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Hacker Ethic 訳者(のひとり)による解説 (無削除完全版)



1. はじめに

 この本は Pekka Himanen The Hacker Ethic and the Spirit of the Information Age (Random House, 2000) の全訳である。本書にはLinuxの創始者にしてプロジェクト統括者リーヌス・トーヴァルズがプロローグを寄せており、さらに The Informational City や大著 The Information Age: Economy, Society and Culture で知られる社会学者マニュエル・カステルがエピローグを執筆している。

 著者ヒマネンについては不詳。若干二十歳でヘルシンキ大学の哲学博士号を取得し、現在はヘルシンキ大学とカリフォルニア大学バークレー校に勤務している。


2. 本書の概要――まずは本文から

 いま、世界というか人類は歴史的な一大転換期を迎えている。人々がすでに日々実感しているように、コンピュータとネットワークの普及浸透により従来の社会・経済・文化のあらゆる側面は激変をせまられており、われわれはこれまでの価値観がもはや一切通用しない未知の世界を迎えようとしている……

 ……というのがホントかどうかは、実はよくわからない。が、こういうことを言う人がたくさんいるのは確かだ。そして確かに、インターネット(とコンピュータ)の普及は、いろんなものを変えているのは事実。それを革命と見るか、いままでの状況のマイナーチェンジと見るかは、単なる定義の問題なのかもしれない。

 本書は(少なくともメインの著者であるペッカ・ヒマネンは)、それが革命だとは明言しない。でも何かいままでとはちがうものがその根底に動いていて、それはある種の新しい価値観であり、倫理観である、とかれは論じる。それは従来の、資本主義をささえてきた企業的な価値観や規範とはまったくちがった何かであり、それが近年になって急速に一般化し、拡大している。そしてその価値観は、パーソナルコンピュータやインターネットを作り上げ、ここまで普及させる一つの原因ともなった。そしてさらにその価値観は、各種 BSD や Linux や Apache などの高品質なフリーソフトを産みだしてマイクロソフトの牙城を脅かすほどの実社会的なインパクトを持つにいたっている。

 その価値観が「ハッカー倫理」だ、と本書は主張する。

 ハッカーっていうのは、技術水準の高いコンピュータおたくだと思って欲しい。マスコミではときどき、コンピュータ関連の破壊活動を行う人々をさす用語としてハッカーが使われるけれど、本書の用法はちがう。そしてそのハッカーたちの持つ倫理観は、その労働観/余暇観、金銭観、ネット的倫理観の点に特徴がある、とかれは主張する。こうした価値観を、プラトン的価値観、そしてプロテスタンティズム的な価値観と対比させることで特徴を浮き彫りにしたのが本書の価値である。

 その中身を簡単にまとめよう。

労働観/余暇観
 ハッカー倫理の特徴はここに集約される。一つの考え方として、労働はつらいもので、我慢してやるものだ。人生の本来の目的は仕事以外のところ(つまり余暇)にある。また、別の考えかたとしてプロテスタンティズムの倫理では、労働こそが人間の喜びで人生の目的であり、余暇は労働のための充電期間だ。そしていずれの場合も、両者はきちんと線引きされているし、効率改善のために時間的にも機能的にも規格化されている。
 これに対し、ハッカーたちの価値観は、労働と余暇という分け方をしない。どっちも情熱をもってやれることがだいじで、漫然とした仕事も漫然とした余暇も無意味だ。一方、情熱をもってできるなら、仕事と余暇に線引きがある必要もないのだ。そしてそこには規格化も存在しない。ここの論証は比較的すぐれている。そして、リーヌス・トーヴァルズのプロローグも、この部分をうまくサポートしている。

