激変の後 (After the Cataclysm)

山形浩生訳

Noam Chomsky + Edward S. Herman After the Cataclysm: Postwar Indochina & The Reconstruction of Imperialist Ideology (The Political Economy of Human Rights: Volume II) (Boston Community School/Southend Press, Boston, 1979) pp. 158--163

第六章 カンボジア (Part 5)

  もう少し深く検討するにつれて、他の難しい問題が起きてくる。数の遊びを考えてみよう。メディアが持ち出す数字の情報源はなんだ? 情報源は不明瞭か、まちがって引用されており、それが訂正されてもまだ表面に出てくる、ということはこれから見る。さらに、標準的なマスコミが示唆するよりも、知識ある観察者の間では、かなり多くの論争がある。たとえば、傑出した『ワシントン・ポスト』記者のルイス・M・シモンズは、バンコクから「ここでの最新の分析いくつかによれば、病気と栄養失調が、出生率低下とあいまって、共産主義者の処刑よりも多くの犠牲をカンボジア人口にもたらしている」と報告している。また

(p. 159 l.2) 
民主カンプチア国内で何が起きたかに関する西側の判断は、大きく逆転しつつある。(中略)タイからカンボジア観察を職業にしている西欧人のほとんどは、あらゆる原因による創始者数を数十万人単位で見ている。これは、ほんの六ヶ月前の推計とはおどろくほど変化している。当時は、邪悪な共産主義支配者によって80万から140万のカンボジア人たちが処刑された、と述べるのが一般的だった。

 さらにかれによると「少数のカンボジアウォッチャーたちの考えでは」

(p. 159 l.2) 
「組織」(支配者集団アンカール)は十分な組織力があって国の相当部分をコントロールできている。一般に、現場の軍司令官は、ジャングルの基地から行動しつつ、独自の小規模国境作戦を展開し、略式の正義を押しつけていると思われている。

  このルイス・シモンズによる報告――これは一つ無関係な条件つきながらも「優秀」として国務省の優れたカンボジアウォッチャーに受け入れられた――には、注目すべき点が二つある。まず、死者数はこれを注視している「ほとんどの西欧人」によって、数十万くらいと推定され、そのほとんどが病気と栄養失調によるものだ。第二に、ほとんどのカンボジアウォッチャーは、この「略式の正義」が中央組織化されたものかどうか疑っていて、むしろ現地指揮官の責任ではないかと信じていること。ここでもわれわれは、通常のマスコミによる構図――中央でコントロールされた、大量処刑という大量虐殺政策――について、控えめに言っても疑問を抱かされる。

  また、殺された人数は優れた政府専門家によって「数千または数十万」と推定されていることに注意。(これを述べたのはトワイニングで、「正直言って、数字を正確に推定するのは不可能だ」と付け加えている)。かれの上司、リチャード・ホルブルックは、あらゆる死因からの「死者数」を「数十万とは言わないまでも数万」と推計してみせている。かれは「処刑された人一人について、病気や栄養失調などその他要因で死んだ人が数人はいる」という「推測」を述べてもいる(そういうその他要因の死亡は「避けられた」とかれは言うが、どうすれば避けられたかは述べない)。トワイニングの同僚ティモシー・カーネイ――国務省の主要カンボジアウォッチャーの第二位に位置する人物――は「暴虐で急速な変化」(「大量虐殺」ではない)からの死者数を、数十万と推計している。殺害以外の死因からくる死者数はどうだろう? シモンズの報告によれば、大きな死因は:

(p. 160 l.5) 
1976年の米の不作だったようだ。政府は1975年半ばに、プノンペンなどの都市を放棄させて、働ける人々をすべて耕作にかり出した。でも去年、食料生産はひどく低下した。

  もしこの「優れた」分析が、トワイニングの述べるように正しいなら、プノンペンの市民追放――残虐だったのはまちがいなく、当時は広く非難を受けた――は実は多くの人命を救ったかもしれない。非難のコーラスの中で、こういう重要な事実がほとんど登場しないのは驚くべきことだ。追放時に、バンコクからのAFP は以下のように報告している:

 
最近のアメリカ偵察機による航空写真によれば、田のたった12パーセントしか植え付けが行われていないことがわかったとされる。田植えシーズンの開始を告げるモンスーンは、今年は1ヶ月早くやってきた。また、共産主義者たちが4月17日に制圧したとき、首都では大幅な米不足が生じていた。旧政府最後の首相ロング・ボレットによれば、降伏の晩にプノンペンにはたった8日分の米しかなかったとのこと。

  ニューヨークタイムズの論説欄で、1975 年の最後のアメリカ人脱出の際にカンボジアを離れたウィリアム・グッドフェローは「US AID の係官によれば、プノンペンの米の備蓄は6日持つかどうかだ」と書いている。プノンペンからの「死の行進」について、かれはこう書いている:「実は、それは確実な餓死から離れる旅だった(中略)そして餓死はすでに都心では現実となっていた」。US援助プログラム長官は「プノンペンだけでも 120 万人がアメリカの食料を『渇望』しているが、当時アメリカの食料支援を実際に受け取っているのはたった64万人だった」と述べている。グッドフェローはまた、近づく飢餓の責任所在を正しく指摘している。それはもっぱら農業経済を「叩きつぶした」アメリカの爆弾攻撃によって生じた――議論の余地のない事実なのに、これは静かに忘れ去られている。

