Noam Chomsky + Edward S. Herman、山形浩生訳
以上は、Noam Chomsky + Edward S. Herman After the Cataclysm: Postwar Indochina & The Reconstruction of Imperialist Ideology (The Political Economy of Human Rights: Volume II) (Boston Community School/Southend Press, Boston, 1979) の第六章「カンボジア」の翻訳である。この部分は、チョムスキーがポルポト政権を擁護し、大虐殺を否定した、という議論の証拠としてよく使われる。その一方で、チョムスキーを擁護する人々は、ここでかれがやったのは単なるメディアの比較であり、検証を経ないで一方にだけ都合よく垂れ流されていた報道姿勢の問題を指摘したのであり、ポルポトを擁護したりなんかしておらず、虐殺も十分に認めているのだ、と主張している。本翻訳は、この両者の見解についてどちらが正しいかを、読者が自分で判断できるように提供されたものである。
ぼくは、チョムスキーの政治思想にはほとんど関心がなかった(たまに聞こえてくる内容がタコなものばかりだったから。これについてのぼくがどう思っていたかはこのAmazon.comの書評を参照)ので、ポルポト擁護疑惑があることは知っていたけれど、特に関心はなかった。また、かつてかれの言語学について、田中克彦の駄本「チョムスキー」をもとに、チョムスキーの言語学についてまちがったことを思いこんでいて恥をかいた経験があるので、政治についての発言についても、きちんと確認するまでは何も言うまいと思っていた。
しかし 2003 年正月前後に、9.11 事件やアメリカによるイラク攻撃を前に、チョムスキーの発言がやたらにクローズアップされるようになった。それに対してチョムスキー批判もあれこれ見受けられるようになったし、それに対し支持者たちから、かれを擁護する意見やページもあれこれ出てくるようになった。その中で、この本の記述についての話が一つの中心となっていることを知った。そのうえで各種の評を見ると、上に述べたような見解でまっぷたつに分かれている。これほど矛盾した主張を双方が数十年たっても続けているというのは、尋常ではないし、どっちかが悪質なデマを流している、としか思えなかった。そこで、実際に本をとりよせて読んでみようと考えたわけだ。
本が届いたのが、2003 年 5 月初旬、だったと思う。で、ざっと目を通した。
すさまじい本だった。チョムスキー否定派の言うのも無理はない。ポルポト正当化と免罪、大虐殺への徹底的な難クセつけまくり(付記:部分的な引用を避けるためにここの記述を6/3に変更)。よくこんなものを出しておいて、恥ずかしさで首をくくらずにいられる、と思うほどのしろもの。よくも擁護派は、これを見ながらしゃあしゃあと大嘘がつけるものだ、とあきれたほど。そこで、それを伝えるべく、具体的にポルポト擁護や虐殺否定を行っているところをいくつか抽出しようと、作業にかかった。
そしてはたと困った。
確かに、擁護派たちの言っていることは、ウソじゃなかった。チョムスキーらが直接ポルポトを擁護している部分、直接大虐殺を否定しているところは、厳密に言えば存在しない。チョムスキーらは、やばい部分はすべて伝聞でしか書いていない。「こういう話もある」「こういうことも考えられる(かもしれない)」「この出所は怪しい」「虐殺が起こっていないという人もいる」「難民の話は大げさに誇張されている可能性が高い」。そして、一方で、確かに虐殺があったことは認めている。
でも、問題はその書き方だ。文書全体として彼らは、自分の味方に都合の悪い部分(ポルポトがとんでもない虐殺をしている、という部分)は、証拠がない、出所があやしい、別の説がある、とさんざんネガティブなことを書き散らし、それに反対するものは、こっちのほうが信用できる、云々、という話をする。そしてたまにポルポトに都合の悪いニュースが、実はまちがっていることが示されたりすると、その件については嬉々として書き立てる。読んだ読者は、はっきりと「ポルポトに不利なニュースはすべて西側プロパガンダ機械のねつ造らしい」という印象を与えられ、「正しい規模はずっと小さい」というイメージを受ける。虐殺の話も、小さな虐殺があったと認めることで、大虐殺はそれとなく否定される構造になっている。
ぼくは、こういう書き方は不誠実だと思う。ただのデマよりも悪質だと思う。
さらに、この本は、西側プロパガンダ機械が共産主義に不利な宣伝を必死でやるためにいかに情報操作とねつ造を行っているか、ということを示すための本として書かれている。が、結果はどうだったか? 当時のチョムスキーがどう思っていたにせよ、少なくともこのカンボジア報道に関する限り、無批判な検証を経ない西側プロパガンダ機械の産物のデマだったはずのものは、大部分が正しかった。チョムスキーたちがそれに対して、証拠や証言をもとにして提出されたという数字や記事はすべて、ごく一部の特殊例、重箱の隅、あるいはポルポトシンパや反欧米イデオロギーにゆがめられたデマだった。ことカンボジアに関する限り、かれの西側プロパガンダ機械によるねつ造説は、まったくの幻影だったことは明らかだ。
さて、それに対してチョムスキーは自己批判をしたか? 全然。いまだに同じことを繰り返しているだけ。本多勝一みたいに、かつての虐殺否定の過去をそしらぬ顔で改変しているのと同じくらい悪質だ。