金銭観/報酬観
 これは労働観の延長と言っていい。人は金のために働く、というのが従来の見方だ。人をいっぱい働かせるには、ボーナスをあげたりストックオプションをあげたり、つまりはお金で釣ればいいとされる。
 ところがハッカーたちは、いっぱい働くけれど、それは金銭的報酬のためじゃない。お金は、ほかのものを買う手段でしかない。お金でハッカーの働きを釣ることはできない。かれらは社会的な価値を作り出してそれを公開・共有し、尊敬を受けることを報酬として求めている。ここの論証はそこそこ。

ネット倫理
 ここは非常に弱い。というか、ほとんど何もないに等しい。ハッカーはネット上でのプライバシーや言論の自由を重視する。ネットに対する規制に反対する。互助精神を善とする。それがハッカーのネット倫理だというんだが……言論の自由やプライバシーを重視する人はいっぱいいる。互助精神くらいどこにでもある。当然ハッカーの一部にだってその気はあるだろうけれど、それをハッカー倫理としてことさらことさら特徴づける理由は? ヒマネンはそれを説明しない。が、まあハッカーたちの間でそうした価値観が強く存在していることは示しおおせている。

 以上の各点について、プラトンやマックス・ウェーバー、聖ベネディクトの著作に見られる行動原理と、そしてハッカーたちの各種文書に見られる価値観との対比で、かれはかなり緻密に(しつこいくらいに)その違いを説明している。というわけで、本書は少なくともハッカー倫理(というか価値観)が存在し、それはこれまでの企業的な仕事やお金や余暇についての考え方とはかなりちがった面がある、ということをとりあえずは明らかにしている。もちろん、プラトンやウェーバーや聖ベネディクトなんぞを引っ張り出してくるほどのことはあるのか、と思ってしまうのは、人情ではないかという気はするのだけれど。

 でも本書がやっていないことがある。それは、このハッカー倫理というのがそもそも大きなインパクトを現代に与えた(または与えている)ということを示すことであり(なるほどインターネットやパソコンや Linux は話題にはなっているけれど、それが本当に注目すべきものだと言えるか?)、さらに、今後それが従来の労働倫理にかわるものとしていま以上の重要性を持つようになるという道筋を示すことだ。


3. 本書の概要――ハッカー倫理の位置づけ

 さて、本来そのハッカー倫理の意義づけと位置づけ部分の作業を受け持つことになっていたと思われるのが、マニュエル・カステルのエピローグだ。

 が、ぼくはこのカステルの文章にはがっかりした。この文章は、ハッカー倫理がいま持つ重要性も述べていないし、今後持つはずの重要性についてもまったく説明できていない。かれ自身の、情報主義とネットワーク社会についての概説になっているだけだ。一番ケツのところに、思い出したように「そもそものアイデアの発想という点で、ハッカー倫理は重要だ」とくっつけただけ。ヒマネンの本文とはなーんの関係もない。

 そしてこの文章のもう一つのメリットは、これがカステル自身の理論のダメさ加減を見事に示してしまっているということだ。カステルの著書は、古いものがいくつか邦訳されているけれど、最近のはほとんどない。それはかれの著書がどれもじつに分厚くて、しかも文章が長ったらしくてわかりにくいことにも原因がある。でもこのエピローグを読むと、かれがレベルのぜんぜんちがうものを表面的な類似性だけでいっしょくたにして悦にいる、悪しき半可通情報論者的な性格がかなり強いことが、じつにはっきりしてしまう。

 いちばんわかりやすいのが、かれの「情報主義」と称するものの話。かれは、それが情報技術と遺伝子工学の発展に基づくものだ、というのね。電子ネットワークは情報の組み替えによる価値創造をするし、遺伝子組み替えも、遺伝子情報の組み替えによる価値創造だ。これぞ情報主義!

