オロークとしては、さぞかし複雑な心境だろう。いまさらクリントン万歳とは言いにくかろうしなあ。この期に及んでまだ彼は保守を名乗るだろうか。いずれご尊顔を拝する機会があれば、ぜひとも聞いてみたいものだ。できればそこで、変わり身のはやいところを見せて欲しいと個人的には思う。いい加減さこそ、この人の唯一の武器なのだから。

5. 訳について

  原著が出てから邦訳が出るまでに五年が経っている。訳者はこのうち十ヶ月分についてのみ責任を負う。まあ引き受けてからこれだけのダン時間で、ここまでの翻訳ができたのは、比較的優秀な下訳があったことを考慮しても、われながら天晴れな仕事ぶりである。既訳の三冊と比べても、訳の出来で勝りこそすれ、劣ることはないはずだ。こういう嫌味でシニカルなギャグは、ぼくの非常に得意とするところだからである。

  そもそもこの仕事がぼくの手元にくるまでには、いろいろと語り尽くせないほどの事情があった(らしい)。ぼくとしては、本書の訳を手掛ける直接のきっかけを作ってくれた、ニューヨークの梅沢葉子氏、どこのどなたかは存じあげないが、ぼくが受託する以前に下訳をあげておいてくれたかた、『地獄旅行』で本書の序文を無料で(でもまちがって)訳してくれた芝山幹郎氏、ぼくに仕事をあっさり任せてくれた JICC 出版局の富永虔一郎氏、編集の実務を担当してくれた井野良介氏に感謝したい。ありがとう。これでやっと、親戚に読ませられる訳書ができました。

横浜で上司の目を盗みつつ
平成四年十一月 山形浩生

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