さて、日本でチョムスキーの政治論を批判している人間は何人かいる。しかし、古森義久を除いては、本書を多少なりとも読んだ形跡のある人はいない。伝聞でしかものを言っていない。だから、上記の記述上の特徴もきちんと伝えられていない。結果として、擁護派の意見のほうが、文を厳密に読んでいてただしそうな印象さえできていて、だからチョムスキー批判派は一知半解のバカみたいに見える(実際に読まずにどっかのレビューを受け売りしている人は、確かにバカでしかないんだけれど)。でも、厳密に読むほうがいいとは限らない。この文に関する限り、厳密に読めば読むほど問題は見えなくなる。
これをきちんと伝えたほうがいいと思った。実際にみんなに読んでもらって、そこで起きている詐術を見てもらうほうがいいと思った。というわけで、この翻訳だ。1 日 1 ページやって、半年くらいで終わる。これを読んでもなお、あなたはチョムスキーがポルポト擁護をしていないと断言できるだろうか? どう評価するかは、あなた次第だ。
(訳者コメント01:「狙いと主旨」の部分に関する全体コメント
原文では章以下の細かい区分はないけれど、おおむねここまでが前段のようなもの。さて、この最後の部分でかなり重要な方針が述べられていることに注意。要するに彼らは、事実が問題だという一方で「我々の主な関心は、戦後インドネシアにおける事実はなんだったかを確立することではなく」と述べている。これはあとでポルポト擁護という非難がきたときに、チョムスキー擁護派によって「いやこの文の主旨はちがうのだ」と言い逃れをするためにしばしば引き合いに出される。
でも、かれらのやろうとしていることは、事実を明らかにすることではなく「それが西側イデオロギーのプリズムを通じてどう散乱してきたかを調査すること」だという。これは、そもそも事実というものが何であるか、というのをある程度の前提にしなければ不可能なことだ。また、メディアの証拠やその選ばれ方を検討する、とかれらは言うけれど、これが本当に可能なのかという疑問は当然残る。カンボジアについて入手可能な情報のすべてをチョムスキーたちが知っているわけがない。したがって、情報の選ばれ方が偏っているという議論をチョムスキーたちがする場合、それはむしろチョムスキーたちの知り得た情報の偏りを反映したものである可能性も十分にある。そして実際に偏っていたのがどちらかは歴史が語る通り。プロパガンダ機械はどっち側で動いていたんだろうか。
また、いくつかのレトリックがすでに導入されている。マクガバン証言のすぐあとに出てくる、仮に殺された数が少なかったら、とか、仮にアメリカの介入による死者が多かったら、とかいう部分は、論理展開上何の役目も果たしていない。その段落は、実は死者数は少ないんじゃないか、実はアメリカのほうが責任重大じゃないか、という印象を植え付けるためのツールとして存在している。今後、こういう仕掛けに注意しながら読み進んでいただきたい。)
(訳者コメント02:アメリカ独立戦争云々について
それがどうした? 全然ちがう時代と状況の話をもってきて、何が言えたつもりになっているんだろう。こういう揚げ足取りとまぜっかえしも、この本の常套手段だ。)
(訳者コメント:「難民の証言」についてのコメント
ポーターの言うことにいっさい留保や疑問がついていないことに注意。一方そうでないほうは、ありとあらゆる言いがかりの対象となっている。これからもずっと続くパターンである。しかしその一方で、難民たちの証言はウソだ、とは一言もいっていないことに注意。「慎重であるべし」と言っている「だけ」だけれど、でも読む人は難民の証言が信用できないという以外の印象を持ちようがない。)
(訳者コメント:「揚げ足取り」についてのコメント
また例によって言葉尻の揚げ足取り。引用されている文は「ある程度以上の虐殺が行われていることが明確であれば」というのを明らかに含意している。それを引用者は「事実なんかどうでもいい」という意味に歪めている。ところで、なぜここで最後にわざわざ「100 倍」というのを挙げているのかな? 100 倍という数に何か意味はあるのかな? さっきのマクガバン議員の発言の揚げ足取りの際に「たとえば」と称して出てきたのも 100 倍という数だった。
(訳者コメント:食べ物がないのはポルポトのせいじゃない、ポルポトは愛されてます!
ここでチョムスキーたちがやろうとしていることは、勝手に栄養失調や病気で死んだ連中はポルポトのせいじゃない、(むしろアメリカのせいだ)という主張をして、ポルポトの責任を小さくしようという努力だ。でも実際には、栄養失調や病気の原因は、ポルポトの命令による強制労働や食糧制限などのせいで、両者を区別する議論はまったく無意味だったわけだ。さらに、「そんな暴虐な政府なら、人々が立ち上がってそれを打倒するはずだ、それがないのはポルポトが国民に支持されているからだ」という議論はなかなか味わい深い。金成日くんに聞かせればさぞ喜ぶことだろう。
(訳者コメント:ナチス擁護との比較
悪趣味な比喩。だけれど、これを言うなら、チョムスキーたちがやっているのは「ナチの台頭の原因を作ったの第一次大戦の戦勝国だから、アウシュビッツの責任は米英がとるべきだ」と言っているのに相当する。その前の、プノンペンからの国民強制連行の擁護論も唖然とするもの。「ドイツは物資が不足していたので、だれかを強制労働させるのは仕方なかった」とか、「強制収容所の状態は連合国のナチスに対する戦況が激化するにつれて悪化したので、強制収容所の状況の責任は連合国にある」と言っているに等しい。