 ……いやぁ、そりゃたしかに遺伝子情報ってのはありますけどね、遺伝子組み替えは情報だけじゃなくて、遺伝子そのものを切ったりつないだりしなきゃいけないし、そもそもその「情報」ってのがだれにとって意味あるものかを考えても、あるいはその結果としてできるのがどんなものかを考えても、単なる電子データのカット&ペーストとはレベルがぜんぜんちがうでしょうに。でも、かれは「情報」とか「組み替え」という字面だけでそれをごっちゃにする。

 あるいはかれは、ネットワークの経済的重要性を述べるのに、金融市場はネットワーク化されているし、また企業同士は各種サプライチェーンで結ばれてネットワークを構築しており、多国籍企業とその周辺ネットワークは世界総生産の 30% をうみだす、だからすべてはネットワークを中心に動く、と論じる。でもちょっと待て。後者のネットワークってのは、電子的なネットワークじゃないだろう。単なる「取引関係」のことをさす比喩だろうに! もちろんその一部は、電子ネットワークを使ってコミュニケーションをしているかもしれないし、オンラインの受注システムやジャストインタイム方式を採用しているところだってあるだろう。でも、「ネットワーク」といったときの概念がここではぜんぜんちがう。それなのにどっちも「ネットワーク」ということばを使っている以上、カステルはそれをいっしょくたにする。

 さらにネットワークにより権力の分散が起きる、という。企業内でもそうだし、さらに国レベルでも EU や NAFTA などで主権の分散が起きている、とカステルは言う。でもネットワークは、すべてを中央集権的にコントロールするツールにもなるし、実際に起きているのはそっちのほうだ。中間管理職の危機だの文鎮型組織だの言われるでしょう。そして EU や NAFTA は、主権の分散じゃないでしょう。国としては、自分の権力をほかの組織にわたしているわけだけれど、でも総体として見たときに起こっているのは、むしろ主権の部分的な統合化でしょうに。

 そしてこれまで数十年にわたり、各種産業で多額の情報投資が行われてきている。かれど、生産性向上はちっとも見られない。唯一生産性の向上が見られているのは、コンピュータ関連機器のメーカーだけ。カステルの理論だと、ネットワークを使うことで効率がアップするはずなのに……

 カステルの名誉のために言っておくと、かれはそれなりに重要な学者だ。情報化にともなう企業の立地変化や雇用への影響といった分野で、かれはとても重要な成果を上げているし、各地のサイエンス・シティ(筑波学園都市など)の分析も非常に優れている。ただ、それを大きな文脈に位置づけようとして、かれは一番通俗的な「IT かくめー」議論に頼ってしまい、馬脚をあらわしてしまっているのだ。


4. ハッカー倫理理解のために――Further Readings

 この本にとってはかわいそうなことだけれど、2001 年に入ってからの状況は、たぶん本書執筆時の状況とはかなり変わってきただろう。たとえば、もうネット企業は本書で持ち上げられているような、すさまじい時価総額を持ってはいない。情報主義とかネットワーク社会の申し子であり、柔軟性と適応力に基づく高効率が身上だったはず(とカステルが論じる)の IT 企業群もボロボロだ。

 しかしもちろん、ネットワークは重要だし、インターネットはまだまだ可能性を持っている。さらにそれを可能にしたハッカー的な価値観や、それがもたらした成果は、今後の人々のライフスタイルに大きく影響し、さらにいずれLinuxにとどまらない各種分野で、いまの企業に迫るような影響力を持つようになるかもしれない(とはいっても Linux 関連企業だってかなりつらい状態なんだよねー)。すでにボランティア活動や、それに基づくNGO や NPO が 10 年前に比べて飛躍的に大きな役割を果たすようになってきている。たぶんそうした活動も、本書の射程に入れようと思えば入れられるはずだ。ひょっとして、本当にだいじになるのは、そういう非経済的な部分での影響なのかもしれない。たぶんカステルの議論とはちがった形で、このハッカー倫理の意義づけと位置づけを行うことが必要なんだろう。