(p. 161 l.3) 
アメリカの戦争によって生じたプノンペンの状況は、ヒルデブランドとポーターによって慎重に記述された研究に生々しく描かれているが、これはほとんどマスコミには無視されてきた。1974年初期までに、WHOはプノンペン(これはアメリカの爆撃と、アメリカの介入で直接生じた戦争の爪痕で通常のほとんど5倍にふくれあがっていた)の子どもたちの半分が栄養失調に苦しんでいると推計していた。議会の調査ミッションは「極度の栄養上のダメージ」を報告している。1974年暮れから1975年初頭にかけての調査は、「栄養状態の悲惨な現象」を明らかにしており、1年かそれ以上を通じて、体重維持に必要な最低水準の60パーセント以下のカロリー摂取」が見られると述べている。1975年2月の国務省調査は、こうした統計が「カンボジアの健康や栄養状態に関わる者たちが告げてきた、子どもたちが餓死しつつあるという一貫した医療上の印象を裏付ける」ものだと報告している。飢餓はまた、感染症や病気への抵抗力を下げた。これらがプノンペンで急速に広がっているという報告もあった。カソリック救援サービスの医療主任は、1975年3月に、「毎日何百人もが栄養失調で死んでいる」と宣言した。赤十字などのオブザーバーは、何千人もの小児が飢えと病気で死んでいると報告している。これらがすべて、クメール・ルージュの勝利に先立つ時期についてのものだということに注意。

  ヒルデブランドとポーターが述べたように「飢餓で死ななかった子どもたちは、極度の栄養失調により心身両面で永続的なダメージを受けることになる」。かれらはプノンペンで働くワールド・ビジョン・オーガニゼーションのペネロープ・キー博士を引用する:

 
この世代は、子どもたちの失われた世代となる。栄養失調は、かれらの数と精神能力に影響を与える。したがって、この戦争は若者を一世代失わせただけでなく、子供を一世代失わせることとなる。

  ポーターは、議会での証言でも関連情報を追加している。

  留意すべきなのは、 [戦後の総死者数80万--140万人と述べていた] 同じ公式情報源が、1975年6月には、翌年には100万人が確実に餓死する、カンボジアにはかれらをクワせられる食糧備蓄がとにかくないから、と述べていたことです。

(p. 162 l.5) 
ポーターの結論では、戦後の死者数は「新政権が国民を食わせる能力について理解し損ねたことを認めたがらない明らかな利害を持った」役人によって誇張されたことになる。あるいは、かれらの戦後の死者推計が正しかったとしよう。戦後の状況はひたすらアメリカの責任だったので、その状況の直接の結果として予想された百万ほどの死者も、すべてアメリカの責任だ。

  戦争が終わった時点のプノンペン(およびカンボジアのその他の部分)の悲惨な状況は、アメリカによる攻撃の直接で即時的な結果だった――カンボジアをインドシナ戦争に引き込んだアメリカの行動に先だっての状況は、幸福な農民たちという植民地主義者による神話とは裏腹に、理想的な状態にはほど遠かったものの、いまの議会調査ミッションや援助ワーカーたちが述べたような状況とはまったくちがっていた。同じことが、農地の広範な破壊と家畜、農村や通信の大量破壊についても言えるし、憎悪と復讐の遺産については言うまでもない。アメリカは、自分の介入についての主要な責任を負っている。このすべてが、栄養失調や病気の全責任がクメール・ルージュに押しつけられるときには忘れられる。これはまるで、ナチ擁護者が強制収容所での餓死や病気による戦後の死者について連合軍の責任だと非難するようなものだ。もっともこのアナロジーはナチにとって不公平だろう。連合軍はナチの遺産に対応しようと試みるだけのリソースを持っていたからだ。訳者コメント6

  カンボジアへの軍事介入の呼びかけの背後に何があるかをもう一度考えてみよう。主要な国務省専門家は、殺害を「数千から数十万」と推定して、もっと大きな死者数が飢餓と病気――それもかなりの、いや大部分の理由が、アメリカのテロルの結果だ――から生じているとした。さらに、国務省の専門家が「優秀」と述べるニュース報道によれば、カンボジアウォッチャーたちの間では「略式の正義」が中央の指令によるものでないことは「一般に受け入れられている」。別の政府専門家は、クメール・ルージュを抑えるには、すべての村落を制圧する必要があると頑固に主張する。でも、上院の有名な平和派議員が軍事介入を呼びかけると、アメリカの攻撃と虐殺を、最悪の残虐期にすら肯定してきた『ウォールストリート・ジャーナル』は、以下の論説を行った:

(p. 163 l.6) 
いまや [インドシナ半島での米軍駐留を] 破壊し終えて [アメリカのリベラル派たちは] その後登場した陰惨で残虐な世界のニュースにショックを受け、がっかりしている。アメリカのインドシナ作戦のsordidな終結からきた数少ないよいことの一つは、その苦痛に満ちた歪曲をつれ回した人々が比較的おとなしくしていたことだった。もうしばらくだまっているだけの慎みをかれらが持っているとよかったのだが。

  戦後カンボジアについては、かれらは以下のように述べるだけ:「現在の共産主義指導者たちは、カンボジア国民百万人以上を、餓死、強制労働による死、射殺、撲殺、斬殺してきた」。死や苦労についてのアメリカの役割や、引き続き存在するアメリカの責任については一言もないし、証拠を評価しようという努力も、そこから出る「難しい質問」に直面しようという努力もない。


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