 というわけで、そのための参考文献をいくつか。

 まず全体的なことから。ハッカーたちの労働観、報酬観、動機づけ――これらについてきわめて影響力の強い文書を多数表しているのが、エリック・レイモンドだ。特にかれの『伽藍とバザール』では、本書で分析されているようなハッカーの価値観についてかなりの分析がすでに行われており、さらに既存の価値観や経済と、ハッカーたちのフリーソフトによる価値観や経済との関係についても、非常に鋭い洞察が行われている。

 さらに報酬観について。これについてはアルフィ・コーンの諸作が重要だ。ふつう、人に仕事をさせるには、競争させたり、ニンジンをぶら下げたりして(いんせんちぶ、とゆーやつですな)尻をひっぱたくのがよろしいとされている。そして社会主義の崩壊で、競争に基づく市場原理の優位は疑いないものとされる。でもコーンは 『競争社会をこえて』『報酬主義をこえて』(ともに法政大学出版局)などで、これに疑問を投げかける。競争や報酬による動機づけは、その人の関心を競争や動機のほうに向けてしまい、仕事そのものがおろそかになって質が低くなる傾向がある、というのがかれの指摘だ。これは特に創造的な仕事で顕著に見られる。質の高い創造的な作業は、作業そのもののおもしろさに動機づけられたものだ、とかれは言う。これは重要な指摘だ。これからの社会では単純作業は機械化され、人々は創造性の高い仕事に集中する、という議論がある(その正しさはさておき)。もしそうなら、倫理や道徳を持ち出さずとも、単純に生産性の高さや(おなじことだが)品質の高さだけで、ヒマネンの言う「ハッカー倫理」が優位にたてるかもしれない。問題は、それがどこまで一般化できるかということになる。

 さらに、ハッカー的な活動が重要だったのは、いまに始まったことではないという点については、永瀬唯『疾走のメトロポリス』(INAX)を。実は製鉄は、娯楽用自転車の普及に支えられていたし、無線の普及からラジオへの道も、広義のハッカーたちの活躍とその産業化というプロセスの繰り返しだった。ハッカーたちの経済的位置づけも、こうした類似事例との対比で考えるべきかもしれない。その場合、このハッカー倫理の未来は必ずしも明るいものではないのだけれど。

 そしてその暗さをはっきり具体的な形で描き出しているのが、レッシグ『コード』(翔泳社)だ。この本は、本書で所与のものとされている「ネット倫理」なるものが、インターネットのコードからくる人工的な産物であることを示し、そしてその価値観が、いまのままだと急速につぶされるであろうと警告した本だ。どこまでが、原因としての価値観・倫理で、どこまでが結果としての価値観・倫理なのか――それを考えるうえでも非常に重要な一冊である。

 こうした他の業績との関係の中で、本書を発端としてさらに詳しい研究が将来的には期待される。カステルが言っていることで、いいことが一つはあって、それはいろんな情報の組み合わせはだいじだけれど、そもそもそのもとになるものを発明したり思いついたりする部分がとてもだいじだ、ということだ。ハッカー倫理なるものがあるなら、それはこの発想部分と深く関わってくる。それをどう活性化するか――ハッカー倫理やその活動がいまのプロテスタンティズム的倫理と対立するにせよしないにせよ、これは世界の未来にとっても大きな意味を持つものであるはずだ。


5. おわりに

 本書には、この種の本としては珍しく(だがテーマ的にはじつにふさわしく)サポート用のWeb サイトがある。http://www.hackerethic.org/ である。ただし2001年4月現在では、まだ内容は一部の書評と抜粋、リンク集のみとなっている。今後はもっと内容的に充実してくるものと思われる。

  本書の翻訳にあたっては、著者ペッカ・ヒマネンに原著草稿のファイル提供や各種質問への回答などでご協力いただいた。ありがとう。また本書の編集は、田中優子氏が担当された。

2001年4月 ラバトにて
山形浩生

著書・訳書  YAMAGATA Hiroo 日本語 Top


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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@alum.mit.edu)